2010年4月29日木曜日

湯島・根津・本郷・千駄木(8) 本郷菊坂 樋口一葉旧居跡 一葉井戸 伊勢屋質店 鐙坂

本郷菊坂。
名前の由来は、長録年間(1457~60)に町屋になった頃、この一帯に菊畑があったからといいます。
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ところで、東京は何と坂に多い事か、・・・と云うよりも、「坂の名」の多いことか、と驚く。
ちょっとした傾斜や階段にも名前がついている。
もっとも、これは道路が整備された現代の感想であって、その昔、人々はきっと通行に難渋したんであろう。
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詳しくは「★東京インデックス」を見て戴くといいんですが、記事にした坂だけでも、・・・
切通坂、三宅坂、梅林坂、潮見坂、昌平坂、中坂、冬青木坂、二合半坂、団子坂、団平坂、貝坂、九段坂、男坂、女坂、夫婦坂、無縁坂、がある。
また、近いうちに記事にするものに、安藤坂、炭団坂、神楽坂、紀伊国坂、淡路坂(一口坂)、がある。
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昨年(2009年)11月に菊坂を再訪した。2005年12月以来二度目である。
一葉旧居跡に行く為に菊坂を下る。
前回と比べて距離があるように感じたが、お肉屋さんがコロッケを揚げるその匂いが、目的地近くを教えてくれる。
(この感覚、同行のシマさんも同感だったようだ)
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一葉旧居跡は、そのお肉屋さんを過ぎてすぐの道を左折し、菊坂より一筋左の谷間のような細道を行く。
一葉一家は、明治22年7月12日に父則義が没した後、しばらく次兄虎之助の家に同居し、明治23年9月から26年7月までの3年間をここで暮らす。
 小説家を志し、半井桃水に師事したのもこの時代。
一葉日記からこれまでご紹介した「一葉、春寒を願う」 「一葉、・・・父を偲ぶ」 「一葉、頭痛に苦しむ」は、この菊坂時代のこと。
詳しくは「★一葉インデックス」下さい。
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前回来た時は、「一葉旧居跡」の説明板が有ったが、今回、これが無くなっていた。
五千円札の肖像に抜擢され一葉ブームだった頃に比べ、見学者が減ったためか、見学者の騒々しさに困って、敢て看板を外したのか・・・?
後者でなければよいのだが。
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一葉の井戸
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鐙坂
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鐙坂の上から。
(この写真は、前回訪問時の2005/12月のものです)
井戸の周囲(特に写真の左側)が少し?、変わっているのがわかる。
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伊勢屋質店
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2010年4月27日火曜日

北の丸公園 ハナミズキ咲く

北の丸公園に、いよいよハナミズキが登場。
ここには、何種類のハナミズキが咲いているんでしょうか。
ハナミズキは、アメリカにソメイヨシノを贈ったそのお返しに貰ったものなんですね。
優しい花です。
写真は全て4月26日のものです。
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まだまだ桜も頑張っています。
写真は、武道館横のカンザン(関山)とショウゲツ(松月)
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2010年4月25日日曜日

湯島・根津・本郷・千駄木(7) 本郷レトロ 本郷館アパート(明治38年築) 鳳明館本館(登録有形文化財、明治30年代) 万定フルーツパーラー

本郷界隈のレトロな建物をご紹介。
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本郷館アパート(明治38年築)
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鳳明館本館(登録有形文化財、明治30年代)
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同別館
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万定フルーツパーラー(創業大正12年)
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大逆事件への処し方 徳富蘆花 石川啄木 永井荷風 森鷗外 夏目漱石

一昨日(4月23日)の「朝日新聞」夕刊文化欄に、今年は「大逆事件百年」「日韓併合百年」、という記事があった。
明治43年(1910)から100年ということなんだ。
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明治43年7月23日の「原敬日記」には、
「今回の大不敬罪のごときもとより天地に容るべからざるも、実は官僚派が之を演出せりと云ふも弁解の辞なかるべしと思う。」
とあり、原敬は、政府の言う「大逆事件」を「大不敬罪」と呼び、事件を「官僚派が之を演出」と謀略の正体を見破っている(但し、原はこれを材料に政府を攻撃することはしていない)。
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石川啄木は、新聞報道を纏め、スクラップと手書きメモにより「日本無政府主義者隠謀事件経過及び附帯現象」を作成し、また友人の平出修弁護士(「明星」派歌人、鉄幹の依頼で弁護人となる)から密かに法廷資料を借りて書き写す。
これと並行して、彼は「'V' NAROD SERIES A LETTER FROM PRISON」「時代閉塞の現状」「所謂今度の事」「平信」などの詩、評論を書いている。
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この頃の啄木の歌

