2016年4月30日土曜日

たそがれの光景 (石垣りん 「とうきょう広報」増刊号、1974年)

鎌倉 長谷寺 2016-04-25
*
たそがれの光景  石垣りん


私が三十年以上働いてきたのは
家族が最低の生活を営む
その保障のためでした。
私の持ち帰る月給が
ケンポーの役割を果たしてきたと
思っています。

でも第二十五条の全部ではありません。
月給袋が波間に浮かんだ小舟の
舟底のように薄くて。
不安な朝夕を流れ流れて。
戦火も飢餓もきりぬけました。

このちいさな舟に乗り合わせた人たちを
途中でおろして
どうして私が未来とか希望とかに向かって
船出することができたでしょう。
長い間漕ぎつづけましたが
文化的な暮しは
そんなやすらかな港は
どこにもありませんでした。

当然の権利、と人は言いますが。
力の強い人たちによって富もケンリも独占され
貧しく弱い者はその当然のものを
素手で勝ちとるほかない
さびしい季節に生まれました。

もういちど申します。
最低限度の生活を維持したいのが
私の願いでした。
国はそれを保障してくれたことがありません。
国とは何でありましょう。

おかしな話になりましたが
その単純さで
ケンポーは自分のものだと思っています。

望遠鏡のむこうで
第二十五条がたそがれてきました。
けれど引き返すことのできない目的地です。
もうひといきです。
私は働きます。


(「とうきょう広報」増刊号、1974年)
詩人54歳(翌年、55歳で日本興業銀行を停年退職)





『カラヴァッジョ 光と闇のエクスタシー』(4月8日) から カラヴァッジョ マタイ三部作: 「聖マタイの召命」(1600) 「聖マタイと天使」(1602) 「聖マタイの殉教」(1600)

『ヤマザキマリと北村一輝が訪ねる カラヴァッジョ 光と闇のエクスタシー』(4月8日)
から
ローマ、サン・ルイジ・フランチェージ聖堂にあるマタイ三部作:
「聖マタイの召命」(1600)
「聖マタイと天使」(1602)
「聖マタイの殉教」(1600)





▼「聖マタイの殉教」(1600)
異教徒に襲撃されたマタイと怒る信者
信者たちはこの後、蜂起する

怒る若い信者

▼聖マタイの召命
光と闇のコントラスト

「わたしにしたがいなさい」とキリスト

「え? マジ オレ?」って顔がリアル。
てっきり中央のヒゲの男がマタイだと思ったけれど、
どれがマタイなのか長い論争があったそうだ。

現在の解釈は、ヒゲの男が指差す先の男、徴税人だったマタイはお金を数えている、ということのようだ。

上野 国立西洋美術館 カラヴァッジョ展に行ってきた 2016-04-15

日曜美術館「幻の光 救いの闇 カラヴァッジョ 世界初公開の傑作」(4月17日)より





2016年4月30日の小岩井農場桜情報更新。 小岩井農場の一本桜も満開となりました。 — 小岩井農場【公式】 / 一本桜前の駐車場は朝6時でも県外ナンバーの車で満車😅 三脚20本以上は立ってました。



ミレー『羊飼いの少女』 (美の巨人たち2016-01-23) ミレーを国民的画家に押し上げた代表作。 現在、東京国立博物館での黒田清輝展で展示中

ミレー『羊飼いの少女』 (美の巨人たち2016-01-23)

19世紀フランスを代表する画家、ジャン・フランソワ・ミレー作『羊飼いの少女』。
ミレーを国民的画家に押し上げた代表作。

現在、東京国立博物館での黒田清輝展で展示中。
上野、東京国立博物館の『生誕150年 黒田清輝-日本近代絵画の巨匠』に行った 圧巻の『智・感・情』(重文) 2016-04-26

 ▲オルセー美術館

ミレー
1814年、農家の長男として生まれる (~1875)
1835年、父が急死
1837年、奨学金を得てパリへ
1849年、バルビゾンに移住

「たとえ木靴一足分たりとも、後ずさりすることなく、大地に留まるつもりだ」

農村に生きる人々の普遍的な美しさを描こうとした。

しかし、作品は農村の貧困を告発する危険思想だと解釈され、なかなか評価を得られない。


▲晩鐘(1857-59)

▲落ち穂拾い
「貧困の三女神」「ぼろを着た案山子たち」と酷評

▲種をまく人(1850年)

友人から「優しさ」を描けとアドバイスをうける。

これまでは作品に普遍性をもたせるために曖昧にしていたが、
ミレーは表情の描き方を変えた。

次女ルーズをモデルにして羊飼いの少女の顔を丁寧に描き込んだ。




少女は編み物をしているが、
毛糸は羊が作り出すもので、その命を支えているのが草原。
少女の足元のタンポポの綿毛も、これから大地で芽吹く。

ミレーが考えた「優しさ」は、ここに描かれた生き物の循環、命の連鎖であった。

1864年のサロンに出展し、この作品によってミレーの評価が高まることになった。

講談社文芸文庫 私の一冊 『二葉亭四迷伝』中村光夫著 ; 蓮實重彦「坪内逍遙の名義で刊行された『浮雲』はいうまでもなく、早すぎるといってよい晩年の『其面影』や『平凡』のように「失敗作」ばかりを書き残して四十六歳で他界した二葉亭四迷は、はたして作家の名に値するのか」



併せてもう一度読みたい ↓
『二葉亭四迷の明治四十一年』関川 夏央  (著)  (文春文庫) 


