慶応4年/明治元年記(4) 慶応4年(1868)1月12日~14日 慶喜、江戸城入り、歩兵頭に駿府警を、古河藩主に神奈川警備増員を命ずる 相楽総三、「(幕領での)年貢半減」「勅諚書」を受取る 桑名藩、藩主(松平定敬、会津藩主容保の弟)不在で恭順決定
より続く
慶応4年(1868)
1月15日
・この日未明、新撰組の乗った富士山艦、品川着。土方ら隊士39名・仮隊士24名、下船し品川の釜谷へ投宿。近藤・沖田は神田和泉橋の医学所(幕府典医頭松本良順)へ直行。
・赤報隊進発
赤報隊、松ノ尾山発。1番隊相楽総三・2番隊鈴木三樹三郎・3番隊武田文三(油川錬三郎)。16日、番場泊り。17日、柏原泊り。18日、関が原泊り。19日、岩手(岐阜県不破村岩手)へ向かう。この間、宿泊地の本陣には「年貢半減」の高札を掲げる。
「徳川慶喜儀、朝敵となり官位召しあげられ、且つ従来御預の土地残らず御召しあげに相成り、以後は、天朝御領と相成り候。これまで慶喜の不仁により、百姓どもの難儀少なからざる儀と思し召されられ、当年半減の年貢下せられ候あいだ、天朝の御仁徳を厚く相心え申すべき、且つ諸藩の領地たりとも困窮の村方は、申し立て次第、天朝により御救いに相成るべく候事」。
・新政府、王政復古を告げる国書を在日諸外国代表に呈する。
・新外国事務総督東久世通禧、副使岩下佐次右衛門、外国事務掛寺島陶蔵(宗則)、陸奥陽之助(宗光)、伊藤俊輔、吉井幸輔、片野十郎、運上所で英外務事務官アーネスト・サトウと対談。神戸事件の後始末の件。
・勅使東久世通禧、各国代表と会見。王政復古を報じ国書を交付。新政府、最初の公式外交会談。外国交際を万国公法によりおこなう旨を布告。
・北陸道鎮撫総督高倉永祜、若越7藩主を含めた北陸7ヶ国21の諸藩主に対し、朝廷の命に帰順するよう勅書を出す。
・慶喜、江戸城大広間で抗戦論を主張した主戦派陸軍奉行並小栗上野介忠順罷免。天璋院のとりなしで初めて和宮と面会。
・備前藩、備中松山藩に兵400を派遣、降伏させる。17日、池田隼人指揮赤穂藩兵150と共に姫路城(譜代藩主酒井忠惇が慶喜に従い東帰)を開城させる。
・筑前藩士藤林六郎(平野四郎)・長州浪人若月隼人等30人、豊前四日市乱入。放火・略奪し、宇佐八幡宮裏御許山に布陣。討幕宣伝。/24.野村右仲指揮長州兵、御許山攻撃。浪士壊滅。
・沢村惣之丞、薩摩藩士川端平助を暴漢とみて射殺した責を負い長崎に自刃。
1月16日
・朝廷、秋田藩に対して、慶喜追討のため「官軍」が進発するため、奥羽諸藩を糾合して東征軍を応援するよう命じる。また、東北諸藩は率兵・上京に及ばずとする。
・フランス公使レオン・ロッシュ、レオン・ブランを代理公使として兵庫に残しラブラス号(新任極東艦隊司令長官オイエ提督坐乗)で出港。17日、横浜着。18日、砲艦キャンシャン号で江戸湾に入り、書簡で慶喜に謁見申入れ。
・赤報隊(相楽隊)、彦根の側を通り番場駅に進む。
・西国郡代(九州郡代、日田郡代)窪田鎮勝、日田陣屋を放棄。九州地方の新政府への帰順は混乱無く実現。
・大垣藩主戸田氏共、上京して恭順の態度をとり東征先鋒願いを出し許される。後、大垣藩は政府軍の一翼を担う戦力となる。
1月17日