今思へはげに彼もまた秋水の一味なりしと知るふしもあり
時代閉塞の現状を奈何(イカ)にせむ秋に入りてことに斯く思ふかな
地図の上朝鮮国にくろぐろと墨をぬりつゝ秋風を聴く
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武蔵野の粕谷村に半ば隠棲生活を送っていた徳富蘆花は、明治44年1月18日の判決後、幸徳らの救援のために、兄蘇峰が経営する「国民新聞」や桂首相に手紙を出す。しかし、手紙が届いたのかどうか、全く何の反応も見られなかった。
次に、蘆花は、面識はないが同郷(熊本県)の「朝日新聞」池辺三山に、死刑確定者12人の助命を嘆願する「天皇陛下に願い奉る」を朝日に掲載して欲しいとの手紙を書く。
1月25日午前11時頃、女中を自宅の粕谷村から新宿に向かわせ、新宿から書留で、銀座滝山町の朝日新聞社の三山に送る。
しかし、この日午後3時ごろ配達された「東京朝日」に、死刑が前日執行されたとの記事が掲載される。
そして、蘆花は再び三山に手紙を書く。
「啓 正午に手紙を仕出し、午後の三時に東京朝日をひらきて幸徳等十二名が昨日すでに刑場の露と消えたるを承知仕候、今更何をかいわん、貴紙によりて彼等の臨終の立派なりしを知り、その遺書に接するを得たるを謝せんのみ、天下これよりますます多事なるべく候」
これに対し、三山は、返書を出そうと思っていたら第二の手紙がきた、彼らはいかにも恐ろしい者たちだが、彼らを殺してもまた恐ろしい感があるのは自分も同じだ、天下これより益々多事との話も同感だ、との返書を認める。
(三山は翌45年2月28日、心臓発作で没。49歳。)
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明治44年(1911)2月1日、徳富蘆花、一高で「謀反論」講演
1月22日、一高生の河上丈太郎・鈴木憲三が2月1日の弁論部主催の講演依頼。蘆花は快諾し「謀反論」を予定。
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謀反論 徳富蘆花
日本はまるで筍(タケノコ)のようにずんずん伸びて行く。インスピレーションの高調に達したといおうか。狂気といおうか - 狂気でもよい - 狂気の快は不狂気の知るあたわざるところである。誰がそのような気運を作ったか。世界を流るゝ人情の大潮流である。
誰がその潮流を導いたか。わが先覚の志士である。新思想を導いた蘭学者にせよ、局面打破を事とした勤王攘夷の処士にせよ、時の権力から云えば謀反人であった。
諸君、幸徳君等は時の政府に謀反人とみなされて殺された。が、謀反を恐れてはならぬ。謀反人を恐れてはならぬ。自ら謀反人となるを恐れてはならぬ。新しいものは常に謀反である。「身を殺して魂を殺すあたわざる者を恐るゝなかれ」 肉体の死は何でもない。恐るべきは霊魂の死である。人が教えられたる信条のままに執着し、言わせらるるごとく言い、させらるゝごとくふるまい、型から鋳出した人形のごとく形式的に生活の安を偸んで、一切の自立自信、自化自発を失う時、すなわちこれ霊魂の死である。我等は生きねばならぬ。生きるために謀反しなければならぬ。古人はいうた、いかなる真理にも停滞するな、停滞すれば墓になると。人生は解脱の連続である。いかに愛着するところのものでも脱ぎ棄てねばならぬ時がある。それは形式残って生命去った時である。「死にし者は死にし者に葬らせ」基は常に後にしなければならぬ。幸徳らは謀反して死んだ。死んでもはや復活した。墓は空虚だ。いつまでも墓にすがりついてはなもぬ。・・・われらは苦痛を忍んで解脱せねばならぬ。繰り返していう。諸君、われわれは生きねばならぬ。生きるために常に謀反しなければならぬ。自己に対して、また周囲に対して。
諸君、幸徳君らは乱臣賊子として絞台の露と消えた。その行動について不満があるとしても、誰か志士としてその動機を疑いうる。西郷も逆賊であった。しかし今日となってみれば、逆賊でないこと西郷のごとき者があるか。幸徳等も誤って乱臣賊子となった。しかし百年の公論は必ずその事を惜しんでその志を悲しむであろう。
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校長新渡戸稲造、弁論部長畔柳都太郎、譴責処分。蘆花には何の処分もなし。
河上丈太郎・河合栄治郎・矢内原忠雄や「新思潮」グループ(芥川・成瀬・菊池・久米・松岡ら)に影響及ぼす。
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また、永井荷風は小説「花火」に中で、その頃の心中を吐露している。

明治四十四年慶応義塾に通勤する頃、わたしはその道すがら、折々市ヶ谷の通りで囚人馬車が五、六台も引き続いて日比谷の裁判所の方へ走って行くのを見た。わたしはこれまで見聞した世上の事件の中で、この折程いうにいわれない厭な心持のした事はなかった。わたしは文学者たる以上この思想問題について黙していてはならない。小説家ゾラはドレフュース事件について正義を叫んだため国外に亡命したではないか。しかしわたしは世の文学者とともに何もいわなかった。わたしは何となく良心の苦痛はたえられぬような気がした。わたしは自ら文学者たる事についてはなはだしき羞恥を感じた。以来わたしは自分の芸術の品位を江戸戯作者のなした程度まで引き下げるに如(シ)くはないと思案した。その頃からわたしは煙草入をさげ浮世絵を集め三味線をひきはじめた。わたしは江戸末代の戯作者や浮世絵師が浦賀へ黒船が来ようが桜田御門で大老が暗殺されようがそんな事は下民の興(アズカ)り知った事ではない - 否とやかく申すのはかえって畏(オソレ)多い事だと、すまして春本や春画をかいていたその瞬間の胸中をばあきれるよりはむしろ尊敬しようと思.い立ったのである。(「花火」)
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森鷗外は弁護士平出修に社会主義に対する考え方を教授し、公判を傍聴したと云う。
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夏目漱石は、文部省からの博士号授与を辞退している(明治44年2月~4月)。
漱石の文部省への手紙。
「小生の意志を眼中に置く事なく、一図に辞退し得ずと定められたる文部大臣に対し、小生は不快の念を抱くものなる事を茲に言明致します。・・・小生の意思に逆って、御受けをする義務を有せざる事を茲に言明致します。・・・現今の博士制度は功少くして弊多き事を信ずる一人なる事を茲に言明致します」。