「円高パニック」を招いた黒田日銀の「失敗」 いよいよ1ドル=105円が見えてきた / ドル円106円台 日経平均先物:円建て15,865 (-410) 日経比:-801.05 / 米財務省は外国為替報告書で、日本を為替政策の「監視対象」に指定した。円安誘導など不公正政策ないか判定。 / 米、日本の通貨政策「監視」 円ドル相場は「秩序的」 / 日銀の玉切れで、追加金融緩和がないとみるや、円が急速に買われ、1ドル=106円台に入った。企業の経常利益の急速な縮小がさらに加速されるだろう。水膨れ経済をもたらすアベノミクスはもはや大失敗に向かってまっしぐら。地獄への道半ばです。






ナニコレ? → G7情報通信大臣会合が高松市で始まりました。大臣会合ながら、日本以外の大臣の参加者はイギリスの一人だけ(あとは担当省庁の次官とか局長とか)とちょっと寂しいです。記念撮影にはハトも参加していました(左端の大西市長の前)。(ふ) — 朝日新聞高松総局

2016年4月29日金曜日

明治38年(1905)10月1日 「文科大学学生生活」(著者XY生=正宗白鳥、今古堂書店)発行 漱石と柳村(上田敏) 『社会主義評論』(河上肇 「読売新聞」連載)と河上肇の煩悶

上野公園 2016-04-26
*
明治38年(1905)
10月1日
・矢野龍渓、「戦時画報 講和三笠画報」で、ルーズベルトが仲裁するからには、予め双方の意思を確認して、成立すると確信した筈。従って、日本は、国民が望んだ様に賠償金と樺太全部のどちらか一方を要求したのだろうと推測。
*
10月1日
・「文科大学学生生活」(著者XY生、今古堂書店)発行
(東大前の森川町に下宿していた正宗白鳥が、東大の教授たちについての噂を下宿の学生たちから聞き集めて匿名で書いた原稿)

■文壇・劇界の状況。
「本郷座で藤沢(浅二郎)木下(吉之助)が不如帰を演じなれば、(明治三十八年五月)俄かに観劇の流行を来たした。高田(実)の己が罪、金色夜叉、さては今日の青年に誂向きの、ハムレットの舞台にあらはるゝに至って、高田、藤沢は忝(かたじけ)なくも大学学生の贔屓役者になって、興行毎に場代半額の初日には五人十人誘ひ合はせて、所謂美に打たれに行く、昔劇通三木竹二先生の芝居道楽を冷笑した講堂で、劇評の囂(かまびす)しい程の変化、同窓の綾目は藤沢の貫一に感服して、失恋家の言語体度はあの通りだと、大に思ひ当る所のあるらしい。(略)芝居も評判の小説を演じたお蔭で学生を呼んだ程だもの、小説の同人間に愛読されることはいふ迄もない。例の不如帰、金色夜叉の出た頃よりやうやく味を覚え始めたので、今日の作家では天外と鏡花が最も人気を得てゐる。一体読書社会の大部分を占むる女学生と其の理想の男子たる大学生を主人公にした小説なら、屹度歓迎されるとの噂で、我が同窓にも『魔風恋風』の東吾を気取り、『新学士』(天外作)の狩村を以て任ずる者がある。鏡花の作は『湯島詣』以来で、篇中の人物は端役に至るまで当時の学生今の文学士をモデルに取つたとの事で評判であったが、其の他の不思議な作まで頻りに愛誦される。写実派の天外と其の反対の鏡花と相並んで喜ばれるとは奇怪であるが、鏡花の方は散文的の頭脳で解せられなくとも、作家其自身を信仰し切ってゐるのだ。」

■教師たち
文科大学は、歴史系の坪井九馬三(くめぞう)博士派と言語学系の上田万年(かずとし)派に分れていて、教授、助教授、講師たちは、その何れかの側に与して対立している、と筆者は名を挙げて指摘。
ただその中で、「無所属の紳士は、夏目(金之助)、藤岡(作太郎又は勝二)、桑木(厳翼)、大塚(保治)」等にすぎない、と言い、また特に「赤門の聖人」という項を設けてケーベルの名を挙げ、「権勢名誉に血眼となれる教授先生」たちの中で珍しい存在として敬意を表した。

「十年も講壇に立ちて毎年毎年変り行く学生の誰にも敬せられ愛せられて、嘗て悪評を下されしことなきケーベル博士の如きは、日本教授に此迄にも例のないこと、昔のリース、ハーンと共に良教師の三幅対にて(略)先生は無妻主義にて、音楽を最愛の妻とし、憂さも悲しみも一曲のピアノに忘れ、(略)そゞろに古の高僧善知識の偲ばるる次第にて、従僕の目には英雄なしといふ格言に背き、其の抱へ車夫まで、涙ながらに先生の憐れみ深さを語」る、と述べる。

ラファエル・フォン・ケーベルは1848年生れ、このとき数え年58歳。ドイツ系のロシア人で、モスクワ宮廷の枢密顧問官の子として、ニシニ・ノヴゴロッドに生れた。家庭教師について、普通学科をおさめた後、モスクワの音楽院でニコライ・ルービンシュタインやチャイコフスキー等に学び、優れた成績で卒業。その後、ドイツのイエナに行き、エルンスト・ヘッケルについて哲学を学び、その間にショーペンハウエルの思想に心を奪われ、その弟子ハルトマンの学説にも興味を抱いた。それが縁でハルトマンと親しくなり、カールスルーエに住んで音楽の教師をしていた。
明治26年(1893)、東京帝国大学は哲学の教師を求める手紙をハルトマンに送った。ハルトマンはケーベルを推薦し、その年6月、彼は着任した。彼は哲学概論、哲学史、キリスト教史、カント、ヘーゲルに関する特殊講義などを、その後12年間続けた。その外、ギリシャ、ラテン語を教え、またゲーテのファウストの特別講義をすることもあった。彼の人柄の美しさは、その講義の魅力と相まって、帝大の学生たちに大きな影響を与えていた。
ケーベルはそのほか上野の音楽学枚でピアノを教えた。その弟子の中から幸田延子、橘糸重等が出て、後にそこの教授となった。

