明治17(1884)年11月4日
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・午後、落合寅市、困民軍80~100を指揮し粥仁田峠越え、坂本村に進出。
2手に別れ、南は皆谷・白石村、北は大内沢村に働きかける。
この地方の警官隊37に加え、猟師38・壮丁83で補助隊を編成。
夜、補助隊が困民軍に取込まれ、警官隊は挟撃の危機を辛くも脱出。
この日夜11時、鎮台兵1半隊が小川に到着(小川には自衛団400が結成)。
翌5日午前2時、鎮台兵・警官隊、坂本に向かい出発。
粥仁田峠をはさみ交戦。困民軍は後退。
農民52を捕縛し、5日午後、官兵は大宮郷入り。
落合寅市は皆野本陣壊滅を知り姿を消す。
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□困民軍の坂本進出
3日、乙隊主力が大野原村から皆野村に進出した際、途中の大野原村・黒谷村境の蓼沼にある横瀬川に架かる下小川橋には、後方の固めとしてかなりの人員が残置される。
風布村の学務委員で花火師の宮下沢五郎(32歳)、桜沢村の木嶋善一郎(34歳)、三沢村の反町嘉平、横瀬村の千嶋周作らが隊長分となり、横瀬村の花火師町田代造方から借りてきた烟火筒(花火の打ち上げ用の筒)や、自製の破裂弾を持って布陣。
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木嶋善一郎:
男衾郡桜沢村の博徒で綽名は「官軍善」、「木島伊豫守源ノ善一」とか「信勝」と自称。蜂起前は榛沢郡のオルグに当り、黒谷橋では「白ノ唐縮緬ニ紋ヲ書キタル」指揮旗を持つ。
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4日午前10時頃、伝令が、「本野上ノ憲兵巡査ガ押来りタルニ付、此ノ蓼沼ニ於テ陣ヲ取ルガヨカラン」と伝えたので、官兵阻止の為に橋を焼くことも予想し、石油を買いに大宮郷に走ったり、堀を掘るなどして陣地を構築。
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また、この日この頃、ここで「諸隊長ノ会議」が開かれて軍用金の分配があり、参謀長菊池貫平は、
「速カニ信州ニ赴キ、同所之暴徒卜合併シテ大事ヲ謀ラン」
と部下を集めて大宮郷に向い、
大隊長落合寅市は、
「坂本村ヲ初メ、小川最寄ニハ同盟ノ者モ有之ニ付、速カニ広地ニ出デザレバ、此狭隘ナル山中ニテハ迚(トテ)モ滞陣難相成、且ツ兵糧攻メニセラル、憂ヒアラバ、迅速出張スベシ」
と主張して、この方面への進出を指揮することになる。
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この時、落合寅市は、宮下沢五郎らに対し、
「本野上ニ来ル憲兵巡査モ皆ナ寄居町へ逃ゲ去りタルヲ以テ、皆野ニ屯集シタルモノ本野上村ヲ経テ寄居町ニ押出シ、大野原村ニ堅メ居ルモノハ坂元村ヨリ小川町ヲ襲撃シ、今市村ヲ経テ熊谷駅ニ繰出ス手配ナリ」
と指示し、4日正午頃、人員50~60名、火縄銃30挺・木砲1門を持って、三沢村~坂本村に向う。
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落合隊は、蓼沼出発前、坂本村戸島役場の筆生で自由党員福島敬三が差し向けた特使の飯田米蔵(46歳)から、「警部巡査四〇人程坂本村戸長役場に出張」と聞いているが、「我隊ガ進メバ皆ナ逃ゲ去ル」と軽視。
午後6時頃、粥新田峠に到着。
坂本村の鉄砲組4、5人が待っていて、「我々是処ニ見張スルト雖モ、固ヨリ我ガ村内之者ハ貴殿共へ味方ヲ致ス心得ニ付案内致スベシ」と先導を買って出る。