「博士問題の成行」(「東京朝日」)
「…一国の学者を挙げて悉く博士たらんがために学問をすると云ふ様な気風を養成したり、又は左様思われる程にも極端な傾向を帯びて、学者が行動するのは、国家から見ても弊害の多いのは知れてゐる。
……博士でなければ学者でない様に、世間を思はせる程博士に価値を賦与したならば、学問は少数の博士の専有物となつて、僅かな学者的貴族が、学権を掌握し尽すに至ると共に、選に洩れたる他は全く閑却されるの結果として、厭ふべき弊害の続出せん事を余は切に憂ふるものである。
……従つて余の博士を辞退したのは徹頭徹尾主義の問題である。」(「博士問題の成行」(「東京朝日」)) 

国家的恩典には浴さない、との姿勢は、大岡昇平の芸術院会員辞退や大江健三郎の文化勲章受賞辞退に引き継がれている。
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漱石はその前、西園寺公望が文士を招待した時も、
「ほととぎす厠なかばに出かねたり」
と詠んで、これを断っている。
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樋口一葉、頭痛に苦しむ 「かしらのいとなやましきに、胸さへもたゞせまりにせまりてくるほしければ」(「蓬生日記」明26年4月25日)

樋口一葉は、常に頭痛に悩まされていた。
先ごろ亡くなられた井上ひさしさんに「頭痛肩こり樋口一葉」という作品があるくらい。
井上さんには別に、「泣き虫なまいき石川啄木」というのもある。
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先に「一葉、春寒を願う」で引用した明治26年(1893)樋口一葉21歳の時の日記の2月6日の条に、
「著作のことこゝろのままにならず。かしらはたゞいたみに痛みて何事の思慮もみなきえたり。・・・」とある。
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しかし、私の知る限り最悪の状況は、上と同じ年、明治26年(1893)の今日(4月25日)のものだろう。

「(四月)廿五日 早朝は晴れたる様なりしが、六時過るより空たゞくらく成に成て、雷雨昨夜にかはらず、しばしも戸を明がたし。・・・我れは文机に寄りて、とざまかうざまにものおもふほど、かしらのいとなやましきに、胸さへもたゞせまりにせまりてくるほしければ、ふすまかづきて打ふしたるまゝ、日くるゝもしらず、八時過るまで寐にけり。」(「蓬生日記」明治26年4月25日)

現代語訳では、
「二十五日。早朝は晴れていたようだが六時過ぎ頃から空はどんどん暗くなり、雷雨は昨夜にかわらないほどで、しばらくも戸を開けることが出来ない。・・・私は、机にもたれてあれこれ物思いをしていると頭痛が烈しくなり、雷雨の恐ろしさも何も耳に入らなくなった。私の魂が何処かへ誘われて行くのでしょうか。一時間ばかりは夢を見ているようでした。ふと目を覚ました時は、雨戸から漏れる日の光はあざやかになって、さしもの空も名残りなく晴れ渡っていました。午後からまた少し雨が降り出したが、まもなく風になった。頭がひどく痛く胸までもますます締めつけられるようで気が狂いそうなので、蒲団をかぶって寝てしまい、日が暮れたのも知らないのでした。八時過ぎまで寝てしまった。」
*
この条は、単なる文筆家の頭痛だけではなく、一葉の死因ともなる結核性の症状が併せ出たのではないかとの指摘がある。
*
数日後(4月29日と推測される)、一葉は半井桃水を訪ねるが、この時、桃水からよく養生するように言われる。

「・・・「又脳病におはしますよし、よくやしなひ給へよ。今君にして病ひおもからば、家の事をいかにせんとか覚(オボ)す。つとめて心のどかに、一日もはやく治せんことを覚せ。さはれ筆とるものゝならひ、此病ひなき人こそ少なかりけれ。我も昔しはいと健(スコヤ)かなりし身の、打つゞきて脳の病みつよく、此頃は少しおこたりし様なれど、いとなやましき也。今の病ひいゑなば、よし花はあらずともよし、何方(イヅク)の野山にもあくがれて、心かぎりなぐさまんとおもふぞかし。君にも籠居(タレコメ)のみにおはしまさで、新らしき風に当らせ給ふぞよき」とさとし給ふ。・・・」(「日記断片その二」)。

「・・・「あなたは頭痛がおありだとのこと、充分養生なきって下さい。今あなたが重い病気になられたらお家の事はどうなるとお思いですか。努力して一日も早く治るようになさい。それにしても筆で身を立てる人の常として、この頭痛を持たない人は少ないのです。私も昔は頑健な体でしたが、いつも頭痛が烈しく、此頃は少しは治ったようですが、時にはまだひどく痛むのです。今のこの病気が治ったなら、たとえ花は過ぎていても、何処かの野山を歩き廻って、心の限り遊ぼうと思っているのです。あなたも家にばかり閉じこもっていないで新鮮な風に当たるのがよいのですよ」・・・」
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*
この年7月、一葉一家は龍泉に引っ越し、そこで雑貨の商いを始めるが、8月下旬~9上旬にかけて、一葉はまたまた激しい頭痛に襲われ、しばしば寝込んでいる。
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8月25日
「(八月)廿五日 ・・・此処(ココ)四、五日、事のせわしさ、なみならざるが上に、脳のなやみつよくして、寐たる日もあり。すべて日記怠りぬ。」(「塵中日記」8月25日)
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9月1日
「九月一日 早朝より例之(レイノ)脳病起りて、しばしもたつことあたはず、終日(ヒネモス)ふしたり。午後より雷雨おびたゞし。」
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9月19日
「(九月)十九日 四、五日脳痛はげしく、加ふるに商業忙しくして、何事をもものせず。」(「塵中日記」9月19日)
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一葉は、自分の頭痛について、子供の頃は非常に元気であったが、成長するにつれて激しい頭痛など堪え難い症状が出てきたのだ、と述懐している。
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明治24年9月19歳の頃に書いたと思われる「筆すさび」に・・・。
「おのれ十四ばかりのとしまでは、病ひといふもの更に覚えず、親もはらからもみな脳の病ひにくるしむなるを、我は一人かしらいたきなどいふことふつになく、・・・やや大人び行くままに、ここにかしこに病ひ出来て、こと更にかしらいたみ、肩などのいたくはれなどすれば、物覚ゆる力とみにうせて、耐えしのぶなどは更にできうべくもあらず
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「大人になるにつれて、あちこち病気が出てきて、中でも頭痛と肩などが大そう腫れるなどのことがあると、物を記憶する力が急になくなり、忍耐などできそうにもない。」
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「★一葉インデックス」をご参照下さい。
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2010年4月24日土曜日