■漱石と柳村(上田敏)
明治34年、上田敏(32歳)は「詩聖ダンテ」「文芸論集」等を発表し、文壇や学界からその欧洲各国語にわたる語学力と文章の美しきで知られていた。この年も「明星」「白百合」「帝国文学」等に訳詩を発表しており10月には、これまでの訳詩の集大成「海潮音」を本郷書院から発行した。その集にまとめられた彼の訳詩の美しさ、韻律やスタイルの多彩さは、前人未踏と言うべきものであった。

ヴェルレーヌの「落葉」をこのように訳している。

  秋の日の
  ヰオロンの
  ためいきの
  身にしみて
  ひたぶるに
  うら悲し。

  鐘のおとに
  胸ふたぎ
  色かへで
  涙ぐむ
  過ぎし日の
  おもひでや。

  げにわれは
  うらぶれて
  こゝかしこ
  さだめなく
  とび散らふ
  落葉かな。

漱石は、前年「ホトトギス」に俳句や俳体詩の試作を載せただけで、文学上の仕事が知られるようになったのは、この年に入ってから。「倫敦塔」「幻影(まぼろし)の盾」他の短篇をのぞけば、9月までに「吾輩は猫である」を断続的に6回「ホトトギス」に載せたのみである。それが好評であったとしても、「ホトトギス」は発行部数3千部程度のものである。

しかし、学生たちは、教師・文学者として活躍している人間として二人を較ぺて考えた。彼等は各国語を自由に黒板に書いて教える上田敏を敬遠し、40歳に近づいて、人間味をじかに講義の中で発露させる漱石に親しみを抱いた。駒込千駄木町の漱石の家を訪ねる学生は何人かいるが、西片町7番地の上田敏を訪ねるものはないという評判であった。

二人についてはこのように書かれている。
「明星といふ小雑誌あり、ホトトギスといふ小雑誌あり、一つは醴酒(あまざけ)の如く一つはラムネの如し、どうせ滋養にはならねど、いづれも特色のありて、小範囲の読者に珍重せらる。この二者は全然相容れざる性質を有し、寄稿家も読者も類を異にし、明星の後援者に上田敏先生あり、ホトトギスの客将に夏目金之助先生あり。自(おのず)から相対立し、大学の講堂外に自己の面目を発揮させるは面白し、而して柳村先生の厚化粧の美文を知る者多けれど、漱石先生の粉飾なき散文を知る者少く、学士敏の新体詩を喋々する者あれど、学士金之助の俳句或は俳体詩は、文壇の批判に上らず。」

更に、上田敏が、「アストンの日本文学史の西鶴論を解するには、ダンテを原語で読み得ねばならぬ。西鶴論の結末の一句ムヤムヤムヤはダンテ中のムヤムヤから引用されたもので非常に明言だ」と言ったが、そのムヤムヤの分らない「我々無学者の聴手の方ではあまりよい気特はしない。そのムヤムヤを解し得ねば、とてもアストンを読み得ざるぺしと断念したるが、蓋し日本でアストンを味へるは敏先生只一人ならんか」と皮肉を言った。
あくまでも正系の語学的理解の上に文学の研究を築こうとする上田敏の講義は、その年の若さや美貌と相まってぺタンティックに聞え、語学の力のない学生たちを反撥させた

ウィリアム・ジョージ・アストンはアイルランド生れのイギリス人。元治元年公使館通訳として日本に来、明治17年に再び来朝、明治22年帰国した。日本語に精通し、「日本文法」、「日本文学史」、「神道」等の英文の著書がある。

この時期の漱石の生活について・・・。
「日常生活はホトトギス誌上の『吾輩は猫である』といふ一文によりても、一斑を窺ひ得べく、久しい間神経胃弱で、外界の騒がしき刺戟に堪へず、可成(なるべく)世を離れて気楽に暮らさんとするのか終生の目的。従って人の訪問をも喜ばず、いやな奴が来て、長座すると、終に理へ得られなくなって、露骨に『君は帰って呉れ玉へ』といひ引留言葉などつひぞいひし事なし。」
西洋の大文学書を西洋人と同じやうに解釈するはとても出来得べきことではない。諸君は自から感じたる所のみを味はへばよい。西洋の批評家がかくいったからとて、強ひて其の通りに感じようと勉める必要はないのだ。」と言っているが、「さりとて一字一句の注意を怠ることなく、決して粗雑の読みやうはしない。和漢文学も一通りは心得、殊に俳句に巧みなれば、其のなだらかの講義の自ら滑稽趣味を帯び楽しく面白く聴きなさる。(略)先生も元から今の如く大悟せしにあらず、熊本の高等学校にありし際は随分学生を苦しめて得意顔せし事もあったさうな。」

上田敏の弱点
江戸っ子で東京外に出たからないが、「此処に面白い一例は先頃横浜の某学校の依頼により止むなく演説に出掛ける時、妻子に対し離別の情に堪へず、殆んど水杯もしかねまじき有様にて、一度門口に出た後、再び後戻りして妻君と愛女瑠璃子嬢の顔をつくづくと眺め、涙ぐんで出られたさうである。」
*
10月1日
・『社会主義評論』(「読売新聞」連載)。~12月10日まで。翌年1月、単行本として刊行(同年9月に改訂第5版発行)。
著者は「千山万水楼主人」と署名(河上肇)。

