2009年2月28日土曜日
昭和13(1938)年1月 南京は終らない 郭沫若と夏衍
昭和13(1938)年1月1日
*
・郭沫若の手配により、この日、広州で「救亡日報」復活。編集長は夏衍(劇作家、のち文化部副部長)。郭沫若は、6日、立群と共に広州から武漢に向う。9日武漢着。
*
[郭沫若のこれまでの経緯]
□東京~上海(滞在4ヶ月)
前年1937年7月25日、千葉県市川の寓居を出て、27日上海着。10年近い日本亡命生活。
虚構橋事変後、帰国の決意を固める。妻の安娜(アンナ)=佐藤をとみは、脱出は結構だ、ただ郭がぐらつき易い性格であることだけが心配だ、郭さえりっぱなな生き方をしてくれれば、たとえ面倒が起こってもじっと耐えよう、と言ったという。
上海には、福建省参議の郁達夫(イクタツブ)が福州からかけつけ、国民政府行政院政務処長何廉(カレン)も南京から迎えに出ている。数日間ホテル住まい後の8月1日、フランス租界高乃依(コウダイイ)路(現皋蘭コウラン路)のチェコ人経営のアパートに移る。
14日、国民政府は「自衛宣言」を発し全面抗戦決意を表明。
22日、国共両党合意の下、工農紅軍は国民革命軍第8路軍(第18集団軍)に改編、9月22日、中国共産党が2ヶ月前に発表し「国共合作宣言」を国営通信社の中央社が公表、翌日蒋介石がこれを受け入れ、共産党の合法的地位を承認する談話を発表するという形で、第2次国共合作が成立。
上海にも第18集団軍上海辧事処が設置され、投獄されていた共産党員たちも釈放され上海に戻って来る。上海辧事処主任潘漢年の方針で、ある者は延安に送られ、ある者は上海で救亡活物(民族の滅亡を救うの意。この頃、左派は「救国」という語を嫌う)を続ける。
*
8月中旬、郭沫若・潘漢年・夏衍が国民党代表潘公展を訪ね、国共双方が500元ずつ出し、編集長も双方が1人ずつ出して、上海文化界救亡協会機関紙とすることに合意し、24日、郭沫若を社長とするタブロイド判「救亡日報」創刊。
編集長には共産党側から夏衍、国民党側から樊(ハン)仲雲が就任するが、樊は毎晩一度顔を出す程度で、実際上の編集長は夏衍。樊仲雲の下の編集部主任汪馥泉は毎日出社する交通費から茶・タバコ等まで要求し、夏衍は特別にその要求に応じる。他の10人前後の社員は、給料・原稿料もとらず、交通費も自弁。
宋慶齢・何香凝・鄒韜奮・胡愈之・鄭振鐸等の上海の知識人たちは進んで寄稿してくれる。蒋介石直系将軍陳誠は、200部を買い上げ、前線部隊に配り、また陳誠の要請で、上海の文学者・演劇人たちは、「戦地服務団」を組織し、3班に分かれて前線に行き、慰問・宣伝を行う。更に、租界内に逃げ込んでくる難民救済も大きな仕事であった。
郭は、この頃上海で難民救済活動をしていた于立群(ウリツグン)と知り合い、のちに結婚し、4男2女をもうける。日本に残った安娜=佐藤をとみが郭と再会するのは、1948年、香港。
*
11月12日、日本軍が租界を除く上海全域を制圧するが、「救亡日報」は発行継続。その後の22日、「上海が中華の手にもどる日、それが本紙が諸君に再びまみえる日である」とする社説を掲げ停刊。
*
11月27日朝、郭は上海を出航、香港に向かう。船の近くには上海派遣艦隊の旗艦「出雲」が停泊。開戦以来、中国側の飛行機の爆撃目標にもなり、逆にこの艦などからの艦砲射撃が何度か上海を揺るがしていた。郭沫若らが乗ったランチがフランス船に近づくと、「出雲」の近くから水上機が一機飛び立ち、威嚇するかのように低空でランチの上を3回旋回。
夏衍・潘漢年も約1ヶ月後、フランス船「ヴァンティ伯爵号」の2等船室に乗って香港に向かう。「救亡日報」は、この後広州・桂林と場所を変えながら、1941年3月に桂林版が国民党の圧迫のため停刊するまで、断続的に発行を続ける。
*
□上海~香港~広州まで。郭沫若「抗日戦回想録」より
郭沫若:前年1937年7月27日、日本~上海着、4ヶ月滞在し、11月27日早朝、仏船で上海を離れ香港に向う。廖仲愷未亡人(廖承志の母)、鄒韜奮(スウトウフン、抗日七君子の1人)らも同じ船。
「あるものは革命の聖地-延安へ行き、あるものは大後方へ移ってひきつづき活動をつづけた。後者は演劇界の友人たちが十の救亡演劇隊を作ったように、集団行動をとって、それぞれ後方へ出発したが、中には個人的行動をとったものもあって、私はその一人であった。」(周揚はこの時延安に行く)。
「南京政府の抗戦態度は、・・・。軍事方面では迫られて武器をとったものの、政治方面ではその都度主義で日を送り、姿勢を変える誠意は少しもなかった。とりわけ民衆動員については、全然手をつけなかった。「抗敵後援委員会」はいたるところに作られたが、口実をもうけて金を集めるだけで何もしなかった。」
*
香港で偶然友人(林林、姚潜修、葉文律、郁風(画家、郁達夫の姪)、干立群(のち郭の妻)ら)に出会う。彼らは、上海フランス租界の国際難民収容所で働いていた人で、郭と立群とは、共に何度も前線の抗戦将兵の慰問に出かけている。
立群は「大公報」日本特派記者于立沈の妹で、原籍は広西省賀県だが、2人共北平で育つ。彼らの家庭は没落官僚の家で、立沈は貧と病のた盧溝橋の4ヶ月前、上海に帰りまもなく自殺。郭は7月上海に戻った時初めて20歳を少し出た年齢の立群と知り合う。郭は立群に延安地区へ勉強に行くよう勧め、彼女はそれを受け入れ、郭より早く上海を離れていた。
*
「香港の救亡活動は当時でも相当緊張していて、公開の歓迎会、講演会などがほとんど連日行われていた。」。しかし、郭は、広州で「救亡日報」を復活するため、1週間後、林林、潜修、文律、郁風、立群らと広州に向う。
「さすが石と化した広州でも、抗戦の大暴風を経て、かすかながら生命の脈縛が鼓勤しはじめている。時々敵機の空襲があった。市街にはたまに虎の皮のように儀装した装甲砲車が出動し、防空施設もお粗末ながら各所に出来ていた。軍隊の中にも政治工作が回復しはじめ、所によっては短期訓練禁開かれ、泥縄式に宣伝人員を訓練していた。少なくとも抗戦のための宣伝なら禁を犯したことにならないのだ。
私は、こうした情況の下で、何度か歓迎会、講演会に出席し、また政府側の訓練班に頼まれて講演した。広州の放送局にも頼まれて、「民衆動員の必要」という題で放送もした。全くこれが核心的な問題だったのだ。だが、この核心は上海、南京におけると同様、人々から重視されていなかった。民衆が動こうとしないのではなく、当局が民衆を恐れ、民衆が動くのを恐れていたのであった。それでどうして抗戦ができよう。どうして抗戟に前途があろう。」
*
「だが、実に意外なことに、少しも希望のないところで、またも希望が生まれてきた。・・・余漢謀(広東の軍司令官)は私を彼の司令部に引見した。彼は私が口を開く前に、『救亡日報』の発行を支持したい、毎月一千元出そう、早速十二月から始めれば開設費にあてることができて多少とも融通がきくだろうといってくれた。
彼がこうした「気前」を見せたのは私にも理解された。彼は蒋介石の直系でないので、人気とりに二股膏薬をはっていたのだ」。
「『救亡日報』の復刊の目鼻がつき、友人たちの活動の持場もきまった。林林、潜修、文律、郁風らはしばらく広州に留まって編集をたすけてくれることになった。同時に上海へ電報を打って編集長として夏衍(劇作家、のちの文化部副部長)に急いで来てもらうことにした。」
*
「突如、元旦に、私は一通の武漢からの電報を受け取った。内容はしごく簡単で「御相談したき用件あり、直ちにおいでを乞う、陳誠」とあるだけだ。上海、南京が陥ちてから、軍事と政治の中心は、すでに武漢に移っていて、陳誠〔のちの国府行政院長〕はそこの警備司令をしていることは、知っていた。・・・
・・・八路軍はすでに漠口に事務所を設け、周恩来、董必武、葉剣英、鄧頴超らも出て来ている。長いこと別れていたので、彼らにも会いたかった。
こうなると、立群をつれて行かねばならない。」
「夏術は五日に着いた。・・・引継ぎはすっかりかたづいて、『救亡日報』は元旦に正式に復刊し、長寿東路に社屋を設定した。広州に残した任務が一段落したので、私は出発できることになった。
六日の夜、私たちは粤漢(エツカン)線〔広州~漢口〕の汽車に乗って、黄沙駅から出発した。私と立群、それに蘇という青年が同行した。」
*
○夏衍
1900年浙江省杭州生まれ。浙江省立甲等工業学校在学中、同志と共に半月刊「双十」創刊。
26年(大正15年)明治専門学校電気工学科(福岡)を卒業(4年3ヶ月在学)し、九大工学部に入学。学校には余り行かず、国民党左派の一員として、東京はじめ各地で活動。
1927年「4・12クーデタ」直後帰国。杭州の工業学校時代の友人がやっている上海・虹口・東有恒路一号にある紹敦電気公司という電気器具店に転げ込むが、この店は、上海に戻った「流亡人士」たちの集合場所になり、のちには中国共産党閘北区委員会の連絡所になる。5月末頃中国共産党に入党、閘北区第3街道支部に属す。
29年陶晶孫らと芸術社劇を組織し、機関紙「芸術月刊」を編集。同年馮乃超と共に、中国共産党江蘇省委員会から派遣されて、魯迅と左翼作家聯盟結成について協議。
翌30年、同聯盟発足の中心的役割を果たし、28年頃から展開されている魯迅と革命文学派の革命文学論争に決着をつける。
一方、ゴ-リキ-、平林たい子らの作品を翻訳し、「賽金花」「自由魂」「上海屋檐下」などを発表、「中国のチエ-ホフ」と呼ばれる。
1937年、上海において、郭沫若らと「救亡日報」を主宰。その後、桂林から香港に脱出。その後、西南における進歩の拠点となった桂林を中心に人民の啓蒙運動に活躍。
革命後、全人代上海市代表、全人代山東省代表等を手始めに、対外文化協会副会長、中国文学芸術界連合会全国委副主席、アジア・アフリカ作家会議中国代表団副団長、ガネフォ中国準備委員、中日友好協会理事等を歴任して、政治、文化の両面にわたって活躍。
文革中の1966年10月、1925年時点での、魯迅と北京師範大学在学の許広平との往復書簡「両地書」において、許広平が「反動的国防文学」と決めつけている事により失脚。
1978年、中日友好協会副会長として復活し、79年12月魯迅研究会顧問となる。これより先11月には中国電影家協会主席となる。80年、鑑眞大師像帰国巡回展委員会委員。同年9月に中日友好協会代表団長として日中友好協会成立30周年慶祝大会出席のため来日。
to be continued
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・郭沫若の手配により、この日、広州で「救亡日報」復活。編集長は夏衍(劇作家、のち文化部副部長)。郭沫若は、6日、立群と共に広州から武漢に向う。9日武漢着。
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[郭沫若のこれまでの経緯]
□東京~上海(滞在4ヶ月)
前年1937年7月25日、千葉県市川の寓居を出て、27日上海着。10年近い日本亡命生活。
虚構橋事変後、帰国の決意を固める。妻の安娜(アンナ)=佐藤をとみは、脱出は結構だ、ただ郭がぐらつき易い性格であることだけが心配だ、郭さえりっぱなな生き方をしてくれれば、たとえ面倒が起こってもじっと耐えよう、と言ったという。
上海には、福建省参議の郁達夫(イクタツブ)が福州からかけつけ、国民政府行政院政務処長何廉(カレン)も南京から迎えに出ている。数日間ホテル住まい後の8月1日、フランス租界高乃依(コウダイイ)路(現皋蘭コウラン路)のチェコ人経営のアパートに移る。
14日、国民政府は「自衛宣言」を発し全面抗戦決意を表明。
22日、国共両党合意の下、工農紅軍は国民革命軍第8路軍(第18集団軍)に改編、9月22日、中国共産党が2ヶ月前に発表し「国共合作宣言」を国営通信社の中央社が公表、翌日蒋介石がこれを受け入れ、共産党の合法的地位を承認する談話を発表するという形で、第2次国共合作が成立。
上海にも第18集団軍上海辧事処が設置され、投獄されていた共産党員たちも釈放され上海に戻って来る。上海辧事処主任潘漢年の方針で、ある者は延安に送られ、ある者は上海で救亡活物(民族の滅亡を救うの意。この頃、左派は「救国」という語を嫌う)を続ける。
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8月中旬、郭沫若・潘漢年・夏衍が国民党代表潘公展を訪ね、国共双方が500元ずつ出し、編集長も双方が1人ずつ出して、上海文化界救亡協会機関紙とすることに合意し、24日、郭沫若を社長とするタブロイド判「救亡日報」創刊。
編集長には共産党側から夏衍、国民党側から樊(ハン)仲雲が就任するが、樊は毎晩一度顔を出す程度で、実際上の編集長は夏衍。樊仲雲の下の編集部主任汪馥泉は毎日出社する交通費から茶・タバコ等まで要求し、夏衍は特別にその要求に応じる。他の10人前後の社員は、給料・原稿料もとらず、交通費も自弁。
宋慶齢・何香凝・鄒韜奮・胡愈之・鄭振鐸等の上海の知識人たちは進んで寄稿してくれる。蒋介石直系将軍陳誠は、200部を買い上げ、前線部隊に配り、また陳誠の要請で、上海の文学者・演劇人たちは、「戦地服務団」を組織し、3班に分かれて前線に行き、慰問・宣伝を行う。更に、租界内に逃げ込んでくる難民救済も大きな仕事であった。