根津 「はん亭」物語

過日、ブックオフのセールで森まゆみ「東京遺産」(岩波新書)という本を購入。
この本の中に、先に「湯島・根津・本郷・千駄木(4)」でご紹介した根津の串揚げ屋さん「はん亭」について書かれている個所があった。
以下、あらすじをご紹介。
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その前に・・・。
森まゆみさんという方の本は、別に「明治・大正を食べ歩く」(PHP新書)というのもまたブックオフのセールで購入し、東京街歩きの参考にさせて戴いている。
更に、今、私は樋口一葉にちょっとハマっており、評伝・日記などを読んでいる最中だが、森まゆみさんは、一葉に関する本も書かれている。
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「はん亭」
 

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「この建物は大正三年に建ったもの。三田の爪皮屋(ツマカワヤ)といえば鳴りひびいた商家であった。
雨や泥よけに下駄の鼻緒にかぶせる爪皮を商う店である。・・・「はん亭」の主人高須治雄さんに聞く。
「はじめてこの家を見たときは波板塀で囲った、どこかの運送会社の独身寮でした。そのころ上野仲通り、本牧事の裏で小さなカウンターの串揚げ屋「くし一」をやってたんですが、なんせ自宅が十条で遠いので、店の終わったあと帰るのがつらかった。
一目見てこの家に惚れたんですね。ブラブラ歩いているうちに根津まで来て、よくここに、こんな建物があるなあって。区役所で持主を調べ、もし売ることがあったら声をかけてくれ、と頼みました。三回くらい持主の所へいったですかね。向こうは最初物好きがいるもんだと、相手にしてくれなかったけど、そのうち会社の景気が悪くなったのか、売ってもいいという話になった。
その時あわてました。まだ中も見たことなかったし、土台や構造がどこまで持つかわからなかったし。芸大の建築科の友人に見てもらったところ、多少柱がゆがんでいるとか、二階で鉛筆をころがすとコロコロ程度のことはあるけど、基礎も柱もビクともしていない。あと数十年は持つって太鼓判でした。それで十条の家を手放して買ったわけです。おかげさまで、どうにか手に負える値段でした。
最初は自分で住んでました。両親含めて六人家族、いまどき便利な町中でこんな広い所に住めないよ、マンション買うよりいいでしょ、と説得して根津に引っ越した。住めるように手をいれるまでも大変でした。
運送会社の季節労働者用の寮ですから、中の荒れ果てようったらない。ベニヤで仕切って外はプラスチックの波板囲い。大工さんを紹介してもらったら、こりゃ金くい虫だぜ、いくらかかるかわかんねえといわれましたが、こっちは本物の部材で再生させたいって情熱があった。大工も一徹な人で、よし、わかった、といったらきかない。よくケンカもしましたが、とことん、手を抜きませんでしたね。
そのうち、上野の店の周りの環境が悪くなった。ピンクサロンや覗き部屋が客引きするので、うちのお客さまが道を歩きづらい。最初は、も少し静かな変わった所で食べたいというお客様を自宅でおもてなしするつもりでいましたが、お客さまがどの方も来たいとおっしゃる。それで上野の店は若い人にまかせ『くし一』より半歩でも前に進みたいと、ここに『はん亭』ののれんを上ザた。そのうち両親が相ついで亡くなったこともあって、家族は近くに家を借りて、ここは全面的に店になってしまいました」
・・・最初はその大テーブルとその上の二、三階だけだったが、徐々に店を拡張し、蔵やその外の部分も改装し、客席を増やした。茶房はん事も併設した。
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・・・
「こんな話、初めてするんですが、実は私は熊谷直彦という日本画家のひ孫なんですよ。この人は芸州浅野侯のお抱え絵師でした。奥女中を養女にしてその人が本郷の二原堂という大きな印刷屋、富谷といううちですが、そこに嫁に行って生れたのが私の母です。父の方は薩摩の出で、早稲田を出て国鉄へつとめてまして、戦時中、満州に汽車を走らせたりした技術者でした。
だから、あまりこういう商売とは関係ない。私は昭和五年生れで引揚げなんですよ。満州からソウル、プサンへとだんだん南下して、日本に引き揚げてからは親戚の家を転々としました。
映画の仕事をしたかったんで日大の芸術学部を出たんですが、母が内田吐夢監督の奥さんと友だちでね。聞いたら、映画なんて絶対やめろと。それでも映像の仕事がしたくって、NHKの試験放送のころ、フロアディレクターみたいなことをしてましたね。そのうち民放が始まり、電通に入ってテレビラジオ企画局ってところで、あのころ電気紙芝居なんていってましたが、ずいぶんテレビCMなんかつくりました。
CMの天才といわれた杉山登志なんかといっしょにやってた。結局、彼は〝夢がないのに夢のあるCMなんてつくれない〞といった名セリフを残して自殺しちゃったわけだけど、私はこの男はいつか死ぬんじゃないかなあ、と思ってましたよ、見てて。
そのころ銀座に『くしの坊』という串揚げ屋があって、そこの学生アルバイトと親しくなった。独立して銀座コリドー街の地下で『くし一』を始めたら当ってね。
うちは長女が難産でした。女房をお産で苦労させたから、次に男の子が生れたら、会社をやめて、僕もちがった人生をスタートさせるぞ、っていったんです。そしたら男の子が生れちゃいました。それで『くし一』の彼んとこに見習いに行って、仕事を覚えて上野に店を出したってわけです。」