・姫路藩主酒井忠惇、討伐命令に従う備前藩に降伏。但し、家臣には従わぬ者あり。17日、「・・・姫路城ヲ距タルコト一里許り、炮声響キ、其因ヲ探シテ進ム、家中騒然、雑具ヲ齎シ城ヲ去ル、備前家老毛利図書城ヲ乗トリ、皆甲胃ヲ着、火縄銃ヲ用フ、東西城門皆傭兵コレヲ固ム」(土佐藩士樋口真吉「日新録」)。
・政府、三職七科制採用。
三職(前年12月9日に制定)、「総裁」:有栖川宮熾仁親王。「議定」:仁和寺宮嘉彰親王、山階宮晃親王、中山忠能、正親町三条実愛、中御門経之、徳川慶勝、松平慶永、浅野茂勲、山内容堂、島津忠義。「参与」:大原重徳、万里小路博房、長谷信篤、岩倉具視、薩・土・芸・尾・越5藩から3人ずつ。
「神祇事務科」を筆頭に、以下「内国事務科」「外国事務科」「海陸軍務科」「会計事務科」「刑法事務科」「制度事務科」と続く七科をおき、各科に事務総督(議定から任命)と事務掛(参与から任命)を置く。外国事務総督は山階宮晃親王・三条実美・東久世通禧・伊達宗城、外国事務掛は後藤象二郎・岩下佐次右衛門。内国事務総督は松平慶永。
徴士・貢士の制。
「朝臣」としての徴士:規定「諸藩士および都鄙有材の者を撰挙抜擢して参与職に任ず。下の議事所に在り、則(スナワチ)議事官たり。又分課によって其の課の掛となる者、其の事を専務す」。定員なく、在職4年(必要により4年延長)。
頁士:各藩主が藩士(大藩3人、中藩2人、小藩1人)を選んで「下の議事所」に出仕させる。貢土は、各藩主が藩論や自藩の利害を代表するものとして政府に送り出す者。
徴士=官吏として登用された者は、殆ど幕末以来尊攘討幕運動を行なってきた者を政府が一本釣りで選任したもの。選任された徴士は、藩との関係を絶ち、朝廷直属の「朝臣」たることが求められる。「各藩より徴士仰せ付けられ候ものは、命を奉じ、即日より朝臣と相心得、勿論旧藩に全く関係混合これ無き御趣意に候間、此の旨厚く相心得申すべきこと。」(2月11日付け達し)。
藩と絶縁することの難しさ:長州の木戸孝允・広沢真臣は連署して、我々は主人(毛利敬親)のいいつけで上京した、それがそのまま徴士として「滞京仕り候に付ては、総て主人より承り居り候用筋の儀瓦解に至り候廉少からず」、「臣子の至情、これまた止むを得ざるの次第、恐れながら御垂憐」下され、徴士罷免を許されたいと嘆願。元来、藩主の命で上京し、国事に奔走してきた、ことが成就したのに帰藩せずそのまま新政府の官吏になるのは藩主への不忠であり、臣下としできない、と素直に述べる。武力討幕派の中心人物にして然りである。
海陸軍総督には岩倉実美・仁和寺宮嘉彰親王・島津忠義(薩摩藩主)が選任。西郷(参与・海陸軍掛)が忠義の選任に反対、翌日に辞任させる。
広沢真臣の場合:先に参与に任ぜられ、1月17日「徴士」に任ぜられるとともに、同日、役職「海陸軍務掛」となり、翌々19日「内国事務掛」にもなる。
参与就任日付は、岩倉具視の慶応3年12月9日を筆頭に、大久保利通は12月12日、由利公正は12月18日、西園寺公望は12月20日、東久世通禧(ミチトミ)は12月27日等々で、正月3日迄に、総裁・議定・参与三職に、全部で延べ人数53名の宮5・公卿17・諸侯9・諸藩士22が任命される。広沢真臣・井上馨が長州藩では最初に朝臣となり、このあと伊藤博文が1月25日に、木戸孝允は2月20日に参与就任。