郭は、この頃上海で難民救済活動をしていた于立群(ウリツグン)と知り合い、のちに結婚し、4男2女をもうける。日本に残った安娜=佐藤をとみが郭と再会するのは、1948年、香港。
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11月12日、日本軍が租界を除く上海全域を制圧するが、「救亡日報」は発行継続。その後の22日、「上海が中華の手にもどる日、それが本紙が諸君に再びまみえる日である」とする社説を掲げ停刊。
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11月27日朝、郭は上海を出航、香港に向かう。船の近くには上海派遣艦隊の旗艦「出雲」が停泊。開戦以来、中国側の飛行機の爆撃目標にもなり、逆にこの艦などからの艦砲射撃が何度か上海を揺るがしていた。郭沫若らが乗ったランチがフランス船に近づくと、「出雲」の近くから水上機が一機飛び立ち、威嚇するかのように低空でランチの上を3回旋回。
夏衍・潘漢年も約1ヶ月後、フランス船「ヴァンティ伯爵号」の2等船室に乗って香港に向かう。「救亡日報」は、この後広州・桂林と場所を変えながら、1941年3月に桂林版が国民党の圧迫のため停刊するまで、断続的に発行を続ける。
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□上海~香港~広州まで。郭沫若「抗日戦回想録」より
郭沫若:前年1937年7月27日、日本~上海着、4ヶ月滞在し、11月27日早朝、仏船で上海を離れ香港に向う。廖仲愷未亡人(廖承志の母)、鄒韜奮(スウトウフン、抗日七君子の1人)らも同じ船。
「あるものは革命の聖地-延安へ行き、あるものは大後方へ移ってひきつづき活動をつづけた。後者は演劇界の友人たちが十の救亡演劇隊を作ったように、集団行動をとって、それぞれ後方へ出発したが、中には個人的行動をとったものもあって、私はその一人であった。」(周揚はこの時延安に行く)。
「南京政府の抗戦態度は、・・・。軍事方面では迫られて武器をとったものの、政治方面ではその都度主義で日を送り、姿勢を変える誠意は少しもなかった。とりわけ民衆動員については、全然手をつけなかった。「抗敵後援委員会」はいたるところに作られたが、口実をもうけて金を集めるだけで何もしなかった。」
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香港で偶然友人(林林、姚潜修、葉文律、郁風(画家、郁達夫の姪)、干立群(のち郭の妻)ら)に出会う。彼らは、上海フランス租界の国際難民収容所で働いていた人で、郭と立群とは、共に何度も前線の抗戦将兵の慰問に出かけている。
立群は「大公報」日本特派記者于立沈の妹で、原籍は広西省賀県だが、2人共北平で育つ。彼らの家庭は没落官僚の家で、立沈は貧と病のた盧溝橋の4ヶ月前、上海に帰りまもなく自殺。郭は7月上海に戻った時初めて20歳を少し出た年齢の立群と知り合う。郭は立群に延安地区へ勉強に行くよう勧め、彼女はそれを受け入れ、郭より早く上海を離れていた。
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「香港の救亡活動は当時でも相当緊張していて、公開の歓迎会、講演会などがほとんど連日行われていた。」。しかし、郭は、広州で「救亡日報」を復活するため、1週間後、林林、潜修、文律、郁風、立群らと広州に向う。
「さすが石と化した広州でも、抗戦の大暴風を経て、かすかながら生命の脈縛が鼓勤しはじめている。時々敵機の空襲があった。市街にはたまに虎の皮のように儀装した装甲砲車が出動し、防空施設もお粗末ながら各所に出来ていた。軍隊の中にも政治工作が回復しはじめ、所によっては短期訓練禁開かれ、泥縄式に宣伝人員を訓練していた。少なくとも抗戦のための宣伝なら禁を犯したことにならないのだ。
私は、こうした情況の下で、何度か歓迎会、講演会に出席し、また政府側の訓練班に頼まれて講演した。広州の放送局にも頼まれて、「民衆動員の必要」という題で放送もした。全くこれが核心的な問題だったのだ。だが、この核心は上海、南京におけると同様、人々から重視されていなかった。民衆が動こうとしないのではなく、当局が民衆を恐れ、民衆が動くのを恐れていたのであった。それでどうして抗戦ができよう。どうして抗戟に前途があろう。」
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「だが、実に意外なことに、少しも希望のないところで、またも希望が生まれてきた。・・・余漢謀(広東の軍司令官)は私を彼の司令部に引見した。彼は私が口を開く前に、『救亡日報』の発行を支持したい、毎月一千元出そう、早速十二月から始めれば開設費にあてることができて多少とも融通がきくだろうといってくれた。
彼がこうした「気前」を見せたのは私にも理解された。彼は蒋介石の直系でないので、人気とりに二股膏薬をはっていたのだ」。
「『救亡日報』の復刊の目鼻がつき、友人たちの活動の持場もきまった。林林、潜修、文律、郁風らはしばらく広州に留まって編集をたすけてくれることになった。同時に上海へ電報を打って編集長として夏衍(劇作家、のちの文化部副部長)に急いで来てもらうことにした。」
*
「突如、元旦に、私は一通の武漢からの電報を受け取った。内容はしごく簡単で「御相談したき用件あり、直ちにおいでを乞う、陳誠」とあるだけだ。上海、南京が陥ちてから、軍事と政治の中心は、すでに武漢に移っていて、陳誠〔のちの国府行政院長〕はそこの警備司令をしていることは、知っていた。・・・
・・・八路軍はすでに漠口に事務所を設け、周恩来、董必武、葉剣英、鄧頴超らも出て来ている。長いこと別れていたので、彼らにも会いたかった。
こうなると、立群をつれて行かねばならない。」
「夏術は五日に着いた。・・・引継ぎはすっかりかたづいて、『救亡日報』は元旦に正式に復刊し、長寿東路に社屋を設定した。広州に残した任務が一段落したので、私は出発できることになった。
六日の夜、私たちは粤漢(エツカン)線〔広州~漢口〕の汽車に乗って、黄沙駅から出発した。私と立群、それに蘇という青年が同行した。」
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○夏衍
1900年浙江省杭州生まれ。浙江省立甲等工業学校在学中、同志と共に半月刊「双十」創刊。
26年(大正15年)明治専門学校電気工学科(福岡)を卒業(4年3ヶ月在学)し、九大工学部に入学。学校には余り行かず、国民党左派の一員として、東京はじめ各地で活動。
1927年「4・12クーデタ」直後帰国。杭州の工業学校時代の友人がやっている上海・虹口・東有恒路一号にある紹敦電気公司という電気器具店に転げ込むが、この店は、上海に戻った「流亡人士」たちの集合場所になり、のちには中国共産党閘北区委員会の連絡所になる。5月末頃中国共産党に入党、閘北区第3街道支部に属す。
29年陶晶孫らと芸術社劇を組織し、機関紙「芸術月刊」を編集。同年馮乃超と共に、中国共産党江蘇省委員会から派遣されて、魯迅と左翼作家聯盟結成について協議。
翌30年、同聯盟発足の中心的役割を果たし、28年頃から展開されている魯迅と革命文学派の革命文学論争に決着をつける。
一方、ゴ-リキ-、平林たい子らの作品を翻訳し、「賽金花」「自由魂」「上海屋檐下」などを発表、「中国のチエ-ホフ」と呼ばれる。
1937年、上海において、郭沫若らと「救亡日報」を主宰。その後、桂林から香港に脱出。その後、西南における進歩の拠点となった桂林を中心に人民の啓蒙運動に活躍。
革命後、全人代上海市代表、全人代山東省代表等を手始めに、対外文化協会副会長、中国文学芸術界連合会全国委副主席、アジア・アフリカ作家会議中国代表団副団長、ガネフォ中国準備委員、中日友好協会理事等を歴任して、政治、文化の両面にわたって活躍。
文革中の1966年10月、1925年時点での、魯迅と北京師範大学在学の許広平との往復書簡「両地書」において、許広平が「反動的国防文学」と決めつけている事により失脚。
1978年、中日友好協会副会長として復活し、79年12月魯迅研究会顧問となる。これより先11月には中国電影家協会主席となる。80年、鑑眞大師像帰国巡回展委員会委員。同年9月に中日友好協会代表団長として日中友好協会成立30周年慶祝大会出席のため来日。
to be continued
2009年2月23日月曜日
飛騨高山の町並み
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一番上の「かみなか」というのは旅館。赴任当初、雪の中を歩いて初めて宿泊した旅館です。
実は、この一帯は旧の遊郭があった辺りだそうです。そういえば、玄関口の上部にそんな風な面影が・・・。
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二番目は、高山で一番の料亭。
宗和(そうわ)流本膳というそうです。当時の支配者金森長近の二男宗和が開いた流れとか。
私は、ここには入ったことがありません。確か、「本膳くずし」というのもあり、それは体験したような気がします
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三番目は旅館「河渡(ごうど)」。昔、友人のご家族・ご両親が高山見物にこられて、ここに泊られました。おいしい鮎を食した記憶があります。
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「大野や」さん。家人の実家はここから味噌・醤油をお取り寄せされてます。
たまに、我が家も味噌のお取り寄せをしてます。
治承4(1180)年記(4) 大輪田泊修築
前回分(2月20日の大輪田泊修築計画の項)の追加
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□この時の修築に関わる平貞能と平重盛。
[平貞能の役割]
石椋築造の為の課役を諸国に充てるよう請う解状の奥に「前筑前守貞能」の加署があったといい(「玉葉」治承4年2月20日条)、これからみて、今回の大輪田泊修築の奉行は貞能であったと推定できる。
また、貞能は「前筑前守」であったことから翌治承5年の鎮西の謀反に対して派遣される(「玉葉」治承5年8月1日、9月6日条)こと、或いは鎮西における平家没官領には、貞能が領家の免を得て知行していた所領が相当数ある(「吾妻鏡」文治元年5月8日条)ことなどからみて、貞能が持つ鎮西~京とを結ぶ交通・軍事上支配の役割をみてとれる。
更に、平氏都落ち後、鎮西に拠を据えている時期の貞能の活動もあげられる。
但し、その後、平氏が鎮西を追われると、貞能は平氏一門と離れてゆく(「玉葉」寿永2年閏10月2日条)。
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[「平家物語」巻3「金渡」(内大臣平童盛が金数千両を宋の育王山に寄進し、後世をとぶらわしめる話)にみる重盛・貞能、奥州の金と日宋貿易]
「惣て此大臣は吾朝の神明仏陀に財を投給のみに非ず、異朝の仏法にも帰し奉られけり、去治承二年の春比、筑前守貞能を召て被云合けるは、・・・貞能入唐して計(ハカラヒ)沙汰仕れと宣ひける、折節博多の妙典と串ける船頭の上たりけるを召て、内大臣の知給ける奥州気仙の郡より年貢に上りたる金を二千三百両妙典に賜て宜けるは、此金百両をば汝に与ふ、二千二百両をば大唐に渡して、二百両をば生身の御舎利のおわします伊王山の僧徒に与へて、長老禅師の請取を可取進、残二千両をば大王に献りて彼寺へ供田を寄て給はるべしと奏よ、とて状を書て妙典に給けり(二本、小松殿大国にて善を催し給事)」(「平家物語」巻3「金渡」)
*
(大意)重盛は平貞能をめして相談し、奥州の金を唐に渡すことになり、貞能と繋がりのある博多の船頭妙典にこれを指示する。
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[重盛・貞能の関係]
寿永2(1183)年、都落ちした貞能は再び都に戻り「小松殿の御墓の六波羅に有けるを、東国の人共が馬の蹄にかけさせむ事口惜しかるべしとて、墓堀をこし骨ひろひ頚にかけ、泣々福原へとて落行けり」(重盛の墓を掘り、骨を持ち去る)と伝える。
彼は「故人道大相国専一腹心者」(「吾妻鏡」文治元年7月7日条)と云われ、清盛の筆頭家人であるが、同時に重盛の家人である。重盛没後、子の資盛にも仕え、治承4年3月の伊賀道追討、寿永2年7月、大将軍資盛に従う(「玉葉」治承4年12月2日条、寿永2年7月21日条)。
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[厩と厩舎人]
永万2(1166)年正月、平重衡が後白河院に寄進した大田荘(備後国尾道浦を倉敷とする)の年貢納入を巡る史料を検討すると、大田荘には2系列の支配関係がある事がわかる。
①院を本家と仰ぎ荘務権を握る領家清盛、預所重衡、申次盛国の系列。
②院に付属して年責を収取する院庁(主典代中原基兼)と衛厩(平貞能と舎人)の系列。