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「★東京インデックス」をご参照下さい。
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東京遺産―保存から再生・活用へ― (岩波新書)
東京遺産―保存から再生・活用へ― (岩波新書)
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明治・大正を食べ歩く PHP新書
明治・大正を食べ歩く PHP新書

治承4(1180)年8月9日 佐々木定綱、大庭景親らの頼朝追討の動きを頼朝に伝える。 京都は荒果て、「月の光は隈無くて秋風のみぞ身にはしむ」

治承4(1180)年8月9日~16日
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8月9日
・渋谷重国の許に身を寄せている佐々木秀義は、大庭景親より平家の侍大将忠清の話を聞き、嫡男定綱を使者に出し頼朝に通報。
頼朝は、定綱が必ず戻るというの、渋谷重国に宛てて「頼りにしている」との手紙を持たせ返す。
しかし、約束の山木攻め前日(16日)になっても佐々木は参上しない。
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「近江の国の住人佐々木の源三秀義と云う者有り。
平治逆乱の時、左典厩の御方に候し、戦場に於いて兵略を竭す。
而るに武衛坐事の後、旧好を忘れ奉らずして、平家の権勢に諛わざるが故、相伝の地佐々木庄を得替するの間、子息等を相率い、秀衡(秀義姨母の夫なり)を恃み奥州に赴く。相模の国に至るの刻、渋谷庄司重国秀義が勇敢を感ずるの余り、これをして留置せしむの間、当国に住しすでに二十年を送りをはんぬ。この間、子息定綱・盛綱等に於いては、武衛の門下に候ずる所なり。
而るに今日、大庭の三郎景親秀義を招き談りて云く、景親在京の時、上総の介忠清(平家の侍)に対面するの際、忠清一封の書状を披き、景親に読み聴かせしむ。これ長田入道が状なり。
その詞に云く、北條の四郎・比企掃部の允等、前の武衛を大将軍と為し、叛逆の志を顕わさんと欲すてえり。
読み終わり、忠清云く、この事常篇に絶す。高倉宮御事の後、 諸国の源氏の安否を糺行すべきの由、沙汰の最中、この状到着す。定めて子細有らんか。早く相国禅閤に覧するべきの状なりと。
景親答えて云く、北條はすでに彼の縁者たるの間、その意を知らず。掃部の允は早世する者なりてえり。
景親これを聞きて以降、意潜かに周章す。貴客と年来芳約有るが故なり。仍って今またこれを漏脱す。賢息佐々木の太郎等、武衛の御方に候せられんか。尤も用意有るべき事なりと。
秀義心中驚騒の外他に無し。委細の談話に能わず、帰りをはんぬと。」(「吾妻鏡」9日条)。
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□「現代語訳吾妻鏡」。
「近江国の住人に佐々木源三秀義という者がいた。平治の乱の時に左典厩(義朝)の味方に参じ、戦場では兵略をつくして戦った。
そして武衛(頼朝)が縁坐で配流された後も昔からの誼を忘れず、平家の権勢にもおもねらなかった為、祖先からの相伝の地佐々木庄を取り上げられてしまったので、子息らと、秀義の母方の伯母の夫(藤原)秀衡を頼って奥州に向かった。
相模国まで来たところ、渋谷庄司重国が秀義の勇敢な行動に感心し、自分の所へ留め置いたので、相模国に住み着き、20年が経った。その間に、子の定綱・盛綱は頼朝に仕えるようになっていた。
そして、今日、大庭三郎景親が秀義を招いて次のように言った。
「私が在京していた時、平家の侍上総介(藤原)忠清と対面したところ、忠清が一通の書状を私に読んで聞かせた。それは長田入道の書状であった。
その書状には、北条四郎(時政)と比企掃部允が頼朝を大将軍として叛逆しようとしているとあった。
読み終わって忠清には、『これは尋常なことではない。高倉宮(以仁王)の事件があった後、諸国の源氏の動きを取り締まるように命令が出ている最中にこの書状が到着した。これはきっとなにかあるに違いない。早くこれを相国禅閤(清盛)にお見せしなければ』と言った。
私はこう答えた。『北条はすでに頼朝の縁者であるからその意図は知れません。比企掃部允はすでに亡くなっています』。
私はこの話を聞いてから以降、心中穏やかではなくなった。あなたとの年来の約束があるからだ。そこで今またこのことをあなたに密かに伝えるのだ。御子息の佐々木太郎(定綱)は頼朝の味方に参じているようだから、当然用意をしておくべきであろう」。
秀義は心中驚くのみで、細かな話をすることもできずに帰ったという。」
*
○渋谷重国(生没年未詳)。
秩父平氏の一族。相模国渋谷の開発領主として入部。渋谷氏を称し、領家円満院(園城寺門跡)から吉田庄の下司職を得る。佐々木義秀・大庭景親と縁戚関係を結び、所領を維持。
頼朝挙兵の報が景親を通して義秀からもたらされるが、頼朝に従う佐々木定網らを黙認し、石橋山合戦後も佐々木氏を庇護。
富士川合戦後、頼朝に帰順。
養和元(1181)年8月、子の高重の忠節により、渋谷下郷の知行を安堵され、御家人として従う。
元暦(1184)元年正月、義仲追討に従軍。
翌年2月、平家追討で芦屋浦に先登し、太宰少弐原田種直・子の賀摩種益らと戦う。この戦いで「かの輩攻め戦ふといヘビも、重国がために射られおはんぬ」(「吾妻鏡」元暦2年2月1日条)と戦功を挙げるが、子の重資の自由任官で恩賞から外れる。
その後、鎌倉の留守居役を預かり、また大庭周辺の牧を管理し、伝馬を提供するなど幕府の公事を勤める。
文治5年(1189)11月、大庭野の巻狩に出向いた頼朝を館に迎える。
建久3年(1192)12月、頼朝の認可で吉田庄は地頭請所となり、領家への年貢は幕府政所の管理とされ、地頭として所領支配を行なう。
後に「吾妻鏡」編纂の頃から吉田庄は「渋谷庄」とも称される。
*
8月10日
 「秀義、嫡男佐々木の太郎定綱(近年宇都宮に在り。この間渋谷に来たる)を以て、昨日景親が談る所の趣、武衛に申し送ると。」(「吾妻鏡」10日条)。
*
□「現代語訳吾妻鏡」。