河上肇は、東京で学生生活を始めた頃から、木下尚江、内村鑑三、島田三郎、田口卯吉、田中正造、安部磯雄、西川光次郎、河上清、幸徳伝次郎等の講演を聞き、中でも木下尚江と内村鑑三に心を惹かれた。彼は何度か木下尚江を訪問し、敬愛の念を深めたが、内村鑑三は寄りつきにくい気がして訪問しなかった。彼は内村の「聖書之研究」を購読し、「バイブル」を読むようになった。
「バイブル」の中でも特に「マタイ伝」の一節に惹かれた。
「人もし汝の右の頬をうたば、左をも向けよ。なんぢを訟へて下衣を取らんとする者には、上衣をも取らせよ。人もし汝に一里ゆくことを強ひなば、共に二里ゆけ。なんぢに請ふ者にあたへ、借らんとする者を拒むな。」
彼は、こういう絶対的な非利己的態度が、人間の理想でなければならないと感じた。一方で、彼は、そんな態度ではとても此の世に生きて行くことができない、すぐにも身を滅すであろう、という声も湧いていた。これが彼の糖神的煩悶のはじまりであった。

明治34年暮、渡良瀬川の農民救済運動をしていた潮田千勢子たちの講演を聞いて、彼は、身につけている以外の衣類を全部行李に詰めて送り届けた。
彼が寄附した着物の中には、母が蚕を飼い、糸を紡いで織ってくれた羽織などもあり、そのことを手紙で母に伝えると、母は大変怒った返事をよこした。彼は、「バイブル」通りに身を処して行くならば、父母の心を安んじることもできないと気づき、しばらくは、世間人並みの生活をしなければならないと考えた。

翌明治35年、東京帝大政治学科を卒業(24歳、専攻は経済学)。
この年、大塚秀子と結婚し、1年後には長男政男が生れた。

明治36年から東大の農科大学実科の経済学の講師となり、その後更に専修学校、台湾協会専門学校、学習院等の講師をも兼ねて、学者として順調な道をたどりはじめた。
だが生活が安定した彼のところに、伯父の息子と、更に二人の伯父の娘が預けられた。従弟や従妹の友達が集まって賑やかに騒ぐので、彼は夜更けてから勉強をはじめ、朝になって寝床に入る、という生活となった。
彼は、そういう家庭の空気が自分の研究生活を乱すように感じ、翌年、家庭をしばらく解散して研究生活に没頭することにした。妻と子を郷里の父母のもとに預け、自分は食事つきの室を借りて移り住んだ。

「読売新聞」主筆足立北鴎は同郷の山口県人で、その縁で明治38年、千山万水楼主人という筆名で、「社会主義評論」を「読売」に連載した。それは伝統的な経済学の立場から当時の社会主義者たちの思想や人となりを論じたものであった。この評論は大変好評で、そのために「読売新聞」の部数が増えたとも言たれた。

だが連載しているうちに、彼は糖神的不安に襲われはじめた。
マタイ伝の一節が、また至上命令となって彼の心に去来するようになった。自分が学んだ経済学研究は、結局、学位を得て出世するという一身の名利を追う方向へ自分を進ませるに過ぎず、「バイブル」の示している絶対的な非利己主義の理想と正に相反するものではないか、と思われて来た。彼は経済学の研究を放棄したくなり、街を歩きまわって自分の心を満たすものを求めはじめた。
その頃、九段坂下に、近角常観(ちかずみじようがん)の経営する求道学舎があり、彼はそこで近角常観の話を聞いた。
近角常観は、日露戦争前後の社会主義の勃興と、その弾圧との続いた時代に、精神界の指導者として知識階級に強い影響を与えた浄土真宗系の人物の一人であった。

この時代、さまざまな系統の精神界の指導者がいた。キリスト教系の代表的人物として内村鑑三近角常観の先輩の清沢満之(まんし)伊藤証信、坪内逍遥の古い弟子である綱島栄一郎(梁川)らがいた。

綱島梁川は明治28年「道徳的理想論」書いて東京専門学校を卒業したが、卒業後肺を患ってから、キリスト教に入った。彼は小説、文芸評論を書いていたが、明治35年1月、「悲哀の高調」を発表して、宗教感情を描いた美文の作家として名が売れた。
その後、主に宗教論を書くようになり、病床にあって思索生活をしていたが、明治37年7月~11月に三度神の存在に接触した体験を持ち、翌明治38年5月「予が見神の実験」を発表して大きな反響を呼んだ。またこの年7月、「梁川文集」を出し、10月には「病間録」を出版した。
大町桂月ですら、「とも(この2書)に近時の大著述なり。梁川文集は学者、識者、論客としての梁川を知るべく、病間録は一種の予言のおもかげを見る」と評した。

社会主義運動のような実践性のあるものの禁圧と、戦争による死の体験やその見聞が、青年たちを、これ等精神主義者の著作や実践に引きつけていた。

近角常観は、本願寺系の僧侶の出であったが、東大を卒業した文学士であり、彼の思想を受け入れた学生たちをその求道学舎に寄宿させて指導していた。はじめ本郷の森川町にその求道学舎があったが、後それを九段下に移した。

河上肇は、近角の思想に満足せず、救世軍の集会に出かけて行って山室軍平の説教を聞いた。また、内村鑑三、植村正久と並ぶキリスト教界の指導者であった海老名弾正の説教を本郷教会へ聞きに行った。海老名弾正は異様に禿げ上った狭い額、細長い皺に包まれた顔、長く伸ばされた顎髭、底力のある錆びた声の長身痩躯の立派な人物であった。彼は黒の紋付に仙台平の袴をつけていた。その立派な服装が河上肇の目には邪魔になった。「なんぢに請ふ者にあたへ、借らんとする者を拒むな」という「バイブル」の言葉の通りに生きたら、こんな立派を服装をしていられる筈がない、と彼は考えた。
*
10月1日
・小村寿太郎、バンクーバー着。
2日、発。
*
*


下村観山(1873-1930) 『春雨』(1916) 東京国立博物館本館18室 2016-04-26

下村観山(1873-1930) 『春雨』(1916) 東京国立博物館本館18室

橋の欄干を横から見たシーン。
傘をさした女性一人が通り過ぎるのを、同じく傘をさした女性三人が振り向いて眺めている。
三人の顔は見えない。
果たしてどんなドラマが・・・?