落合隊はここで休憩し、月の出になって坂本村に進出することにし、夜間の仲間識別として「天卜言ヒバ地卜答フル」ことを定める。
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日暮になり、峠の頂上で烟火筒を発砲して気勢をあげ、鯨波をつくり、「先ハ鉄砲、次ハ大砲、次ハ抜刀、次ハ竹槍、其後ガ人足」の隊列で、「暗夜ノ事ナレバ火縄三〇モヒカヒカ」させながら、「鉄砲ヲ打チ打チ」峠を下り、午後9時頃坂本村に入る。
村の入口にも鉄砲方数人がいて落合隊を迎える。
落合隊は村の前後に哨兵を配置し、人の出入を検問し、近村に働きかけて人足の狩りだしを行う。
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□小川口の警備
3日午前1時、松山警察署長吉峰警部(1日の下吉田村戸長役場で敗退し小川分署に退避中)は、寄居本部の警部長から
「暴徒ハ四隊ニ分レ、一ハ小川ヨリ松山ヲ襲フノ形勢ナルニ由り、該地ヲ防禦スベシ」
との命令を受ける。
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しかし同警部の手許には、共に敗退してきた巡査数人(含む、負傷者)だけのため、「僅々ノ巡査ニテハ防グ術ナシ、故ニ松山マデ引揚ゲ十分ニ部署」することにし、松山の自署に戻り、郡長・戸長と協議し、土地の士族や壮者、月ノ輪村撃剣会の応援を求めるなどの対策に奔走。
この時、再び警部長から「松山ヲ引揚ゲ、西平ロヨリ嶺ヲ越へ、暴徒ノ脱漏ヲ防ギ、大宮郷ニ進入スベシ」との命令が伝えられる。このため、午後4時、吉蜂警部は松山を発して小川に戻り、寄居本部から来援の警官隊を待つ。
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比企郡ノ月輪村の撃剣会は、「左右社」と呼ばれ流派は甲源一刀流。社長大塚奓恵八は、剣士数名を率い吉峰警部を追い小川村に進出し、警部らは西平村に出撃していたので、8日まで小川町警備につく。
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小川口から大宮郷への道には、
①坂本村間道と
②西平村間道があり、
3日正午頃、寄居本部から、
①坂本村間道の警備要員として山室警部(熊谷警察署長、宮崎県士族、30歳)と安岡警部補(警察本署詰、熊本県士族、27歳)指揮の巡査35名が、また
②西平村間道の警備要員として深滝警部補(小川分署長、新潟県士族、29歳)と巡査25名が派遣されてくる。
吉峰警部は西平村間道警備を指揮し、吉峰警部と共に後退して来た斉藤警部(大宮郷警察署長 埼玉県士族、43歳)は小川分署に残留することになる。
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①坂本村間道の警備の模様。
3日正午頃、小川分署に入った山室警部は、斥候を出して動静を探り、「賊未ダ粥新田峠ヲ踰(コ)へズ」と知り、午後6時、坂本村戸長役場に進出、戸長役場を本営と定め、落合と粥新田峠と定峯峠に通ずる要路に哨兵を配置。
更に、戸長役場に依頼して猟師と人夫を募り、皆谷村・坂本村・大内沢村からの応募者111人(猟師37、人夫82)をこれら各哨所に分配。
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翌4日、定峯峠の斥候から、暴徒に附随した者から得た情報として、「金崎村ニ往ク途中憲兵ノ砲撃ニ遇ヒ、暴徒二人ノ斃ルルヲ見テ驚テ遁レ来ル」の報告がある。