「(佐々木)秀義が嫡男の佐々木太郎定綱(近年宇津宮にいて、最近渋谷に来ていた)を使者として、昨日(大庭)景親が話した内容を武衛(頼朝)に伝えたという。」
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8月10日過ぎ
・荒れ果てた京へと帰って来た大納言藤原実定、近衛河原の妹・太皇太后多子の御所を訪問。「平家物語」「月見」の章の始まり。
実定「旧き都をきてみれば浅茅が原とぞあれにける 月の光は隈無くて秋風のみぞ身にはしむ」。
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8月11日
「定綱、父秀義の使いとして北條に参着す。
景親の申状、具に以て上啓するの処、仰せに云く、この事四月以来、丹府動中のものなり。仍って近日素意を表わさんと欲するの間、召しに遣わすべきの処参上す。尤も優賞有るべし。兼ねてまた秀義最前に告げ申す。太だ以て神妙と。」(「吾妻鏡」11日条)。
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□「現代語訳吾妻鏡」。
「辛卯。(佐々木)定綱が父秀義の使者として北条に到着した。
(大庭)景親の話した内容を詳しく申し上げたところ、(頼朝は)仰った。「このことは、四月以来心中に熟慮していたことだ。そこで、近いうちに真意を伝えるために呼び寄せようとしたところに参上してきた。当然賞賛されることである。また秀義が真っ先に知らせてきたことはまことに結構なことである」。」
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8月12日
「兼隆を征せらるべき事、来十七日を以てその期に定めらる。而るに殊に岡崎の四郎義實・同輿一義忠を恃み思し食さるるの間、十七日以前、土肥の次郎實平を相伴い参向すべきの由、今日義實が許に仰せ遣わさると。」(「吾妻鏡」12日条)。
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□「現代語訳吾妻鏡」。
「(山木)兼隆を討つ事は、来る十七日をその決行日と定められた。そこで、特に岡崎四郎義実・同与一義忠を頼りに思い、十七日以前に、土肥次郎実平と共に参上するよう、今日義美のもとに命を伝えられたという。」
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○義忠(1148久安4~1180治承4):
岡崎義実の男。母は中村宗平の女。岡崎与(余)一・佐奈田余一と称される。
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8月12日
・この度の福原行幸は「遷都」か「遷幸」か(福原は「新都」か「離宮」か)、福原での議論(「山槐記」8月12日条)。
8月上旬頃には落着。
福原は離宮として営む、従って八省大内を造るには及ばない、大小の路は便宜開き、しかるべき卿相侍臣を選んで宅地をあてる、大嘗会は延引。
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同日
・福原で、古京(京都)へ還るべき議がもち上がり、隆李と時忠とが相談して清盛にこれを伝える。
、清盛は、「尤も然るべし、但し老法師(清盛)においては御共に参るべからず(結構なことだ。しかしこの老法師はご一緒しません)」と言う。人々は興ざめし、その後還都のことは言わなくなった、とある。(「玉葉」8月12日)。
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8月13日
「定綱明暁帰りをはんぬべきの由を申す。
武衛これを留めしめ給うと雖も、甲冑等を相具し、参上すべきことを称す。仍って身の暇を賜う。
仰せに曰く、兼隆を誅せしめ、義兵の始めに備えんと欲す、来十六日必ず帰参すべしてえり。また定綱に付け、御書を渋谷庄司重国に遣わさる。これ則ち恃み思し食さるるの趣なり。」(「吾妻鏡」13日条)。
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□「現代語訳吾妻鏡」。
「(佐々木)定綱は明朝に帰るつもりであると申したので、武衛(頼朝)は引き留めたが、甲胃を着けて参上するという。そこで帰国を認め、「兼隆を誅して挙兵の始めとしたい。来る十六日には必ず戻ってくるように」と命じる。また、定綱に託して、手紙を渋谷庄司重国に送る。それは、重国を頼りに思っているという内容であった。」
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8月16日
「佐々木兄弟今日参着すべきの由、仰せ含めらるるの処、不参して暮れをはんぬ。
いよいよ人数無きの間、明暁兼隆を誅せらるべき事、聊か御猶予有り。
十八日は、御幼稚の当初より、正観音像を安置し奉り、放生の事を専らせられ、多年を歴るなり。今更これを犯し難し。十九日は、露顕その疑い有るべからず。
而るに渋谷庄司重国当時恩の為平家に仕う。佐々木と渋谷とまた同意の者なり。一旦の志に感じ、左右無く密事を彼の輩に仰せ含めらるるの條、今日不参に依って、頻りに後悔し、御心中を労わしめ給うと。」(「吾妻鏡」16日条)。
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□「現代語訳吾妻鏡」。
「・・・佐々木兄弟には今日参着せよと命じていたのが、参上しないまま日が暮れた。
人数がまことに少ないので、明朝に(山木)兼隆を討つことを延期しようかと躊躇う。
十八日は、幼少の頃からずっと正観音を安置して殺生を止めているので、今となってこれに反するようなことはできない。十九日では、事が露顕してしまうことは疑いない。
そして渋谷重国は平家に恩があって仕えており、佐々木は渋谷に同心するであろう。一旦の志に感じて深く考えずに密事を彼らに伝えたが、今日彼らが参上しなかったのでとても後悔し、ご心中を悩ませていたという。」
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本能寺の変(9) 天正10年(1582)6月2日 織田信忠、二条御所で奮戦す。 黒人の従者弥介、本能寺から駆け付ける。