上野、東京国立博物館の『生誕150年 黒田清輝-日本近代絵画の巨匠』に行った 圧巻の『智・感・情』(重文) 2016-04-26

東京 東京国立博物館 新緑が鮮やか 黒田清輝展のあとは本館へ 今年国宝に指定された洛中洛外図屏風(舟木本)展示中 長谷川久蔵『大原御幸図屏風』 上村松園『焔』(大正7年) 2016-04-26




連なる断層帯「異常」誘発 活断層にはまだ「割れ残り」? 熊本地震1000回超(西日本新聞) / 熊本地震から2週間。発生地域が拡大、大分でも震度5強(ニュースイッチ)


「イメージフォーラム・フェスティバル」渋谷で本日より開催 - 映像アートの新作や歴史的傑作が世界中から集結 — Fashion Press

若冲生誕300年 小林忠氏が語る奇才の画業 (日経新聞) ; 岡田美術館館長 (動画) / 糸瓜群虫図 孔雀鳳凰図 旭日鳳凰図 貝甲図 群魚図 群鶏図 虻に双鶏図 果蔬涅槃図 象と鯨図屏風








▼虻に双鶏図



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2016年4月28日木曜日

雪崩のとき  (石垣りん 『私の前にある鍋とお釜と燃える火と』) ; 平和 永遠の平和 平和一色の銀世界 そうだ、平和という言葉が この狭くなった日本の国土に 粉雪のように舞い どっさり降り積っていた。

鎌倉 長谷寺 2016-04-28
*
雪崩のとき   石垣りん


人は
その時が来たのだ、という

雪崩のおこるのは
雪崩の季節がきたため と。

武装を捨てた頃の
あの永世の誓いや心の平静
世界の国々の権力や争いをそとにした
つつましい民族の冬ごもりは
色々な不自由があっても
また良いものであった。

平和
永遠の平和
平和一色の銀世界
そうだ、平和という言葉が
この狭くなった日本の国土に
粉雪のように舞い
どっさり降り積っていた。

私は破れた靴下を繕い
編物などしながら時々手を休め
外を眺めたものだ
そして ほっ、とする
ここにはもう爆弾の炸裂も火の色もない
世界に覇を競う国に住むより
このほうが私の生きかたに合っている
と考えたりした。

それも過ぎてみれば束の間で
まだととのえた焚木もきれぬまに
人はざわめき出し
その時が来た、という
季節にはさからえないのた、と。

雪はとうに降りやんでしまった、
降り積った雪の下には
もうちいさく 野心や、いつわりや
欲望の芽がかくされていて
”すべてがそうなってきたのだから
仕方がない”というひとつの言葉が
遠い嶺のあたりでころげ出すと
もう他の雪をさそって
しかたがない、しかたがない
しかたがない
と、落ちてくる。

ああ あの雪崩、
あの言葉の
だんだん勢いづき
次第に拡がってくるのが
それが近づいてくるのが

私にはきこえる
私にはきこえる。
           (1951年1月 詩人31歳)     


  第一詩集『私の前にある鍋とお釜と燃える火と』(1959年12月)









週刊新潮 連休特大号の目玉がアベ批判とは。 売り上げを見込めるのか。 タイトルが《熊本支援の失態失策大失敗》。 〈総理がずっと補選に心を砕き、前震が襲っても応援で北海道入りしようとした。そんな浮き足ムードが伝播〉とのコメントがリアル。(津) — 赤旗政治記者

クロード・モネ『睡蓮』(1916) オーギュスト・ロダン『説教する洗礼者ヨハネ』(1880) @国立西洋美術館常設展 2016-04-15

国立西洋美術館(常設展)
モネの部屋には『睡蓮』や『舟遊び』『陽を浴びるポプラ並木』といった作品が並び、
中央にはロダンのブロンズが。
すごくいい空間だ。

常設展は企画展(カラヴァッジョ展)の券で入れるよ。

クロード・モネ『睡蓮』(1916)

オーギュスト・ロダン『説教する洗礼者ヨハネ』(1880)

ある日、突然捨てられる会社~ユニクロ、マックの失敗は他人事ではありません 人は飽きる——その事実から逃れられる経営者はいない (現代ビジネス)


 (略)

まず要因として挙げられるのは、度重なる商品価格の引き上げだ。

「アベノミクスが始まって以降、デフレ脱却の可能性が出たことで、ユニクロは'14年に5%、'15年に10%の値上げを断行し、これが災いしました。ユニクロがこれまで売れてきたのは、安い割に機能性が高かったからです。たとえ価格以上に品質が良くても、安くないユニクロの商品を欲しいと思う消費者は多くないということです」(流通小売り専門の証券アナリスト・佐々木加奈氏)

結局はダイエーと同じ

(略)

消費者をバカにするな

(略)



物価2%「17年度中」に先送り、下振れリスク大=日銀展望リポート(ロイター)←景気の下振れとか下押しとか言ってるが、要するに経済政策がうまくいってませんと。 / 今までは原油安のせいだと説明してきたのを、今回は「成長率の下ブレや賃金上昇率の下ブレなど」が原因だと / 日銀、覚悟の「ゼロ回答」 (日本経済新聞) ; 今回ほど日銀金融政策決定会合が世界の市場で注目されたことは極めて珍しい。・・・円急騰・株急落を覚悟のうえでの決断といえる。