貞能は、清盛・重衡の系列ではなく、院庁の側で御厩を管轄する側にあったことがわかる。厩と厩に属する厩舎人が注目される。
摂関家が奥州に金を年貢とする荘園を多く知行していた時、年貢増徴交渉の為に、厩舎人がしばしば派遣されている。厩の馬は奥州と京を結ぶ交通手段であり、馬を駆使する厩舎人は遠隔地商人の一面を持っている。
保元2(1157)、京都の祇園御霊会復興が企てられ、経費を民間の富裕な人々が負担する「馬上役」こととなった時、その第1回の馬上には「後院」の「御厩舎人六郎先生光吉」が差定される。光吉の富裕さは後院の厩舎人としての遠隔地商人であるところから来るものと考えられる。尚この後、治承年間には清水坂の馬借に馬上役が差定される。
*
「金渡」にある「内大臣の知給ける奥州気仙の郡より年責に上りたる金」は、かつて左大臣藤原頼長が父忠実から譲られた金を年責とする荘園で、気仙郡近くの磐井郡高鞍荘、本吉郡本吉荘などであり、頼長はこれらの荘の年貢の金をもって日宋貿易に関係していた。保元乱後、これらは後院領に編入されるが、同じ後院領には日宋貿易の根拠地としての肥前国神崎荘がある。
奥州の荘の年貢の金は後院の機構を通じて日宋貿易に役立てられたとみられる。
厩舎人は、そうした奥州の金と博多の唐物の輸送に携わる商人と云えるし、六郎先生光吉はその典型。
*
貞能の管轄する厩もこの後院の厩の系譜を引くもの。後院(ゴイン)は天皇の直領(後院とは、在位中の天皇が譲位後の御所として定めた居所のことで、それに付属する所領・荘園などを後院領という。)。
荘園所領をさほど多く伝領しなかった後白河天皇は、天皇管轄下にある後院を重要な経済的基盤とし、保元の乱後には頼長の没収所領などを合わせ後院管轄下に置く。その後院領はやがて院政をしく後白河院院領の中核となってゆく。
*
貞能が日宋貿易に関与するのは、後院の系譜をひく院の厩を管轄していた事が大きな意味を持っている。その上で更に、貞能のその地位は、重盛の代官として与えられたと推測できる。これより前、清盛は平治元年(1159)、後院の別当とな、清盛の日宋貿易は本格化するが、その後この地位は重盛に継がれる。重盛・貞能によって管轄されている後院と厩が日宋貿易の重要な機構であったことをみることができる。
*
[平貞能(生没年未詳)]
家貞の2男。母未詳。大悲山峰定寺(左京区花背)の仁王像2体の胎内に、「平貞能母尼」が長寛元年(1163)6月28日に寄進したと記す。桓武平氏の血を引く郎等。肥後守であった永暦元年(1160)、同国に妙郎中宮社を建立。高倉帝立太子の仁安元年(1166)、左大夫尉(「兵範記」10月10日条)。同2年、左衛門少尉従五位上に復任(「同」8月18日条)。同4年、筑前守(「同」正月11日条)。
養和元年(1181)8月、九州制圧に向かう(「玉葉」1日条等)、目的を達成するが(「同」10月16日、翌2年5月11日条)、都落ち直前の寿永2年(1181)6月の帰還時、期待に反し千余騎の軍勢しか連れていなかった(「吉記」2、18日条)。
7月21日、首都防衛の為、資盛(重盛次男)に従い近江へ向かうが、途中の宇治で敵襲に備えて滞留するうち都落ちの25日を迎え、一旦、都にとって返して源氏と一戦を交える構えを見せたものの、翌朝、落ちて行く(「吉記」「玉葉」)。
九州に入り、出家してその地に留まったとも、生け捕られたとも伝わるが(「玉葉」9月5日、閏10月2日、翌年2月19日条)、「吾妻鏡」は、恩義を与えたことのある宇都宮朝綱を頼って関東へ下向、そのとりなしで助命されたと記す(元暦2=1185年7月7日条)。
*
以上、五味文彦さんの「平家物語、史と説話」に100%依拠しました。
同じく、五味さんの「源義経」(岩波新書)でも、奥州の金、厩の管理者、通商を行う人々との関連について書かれています。
to be continued
*
□この時の修築に関わる平貞能と平重盛。
[平貞能の役割]
石椋築造の為の課役を諸国に充てるよう請う解状の奥に「前筑前守貞能」の加署があったといい(「玉葉」治承4年2月20日条)、これからみて、今回の大輪田泊修築の奉行は貞能であったと推定できる。
また、貞能は「前筑前守」であったことから翌治承5年の鎮西の謀反に対して派遣される(「玉葉」治承5年8月1日、9月6日条)こと、或いは鎮西における平家没官領には、貞能が領家の免を得て知行していた所領が相当数ある(「吾妻鏡」文治元年5月8日条)ことなどからみて、貞能が持つ鎮西~京とを結ぶ交通・軍事上支配の役割をみてとれる。
更に、平氏都落ち後、鎮西に拠を据えている時期の貞能の活動もあげられる。
但し、その後、平氏が鎮西を追われると、貞能は平氏一門と離れてゆく(「玉葉」寿永2年閏10月2日条)。
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[「平家物語」巻3「金渡」(内大臣平童盛が金数千両を宋の育王山に寄進し、後世をとぶらわしめる話)にみる重盛・貞能、奥州の金と日宋貿易]
「惣て此大臣は吾朝の神明仏陀に財を投給のみに非ず、異朝の仏法にも帰し奉られけり、去治承二年の春比、筑前守貞能を召て被云合けるは、・・・貞能入唐して計(ハカラヒ)沙汰仕れと宣ひける、折節博多の妙典と串ける船頭の上たりけるを召て、内大臣の知給ける奥州気仙の郡より年貢に上りたる金を二千三百両妙典に賜て宜けるは、此金百両をば汝に与ふ、二千二百両をば大唐に渡して、二百両をば生身の御舎利のおわします伊王山の僧徒に与へて、長老禅師の請取を可取進、残二千両をば大王に献りて彼寺へ供田を寄て給はるべしと奏よ、とて状を書て妙典に給けり(二本、小松殿大国にて善を催し給事)」(「平家物語」巻3「金渡」)
*
(大意)重盛は平貞能をめして相談し、奥州の金を唐に渡すことになり、貞能と繋がりのある博多の船頭妙典にこれを指示する。
*
[重盛・貞能の関係]
寿永2(1183)年、都落ちした貞能は再び都に戻り「小松殿の御墓の六波羅に有けるを、東国の人共が馬の蹄にかけさせむ事口惜しかるべしとて、墓堀をこし骨ひろひ頚にかけ、泣々福原へとて落行けり」(重盛の墓を掘り、骨を持ち去る)と伝える。
彼は「故人道大相国専一腹心者」(「吾妻鏡」文治元年7月7日条)と云われ、清盛の筆頭家人であるが、同時に重盛の家人である。重盛没後、子の資盛にも仕え、治承4年3月の伊賀道追討、寿永2年7月、大将軍資盛に従う(「玉葉」治承4年12月2日条、寿永2年7月21日条)。
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[厩と厩舎人]
永万2(1166)年正月、平重衡が後白河院に寄進した大田荘(備後国尾道浦を倉敷とする)の年貢納入を巡る史料を検討すると、大田荘には2系列の支配関係がある事がわかる。
①院を本家と仰ぎ荘務権を握る領家清盛、預所重衡、申次盛国の系列。
②院に付属して年責を収取する院庁(主典代中原基兼)と衛厩(平貞能と舎人)の系列。
貞能は、清盛・重衡の系列ではなく、院庁の側で御厩を管轄する側にあったことがわかる。厩と厩に属する厩舎人が注目される。
摂関家が奥州に金を年貢とする荘園を多く知行していた時、年貢増徴交渉の為に、厩舎人がしばしば派遣されている。厩の馬は奥州と京を結ぶ交通手段であり、馬を駆使する厩舎人は遠隔地商人の一面を持っている。
保元2(1157)、京都の祇園御霊会復興が企てられ、経費を民間の富裕な人々が負担する「馬上役」こととなった時、その第1回の馬上には「後院」の「御厩舎人六郎先生光吉」が差定される。光吉の富裕さは後院の厩舎人としての遠隔地商人であるところから来るものと考えられる。尚この後、治承年間には清水坂の馬借に馬上役が差定される。
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「金渡」にある「内大臣の知給ける奥州気仙の郡より年責に上りたる金」は、かつて左大臣藤原頼長が父忠実から譲られた金を年責とする荘園で、気仙郡近くの磐井郡高鞍荘、本吉郡本吉荘などであり、頼長はこれらの荘の年貢の金をもって日宋貿易に関係していた。保元乱後、これらは後院領に編入されるが、同じ後院領には日宋貿易の根拠地としての肥前国神崎荘がある。
奥州の荘の年貢の金は後院の機構を通じて日宋貿易に役立てられたとみられる。
厩舎人は、そうした奥州の金と博多の唐物の輸送に携わる商人と云えるし、六郎先生光吉はその典型。
*
貞能の管轄する厩もこの後院の厩の系譜を引くもの。後院(ゴイン)は天皇の直領(後院とは、在位中の天皇が譲位後の御所として定めた居所のことで、それに付属する所領・荘園などを後院領という。)。
荘園所領をさほど多く伝領しなかった後白河天皇は、天皇管轄下にある後院を重要な経済的基盤とし、保元の乱後には頼長の没収所領などを合わせ後院管轄下に置く。その後院領はやがて院政をしく後白河院院領の中核となってゆく。
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貞能が日宋貿易に関与するのは、後院の系譜をひく院の厩を管轄していた事が大きな意味を持っている。その上で更に、貞能のその地位は、重盛の代官として与えられたと推測できる。これより前、清盛は平治元年(1159)、後院の別当とな、清盛の日宋貿易は本格化するが、その後この地位は重盛に継がれる。重盛・貞能によって管轄されている後院と厩が日宋貿易の重要な機構であったことをみることができる。
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[平貞能(生没年未詳)]
家貞の2男。母未詳。大悲山峰定寺(左京区花背)の仁王像2体の胎内に、「平貞能母尼」が長寛元年(1163)6月28日に寄進したと記す。桓武平氏の血を引く郎等。肥後守であった永暦元年(1160)、同国に妙郎中宮社を建立。高倉帝立太子の仁安元年(1166)、左大夫尉(「兵範記」10月10日条)。同2年、左衛門少尉従五位上に復任(「同」8月18日条)。同4年、筑前守(「同」正月11日条)。
養和元年(1181)8月、九州制圧に向かう(「玉葉」1日条等)、目的を達成するが(「同」10月16日、翌2年5月11日条)、都落ち直前の寿永2年(1181)6月の帰還時、期待に反し千余騎の軍勢しか連れていなかった(「吉記」2、18日条)。
7月21日、首都防衛の為、資盛(重盛次男)に従い近江へ向かうが、途中の宇治で敵襲に備えて滞留するうち都落ちの25日を迎え、一旦、都にとって返して源氏と一戦を交える構えを見せたものの、翌朝、落ちて行く(「吉記」「玉葉」)。
九州に入り、出家してその地に留まったとも、生け捕られたとも伝わるが(「玉葉」9月5日、閏10月2日、翌年2月19日条)、「吾妻鏡」は、恩義を与えたことのある宇都宮朝綱を頼って関東へ下向、そのとりなしで助命されたと記す(元暦2=1185年7月7日条)。
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以上、五味文彦さんの「平家物語、史と説話」に100%依拠しました。
同じく、五味さんの「源義経」(岩波新書)でも、奥州の金、厩の管理者、通商を行う人々との関連について書かれています。
to be continued
2009年2月22日日曜日
1871年3月 ジャコバンの見果てぬ夢か・・・(10)
1871年3月 ジャコバンの見果てぬ夢か・・・(10)
*
3月30日追加
・マルセイユ。臨時県委員会が綱領的宣言を採択。マルセイユ市会、革命勢力に反対する「秩序」勢力支持を呼び掛ける。
マルセイユのコミューンからパリのコミューンへの手紙。マルセイユ・コミューン蘇る(4月4日大弾圧)。
「われわれは各大都市の選挙によって選ばれた市会に、行政上および市政上の諸特権をゆだねることによって、コミューンの自治とともに、行政の地方分権化を要求する。
県知事の制度は自由にとって有害である。
われわれは全国的な国民衛兵の連合によって共和国の強化を望むものである。
しかしながら、われわれは、何よりもそして何にもまして、マルセイユの望むところを望むものである。」
-----------------------------------------------
3月31日
・仏、コミューン、コミューンの議員に1日15フランの俸給を与える決定。
労働者団体と商工業会議所に、商業手形支払期間の問題についての提案を呼び掛ける事を決定。
*
・中央委員会とコミューンの最初の衝突。
自己の権威確立を決定した中央委員会は、軍事代表委員クリュズレに国民衛兵再組織を委任。
クリュズレ、セイヌ県砲兵隊中央委員会の活動について、砲兵部隊組織について、コミューンの軍事委員会と協力してパリ防衛計画を完成することについて、報告提出(コミューン執行委員会は報告を承認、法令の効力をもつことになる)。
*
○[コミューン群像:ギュスターヴ・ポール・クリュズレ]
将校の家庭に生まれ、軍隊に勤務。1848年6月蜂起弾圧に参加。クリミヤ戦争従軍、アルジェリアのフランス軍に勤務し、先住民統治の為の「アラヴ局」将校。1858年、不正商取引により起訴、退職。ニューヨークに移住。ガリパルディ軍に参加。
1861年、再びアメリカに行き、北軍に従軍、将軍になり、南軍の欠席裁判で死刑判決。戦後ヨーロッパに戻り、アイルランドのフェニアン党運動に参加。