天正10年(1582)6月2日
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織田信忠(26)は、一旦は二条妙覚寺(本能寺の北北東約600m)を出て本能寺に向かうが、途中で京都所司代村井貞勝と出会う。
貞勝は、「本能寺は早落去仕り御殿も焼落ち侯」と報告し、明智勢が此方へも攻め懸けるのは必至であり、「二条新御所は御構よく侯、御楯寵り然るべし」(「信長公記」)と進言。
信忠はこれに従い下御所(二条御所:妙覚寺東約200m)に移る。
安土への逃亡を勧める家臣に、信忠は、「か様の謀反によものがし侯はじ。雑兵の手にかゝり侯ては後難無念なり。爰(ココ)にて腹を切るべし」(「信長公記」)と決断。
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やがて町屋に宿泊していた馬廻衆が合流。
小沢六郎三郎は、宿泊先の亭主が「隠し置き扶(タスケ)申すべく侯」と説得するが、それを振り切って二条御所に駆け込む(「信長公記」)。
しかし、兵力は500程度で、甲冑・武器も不足。
「事件があまりにも急であったので、彼(信忠)も彼に従った者も腰の大小の刀以外には何ものも携えておらず、同所(二条御所)は武器など使用することがない内裏の世子の邸であったから、武器などあろうはずがなく」(フロイス「日本史」)という状況。
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戦闘前に誠仁親王一家が御所を退去して内裏に移る。
また、信忠側近の前田玄以は子の三法師(後の秀信、3歳)の保護を命じられ脱出(玄以は尾張の小松寺(小牧市)の住職、妻は村井貞勝の娘)。
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午前7時、戦闘開始。
信忠主従は大手門を開いて斬り込み、明智勢を三度まで撃退。
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「各(オノオノ)切て出で々々、伐(キリ)殺しきりころされ、我劣らじと相戦ひ、互に知知らるゝ中の働きなれば、切先より火焔をふらし、誠に張良(チョウリョウ)が才を振ひ、燓噲(ハンカイ)が勢にも劣るべからず」(「信長公記」)という。
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明智軍は、重臣の明智次右衛門が重傷を負い、明智孫十郎など名のある武者が討死する苦戦。
本能寺の戦闘は僅かな時間で決着がつき、明智方兵士、標的が信長であることに気付かなかったが、二条御所では、相手が信忠であると知り、将兵が怯み、幹部が先頭に立って戦わざるを得なかったという事情もあると考えられる。
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攻めあぐねた明智方は、二条御所北側に隣接する近衛前久邸の屋根に弓・鉄砲衆を昇らせて狙撃を開始。
飛び道具を持たない信忠勢はこれに対抗できず撃ち倒される。
もはやこれまでと見た信忠は、縁の下に自分の遺体を隠すように命じて鎌田新介の介錯により切腹。焼け落ちる御殿と共に信忠の遺体は灰となり、父同様に明智の手には渡らない。
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信忠の弟勝長(信長の5男)、村井貞勝親子3名、金森長近の嫡男忠次郎長則、菅屋長頼、猪子兵介、野々村三十郎(正成)、福富平左衛門(長篠の鉄砲隊)、毛利新介(桶狭間で義元を討つ)、団平八、斎藤新五郎(斎藤道三の庶子、美濃加治田城主)、討死。
鎌田新介は井戸に身を潜めて生延びる。
織田長益(ナガマス)は二条御所を脱出。
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■二条御所:
妙覚寺の東200m。天正4年(1576)信長宿所(「二条御新造」)として造営築かれ、天正7年11月、これを大改修して誠仁親王に献上される。以来、誠仁親王は5人の子供とここに住む。
信長の警護のために建設されているので、二重の堀や高石垣・矢倉を備え、妙覚寺よりも防御施設が充実している。
村井貞勝の説得により、御所内の誠仁親王、「若宮様・二宮様・五宮様・ひめ宮様・御あ茶々局、其外女房衆、公家衆」らは避難。
親王は連歌師里村紹巴が新在家から用意してきた荷輿に乗り、駆けつけてきた公家衆に守られ無事に内裏に移る。
正親町中納言季秀は、親王に従わず後に残り、明智軍に二ヶ所を傷をつけられる(「日々記」「兼見卿記」)。
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■織田勝長:
幼名坊丸。岩村城主遠山家の養子となるが、元亀3年に岩村城が武田氏に寝返った際に身柄を武田家に引き渡され、人質として留め置かれる。
天正9年11月、勝長は和平を求める外交シグナルとして無条件で織田方に返還される。しかし信長はそれを黙殺し、信忠が武田家を殲滅。
信長は、勝長をすぐに元服させ、勝長を名乗らせ、重臣池田恒興の娘と結婚させ、交通の要地犬山城を与える。
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■織田長益:
信長の13歳年下の弟。奮戦する信忠たちに明智方の視線が集まっている隙に二条御所を脱出。
この行為に、「織田の源五(長益の通称)は人ではないよ お腹召せ召せ 召させておいて われは安土へ逃げるは源五 むつき(六月)二日に大水出て おた(織田)の原なる名を流す」と、京童に唄われる。
その後、長益は信雄(信長の次男)にすり寄り、豊臣政権下で信雄が没落すると、淀殿に接近し、1万5千石の大名の地位を手に入れる。