国際基準では「動かしてはいけない」はずが…稼働続ける川内原発 〈AERA〉|dot.ドット 朝日新聞出版 ; 「国際基準に照らせば、少なくとも周辺地域が平常状態に戻るまで、原発を動かしてはいけないのだ。」

南相馬市:全戸に憲法冊子 原発事故で軽視された人権守る (毎日新聞) ; 「震災と原発事故で憲法が保障する健康で文化的な生活がかなえられない市民がいる。憲法とは何かを考えていただきたい」という桜井勝延市長のあいさつが入る

漫画家・ヤマザキマリさんが辿る須賀敦子 【須賀作品との出会い編】 [おとなスタイル](講談社) ; 繊細で憂いを帯びた、あのイタリアの感触があった


後藤和智 「「ゆとり世代」学力低下はウソだった~大人たちの根拠なき差別に「ノー」を!」 (現代ビジネス) ; 「ゆとり世代」の特殊性と言われているものの虚構に甘え、その言葉の差別構造の温存に、上の世代も若い世代も乗ってしまっているというのが問題の本質なのです。


 (略)

・・・1990年代終わり頃に、実態とはかけ離れた形で煽られ、また寺脇研などの推進派もやはり自らの正当性を主張するため一部歪めてきた「ゆとり教育」という概念が、論争の中で、既存の大人世代と若者世代を決定的に分かつものとして定着し、若者論のガジェットとして普及してきたことが挙げられるでしょう。

大人たちにとって、いまの若者がいかに自らの世代と「違う」のかを主張するために、「競争を否定する」「詰め込みを行わない」とされる「ゆとり教育」は、非常に都合のいいものだったのです。

 (略)

例えば「『なぜ、ゆとり社員は俺の飲みの誘いを断るのか』問題」というブログ記事では、いまの若い世代が上の世代の飲み会を断るのは、「ゆとり世代」は役職などでは人を判断しない新しい考え方を持っているからだ、という主張がなされています。

しかしそれは「ゆとり世代」に特有と言えるのかどうか、客観的な根拠が必要ではないでしょうか? これでは、「ゆとり世代」という言葉に込められた差別構造にただ乗りして自分を正当化することにしかならないのです。

「ゆとり世代」の特殊性と言われているものの虚構に甘え、その言葉の差別構造の温存に、上の世代も若い世代も乗ってしまっているというのが問題の本質なのです。それを崩すために必要なのは「ゆとりって言うな!」という言明です。決して「ゆとりですが何か?」と差別構造を正当化してはいけないのです。

[FT英フィナンシャルタイムズ誌] 安倍首相に打撃 豪潜水艦、仏が契約獲得 (日本経済新聞) ; オーストラリア政府との関係を強化し、武器輸出産業を築く計画を後押しするはずだった契約のために精力的にロビー活動を行ってきた。 ← 税金いくら使った? / 安倍政権、「準同盟」構想に誤算=対中けん制不発−豪潜水艦受注失敗— 時事ドットコム / 武器の輸出「考えていなかった」 潜水艦受注逃した社長 (朝日新聞) ← アベの前のめりだった? / 大本命が一転 「豪潜水艦」共同開発で日本が脱落した真相 (日刊ゲンダイ) ; 「豪州は現地建造を採用条件にしていたが、『そうりゅう』型は特殊な技術が必要で、現地生産となれば赤字は必至。にもかかわらず、安倍首相が先走り」メーカー担当者


(略)

 26日の発表は日本の安倍晋三首相にとって打撃となる。同氏は、オーストラリア政府との関係を強化し、武器輸出産業を築く計画を後押しするはずだった契約のために精力的にロビー活動を行ってきた。

 日本の提案が落選した理由は主に、潜水艦の建造拠点となるオーストラリアに技術を移転する三菱重工業と川崎重工業の能力に対しての懸念と、大型防衛輸出プロジェクトの実行における両社の経験不足――と入札プロセスに通じた関係者らはみる。

(略)

■アジアの軍拡背景に空前のロビイング活動

(略)

■「日本の不満を和らげる努力が必要」

 昨年9月にトニー・アボット氏がターンブル氏に首相の座を奪われる前は、日本が契約を勝ち取る有利な位置につけていた。

 (略)

 契約の受注失敗は、武器輸出貿易において日本を傍観者から有力事業者に引き上げようとする安倍氏の野望に深い傷を残すことになる。

By Jamie Smyth in Sydney and Leo Lewis in Tokyo

(2016年4月27日付 英フィナンシャル・タイムズ紙)




2016年4月27日水曜日

日曜美術館「幻の光 救いの闇 カラヴァッジョ 世界初公開の傑作」(4月17日)より

法悦のマグダラのマリア
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4月17日放映の日曜美術館「幻の光 救いの闇 カラヴァッジョ 世界初公開の傑作」で取り扱われた作品を纏めた。

なお、カラヴァッジョについては先に展示会に行っている。
上野 国立西洋美術館 カラヴァッジョ展に行ってきた 2016-04-15

1590年代中頃、北イタリアで育ち、ミラノで修行したカラヴァッジョがローマにやって来る。
当時のローマはカトリック教会の建設ラッシュ、成功を夢見る芸術家たちが各地から集まって来た。

▼「女占い師」1597年
写実のうまい画家として頭角を現してきたた頃の作品。
手相を見るふりをして指輪を盗んでいる女占い師。

▼「バッカス」1597ー98年頃
フランチェスコ・デル・モンテ枢機卿に見出され、絵に没頭できる環境を提供してもらった頃の作品。
バッカスはローマの神話に登場する酒の神。
熟した果物を前に怪しい表情を浮かべる青年は カラヴァッジョ自身とも言われている。