フランスに帰国後、反対派新聞に寄稿し、軍隊についての論文の為に禁銅判決。監獄でヴァルランを知る。出獄後、再度ニューヨークに行き、インタナショナル支部に入る。
フランス帝政崩壊後帰国、パリ20区中央共和委員会に入り、国防問題を担当、
1870年9月15日付アピールに署名。9月17日リヨンに派遣、ローヌ県革命軍司令官になる。9月28日の行動には、ミハイル・バクーニンと共に参加。11月1~4日のマルセイユの民衆行動にも参加し、国防軍司令官及び南部連盟軍総司令官に任命。
パリに戻り、71年3月30日、国民軍中央委員会により、陸軍省に代表委員として派遣される。4月2日から軍事代表委員、4月3日から陸軍省代表委員(マルクス派のインタナショナル会員はこれに反対)。4月16日、第1、18区コミューン議員に選出(第18区の委任状を選択)。
コミューン軍を指揮し、国民軍を年齢別に行軍大隊と予備大隊とに分ける事など組織的措置を行う。公安委員会設置に反対。4月30日、イシ堡放棄の廉で軍事代表委員を罷免され逮捕。5月21日、コミューン会議での釈明が認められ釈放。
ヴェルサイユ軍のパリ侵入後、5ヶ月間市内に潜入、その後スイスに亡命、様々な新聞に執筆。インタナショナルハーグ大会諸決定に反対。1871年8月リヨンの軍法会議は要塞地域流刑判決を、72年8月パリの軍法会議は死刑判決を下す。
1880年恩赦後、帰国。社会主義的諸新聞に寄稿し、警察の迫害を受ける。1884年、社会主義者として代議士に選出、その後再選。1889年、第2インタナショナルパリ大会召集組織委員会委員。のちフランスの社会主義者やマルクス主義に反対、エドゥアール・ドリュモンの反ユダヤ主義運動に参加。
*
・コミューンの代表たち、行政上の地位を獲得。テイスは郵政省を掌握、等々
*
・穏和派議員、チラールに従い、コミューンを離れる。
*
・交換・労働・工業委員会の初会合。
フランケルが計画提出。パン屋の夜業禁止(4月27日決定)についての検討と、工場主が放棄した工場が、自由な組合に結集した労働者によって管理されること、を望む(4月16日布告)。
*
・司法委員会、コミューン議員プロトーに、緊急の民事・刑事問題の全てを担当し、「市民の個人的自由を防術するため、いっさいの必要な措置をとること」を委ねると決定。
*
・パンテオン広場でパリ第5区国民軍諸団体の行進。国民軍兵士代表が、コミューン議員のところに派出され、「未来の旗」(赤旗)を贈る。
*
・コミューン兵(連盟兵)とヴェルサイユ兵、クルブヴォア地区(パリの郊外)において交戦。
*
・第3区の「ニコラ・デ・シャン」教会に本部をおくコミューン的クラブ、このクラブの例にならい、全教会に「民衆の政治教育」の為に、自治体のクラブを開くよう呼びかける。
*
・アルジェリア。モクラニ、宗教団体ラフマニイア教主アル・ハッダードと息子シ・アジズと植民者に対する共同行動について会談。フランス軍、反乱民衆に対し懲罰行動。諸都市の民主的傾向のフランス移民は、ヴェルサイユ政府および軍当局に対し行動。
*
・ベルリン。「ゾツィアル・デモクラート」、ドイツのプロレタリアへの呼び掛け掲載。
「現在の情勢におけるドイツ労働者の義務は、フランスの兄弟たちにできるかきりの援助をあたえることである。そして現在われわれは、ただ新聞紙上の中傷を反駁し、ドイツの人民が、彼らの願望のなかに人類を解放し、搾取を絶滅しようとする気高い闘争をみとめさせることだけしかできないとしても、これは大きい成果となるであろう・・・
われわれがブルジョア新聞の嘘をぱくろすることができれば、ブルジョアジーはその計画 - ドイツの兵器の力によって、フランスの労働者階級の解放をゆるさないように - することはできなくなるであろう」
*
・ナルボンヌ。政府軍、市役所占領。コミューン崩壊。
to be continued
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3月30日追加
・マルセイユ。臨時県委員会が綱領的宣言を採択。マルセイユ市会、革命勢力に反対する「秩序」勢力支持を呼び掛ける。
マルセイユのコミューンからパリのコミューンへの手紙。マルセイユ・コミューン蘇る(4月4日大弾圧)。
「われわれは各大都市の選挙によって選ばれた市会に、行政上および市政上の諸特権をゆだねることによって、コミューンの自治とともに、行政の地方分権化を要求する。
県知事の制度は自由にとって有害である。
われわれは全国的な国民衛兵の連合によって共和国の強化を望むものである。
しかしながら、われわれは、何よりもそして何にもまして、マルセイユの望むところを望むものである。」
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3月31日
・仏、コミューン、コミューンの議員に1日15フランの俸給を与える決定。
労働者団体と商工業会議所に、商業手形支払期間の問題についての提案を呼び掛ける事を決定。
*
・中央委員会とコミューンの最初の衝突。
自己の権威確立を決定した中央委員会は、軍事代表委員クリュズレに国民衛兵再組織を委任。
クリュズレ、セイヌ県砲兵隊中央委員会の活動について、砲兵部隊組織について、コミューンの軍事委員会と協力してパリ防衛計画を完成することについて、報告提出(コミューン執行委員会は報告を承認、法令の効力をもつことになる)。
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○[コミューン群像:ギュスターヴ・ポール・クリュズレ]
将校の家庭に生まれ、軍隊に勤務。1848年6月蜂起弾圧に参加。クリミヤ戦争従軍、アルジェリアのフランス軍に勤務し、先住民統治の為の「アラヴ局」将校。1858年、不正商取引により起訴、退職。ニューヨークに移住。ガリパルディ軍に参加。
1861年、再びアメリカに行き、北軍に従軍、将軍になり、南軍の欠席裁判で死刑判決。戦後ヨーロッパに戻り、アイルランドのフェニアン党運動に参加。
フランスに帰国後、反対派新聞に寄稿し、軍隊についての論文の為に禁銅判決。監獄でヴァルランを知る。出獄後、再度ニューヨークに行き、インタナショナル支部に入る。
フランス帝政崩壊後帰国、パリ20区中央共和委員会に入り、国防問題を担当、
1870年9月15日付アピールに署名。9月17日リヨンに派遣、ローヌ県革命軍司令官になる。9月28日の行動には、ミハイル・バクーニンと共に参加。11月1~4日のマルセイユの民衆行動にも参加し、国防軍司令官及び南部連盟軍総司令官に任命。
パリに戻り、71年3月30日、国民軍中央委員会により、陸軍省に代表委員として派遣される。4月2日から軍事代表委員、4月3日から陸軍省代表委員(マルクス派のインタナショナル会員はこれに反対)。4月16日、第1、18区コミューン議員に選出(第18区の委任状を選択)。
コミューン軍を指揮し、国民軍を年齢別に行軍大隊と予備大隊とに分ける事など組織的措置を行う。公安委員会設置に反対。4月30日、イシ堡放棄の廉で軍事代表委員を罷免され逮捕。5月21日、コミューン会議での釈明が認められ釈放。
ヴェルサイユ軍のパリ侵入後、5ヶ月間市内に潜入、その後スイスに亡命、様々な新聞に執筆。インタナショナルハーグ大会諸決定に反対。1871年8月リヨンの軍法会議は要塞地域流刑判決を、72年8月パリの軍法会議は死刑判決を下す。
1880年恩赦後、帰国。社会主義的諸新聞に寄稿し、警察の迫害を受ける。1884年、社会主義者として代議士に選出、その後再選。1889年、第2インタナショナルパリ大会召集組織委員会委員。のちフランスの社会主義者やマルクス主義に反対、エドゥアール・ドリュモンの反ユダヤ主義運動に参加。
*
・コミューンの代表たち、行政上の地位を獲得。テイスは郵政省を掌握、等々
*
・穏和派議員、チラールに従い、コミューンを離れる。
*
・交換・労働・工業委員会の初会合。
フランケルが計画提出。パン屋の夜業禁止(4月27日決定)についての検討と、工場主が放棄した工場が、自由な組合に結集した労働者によって管理されること、を望む(4月16日布告)。
*
・司法委員会、コミューン議員プロトーに、緊急の民事・刑事問題の全てを担当し、「市民の個人的自由を防術するため、いっさいの必要な措置をとること」を委ねると決定。
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・パンテオン広場でパリ第5区国民軍諸団体の行進。国民軍兵士代表が、コミューン議員のところに派出され、「未来の旗」(赤旗)を贈る。
*
・コミューン兵(連盟兵)とヴェルサイユ兵、クルブヴォア地区(パリの郊外)において交戦。
*
・第3区の「ニコラ・デ・シャン」教会に本部をおくコミューン的クラブ、このクラブの例にならい、全教会に「民衆の政治教育」の為に、自治体のクラブを開くよう呼びかける。
*
・アルジェリア。モクラニ、宗教団体ラフマニイア教主アル・ハッダードと息子シ・アジズと植民者に対する共同行動について会談。フランス軍、反乱民衆に対し懲罰行動。諸都市の民主的傾向のフランス移民は、ヴェルサイユ政府および軍当局に対し行動。
*
・ベルリン。「ゾツィアル・デモクラート」、ドイツのプロレタリアへの呼び掛け掲載。
「現在の情勢におけるドイツ労働者の義務は、フランスの兄弟たちにできるかきりの援助をあたえることである。そして現在われわれは、ただ新聞紙上の中傷を反駁し、ドイツの人民が、彼らの願望のなかに人類を解放し、搾取を絶滅しようとする気高い闘争をみとめさせることだけしかできないとしても、これは大きい成果となるであろう・・・
われわれがブルジョア新聞の嘘をぱくろすることができれば、ブルジョアジーはその計画 - ドイツの兵器の力によって、フランスの労働者階級の解放をゆるさないように - することはできなくなるであろう」
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・ナルボンヌ。政府軍、市役所占領。コミューン崩壊。
to be continued
2009年2月21日土曜日
明治17(1884)年秩父(13)「乍恐天朝様ニ敵対スルカラ加勢シロ」 粟野山会議 蜂起決定
■明治17(1884)年秩父(13)「乍恐天朝様ニ敵対スルカラ加勢シロ」
*
10月24日
・オルグ活動を終えた田代栄助、この日より日野沢村門平惣平宅に泊り込み情勢分析。
佐久から菊池貫平らの来援は頼もしい情報だが、9月にあれほど大風呂敷を広げた小柏常次郎の群馬側オルグが殆ど進捗せず、また、自分の地元8ヶ村での組織活動もままならず。
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同24日
・薄井盛恭の原南多摩郡長宛書簡。
津久井困民党は、妥協案の内容に不服で、岡部芳太郎(県会議員、のち自由党に関係)・安西庄司(旧中沢村戸長、10月10日自由党入党発表)を代理にたて、仲裁人グループ代表の1人薄井盛恭に面会、仲裁交渉継続を要求。津久井困民党は、11月前後には銀行側妥協案にそって交渉のテーブルにつく。
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10月26日
・秩父困民党、粟野山会議。
自由党中央からの中止指令を廻り、幹部9人の会議の予定が、近隣農民集合しての大会議となる。石見・粟野山で総代会議。
田代栄助・井上伝蔵は決行予定日10月28日の1ヶ月延期主張。否定され、11月1日朝8時下吉田村椋神社集合・11月2日午前2時大宮郷繰出しに決定。
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上州勢小柏常次郎・遠田宇市(33)も出席。田代栄助・加藤織平より群馬側動員体制の弱さを難詰される。
坂本宗作が遠田宇市と共に上州へ派遣。門平惣平・飯塚森蔵は信州へオルグとして派遣決定。
*
□栄助と常次郎のの論争。
栄助は、常次郎が「目的外ノ説」を唱え、各地で組織は出来上がっているというのに、人を送って調べると、事実は全く異なっている。いたずらに人を煽動し、即時決行を説くとは何たることか、と常次郎を批判。
常次郎は、栄助が自分に言うには、恩田卯一が秩父に来て、「群馬方ハ鉄砲一、二発モ打テパ忽チ大勢集り押出ス手筈」と、頼もしい話をしたが、栄助自ら南甘楽坂原村の公認自由党員井上勇吉の家に行き、一ノ宮の人を呼んで状況を聞くと、秩父の事は少しも知らないと言うし、第一今日まで群馬から誰も連絡に来ないのはどういう訳かと自分に詰問した。傍らの織平や柏木太郎吉も、「何故、常次郎ガ自身行ツテ組織セザルヤ」と詰め寄る。そこで、常次郎は栄助に、恩田を責任者として1度目は太郎吉、2度目は宗作が自分に同行して組織にあたり、「鉄砲一、二発打テバ・・・」というのは同行者も認めていることだと答え、栄助の批判を切り返す。
(つまり、今までも恩田宇一と共に太郎吉や宗作ら幹部が派遣され、状況は報告されており、それに異議が挟まれたことはなかったではないかと、反論)。