関ヶ原合戦では東軍に与し3万石に加増され、大坂冬の陣では豊臣方幹部となるが、徳川方に情報を流し、豊臣家滅亡後も大名として存続する。
有楽斎と号し、利休七哲の1人に数えられる高名な茶人。
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■猪子兵介:
元は斎藤道三の家臣。道三と信長との尾張富田の聖徳寺での会見にも出席。
信長側近としても活躍し、信長が斎藤内蔵助処分を命じた際、執り成したという(「稲葉家譜」)。
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■野々村三十郎と福富平左衛門:
長篠の戦いで前田利家、佐々成政、塙直政と共に信長の鉄砲隊を指揮。
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■従者弥介(黒人):
弥介は本能寺に宿泊しており、事件が起こると二条御所に駆けつけ異変を知らせる。
「ビジタドールが信長に贈った黒奴が、信長の死後世子の邸に赴き、相当長い間戦ってゐたところ、明智の家臣が彼に近づいて、恐るることなくその刀を差出せと言ったのでこれを渡した。家臣はこの黒奴をいかに処分すべきか明智に尋ねたところ、黒奴は動物で何も知らず、また日本人でない故これを殺さず、インドのバードレの聖堂に置けと言った。これによって我等は少しく安心した」(「1982年の日本年報追加」「イエズス会日本年報」)。
しかし、フロイス「日本史」にはこの記事はない。
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信長は芸がで、き片言の日本語を話すこの黒人を気にいり、甲州征伐にも連れて行く。
その時、目撃した家康家臣松平家忠は、「身ハすミのコトク、タケハ六尺二分、名ハ弥介」と記す(「家忠日記」)。
「信長公記」は、「年の齢廿六・七と見えたり。惣の身の黒き事牛のごとく。彼男すくやかに器量なり。しかも強力十の人に勝たり」と記す。
フロイスが1581年4月14日(天正9年3月11日)付でイエズス会本部に送った年報(「イエズス会日本年報」)によれば、天正9年(1581)2月23日、イエズス会宣教師バリニャーニが黒人を連れて本能寺に信長を訪ねた。都で宣教師一行に黒人がいることが評判となっており、見物する者が町に溢れ負傷者や死人が出るほどの騒ぎとなる。
信長は、黒人と対面、初めて見る黒人の膚を信用せず、帯から上の衣服を脱がせ洗わせたという。
同じ頃、宣教師ロレンソ・メシヤが記した書簡には、「バードレは黒奴一人を同伴してみたが、都においてはかつて見たることなき故、諸人皆驚き、これを観んとして来た人は無数であった。信長自身もこれを観て驚き、生来の黒人で、墨を塗ったものでないことを容易に信ぜず、縷々これを観、少しく日本語を解したので、彼と話して飽くことなく、また彼が力強く、少しの芸ができたので、信長は大いに喜んでこれを庇護し、人を附けて市内を巡らせた。彼を殿とするであろうと言う者もある」と伝える(「イエズス会日本年報」)。
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「★信長インデックス」をご参照下さい。
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2010年4月22日木曜日

江戸城本丸跡 遅咲きの桜 カンザン(関山)満開 アズマニシキ(東錦) アマノガワ(天の川) イチヨウ(一葉) ウコン(鬱金) ギョイコウ(御衣黄) ショウワザクラ(昭和桜) センリコウ(千里香) ヒメリンゴ フゲンゾウ(普賢象)

今日(4月22日)は、最高気温が9℃という寒さ。おまけに朝から雨。
昨日に比べて16℃程度低いらしい。
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以下は、好天だった昨日の江戸城本丸跡、遅咲きの桜の状況です。
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カンザン(関山)は満開。





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アズマニシキ(東錦)
右側に見えるのはカンザン
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アマノガワ(天の川)
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イチヨウ(一葉)
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ウコン(鬱金)
残念ながら、少し遅かった。
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ギョイコウ(御衣黄)
これは、かなり遅かった。
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ショウワザクラ(昭和桜)
これは辛うじて残っていたもの
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センリコウ(千里香)
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ヒメリンゴ
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フゲンゾウ(普賢象)
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