▼「聖ぺテロの磔刑」1601年
サンタ・マルア・デル・ポポロ聖堂

▼「聖パウロの回心」1601年
(同上)

画家としての成功と裏腹にカラヴァッジョの生活は乱れてゆく。
暴力沙汰をいくつも起こし、挙句の果てに決闘で殺人を起こしてしまい、
ローマを抜け出したカラヴァッジョに死刑が宣告される。

最初にコロンナ家に匿われる。
その頃の作品。
▼「法悦のマグダラのマリア」1606年
キリストの死と復活を見届けたと言われる聖女。
娼婦であったという伝承から罪深い女性とされながら、魅力的で怪しげな美女とされてきた。
カラヴァッジョは祈りの果てに神と繋がった一瞬を闇に溶けていくように画いている。

▼「悔悛するマグダラのマリア」1595年頃
カラヴァッジョにはもう一枚のマグダラのマリアの絵がある。
こちは、ローマに来た直後に画かれた作品。

▼「エマオの晩餐」1606年


▼放映されたテレビ画面より




マグダラのマリアを画いた後、ナポリ、マルタ、シチリアに逃亡を続ける。
その頃の作品

▼「キリストの笞打ち」1607年

▼「洗礼者ヨハネの斬首」1608年(サン・ジョヴァンニ大聖堂)
恩赦を得るため騎士になろうとして辿りついたマルタ島で作品。

▼「聖ウルスラの殉教」1609年(パラッツォ・セヴァロス・スティリアーノ美術館)

▼「ラザロの復活」1609年

應永24(1417)年 上杉禅秀の乱、鎮圧 甲斐は上杉与党の武田氏から逸見氏に与えられる(逸見・武田の抗争続く) ヘンリ5世軍の第2回フランス遠征 教会の大分裂終る(コンスタンツ宗教会議) オールドカースル(40)火刑

鎌倉 長谷寺 2016-04-25
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應永24(1417)年
この年
・敦賀郡木崎郷民、代官や守護役などのことで西福寺と争い、逃散。
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・ヘンリ5世、ロンドン市長、参事会員、「ロンドン市内の売春宿廃止」の布告。
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・バイエルン候ウイルヘルム2世(ギョーム4世)、没。
ネーデルラント継承戦争(ホラント、セーラント、エノー、3伯領の争奪戦)。
ギョーム4世娘ヤコバ(ジャックリーヌ・ド・エノー)、夫グロスタ候ハンフリーと共にイギリスより帰国、エノー・ホランド・ゼーランドに侵攻、1424年10月エノーを占領。
1425年12月ブラウェルスハーフェン(ゼーラント)の戦いで、グロスタ公ハンフリー(ヤコバ夫)の遠征軍、ブルゴーニュ軍に撃破。
1428年7月デルフト協定(フィリップ善良公とヤコバの和解)によりフィリップ善良公、ホラント伯領・ゼーラント伯領・エノー伯領を獲得。
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1月5日
・上杉禅秀の乱、鎮圧。
上杉禅秀・足利満隆ら、世谷原で江戸・豊島氏の軍を破る。
しかし、上方からの討手が小田原まで攻め下り、9日、殆どの者が反禅秀側に寝返る。
夜、持仲・満隆・禅秀は鎌倉に撤退。
10日、満隆・持仲・禅秀(氏憲)・子の憲方と憲春・宝性院快尊僧都・氏春ら、鎌倉雪ノ下にて自害。 *
1月17日
・今川勢・江戸・豊島氏、両方から鎌倉へ乱入。
この日、鎌倉公方足利持氏、鎌倉に戻り、浄智寺に入る。
御所が出来ていないので、3月24日、梶原美作守の館に入り、4月28日、大蔵の御所に入る。

江戸・豊島氏らは上杉禅秀らの没収地を与えられ、大森氏は土肥・土屋の跡を与えられ小田原に移り、箱根別当は僧正に任じられる。今川範政は、京都から副将の臨旨を受ける。
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2月6日
・上杉憲宗、上杉禅秀与党の甲斐の武田信満(禅秀の舅)を攻め、信満は木賊山(甲州市大和町)で自害、弟満春は戦死。

頼朝の時、甲州半国は石沢五郎に与えられ本郡を知行。東郡は加藤氏、西郡は逸見氏に与えられる。
その後、一円を武田氏が拝領し、加藤は武田の被官となり、逸見は鎌倉公方に奉公するようになる。
逸見は武田を排し、甲州一円の守護になるため持氏に忠功を尽くす。
甲斐の武田信満は上杉禅秀の小舅、千葉兼胤は婿であり、持氏寵臣の二階堂氏が逸見の縁者であるので、逸見は二階堂に頼んで甲斐を希望する。甲斐は関東御分国で基氏の頃から鎌倉に出仕しているが、武田信満は上杉禅秀の件のため出仕しなくなる。