栄助の延期提案は、「窮民等債主ノ督促ヲ避ケ、所々ニ流寓シ、多クハ家ニ還ラザルノ状況ヲ以テ、衆皆延期ヲ好マズ」と否定され、更に15日延期を主張したがそれも拒否され、11月1日決行に決定。しかし、論争は、31日の小前耕地の幹部会議でも再燃。
*
10月26日
・佐久の第2陣北相木村の菊池恒之助(40)・菊池市三郎(20)、第1陣の井出代吉の指示により石間村の加藤織平訪問。「粟野山会議」の田代栄助と面談。翌27日、恒之助・市三郎は、信州へのオルグ門平惣平・飯塚森蔵と同道して北相木村に戻る。途中、第3陣の菊池貫平・井出為吉とは会えず。門平惣平らは31日秩父に戻る。
*
同26日
・風布村大野福次郎、伝令より10月30日に身支度して待つように指示を受け大野苗吉宅で弾丸製造に取り掛かる
*
同26日
・秩父郡日野沢村付近に潜行中の本野上分署巡査、分署長に蜂起近い事を報告
*
同26日
・社説「国家心腹ノ病」(「自由新聞」)。
高利貸しが貧民を虐げている現状を批判、貧民が復讐主義に陥って破壊党になるのを防止するには減租・小作料緩和しかないと論じる。地方党員は何をなすべきかの指針示されず。
*
「日日新聞」(福地源一郎)は、加波山事件は自由党決死隊の暴挙と攻撃。
「自由新聞」の弁明は歯切れが悪い。
わが党は自由の大義を唱え、国家の幸福を増進しようとするが、封建の余習は一掃されず、個人の独立と公衆の合同が両立しない。福島事件・新潟事件・加波山事件では、自由の良友が自由の敵となったとの批判を受けざるを得ない。いずれも軽挙、暴動であるが、ただそれらが、人民が困難な地方か、困難な人民に同情を送るべき地方に起った点を注意しなければならない。
わが党は同志諸君がこの失策を犯す立場に陥らないよう警告する。大陸には清仏戦争、外交には条約改正、国内には財政諸問題があり内憂外患であるが、国家心腹の病とは、このころ新聞に現われる借金党である。
「試ニ見ヨ、此数年間彼ノ所謂ル高利貸卜称スル者多ク世上ニ出現シ、貧者ノ究困ヲ奇貨トシテ非常法外ノ高利ヲ貪り、為メニ貧者ヲ虐ゲシ者其数千ナルヲ知ラズ」。
経済的優者が劣者を圧して恥じることのないのが、社会の大勢である。しかし、貧困党の変遷をみると、債主---負債者から地主---小作人の争論となり、復讐主義に陥り破壊党に転じるおそれなしとしない。この傾向を防止するのは、滅租による農民負担の軽減、小作関係の緩和である。
*
同27日
・埼玉県警本部の巡査、小鹿野の密告者より28日石間山中集合との急報うける。夜、派遣された鎌田冲太警部が小鹿野到着。翌朝、警官を石間、三山に派遣し探偵、午後、戻った警官は「別段ノ異常見聞セズ」と報告。
*
この日、埼玉県警本部の巡査は、小鹿野の密告者から急報を受ける。
「鎌田警部致ストコロノ小鹿野神社祠官泉(某)ノ十月廿六日夜小鹿野町旅舎ニオイテ石井警部以下五名ノ警部、警部補ノ面前ニ在テ密告スルヲ雨宮警部ノ傍聴セル筆記ノ写書
十月十七日 (某)、田代栄助宅へ往キ自由党へ加盟ヲ請ヒ、他ニ同盟者ノアルヲ告グ。栄助曰ク一時故アリテ解散セシメタリ。而シテ金策ノ方法ヲ立テ貧民党へ檄文ヲ発スルノ計画ナリト云フ
十月二十一日 栄助、(某)ノ宅へ来り告ゲテ曰ク、貧民党ハ来ル二十六日小魁タル者集会シ、二十八日一般ニ嘯集スルノ目的ナリ。・・・」(鎌田冲太警部復命書)。
石間の山中に集まるのは一六ヵ村の総代で、貧民党の幹部から借金の四ヶ年据置・四〇ヶ年賦返済を高利貸に強請し、承認しなければ爆裂弾で放火し、戸長役場に乱入して奥書簿を焼きすて、警察を襲撃して浦和の県庁まで押出す計画である、というもの。
本部はこの急報に接し、鎌田警部を秩父に派遣。警部はその夜小鹿野に着き、郡内の署長・副署長と困民党の動静を分析し、密告者も席によび、その報告の内容通りとの結論に達す。また、秩父と同時に上州南甘楽郡も蜂起し、前橋まで押出すと囁かれていることが報告され、会議は朝4時まで続く。夜が明け、警官は、石間・三山など各方面に探偵を行う。
午後に集めた警官の報告は、「別段ノ異常見聞セズ」というもの。警部は、栄助・織平の地下潜行が気にかかるものの、困民党が具体的行動計画を農民に発表した形跡もなく、先日の強盗事件で栄助・織平らを追及するよう指示し、本部に戻る。本部へは、「近日中暴発スベキ景況ナシ」と報告。
*
この密告者の小鹿野神官神官泉田某の子の泉田蔀は兵糧方として蜂起に参加。
*
▽国事犯:
明治14年11月、各府県に「警部長」制度を設け(太政官達第98号)、その職務を、「第一 警部長ハ事ヲ府知事県令ニ承ケ、其府県警察上一切ノ事務ヲ調理ス 第二 警部長は国事警察ニ付テハ直ニ内務卿ノ命令ヲ奉ジ、又直ニ其事情ヲ具状スルコトアルペシ」(太政官達第99号)と規定し、政治警察の統制強化を図る。
また、従来府県警察の長である警察本署長は判任官の警部であったが、警部長は奏任官8等として身分向上を図る。
埼玉県の初代警部長は、翌15年1月25日、当時警察本署長兼典獄の笹田黙介(山口県士族、36)が就任するが、4月には埼玉県少書記官(副知事)に昇進、後任警部長に江夏喜蔵(鹿児島県士族)が就任、秩父事件に遭遇。
国事警察の対象である「国事犯」は、明治13年布告の「刑法」第2章「国事ニ関スル罪」の中の「内乱ニ関スル罪」と「外患ニ関スル罪」を言う。
秩父事件は「政府顛覆」を目的とする内乱であるが、政府はこの事件の影響を恐れ、「国事犯」とは見なさず、あえて「兇徒聚衆ノ罪」(暴動)で処断することにする。
国事警察事務は、実際には警察本署(県警本部)の有力警部が担当し、秩父事件当時は筆頭警部鎌田冲太(鹿児島県士族、39)が担当。
*
○警部鎌田冲太:
戊辰戦争では緒戦の鳥羽伏見の戦から参加した歴戦の勇士。幕府軍を追撃し大阪に進撃、東征にあたっては吉田県令と同じ北陸道先鋒に加わり、越後の鶴ケ岡の激戦で敵弾を受けて後送。その後薩摩藩から年禄8石を受けて療養。
明治2年3月、砲隊伍長として軍に復帰、藩主島津忠義に従って上京、徴兵隊に加わる。4年12月埼玉県勤務となり主に警察事務に従い、一時埼玉裁判所検事局の逮部課に勤務して犯人の逮捕取調に当る。
8年10月、警部・巡査制度発足と共に4等警部に任ぜられ、この年(17年)の秩父事件発生当時は警察本署(県警本部)の警視部長兼国事担当。
鎌田警部は事件発生前も、秩父地方不穏が地元警察から報告されると、「県令初メ警部長ノ命ヲ承り、不知按験トシテ十幾回秩父往返セシヤ、殊ニ其七、八月頃ノ如キハ警部長ニ従ヒテ七十名ノ巡査ヲ率ヒ、秩父諸所ノ集会ヲ駆逐セシコトアリシ、就中微行シテ入秩セシ時ノ如キハ、秩父三署員ノ知リ得ザリシ事モアルペシ、而シテ暴徒中ニハ款ヲ送り信ヲ通ズルモノ数名アリ」(鎌田冲太「秩父暴動実記」)で、自ら現地に乗り込み情報収集にあたる。事件後の19年8月秩父郡長に栄進。
to be continued
*
10月24日
・オルグ活動を終えた田代栄助、この日より日野沢村門平惣平宅に泊り込み情勢分析。
佐久から菊池貫平らの来援は頼もしい情報だが、9月にあれほど大風呂敷を広げた小柏常次郎の群馬側オルグが殆ど進捗せず、また、自分の地元8ヶ村での組織活動もままならず。
*
同24日
・薄井盛恭の原南多摩郡長宛書簡。
津久井困民党は、妥協案の内容に不服で、岡部芳太郎(県会議員、のち自由党に関係)・安西庄司(旧中沢村戸長、10月10日自由党入党発表)を代理にたて、仲裁人グループ代表の1人薄井盛恭に面会、仲裁交渉継続を要求。津久井困民党は、11月前後には銀行側妥協案にそって交渉のテーブルにつく。
*
10月26日
・秩父困民党、粟野山会議。
自由党中央からの中止指令を廻り、幹部9人の会議の予定が、近隣農民集合しての大会議となる。石見・粟野山で総代会議。
田代栄助・井上伝蔵は決行予定日10月28日の1ヶ月延期主張。否定され、11月1日朝8時下吉田村椋神社集合・11月2日午前2時大宮郷繰出しに決定。
*
上州勢小柏常次郎・遠田宇市(33)も出席。田代栄助・加藤織平より群馬側動員体制の弱さを難詰される。
坂本宗作が遠田宇市と共に上州へ派遣。門平惣平・飯塚森蔵は信州へオルグとして派遣決定。
*
□栄助と常次郎のの論争。
栄助は、常次郎が「目的外ノ説」を唱え、各地で組織は出来上がっているというのに、人を送って調べると、事実は全く異なっている。いたずらに人を煽動し、即時決行を説くとは何たることか、と常次郎を批判。
常次郎は、栄助が自分に言うには、恩田卯一が秩父に来て、「群馬方ハ鉄砲一、二発モ打テパ忽チ大勢集り押出ス手筈」と、頼もしい話をしたが、栄助自ら南甘楽坂原村の公認自由党員井上勇吉の家に行き、一ノ宮の人を呼んで状況を聞くと、秩父の事は少しも知らないと言うし、第一今日まで群馬から誰も連絡に来ないのはどういう訳かと自分に詰問した。傍らの織平や柏木太郎吉も、「何故、常次郎ガ自身行ツテ組織セザルヤ」と詰め寄る。そこで、常次郎は栄助に、恩田を責任者として1度目は太郎吉、2度目は宗作が自分に同行して組織にあたり、「鉄砲一、二発打テバ・・・」というのは同行者も認めていることだと答え、栄助の批判を切り返す。
(つまり、今までも恩田宇一と共に太郎吉や宗作ら幹部が派遣され、状況は報告されており、それに異議が挟まれたことはなかったではないかと、反論)。
栄助の延期提案は、「窮民等債主ノ督促ヲ避ケ、所々ニ流寓シ、多クハ家ニ還ラザルノ状況ヲ以テ、衆皆延期ヲ好マズ」と否定され、更に15日延期を主張したがそれも拒否され、11月1日決行に決定。しかし、論争は、31日の小前耕地の幹部会議でも再燃。
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10月26日
・佐久の第2陣北相木村の菊池恒之助(40)・菊池市三郎(20)、第1陣の井出代吉の指示により石間村の加藤織平訪問。「粟野山会議」の田代栄助と面談。翌27日、恒之助・市三郎は、信州へのオルグ門平惣平・飯塚森蔵と同道して北相木村に戻る。途中、第3陣の菊池貫平・井出為吉とは会えず。門平惣平らは31日秩父に戻る。
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同26日
・風布村大野福次郎、伝令より10月30日に身支度して待つように指示を受け大野苗吉宅で弾丸製造に取り掛かる
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同26日
・秩父郡日野沢村付近に潜行中の本野上分署巡査、分署長に蜂起近い事を報告
*
同26日
・社説「国家心腹ノ病」(「自由新聞」)。
高利貸しが貧民を虐げている現状を批判、貧民が復讐主義に陥って破壊党になるのを防止するには減租・小作料緩和しかないと論じる。地方党員は何をなすべきかの指針示されず。
*
「日日新聞」(福地源一郎)は、加波山事件は自由党決死隊の暴挙と攻撃。
「自由新聞」の弁明は歯切れが悪い。
わが党は自由の大義を唱え、国家の幸福を増進しようとするが、封建の余習は一掃されず、個人の独立と公衆の合同が両立しない。福島事件・新潟事件・加波山事件では、自由の良友が自由の敵となったとの批判を受けざるを得ない。いずれも軽挙、暴動であるが、ただそれらが、人民が困難な地方か、困難な人民に同情を送るべき地方に起った点を注意しなければならない。
わが党は同志諸君がこの失策を犯す立場に陥らないよう警告する。大陸には清仏戦争、外交には条約改正、国内には財政諸問題があり内憂外患であるが、国家心腹の病とは、このころ新聞に現われる借金党である。
「試ニ見ヨ、此数年間彼ノ所謂ル高利貸卜称スル者多ク世上ニ出現シ、貧者ノ究困ヲ奇貨トシテ非常法外ノ高利ヲ貪り、為メニ貧者ヲ虐ゲシ者其数千ナルヲ知ラズ」。
経済的優者が劣者を圧して恥じることのないのが、社会の大勢である。しかし、貧困党の変遷をみると、債主---負債者から地主---小作人の争論となり、復讐主義に陥り破壊党に転じるおそれなしとしない。この傾向を防止するのは、滅租による農民負担の軽減、小作関係の緩和である。
*
同27日
・埼玉県警本部の巡査、小鹿野の密告者より28日石間山中集合との急報うける。夜、派遣された鎌田冲太警部が小鹿野到着。翌朝、警官を石間、三山に派遣し探偵、午後、戻った警官は「別段ノ異常見聞セズ」と報告。
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この日、埼玉県警本部の巡査は、小鹿野の密告者から急報を受ける。
「鎌田警部致ストコロノ小鹿野神社祠官泉(某)ノ十月廿六日夜小鹿野町旅舎ニオイテ石井警部以下五名ノ警部、警部補ノ面前ニ在テ密告スルヲ雨宮警部ノ傍聴セル筆記ノ写書
十月十七日 (某)、田代栄助宅へ往キ自由党へ加盟ヲ請ヒ、他ニ同盟者ノアルヲ告グ。栄助曰ク一時故アリテ解散セシメタリ。而シテ金策ノ方法ヲ立テ貧民党へ檄文ヲ発スルノ計画ナリト云フ
十月二十一日 栄助、(某)ノ宅へ来り告ゲテ曰ク、貧民党ハ来ル二十六日小魁タル者集会シ、二十八日一般ニ嘯集スルノ目的ナリ。・・・」(鎌田冲太警部復命書)。
石間の山中に集まるのは一六ヵ村の総代で、貧民党の幹部から借金の四ヶ年据置・四〇ヶ年賦返済を高利貸に強請し、承認しなければ爆裂弾で放火し、戸長役場に乱入して奥書簿を焼きすて、警察を襲撃して浦和の県庁まで押出す計画である、というもの。