その後、小川分署に残留の斉藤警部から「皆野ロノ憲兵防グ能ハズ、賊二千人象ケ鼻ニ進行ス」との急報が入る。
すると、応募の猟師・人夫全員が帰宅してしまう。
撃剣家田中峰三郎が、警官隊本営に来て協力を申し出るが、山室警部はその挙動を怪しみ謝絶。
すると間もなくこの田中峰三郎は「長刀ヲ構へ、袴ヲ穿チ、村民数名ヲ率ヒ、大内沢の間道ヨリ皆野ロノ賊軍ニ赴ケリ」との報告が入り、山室警部は「村民ノ侍ム可ラザル」の疑念を抱く。
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この時、戸長役場の筆生・福嶋敬三(自由党員)が来て、「粥新田峠ノ斥候ヲ為シ、且村民飯田米蔵ニ命ジ、賊ノ状況ヲ偵ハシムルニ、三沢村以南賊氛絶へテナク、何ゾ速ニ営ヲ三沢ニ移シ、民情ヲ鎮圧セザルヤ」と申し入れてくるが、山室警部はこの進言を退ける。
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その後、小川分署の斉藤警部から、「暴徒二百名横瀬ロヨリ定峰ニ出デ小川ヲ襲フノ状況アリ」との飛報が入る。
山室警部は、「村民款(ヨシミ)ヲ賊ニ通ジ、我ヲ三沢ニ誘ヒ鏖殺セントス、而シテ我ノ応ゼザルヲ以テ、方向ヲ転ジテ一ハ小川ロノ要路ヲ遮断シ、一ハ我前面ヲ衝キ、前後爽撃ノ策ヲ立テリ」と判断。
賊軍が御堂村に進出し小川口を扼すると、「我軍宛モ釜中ニ陥ル如ク、進ントスレバ前面ノ攻撃ヲ受ケ、退ントスレバ背後ノ敵ニ迫ラレ、進退維(コ)レ谷(キワ)マル、鳴呼我部下三十五名ノ生命ハ風前ノ燈火ノ如シト謂フベシ、実ニ危嶮ノ極度ニ達セリ」と判断。
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山室警部は、部下に「事甚ダ急ナリ、坂本ハ守ルベキノ地ニアラズ、速カニ退クノ愈(マサ)レルニ如力ズ」と指示。
この時、寄居本部に連絡に行って戻った巡査が、「賊勢猖獗、寄居急ナリ」と伝え、続いて「賊数百人粥新田嶺ニ来ル」の報が入る。
村民には、「何ゾ速ニ賊軍ニ応ゼザル」と聞こえよがしに言う者もあり、山室警部は、「村民皆賊軍ニ応ジ、却テ我ヲ攻撃セントス」と思う。
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午後5時、警官隊は坂本村脱出と決め、小川村へは危険なので大内沢村の山道から、西ノ入村を経て鉢形村を過ぎる。
ここで、進軍して来る小川口派遣の棟方歩兵大尉指揮の鎮台兵1中隊に行きあい、勢を得て引き返し、鎮台兵を誘導して午後11時50分小川村に入る。
間もなく、「坂本村ノ暴徒将サニ小川ヲ攻撃セントス」との飛報が入り、鎮台兵と警官隊は腰越の切通しに進出し、警備の地元自衛隊と交代。
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翌5日午前4時、鎮台兵・警官隊は腰越を出発し坂本村に進撃、粥新田峠に退いた賊を追うと、山腹で木砲と鉄砲の射撃を受けるがこれを追い散らし、峠を越えて大宮郷に向う。
捕縛72人、押収木砲1門、指揮旗2旈、火縄1括、刀槍数10本。
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「小川ロノ警備隊長山室警部ハ安岡警部補卜巡査三十五名ヲ卒ヒ、宗像中尉ノ一小隊ヲ嚮導シテ大宮郷ニ入ラントシ、峠ノ半服ニ至レハ、暴徒ハ直ニ木砲卜鳥銃ヲ併発シテ之ヲ防ク 宗像隊応放シ続ヒテ戦ハントスルモ、彼レ俄ニ辟易退散セルヲ以テ或ハ詭計アランカヲ慮リツツ宗像隊卜共ニ追撃ニ移りタルニ、難ナク大野原ヲ経テ大宮郷ニ着スルコトヲ得タリ 此日互ニ死傷ナシ捕虜七十二人アリシ」(「秩父暴動実記」)