武田信満の次弟信元と嫡男信重は出家し高野山に上る。甲斐は逸見氏に与えられ、逸見氏が甲斐に入国(京都の将軍からに引き渡しでなく、鎌倉公方の決定のみ)。
以降、甲斐を廻り、逸見氏と武田氏の内乱抗争が続く。
翌応永25年2月、信元は高野山から復帰するが間もなく戦死。
その後、抗争は逸見氏の敗北に終わり、応永33(1426)年、鎌倉公方足利持氏は兵を甲斐(武田信満の次男信長)に差向ける。武田氏は屈伏し信長は鎌倉府に出仕。
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2月16日
・和平締結のためトルコ大使、ヴェネツィアへ
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3月4日
・ウルビーノ伯、グイード・アントーニオ・ディ・モンテフェルトロ、ヴェネツィア大議会に加入
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3月10日
・ほぼ聖杯派で固められているプラハ大学、「二種聖餐」は正当との判断を下す。しかしマギステルの間でも、比較的穏健な人々と、徹底した改革を求める人々との食い違いが目立ち始める。
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4月4日
・仏、王太子ジャン(19、シャルル6世次男)、没。弟シャルル(14、シャルル6世末子)、王太子(王位継承者)となる。後のシャルル7世。
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5月13日
・上杉禅秀の婿の岩松満純、残党を集めて上野岩松に蜂起。舞木宮内丞に破れ、この日、満純は瀧口で斬首。
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閏5月14日
・庶民の雲脚茶会。
「晴、台所において雲脚茶会これを始む。侍従局女、地下男共、済々相交る。 順事なり。これ毎年の儀なり。」(「看聞御記」同日条)。
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6月17日
・二種聖餐の農村部への普及に果たす貴族の役割。
東ボヘミアに広大な所領を持ち、南ボヘミアのロジュンベルク家相続者の後見人を務めるヴァルテンベルクのチェニェク、ロジュンベルク家領の教会会議を召集し、全聖職者に対して二種聖餐の実施を命令。
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6月30日
・上杉憲基、5月24日に鎌倉に戻り、この日、再び関東管領に就任。
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7月
・コンスタンツ宗教会議。ハイデルベルク大学出身教会法学者ヨハネス・ウルバッハがポーランドの主張に反論。26日、アヴィニョン教皇ベネディクトゥス13世を廃位。
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8月1日
・イングランド(ヘンリ5世)軍、ノルマンディー・トゥーク上陸。第2回フランス遠征。
リジュー、カーン、バイユー、アルジャンタン,アランソン占領。
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8月12日
・コンスタンツ宗教会議。1220年12月の教皇ホノリウス3世の教勅を確認。ドイツ騎士修道会の主張を退ける。
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8月27日
・ナポリ女王ジョヴァンナ2世の傭兵隊長アッテンドロ・スフォルツァ、ローマの傭兵隊長を追放
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9月20日
・ノルマンディ侵攻の英ヘンリー5世、カーン市攻略
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10月9日
・コンスタンツ公会議、教書「フレクェンス(数多くの)」。
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10月28日
・教会の大分裂終る
コンスタンツ宗教会議。新教皇マルティヌス5世(49、位1417~1431)選出。オド(オッドーネ)・コロンナ(ローマ・コロンナ家出身の初めての教皇)。枢機卿23人と各国代表30人がコンクラーベ実施。フランス人を排斥するため、ドイツ人・イギリス人がイタリア人と手を結ぶ。
教皇マルティヌス5世、3年後の1420年にローマ帰還。ローマの治安がひどくジュネーヴよりマントヴァ・フィレンツェと渡り歩く。枢機卿・元老院議員・将軍に一族郎党を任命。
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12月14日
・英、反カトリック、反ヘンリーの抵抗運動組織したオールドカースル(40)、ウェールズで捕らえられロンドンで火刑。
ウェールズ戦役以来のヘンリ5世の盟友・コバム卿サー・ジョン・オールドカースル。カンタベリー寺院での審問会、異端審問でロラード(宗教改革者)と告白。投獄中ロンドン塔から脱走、各地に反カトリック、反ヘンリーの抵抗運動を組織。ヘンリ5世の鎮圧軍に敗れ、ウェスプールの近くで逮捕、再び死刑判決を宣告。
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12月23日
・ジャン無畏公、トロアで王妃イザボーと同盟。王妃イザボーの政府立てる。
ジャン無畏公、アルトワ・ピカルディー・ノルマンディー でイギリス軍と戦い、パリのアルマニャック派(シャルル6世、王太子シャルル)に対決。
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LINEブログ読者のみなさまへ - Risa Hirako Official Blog (平子理沙、巧妙な嫌がらせ手口を語る) ; 「同じ人が、毎回名前を変え、 あたかもたくさんの人から批判されている様に 見せかけて、コメント欄に 投稿している事が分かりました。 巧妙なのは、時々良いコメントも書いてみたり、 時には女性に、時には男性になり、 ...、 震災の記事批判から個人的なわたしへの嫌がらせ、 悪質な中傷など色々な書き方で投稿してきました。」 / 平子理沙、震災めぐるブログ炎上が「たったの6人の仕業」だったと明かす ネット原住民の法規制を訴える - NAVER まとめ


東京 東京国立博物館 新緑が鮮やか 黒田清輝展のあとは本館へ 今年国宝に指定された洛中洛外図屏風(舟木本)展示中 長谷川久蔵『大原御幸図屏風』 上村松園『焔』(大正7年) 2016-04-26

4月26日の東京国立博物館。
晴天で新緑が鮮やかだった。
正面から入って左側にあるメタセコイアとイチョウの巨木、いいよね。





この日は黒田清輝展がメインだったけれど、
今年、国宝に指定された洛中洛外図屏風(舟木本)が本館で公開されている(~5月8日)ので、
これを見るのも楽しみだった。
上野、東京国立博物館の『生誕150年 黒田清輝-日本近代絵画の巨匠』に行った 圧巻の『智・感・情』(重文) 2016-04-26

しかし、確かに公開はされているものの、
単なるポン置きでは、近眼・老眼の私にはちょっと辛いものがあった。
ま、いいか、前に見たことあるし・・・。
東京 上野 東京国立博物館 洛中洛外図を観に行った 2013-11-21





その他の展示物では・・・

▼長谷川久蔵『大原御幸図屏風』
長谷川等伯の長男、久蔵の作。



▼上村松園『焔』(大正7年)
展示品の中でも人気の高い作品。
「嫉妬に狂い、生霊となった六条御息所をヒントに・・・」とある。

よく見ると、足がないんです。
コワッ!