本部はこの急報に接し、鎌田警部を秩父に派遣。警部はその夜小鹿野に着き、郡内の署長・副署長と困民党の動静を分析し、密告者も席によび、その報告の内容通りとの結論に達す。また、秩父と同時に上州南甘楽郡も蜂起し、前橋まで押出すと囁かれていることが報告され、会議は朝4時まで続く。夜が明け、警官は、石間・三山など各方面に探偵を行う。
午後に集めた警官の報告は、「別段ノ異常見聞セズ」というもの。警部は、栄助・織平の地下潜行が気にかかるものの、困民党が具体的行動計画を農民に発表した形跡もなく、先日の強盗事件で栄助・織平らを追及するよう指示し、本部に戻る。本部へは、「近日中暴発スベキ景況ナシ」と報告。
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この密告者の小鹿野神官神官泉田某の子の泉田蔀は兵糧方として蜂起に参加。
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▽国事犯:
明治14年11月、各府県に「警部長」制度を設け(太政官達第98号)、その職務を、「第一 警部長ハ事ヲ府知事県令ニ承ケ、其府県警察上一切ノ事務ヲ調理ス 第二 警部長は国事警察ニ付テハ直ニ内務卿ノ命令ヲ奉ジ、又直ニ其事情ヲ具状スルコトアルペシ」(太政官達第99号)と規定し、政治警察の統制強化を図る。
また、従来府県警察の長である警察本署長は判任官の警部であったが、警部長は奏任官8等として身分向上を図る。
埼玉県の初代警部長は、翌15年1月25日、当時警察本署長兼典獄の笹田黙介(山口県士族、36)が就任するが、4月には埼玉県少書記官(副知事)に昇進、後任警部長に江夏喜蔵(鹿児島県士族)が就任、秩父事件に遭遇。
国事警察の対象である「国事犯」は、明治13年布告の「刑法」第2章「国事ニ関スル罪」の中の「内乱ニ関スル罪」と「外患ニ関スル罪」を言う。
秩父事件は「政府顛覆」を目的とする内乱であるが、政府はこの事件の影響を恐れ、「国事犯」とは見なさず、あえて「兇徒聚衆ノ罪」(暴動)で処断することにする。
国事警察事務は、実際には警察本署(県警本部)の有力警部が担当し、秩父事件当時は筆頭警部鎌田冲太(鹿児島県士族、39)が担当。
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○警部鎌田冲太:
戊辰戦争では緒戦の鳥羽伏見の戦から参加した歴戦の勇士。幕府軍を追撃し大阪に進撃、東征にあたっては吉田県令と同じ北陸道先鋒に加わり、越後の鶴ケ岡の激戦で敵弾を受けて後送。その後薩摩藩から年禄8石を受けて療養。
明治2年3月、砲隊伍長として軍に復帰、藩主島津忠義に従って上京、徴兵隊に加わる。4年12月埼玉県勤務となり主に警察事務に従い、一時埼玉裁判所検事局の逮部課に勤務して犯人の逮捕取調に当る。
8年10月、警部・巡査制度発足と共に4等警部に任ぜられ、この年(17年)の秩父事件発生当時は警察本署(県警本部)の警視部長兼国事担当。
鎌田警部は事件発生前も、秩父地方不穏が地元警察から報告されると、「県令初メ警部長ノ命ヲ承り、不知按験トシテ十幾回秩父往返セシヤ、殊ニ其七、八月頃ノ如キハ警部長ニ従ヒテ七十名ノ巡査ヲ率ヒ、秩父諸所ノ集会ヲ駆逐セシコトアリシ、就中微行シテ入秩セシ時ノ如キハ、秩父三署員ノ知リ得ザリシ事モアルペシ、而シテ暴徒中ニハ款ヲ送り信ヲ通ズルモノ数名アリ」(鎌田冲太「秩父暴動実記」)で、自ら現地に乗り込み情報収集にあたる。事件後の19年8月秩父郡長に栄進。
to be continued
2009年2月18日水曜日
京都 新撰組屯所跡 壬生寺
昭和13(1938)年 南京は終らない
昭和13(1938)年
*
(日付なし)
・日中戦争開始の37年7月から2年間に、憲兵が察知した軍人・軍属6452人の要注意通信、言動、手記などを分析したデータ。
「略奪強姦は自由」「捕虜は列ベて試斬りとし又は機関銃にて射殺す」など「皇軍将兵の略奪強姦良民虐殺」に関するものが418件。「死体散乱し惨状目を覆ふ」など戦争の悲惨を言うものが288件にのぼえう(大本営陸軍部研究班「支那事変ヨリ観察セル我ガ軍人軍属ノ思想状況」(「日本軍思想・検閲関係資料」)。
また、「我軍は支那兵二万を捕虜としたるが之を全部機関銃にて射殺し死体は揚子江に流したる旨」「楊(揚)子江岸にて捕虜一万二千名に対し食糧を供給能はずしておう殺したる由」。国内でそう話した2人の民間人が38年、それぞれ陸軍刑法違反で有罪判決を受ける(西ケ谷徹「支那事変に関する造言飛語に就て」)。
*
・社会大衆党、前年37年7月の戦争勃発とともに「今次事変は日本民族の聖戦である」(戦時下運動方針)として「帝国主義戦争絶対反対」のスローガンを取り下げ、綱領を改正(「我党は国体の本義に基き・・・社会運動の過去の理論を揚棄し、全体主義の理論をもって、・・・」(38年大会一般方針))。
翌39年には、右翼団体東方会と合同して「革新政党」結成する共同声明を発するが、旧日労(全労)系と旧社民(総同盟)系の両派が対立し、合同問題は失敗。
*
1月(日付なし)
・満州、中共中央に反して北満臨時省委設立の東北人民革命軍第3軍趙尚志、意見交換要請受け入ソ、後、逮捕、監禁1年半。
*
・山西省臨時政府籌備委員会初代委員長曽紀綱、没。新委員長に高歩青が就任。
*
・満州映画協会の北京支社、新民映画協会として開設。
*
・海軍省、「支那事変に於ける帝国海軍の行動」発行。空撃の無差別性や非戦闘員殺害を否認。
「而して我が空撃が如何に正確無比であるかは、『日本海軍の空爆は適確に軍事施設を狙うから民家は安全で、空爆に際しても一般住民は安んじて生業に従事している』との外人記者報道と、『日本空軍の勇敢無比、質の優秀なことは正に世界一である』との外人飛行士の談話等によるも、その片鱗を窺うことができる」。
*
・日本農民連盟、結成。
全農内の稲村隆一ら一部幹部、全農が組合総同盟(鈴木文治会長)との合同を進めている動きに反発、1937年末に全農を脱退、中野正剛主宰の東方会と連絡をとり、長野農村更生連盟・信州郷軍同志会・甲府革新党など地方組織を糾合して、日本農民連盟を結成。後、土佐農民総組合・千葉農村更正連盟などが参加。
40年9月解散。前後して、日本農民組合総同盟(7月)、大日本農民組合(8月)その他地方的農民組合が解散。日本農民組合も41年3月、山梨県連の解散を最後に全組織を解消。
*
・武田麟太郎らの雑誌「人民文庫」、連続発禁のため廃刊。旧プロレタリア作家たちによって作られた「独立作家倶楽部」も解散。
*
・小林秀雄(36)、「日本語の不自由さ」(『文学界』)、「女流作家」(『新女苑』)、「文芸時評」「文芸雑誌の行方」(『東京朝日新聞』)。『文学界』座談会「支那を語る」、『文芸』座談会「志賀直哉の人と芸術」。
*
・石川淳「マルスの歌」(『文学界』)発表。1937.12.29 発禁。
*
・坪田譲治「子供の四季」(「都新聞」)1~6
*
・中河與一「天の夕顔」(「日本評論」)1
*
・徳田秋声「光を追うて」
*
・正宗白鳥「思想無思想」
*
・今村均少将、兵務局長就任。阿南惟幾の後任。
*
・文部省の指導パンフレット「国民精神総動員と学校教育」。
勅語奉読を伴う行事の強化、時局教育の導入、各教科毎に総動員教育が強調される。
*
・ドイツ外務省・国防軍首脳の人事異動。ヒトラー強硬外交で戦争政策の反対者失脚(~2月)。ドイツ政府、民間部門の全ての職から非アーリア人追放を奨励。リッペントロップ外相、日独関係強化を大島武官に希望。
日独軍事同盟の話題が出始める。日本大使館付武官大島陸軍中将、年賀を兼ねて、オーデル河畔ゾンネンプルクの別荘にリッベントロップ外相を訪問。リッベントロップは、ドイツ・日本間を条約で更に接近させる道はないか相談を持ちかける。
*
・ヘミングウェイ(39)、1月帰国、3月スペイン行き、5月帰国、9月スペイン行きと多忙な移動生活。
*
1月1日
・南京市政府に代る住民代表による南京自治委員会再建。
中支那方面軍特務部の指導。市政府の役割を事実上代行していた難民区委員会から行政責任を引継ぐ。日本軍占領から2週間以上無政府状況。
*
正月以後も、国際委員会は「統治する能力も・・・自信もない」(「一ドイツ人の見聞記」)行政能力の低い自治委員会を肩代りして、精力的な救援活動を継続。特に日本兵の非行摘発は、1月上旬に復帰した米大使館など外国代表部に窓口を切替え、外国政府⇒日本外務省⇒陸軍中央部⇒現地軍のルートを通じ圧力を加え、それなりの効果を得る。
*
・この日付(1月1日)けジョン・ラーベ(南京安全区国際委員会代表、ジーメンス社南京支店長)の日記(「南京の真実」)。
「夜の九時に日本兵がトラックに乗ってやってきて女を出せとわめいた。戸を開けないでいたらいなくなった。見ていると中学校へむかった。あそこはたえず日本兵におそわれている。・・・」
*
1月1日
・蒋、内閣改造。行政院長辞任。後任孔祥煕。講和の責任取らぬ意志表示。この日、トラウトマンより新4条件に関する細目11ヶ条が非公式に伝えられる。
*
蒋は、「倭寇が持ち出した(細目)条件は、わが国を征服し滅亡させるものに等しい。日本に屈服して亡びるよりは、戦いに敗れて亡びる方を選ぼう。厳しい拒絶をもって回答としなくてほならない」(「蒋介石秘録」12)と、2日の日記に書く。
*
「孔(行政院院長)、張(副院長)はこの日(1月1日)正式に就任し、二日には白崇禧、閻錫山等が漢口を去って前線に赴き、四日には蒋介石も開封方面に去ってしまった。ここで後に残った孔、張二人に和平の全責任が負わされてしまったのであるが、しかし前後左右からいろいろ邪魔が入り、徒に時日を空費しているうち、日本軍は遂に待ち切れなくなって一月十六日の声明を発し、すべては全く水泡に帰してしまったのである。・・・和平方針はすでに(民国)二六年(1937年)の大晦日の国防会議で正式に決定され、二七年の元且から実行される筈であったのだ」(安藤徳器「汪精衛(兆銘)自叙伝」)。
*
to be continued
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(日付なし)
・日中戦争開始の37年7月から2年間に、憲兵が察知した軍人・軍属6452人の要注意通信、言動、手記などを分析したデータ。
「略奪強姦は自由」「捕虜は列ベて試斬りとし又は機関銃にて射殺す」など「皇軍将兵の略奪強姦良民虐殺」に関するものが418件。「死体散乱し惨状目を覆ふ」など戦争の悲惨を言うものが288件にのぼえう(大本営陸軍部研究班「支那事変ヨリ観察セル我ガ軍人軍属ノ思想状況」(「日本軍思想・検閲関係資料」)。
また、「我軍は支那兵二万を捕虜としたるが之を全部機関銃にて射殺し死体は揚子江に流したる旨」「楊(揚)子江岸にて捕虜一万二千名に対し食糧を供給能はずしておう殺したる由」。国内でそう話した2人の民間人が38年、それぞれ陸軍刑法違反で有罪判決を受ける(西ケ谷徹「支那事変に関する造言飛語に就て」)。
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・社会大衆党、前年37年7月の戦争勃発とともに「今次事変は日本民族の聖戦である」(戦時下運動方針)として「帝国主義戦争絶対反対」のスローガンを取り下げ、綱領を改正(「我党は国体の本義に基き・・・社会運動の過去の理論を揚棄し、全体主義の理論をもって、・・・」(38年大会一般方針))。
翌39年には、右翼団体東方会と合同して「革新政党」結成する共同声明を発するが、旧日労(全労)系と旧社民(総同盟)系の両派が対立し、合同問題は失敗。
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1月(日付なし)
・満州、中共中央に反して北満臨時省委設立の東北人民革命軍第3軍趙尚志、意見交換要請受け入ソ、後、逮捕、監禁1年半。
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・山西省臨時政府籌備委員会初代委員長曽紀綱、没。新委員長に高歩青が就任。
*
・満州映画協会の北京支社、新民映画協会として開設。
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・海軍省、「支那事変に於ける帝国海軍の行動」発行。空撃の無差別性や非戦闘員殺害を否認。
「而して我が空撃が如何に正確無比であるかは、『日本海軍の空爆は適確に軍事施設を狙うから民家は安全で、空爆に際しても一般住民は安んじて生業に従事している』との外人記者報道と、『日本空軍の勇敢無比、質の優秀なことは正に世界一である』との外人飛行士の談話等によるも、その片鱗を窺うことができる」。
*
・日本農民連盟、結成。
全農内の稲村隆一ら一部幹部、全農が組合総同盟(鈴木文治会長)との合同を進めている動きに反発、1937年末に全農を脱退、中野正剛主宰の東方会と連絡をとり、長野農村更生連盟・信州郷軍同志会・甲府革新党など地方組織を糾合して、日本農民連盟を結成。後、土佐農民総組合・千葉農村更正連盟などが参加。
40年9月解散。前後して、日本農民組合総同盟(7月)、大日本農民組合(8月)その他地方的農民組合が解散。日本農民組合も41年3月、山梨県連の解散を最後に全組織を解消。
*