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②西平村間道の状況。
西平村口警備の吉峰警部指揮の警官隊は、4日午前6時、大宮郷に向って進撃。
大野峠を越えたところで大宮郷からの逃亡農民を捕え、「今朝マデ横瀬村卜芦ケ久保村トノ間ニ暴徒ノ哨兵三〇名」がいるとの情報を得たので芦ケ久保村に進出。しかし、暴徒は発見できず。
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この時、大宮郷からの急使が、「片時モ早ク出張アレ」と伝えたので、急進して午後4時大宮郷に入る。
これが官兵の大宮郷一番乗りで、吉峰警部らは破壊された警察署に入り、飯能口の警官隊に早期進出を促す特使を出す。
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□小川口(坂本村の後方、小川村を中心とする各村)での自衛の動き
小川村から坂本村にかけては、
小川村聯合(小川村・西大塚村・角山村・原川村・下里村、聯合戸長大塚範親)、
腰越村聯合(腰越村・青山村・上古寺村・下古寺村・増尾村・飯田村・笠原村、聯合戸長横川重石衛門)、
坂本村聯合(坂本村・大内沢村・皆谷村・白石村、聯合戸長白石保次郎)の諸村があり、
標高600~700mの山稜を境に秩父郡と接し、二本木峠・粥新田峠・定嶺峠を交通路に、商業上の取引も盛ん。
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10月以来、「秩父郡人民不穏ノ挙動」が伝わり、10月31日午後、小川分署長深滝警部補以下分署主力が、寄居街道を寄居町に向って急遽出動して行くのを見た小川村住民は、秩父地方の異変について噂し合い、夜には号報用花火も聞こえ、不安を抱き始める。
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2日午後4時頃、前日に下吉田村で困民党と戦って敗れた松山警察署長吉峰警部・大宮郷警察署長斉藤警部・小鹿野分署長太田警部補らが、平服で疲れきって小川分署に辿り着くのを見て、住民は、いよいよ恐怖にかられてくる。
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3日になると、「暴徒ノ襲来セバコレニ加担セン」と公言する者も出て、富豪や金貸しは証書・金品の隠匿を始める。
比企郡月ノ輪村の大塚奓恵八が、自分の主宰する武道結社「左右社」の剣士数名を率い小川村聯合戸長役場で警備を申し出たのは、この頃のこと。
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4日、小川村聯合と腰越村聯合の戸長は、警察と連絡を密にするため、小川分署脇に仮戸長役場を設置。
この日午前10時頃、西平村から「暴徒ノ一手ハ秩父郡大野村へ押来ル」の急報が入り、小川村聯合と腰越村聯合の戸長は、自衛策を協議、「各村剛勇ノ壮丁」を募る。
1~2時間のうちに腰越村90人、増尾村40人、青山村90人、上古寺村60人、下古寺村20人と、5村で計300余が応募、富豪・質屋から銃・刀剣を借りて武装させる。
この自衛隊は、坂本口の腰越村の切通しと、西平口の上古寺学校に布陣。また、前日、横田村で打ち上げる予定の天長節を祝う花火の大筒2個を切通し口、1個を松郷峠へ配置。
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この夜、腰越村の切通しに布陣した自衛隊が夕飯をとっていると、先に坂本口に入った山室警部指揮の警官隊が後退してきたので「此所ニ踏止り防ギ給へ」と声をかけると、警官隊は見向きもせず小川村方向へ退いて行く。