・新政府、外国との和親を布告。
・慶喜、松平慶永・山内容堂に書簡送付。朝廷との周旋依頼。鳥羽・伏見戦争は「先兵の者が争闘」したことで、追討令が出されたのは心外のいたりと述べる。
・慶喜、目付を箱根・碓氷関所に配備。
・勝海舟、海軍奉行並を命ぜられる。
・和宮、徳川慶喜のしたためた嘆願書を内見して訂正を命ずる。
・会津征討令出る。朝廷、仙台藩主伊達慶邦に対して独力で会津藩征討命ず(京都御所内の仮政庁で、仙台藩家老但木土佐が命令を受ける)。同日、秋田・盛岡・米沢藩にも応援命ず(秋田藩へは岩倉具視自ら内勅を藩士に手渡し。秋田藩は正念場の7月初めに同盟諸藩を裏切り薩長政府軍の拠点になる。秋田藩家老真崎兵庫は、趣旨に叛かぬよう精励すると請書を返す。
「その藩(仙台)一手を以て本城(会津若松城)を襲撃すべきの趣出願、武道を失わず憤発の条神妙の至り、御満足に思し召され候・・・顧いの通仰せ付られ侯間、速かに追討の功を奏すべき旨、御沙汰の事」。翌日、仙台藩が、誰が「出願」したか伺いを出すと、20日付け政府沙汰から「出願」の文字は消される。
西郷隆盛は、「会津は上杉、佐竹、南部へ命ぜられ追討の賦に御座候、上杉、佐竹等は内々相願候向に御座候」(1月16日、蓑田伝兵衛宛手紙)というように、上杉米沢藩・佐竹秋田藩には、会津征討を申し出る勤王藩士がいた模様。
秋田藩には、秋田藩は東北の雄藩かつ代々名家であり、深く尊王の大義を知っていると誉め、秋田藩士に岩倉具視自ら手渡し、「賊徒」追討の応援を頼む。秋田藩家老真崎兵庫は、内勅への請書で、出羽国内勤王諸藩と連絡をとって、趣旨に背かぬよう精励し、「王化」の及ばない藩には教諭鎮撫を加えると述べる。
・政府、京都の三井三郎助、島田八郎左徳門、小野善助に献金を命ず。19日、彼らは金1万両を差し出す。
この後、大坂、江戸の3都の特権大商人も新政府の側につき、関東、北陸、東北と続く戦争の経費の一部を負担し、極めて基礎の弱体な政府財政を支える。
・美濃国郡上藩青山氏4万8千石国家老鈴木鈴木兵左衛門、京都の太政官に対して天領飛騨の警護を申し出。東山道先鋒総督の了承を取り付け、藩兵300余を飛騨和良郷と高山に送り込む。
・尾張の博徒北熊一家・近藤実左衛門、大目付から呼出され、草莽隊(「集義隊」として編成)への人の差出命令うける。三河の博徒雲風へも同様命令。今後の展開が予測できないため、正規藩兵を温存するため。3月上旬、編成。
尾張藩の草莽隊(7隊)。
集義隊(博徒部隊)、磅礴隊、正気隊、帰順正気隊、精鋭隊、草薙隊、愛知隊。磅礴隊は庄屋級豪農子弟20名が連名で藩庁に嘆願、結成。草莽隊有志は隊の幹部、一般隊員は藩庁による公募。一般隊員は約150名、小商人・細民・下層武士・武家奉公人など。後の海軍大将八代六郎は隊員(実兄が草莽有志)。この隊員からも明治17年の3人の名古屋事件処罰者を出す。
1月18日
・内国事務総督山内容堂、征討の命、一途に出んことを上申。
・三井組、岩倉東山道先鋒総督府金穀方を勤めるよう依頼される。
・山国西軍、上京。議定岩倉具視より因幡藩付山国隊と称し、中立売門警護申付け。
・結城下総介(児太郎)ら、天草島乱入。/19.長崎会議所宛声明書。/21.会議所派遣隊、発。/23.一味説得、退散。
つづく