・武田麟太郎らの雑誌「人民文庫」、連続発禁のため廃刊。旧プロレタリア作家たちによって作られた「独立作家倶楽部」も解散。
*
・小林秀雄(36)、「日本語の不自由さ」(『文学界』)、「女流作家」(『新女苑』)、「文芸時評」「文芸雑誌の行方」(『東京朝日新聞』)。『文学界』座談会「支那を語る」、『文芸』座談会「志賀直哉の人と芸術」。
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・石川淳「マルスの歌」(『文学界』)発表。1937.12.29 発禁。
*
・坪田譲治「子供の四季」(「都新聞」)1~6
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・中河與一「天の夕顔」(「日本評論」)1
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・徳田秋声「光を追うて」
*
・正宗白鳥「思想無思想」
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・今村均少将、兵務局長就任。阿南惟幾の後任。
*
・文部省の指導パンフレット「国民精神総動員と学校教育」。
勅語奉読を伴う行事の強化、時局教育の導入、各教科毎に総動員教育が強調される。
*
・ドイツ外務省・国防軍首脳の人事異動。ヒトラー強硬外交で戦争政策の反対者失脚(~2月)。ドイツ政府、民間部門の全ての職から非アーリア人追放を奨励。リッペントロップ外相、日独関係強化を大島武官に希望。
日独軍事同盟の話題が出始める。日本大使館付武官大島陸軍中将、年賀を兼ねて、オーデル河畔ゾンネンプルクの別荘にリッベントロップ外相を訪問。リッベントロップは、ドイツ・日本間を条約で更に接近させる道はないか相談を持ちかける。
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・ヘミングウェイ(39)、1月帰国、3月スペイン行き、5月帰国、9月スペイン行きと多忙な移動生活。
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1月1日
・南京市政府に代る住民代表による南京自治委員会再建。
中支那方面軍特務部の指導。市政府の役割を事実上代行していた難民区委員会から行政責任を引継ぐ。日本軍占領から2週間以上無政府状況。
*
正月以後も、国際委員会は「統治する能力も・・・自信もない」(「一ドイツ人の見聞記」)行政能力の低い自治委員会を肩代りして、精力的な救援活動を継続。特に日本兵の非行摘発は、1月上旬に復帰した米大使館など外国代表部に窓口を切替え、外国政府⇒日本外務省⇒陸軍中央部⇒現地軍のルートを通じ圧力を加え、それなりの効果を得る。
*
・この日付(1月1日)けジョン・ラーベ(南京安全区国際委員会代表、ジーメンス社南京支店長)の日記(「南京の真実」)。
「夜の九時に日本兵がトラックに乗ってやってきて女を出せとわめいた。戸を開けないでいたらいなくなった。見ていると中学校へむかった。あそこはたえず日本兵におそわれている。・・・」
*
1月1日
・蒋、内閣改造。行政院長辞任。後任孔祥煕。講和の責任取らぬ意志表示。この日、トラウトマンより新4条件に関する細目11ヶ条が非公式に伝えられる。
*
蒋は、「倭寇が持ち出した(細目)条件は、わが国を征服し滅亡させるものに等しい。日本に屈服して亡びるよりは、戦いに敗れて亡びる方を選ぼう。厳しい拒絶をもって回答としなくてほならない」(「蒋介石秘録」12)と、2日の日記に書く。
*
「孔(行政院院長)、張(副院長)はこの日(1月1日)正式に就任し、二日には白崇禧、閻錫山等が漢口を去って前線に赴き、四日には蒋介石も開封方面に去ってしまった。ここで後に残った孔、張二人に和平の全責任が負わされてしまったのであるが、しかし前後左右からいろいろ邪魔が入り、徒に時日を空費しているうち、日本軍は遂に待ち切れなくなって一月十六日の声明を発し、すべては全く水泡に帰してしまったのである。・・・和平方針はすでに(民国)二六年(1937年)の大晦日の国防会議で正式に決定され、二七年の元且から実行される筈であったのだ」(安藤徳器「汪精衛(兆銘)自叙伝」)。
*
to be continued
2009年2月15日日曜日
京都 空爆被災を記録する碑 京都にも空襲があった
所在地:京都市上京区下長者町通智恵光院北東角(辰巳児童公園内)
碑文:
空爆被災を記録する碑
昭和二十年(一九四五年)六月二十六日昼前、低い雲の上空に、敵
機B29の爆音が近づき、突然に轟然たる爆発音とともにすさまじ
い土煙が上がった。この時の被爆は上長者町通より南は下立売通、
東は大宮通、西は浄福寺通に至る方四百メートルの地域で、当時の
報告には五十キロ爆弾七発とも五発とも言われた。
報道管制のため、その状況は、多くの市民の知るところとならな
かったが、西陣警察署の記録によると、
一、死傷者 即死 四十三人、 重傷 十三人、
軽傷 五十三人、 計 百九人。
二、被害家屋 全壊 七十一戸、半壊 八十四戸、
一部損壊 百三十七戸、計二百九十二戸。
三、罹災者 八百五十人。
であった。ちなみにこの辰巳公園も被災地跡にできたものである。
第二次大戦(大東亜戦争)において京都市は非戦災都市と言われ
てきたが、東山区馬町と太秦の三菱工場および当地域が爆撃をうけ
たものであり、当地域が最も大きな犠牲者を出したのである。
ここに戦後六十年を期して、この悲惨な空爆の事実を伝えるため
この碑を建立して後世への記録と留める。
平成十七年八月
空爆被災を記録する碑の建立委員会
昭和二十年(一九四五年)六月二十六日昼前、低い雲の上空に、敵
機B29の爆音が近づき、突然に轟然たる爆発音とともにすさまじ
い土煙が上がった。この時の被爆は上長者町通より南は下立売通、
東は大宮通、西は浄福寺通に至る方四百メートルの地域で、当時の
報告には五十キロ爆弾七発とも五発とも言われた。
報道管制のため、その状況は、多くの市民の知るところとならな
かったが、西陣警察署の記録によると、
一、死傷者 即死 四十三人、 重傷 十三人、
軽傷 五十三人、 計 百九人。
二、被害家屋 全壊 七十一戸、半壊 八十四戸、
一部損壊 百三十七戸、計二百九十二戸。
三、罹災者 八百五十人。
であった。ちなみにこの辰巳公園も被災地跡にできたものである。
第二次大戦(大東亜戦争)において京都市は非戦災都市と言われ
てきたが、東山区馬町と太秦の三菱工場および当地域が爆撃をうけ
たものであり、当地域が最も大きな犠牲者を出したのである。
ここに戦後六十年を期して、この悲惨な空爆の事実を伝えるため
この碑を建立して後世への記録と留める。
平成十七年八月
空爆被災を記録する碑の建立委員会
爆地点を示す略地図
*
昨年8月6日の「日経新聞」朝刊に、「京都にも空襲があった」との記事がありました。
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以下、ネット上の記事をかいつまんで使わせて貰います。
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1 京都市内の主な空襲
昭和20(1945)年1月16日 東山区馬町(東山空襲)
3月19日 右京区春日
4月16日 右京区太秦
5月11日 上京区京都御所
6月26日 上京区出水(西陣空襲)
2 東山空襲と西陣空襲
①東山空襲:死者 41人 重軽傷 56人 家屋破壊 141戸
昭和20(1945)年1月16日午後11時23分頃、京都市東山区馬町(渋谷通東大路)東入付近に、米軍機が爆弾投下。京都市では初めての空襲。
②西陣空襲:死者 50人 重傷 66人
昭和20(1945)年6月26日朝、B29爆撃機1機が爆弾7発を京都市上京区出水付近に投下。うち2発は不発。京都市内最大の空襲。
3 報道規制
最初の空襲の後、厳しい報道規制が敷かれ、公式発表では、「一般的に被害は軽微」というだけで、被爆地の様子については詳しく触れられなかった。新聞にも被爆地については、「京都市の一部」としか示されず、多くの市民は詳しい様子を知ることが出来なかった。
「デマを飛ばすな」「流言は敵の謀略だ」「被爆地の写真撮影を禁ず」などのビラが張り出された。
1月18日の京都新聞には、「一昨夜、B29一機が京都市に侵入、投弾」と報道はしていたが、被害については、「ごく軽微」とされていた。
京都市の初めての空襲であり、夜更けで警戒警報も出ないまま、突然、爆撃されたので、警察などは人々が動揺することを怖れたための報道規制だと考えられる。
*
1 京都市内の主な空襲
昭和20(1945)年1月16日 東山区馬町(東山空襲)
3月19日 右京区春日
4月16日 右京区太秦
5月11日 上京区京都御所
6月26日 上京区出水(西陣空襲)
2 東山空襲と西陣空襲
①東山空襲:死者 41人 重軽傷 56人 家屋破壊 141戸
昭和20(1945)年1月16日午後11時23分頃、京都市東山区馬町(渋谷通東大路)東入付近に、米軍機が爆弾投下。京都市では初めての空襲。
②西陣空襲:死者 50人 重傷 66人
昭和20(1945)年6月26日朝、B29爆撃機1機が爆弾7発を京都市上京区出水付近に投下。うち2発は不発。京都市内最大の空襲。
3 報道規制
最初の空襲の後、厳しい報道規制が敷かれ、公式発表では、「一般的に被害は軽微」というだけで、被爆地の様子については詳しく触れられなかった。新聞にも被爆地については、「京都市の一部」としか示されず、多くの市民は詳しい様子を知ることが出来なかった。
「デマを飛ばすな」「流言は敵の謀略だ」「被爆地の写真撮影を禁ず」などのビラが張り出された。
1月18日の京都新聞には、「一昨夜、B29一機が京都市に侵入、投弾」と報道はしていたが、被害については、「ごく軽微」とされていた。
京都市の初めての空襲であり、夜更けで警戒警報も出ないまま、突然、爆撃されたので、警察などは人々が動揺することを怖れたための報道規制だと考えられる。
*
また、米側資料を分析して、原爆投下候補都市の第一番目に京都があったということを突き止めた方がおられるそうです。
▼「ウォーナー伝説」。
東洋美術に造詣の深いランドン・ウォーナー博士が、「ウォーナー・リスト」と呼ぶ京都など古都の文化財のリストを作り、アメリカ政府に「京都や奈良を爆撃しないよう進言した」とされる「伝説」。
*
奈良県桜井市の「安倍文殊院」では、毎年、博士の命日に法要を開き、非戦と平和を誓っているとのことで、こうした美談を伝える記念碑は、奈良の法隆寺、鎌倉などに7ヶ所あるという。
*
戦後公表された米軍の極秘資料によって、この伝説が「全くの作り話」、「全くのデマであり、全くの迷信です」と 証明された歴史学者がおられるとのこと。
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奈良県桜井市の「安倍文殊院」では、毎年、博士の命日に法要を開き、非戦と平和を誓っているとのことで、こうした美談を伝える記念碑は、奈良の法隆寺、鎌倉などに7ヶ所あるという。
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戦後公表された米軍の極秘資料によって、この伝説が「全くの作り話」、「全くのデマであり、全くの迷信です」と 証明された歴史学者がおられるとのこと。
その方によると、「ウォーナー・リスト」は、「文化財返還のための資料ですね。或いは、賠償のための資料」とのこと。
ナチスドイツの文化財略奪に備え、アメリカは各国の文化財リストを作り、これを元に、文化財の返還や賠償を求める計画を持っていた。
つまり、「日本が他国の文化財を盗んだり紛失した場合、日本版の文化財リストで『どれで返してもらおうか』と」いう計画だとか。
つまり、「日本が他国の文化財を盗んだり紛失した場合、日本版の文化財リストで『どれで返してもらおうか』と」いう計画だとか。
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一夜に10万人以上が亡くなられた東京大空襲と比較すると極めて小規模の空襲ですが、亡くなった方のひとつひとつの命を考えるならば、全体規模の大小にかかわらず、失われた生命の重みは変わらないと思う。
*
天文4(1535)年 [信長2歳]
■天文4(1535)年 [信長2歳]
*
この年(月日なし)
・若狭守護武田家の家督争い。
この年、守護武田元光、出家して子の信豊への家督継承を急ぐが、弟信孝を擁立する勢力が出現。また、これまで武田軍の藩屏の役割を果たす有力被官で小浜代官の粟屋元隆が離反、天文7年には武田軍と戦闘となる。弟信孝も越前から若狭へ侵攻する気配を見せるが、元光は幕府を通し越前朝倉氏にその制止を要請、これを断念させる。
*
・この頃、若越の廻船は下北半島方面へも出向くようになり、この年、野辺地湊(青森県野辺地町)の五十嵐甚右衛門家の初代が、越前三国よりこの地に移住したと伝えられる。
*
・シチリア島。シチリア人の異端審問所反対要求に対し、カール5世、異端審問所の権力制限に同意。
*