続いて、坂本村聯合戸長をはじめ奥沢村・御堂村・安戸村の「屈指ノ人々」も逃げてきて、「暴徒ノ猖獗ナル如何トモスル事能ハズ、坂本村ノ人民大体暴徒ニ加ハリ、只今奥沢村ニ来リテ強迫中ナリ。暴徒ハ直チニ小川村へ侵入セントノ勢ヒ」と伝えたので、自衛隊の中にも「暴徒ノ強勢ヲ聞キ少シク躊躇スル」者が出てくる。
これを知った小川村の住民は、不安におののき小川分署前に集合、「雑沓一方ナラズ」の混乱となる。
この時、小川村の青木伝次郎は、「危急ノ時迫レリ、此機ヲ誤ラバ大事立ドコロニ到ラン、他日悔ルモ及バズ」と進み出で、「諸君憂慮スル莫レ、規律ナキ草賊何ゾ怖ル々ニ足ラズ、余ガ其衝ニ当ラン、諸君、青木既ニ死シタリト聞カバ始メテ用意スベシ、生キテ此地ヲ蹂躙サスノ憂ヒナシ」と演説し、銃手9人を率い坂本口に向う。
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腰越村聯合では1日~5日に警備費175円を費消したが、戸長横川重右衛門の50円をはじめ富豪の寄付で賄う。
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□粥新田峠の戦い
5日朝、坂本村の人達の向背に変化があり、落合隊は朝食調達もままならなくなる。
午前7時頃、隊長落合寅市は、「憲兵二百名来ル」の報告を受けるが、味方の人員は50人前後、鉄砲は僅か11挺。
寅市は、「之ニテハ憲兵二百人ニ対シ応ズル事能ワズ」と判断し、皆野村の本隊と合流のため、昨日越えてきた粥新田峠の道を引き返す。
朝食代りに峠の入口の酒屋で、寅市が1円を出して一同が酒を飲み始めると、憲兵接近の報が入り、急いで峠の道を上り、追尾する官兵を銃撃し、木砲を発射するなど抵抗しながら退却。
三沢村の「三方の辻」に出た時、婦人から「貴下方ハ何処へ御出ナサル」と声をかけられ、「我等ハ皆野ニ至ル」と答えると、婦人は「オ止シナサイ、貴下方ノ組ハ皆逃ゲタリ或ハ縛ラレタリシテ一人モイマセン、憲兵卜巡査バカリ」と伝られる。
寅市は主力の潰減を知り、もはやこれまでと観念し、部隊を解散、自らも逃亡の道を選ぶ。
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「坂本村戸長福島慶蔵役場ニテ夜明ケタリシ時、報知ニ憲兵弐百名来ルトノ報アリ、人員調査シテ見レハ五十人前後鉄砲十一ナリ、之ニテハ憲兵二百人ニ村シ応スル事能ハス引返シ皆野ニ至ルベシト引返ス、けひにた峠登り口酒店ニテ朝食、酒一口飲ントスル際坂本村人飛来リシ者アリ、之ヲ木島善一郎桑ノ木ニ志ばり付白状シロトセメ、答ヒ憲兵二百人モ来リシニ付坂本村人居タラ逃サント考へタル次第卜申シ、多衆ニ早ク峠ケ逃ケ登レト命シ、後方ニハ憲兵見へタレハ石間村新井喜市外一人大滝村人鉄砲打卜謂フ折、止テモ止メス鉄砲打テ憲兵打一合戦、其間ニ我等峠ケ頂上ニ登り大砲方人員打卜云フ、止メテ我解散ヲ命シテモ止メス打卜謂フニ付、我大滝ノ人二名卜三沢村ニ出時、婦女貴下ハ何所へ行クト申サレ、皆野村卜申シタレハ、御よしナサレ皆野ニハ貴殿等友ハ逃ケタリ志ばられタリ一人モ居ナイ憲兵計リト教へラレ、是レ幸運ナリ」(「寅市経歴」)
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井上善作は、この寅市の粥新田峠侵攻隊に参画していたと云われるが、その後の行方は不明。
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「★秩父蜂起インデックス」をご参照下さい。
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