・ドイツのシュバイヤーとコロ、アンデス東側のパパメーネ河畔を探検
*
・メキシコ。コルテス、カリフォルニア南東部にラ・パスの町を建設。
*
・キューバ。ハコボの金鉱枯渇。この時点でキューバの原住民人口は2千人に減少。
*
・ラスカサス、ニカラグアに到着。ドミニコ修道会開設。
*
・インカ帝国の財宝によりブームとなったパナマ。アウディエンシア開設。
*
・ペドロ・デ・メンドサ、ペルー貿易中継地としてブエノスアイレスを建設。入植者1,500人と共にブエノスアイレスに上陸、後、伝染病などのため植民を放棄。
*
・スコットランド王、ローマ教皇より「高位聖職者指名権」を取得。
*
・マイルズ・カヴァデイル「英訳聖書」。ルター訳に依存するところ大。1539年「グレート・バイブル」出版。
*
・フランソワ1世、「シュノンソー城」をトーマ・ボイエ息子より購入。
シュノンソー城:1515~1522、大蔵大臣トーマ・ボイエと妻カトリーヌ・ブリリネが造営。1547年、アンリ2世が寵姫ディアンヌ・ド・ポワティエに譲渡。ディアンヌ・ド・ポワティエ、5つのアーチの「橋」を架け。カトリーヌ・ド・メディチ、橋の上に「ギャラリー」を建造(1580年完成)。
*
・ミケランジェロ、「最後の審判」制作に着手。
*
・イッポリート・デ・メディチ(26)、没(1509~1535)。トスカナ公アレッサンドロが毒殺。
*
・ポンメルン、プロテスタント都市に転向。
*
・エチエンヌ・ドレ、「キケロを模範することに関する対話」。キケロを無視したエラスムスを攻撃。ドレにとってはキリスト教よりもキケロ。
*
・ミシェル・セルヴェ、リヨンで「プトレマイオス地理学」新版を校訂註釈して発表。比較地理学の先駆者。他に医学、星占学。「彼(セルヴェ)は無限なるものに苦悩せしめられ、彼方なるものを捜し求める人々の一人」(オーギュスト・ディード「ミシェル・セルヴェとカルヴァン」)。
*
・ジュネーヴ。ギョーム・ファレルの扇動により民衆、旧教会略奪破壊。
*
・ボーンホルム沖の海戦。
デンマーク、リューベックの船隊を撃破、ハンザ同盟の海上支配を終わらせる。
*
1月(日付なし)
・越後守護代長尾為景の拠点の1つ下倉山城(新潟県堀之内町)、守護上杉定実の一族上条定憲により包囲、攻撃。越後は国を二分する混乱となる。
*
1月2日
・山科言継(28)、右近衛権少将から同権中将に補任。
*
1月6日
・日向、長倉能登守、国人と謀り伊東祐吉を擁立し佐土原城に入城。伊東祐清、難を避けるために剃髪して隠居。12日、伊東祐吉、伊東家当主として曽井城に入城。15日、清武城に入城。2月19日、宮崎城に入城。
*
1月21日
・ヘンリ8世、教皇パウルス3世に反撥しトマス・クロムウェルに修道院の実態調査を命じる。
クロムウェル部下ライトン博士が調査。
ケント・ランドン大修道院では情婦と同衾する男、食器棚には男装した女。144の宗教施設は悪徳度合いがソドムに匹敵(修道院は子供だらけ、聖職者(大修道院長・修道士・托鉢修道士)は、娼婦だけでなく既婚女性ともいちゃついている)。調査に基づき、議会は修道院を弾圧。
カンタベリー大司教クランマー、密かに結婚していた2度目の妻をヘンリ8世の怒りに備え、ドイツに送り返す。
*
1月21日
・パリ高等法院、クレーヴ広場で「檄文事件」犯人の新教徒6人を火刑。フランソワ1世、ドイツのルター派諸侯に「大逆罪」による処刑と説明、納得させる。
*
2月(日付なし)
・フランソワ1世、オスマン皇帝スレイマン1世と同盟。皇帝カール5世への対抗策。
*
・~6月、ラブレー(リヨン市立病院医師)、「檄文事件」で身の危険を感じ姿をくらます。
*
2月5日
・大風により禁裏日華門が転倒。
*
2月14日
・美濃で大洪水。枝広・井口間で死者2万余、家屋数万が失われる。
*
2月17日
・若狭で大日照り。この日~6月29日迄殆ど雨が降らない。
*
3月(日付なし)-
・毛利元就、備後多賀山城(比婆郡)の多賀山通続(久意)を降す。
*
・アイルランド総督キルデア伯トーマスの根城メイヌース城陥落、全滅。トーマスはロンドン送還後1537年2月に処刑。キルデア家絶滅。
*
3月18日
・朝廷、京都山科郷沽却の木材に公事賦課を停止(「後奈良院宸記」)。
*
4月17日
・メキシコ中心にヌエバ・エスパーニャ副王領設立。
アステカ初代副王にアントーニオ・デ・メンドーサ(45)就任。15年間(副王在位1535~1552)。メンドーサ、ラ・プラタへ入植者1,500人。コルテスの行動は制約される。
*
コルテスがアステカ帝国を征服して14年経過。コルテスに名声・人望・権力・富が集中。
メンドーサの使命は、国王権威確立、役人の悪弊是正、インディオ帰順と改宗促進、国王財政への最大利益収納のための植民地経済の発展など。メンドーサは原住民に対して家父長の如く接し、待遇・法的地位の改善に努力したといわれる。
1542年、「インディアス新法」は経済的混乱を引き起こしスペイン人の反発を招くため実施を見合わせる。
1546年、原住民の反乱鎮圧の際に、偶然サカテカス銀山を発見。この銀山はペルー副王領ボリビアのポトシ銀山と共に国王財政に大きく貢献。産業の振興に務め、小麦・オリーブ・絹・牛などのヨーロッパ産その他の産物の生産を奨励。
1542年、コロナードの探検隊を「シボラの7つの都」発見のために北方へ派遣(1540年コロナードはグランド・キャニオン発見)。
1551年、61才で第3代ペルー副王として派遣。ペルーでは国王権威の回復に努め、息子を各地鉱山に派遣してインディオの労働条件を報告させるが、志半ばで病に倒れ1552年62才でペルーで没。
*
4月28日
・利休(千与四郎、14)、記録上に初めて現れる。
この日の日付のある「念仏差帳(サツチヨウ)日記」(堺の念仏寺の周囲の築地塀修理の為、地下より1貫文ずつ寄付させる奉加帳)で、大小路町以下10ヶ町の住人、計114名が列挙される中に、今市町に千与四郎(利休)の名が見える。
他に、
①文明の頃に既に知られる薬屋・和泉屋・奈良屋などの名がある。
②「つしかはな(辻ケ花)」がある。おそらく辻ケ花染めに関するもっとも古い時期の史料の一つであり、堺にはこうした新しい染色技法も早くから発達しているのがわかる。
③舳松(ヘノマツ)町の皮屋は武野紹鷗。この頃は新助五郎という材木町の天王寺屋(津田)宗及。今井家の宗久も堺では納屋と呼ばれており、市小路町か材木町中浜の「なや」のうちのどれかと推定できる。宗久は大永2(1522)年生まれの利休より2歳年長で、利休より2年長生き。津田宗及は生年不明だ利休と同じ天正19年(1591)没。
後年、信長・秀吉の中心的な茶頭として活躍するこの3人はほぼ同年齢。この時、14歳の利休はまだ紹鷗に師事していなく、入門は19歳の時と伝えられている。
*
5月(日付なし)
・末、エラスムス、フライブルクからバーゼルに移住。フローベンの印刷所で働く(フライブルク滞在:1529年4月~1535年5月末)。バーゼルでは宗教改革の嵐は収まっていた。
*
5月19日
・ジャック・カルティエ、セント・ローレンス川探検
*
6月5日
・武田信虎、駿河に出兵。富士河沿い南下。27日、国境万沢口で今川氏輝と対陣。
*
6月12日
・細川晴元の兵、大坂の本願寺証如の兵を攻撃して破る。
証如は主戦派下間頼秀・頼盛を追放し興正寺蓮秀らの努力で、この年和議を成立させ、晴元政権との共存路線を採用。
*
6月13日
・越後守護代長尾為景、朝廷(後奈良天皇)に、長尾家が拝領していた御旗が紛失し新調したいと申請。この日、許されて「御旗御免綸旨」なるものを与えられる(「いよいよ函底に収め、永々累代の家宝に備」えるようにと為景に命じる)。為景は、長尾家が錦旗を授かる程の家格であると国内に誇示。礼銭100貫文余。
この年1月、為景の拠点の1つ下倉山城(新潟県堀之内町)、守護上杉定実の一族上条定憲により包囲、攻撃。越後は国を二分する混乱となる。
*
6月20日
・岩富(弥富)城・小西城の原氏、足利義明の小弓城を攻める。弥富殿「原朗典」、小西衆の高橋・江口・佐藤氏らが討死。
*
6月22日
・ロチェスター司教ジョン・フィッシャー、ヘンリー8世がローマ教会と絶縁することに反対し、刑死(斬首)。トマス・モアと同じく「首長令」に対する誓約を頑強に拒絶。カトリック内部からの刷新を信じて異端と戦う。
*
6月24日
・北ドイツ都市ミュンスター、諸侯軍により陥落。
*
7月(日付なし)
・皇帝カール5世、地中海のイスラム海賊バルバロッサの根拠地チュニスに遠征。提督ジェノヴァ人アンドレア・ドーリア(69、1466~1560)。
14日、カール5世艦隊、チェニス手前のラ・ゴレッタ要塞を攻略(ろ獲品中に3つのゆり印のついた大砲数門、フランスとトルコの同盟の証拠)。チェニス城内のキリスト教徒の捕虜数千人を解放。3日間、皇帝軍がチュニスを掠奪、劫掠(皇帝カール5世の汚点)。バルバロッサを取り逃がす。
*
・フランシスコ・ピサロ、ディエゴ・デル・アルマグロ(スペイン人600、インディオ数千率い)をチリ探検に派遣、リマ(王達の都)建設。
1535年アルマグロはチリ探検に派遣。ティティカカ湖西岸からボリビア大地、アンデス山脈を越えコピアポで太平洋岸に出る。同行インディオの1500人死亡、困難な山岳踏破。コピアポから更に南下して現在のサンチアゴあたりまで進み、ペルーへ向かう。帰路はアタカマ砂漠を縦断。2年をかけた遠征。この遠征で一群のアルマグロ心酔派を生み出す。
*
7月6日
・英、大法官トマス・モア(57)、王位継承法への署名を拒んだため大逆罪。ロンドン搭に15ヶ月間幽閉されたのち、この日斬首。
*
7月21日
・能登守護畠山義総、修理大夫の官を申請。翌日、偶然、美濃守護土岐頼芸も修理大夫の官を申請。いずれも礼銭が少なく(10貫)却下。頼芸は併せて蘭麝待の破片を所望。後奈良天皇は、香木(将軍義政より献上された破片)は下賜。
*
後奈良天皇期(1539~41)、禁裏料(皇室直轄領)の収入も途絶えがちになり、公卿の半数近くが在国(大名の許に寄寓)せねばならない状況。官位濫発が天皇に残された唯一の増収の道となる。「左京大夫」「修理大夫」が濫発され「官位インフレ」状態となる。
*
「左京大夫」という官位。
南北朝合一時点(1392二年)で左京大夫の官を帯びている大名は三河・若狭守護一色詮範(アキノリ)のみ。6ヶ国守護職の大内義弘は左京権大夫(義弘の次々代、大内盛世の時、左京大夫に任官)。当時は右京大夫は管領家の細川氏以外に許されておらず、京職の長官であるとの両京大夫の本来のあり方からすると、右京大夫は管領の称号、左京大夫は侍所頭人の称号(侍所頭人となる資格のある四職家(山名、一色、京極、赤松4家)にしか許されない官)ということになる。
*
永正14(1517)年、陸奥の伊達稙宗がこの官を拝するや、甲斐の武田、伊豆・相模の後北条が左京大夫を望み、任ぜられる。国持大名でもない伊達稙宗に与えられるならば、自分らには当然であろうというのが武田・後北条らの言い分であった筈。
小田原城主北条氏綱がこの官に任ぜられるのは、享禄2(1529)年8月~3年2月の間で、この頃、氏綱は大永3(1523)年、江戸城を上杉朝興より奪取、朝興ら旧勢力から「他国の凶徒」呼ばわりされ、支配の正統性を確保するため大永3年6~9月の間、伊勢から北条に改姓し、さらに朝廷に奏請して左京大夫に任官。伊達・武田ら周辺諸大名と同格の体裁を整える。
その後、天文年間(1532~55)、岩城・大宝寺・結城・大崎など、奥羽地方の小名にまでこの官途が与えられるようになる。天文8(1539)年は、10月に近江守護六角定頼の子の義賢に、翌11月に播磨守護赤松政村に与えられ、天文10年8月には、陸奥の岩城重隆と出羽の大宝寺晴時が任ぜられ、陸奥・出羽だけでも幾人もの左京大夫が並立する有様となる。
*
戦国期(1493明応2~1568永禄11)、「左京大夫」に補任された大名。
防長豊筑等守護大内義興、陸奥守護伊達稙宗、甲斐守護武田信虎、相模小田原城主北条氏綱、防長豊筑等守護大内義隆、近江守護六角義賢、播磨守護赤松政村、陸奥国人岩城重隆、出羽国人大宝寺晴時、下総国人結城晴広、陸奥国人大崎義長、防長豊筑等守護大内義長、陸奥梁川城主伊達晴宗、相模小田原城主北条氏康、美濃守護斎藤義竜、河内飯盛城主三好義継、三河岡崎城主徳川家康。
*
「修理大夫」。
鎌倉期の執権・連署が受領した(しかも当時は修理権大夫)官で、南北朝合一時点(1392年)でこの官を許されている大名は斯波一族の加賀守護義種のみ。九州の名族大友氏でも修理権大夫の官どまり。その後、永享年間(1429~41年)に一色氏当主義貫(侍所頭人)や畠山庶流家畠山満則(能登守護)に許されるが、いずれも幕閣の重臣会議(閣議)に出席しうる家格に限られている。
*
陸奥の黒川稙国、肥後の名和行興らは土豪から成長した「田舎小名」で、守護でも国持大名もない。黒川氏は最上氏分家で、陸奥鶴館城(宮城県黒川郡大和町)主、名和氏も八代城主・古麓城主として八代一郡の郡主の地位を出ない。肥後の相良義陽も、同国南3郡(人吉・芦北・球磨)支配程度。
*
戦国期(1493明応2~1568永禄11)、「修理大夫」に補任された大名。
日向・薩摩・大隅守護島津忠兼、相模守護・関東管領上杉朝興、豊後守護大友義鑑、肥前日野江城主有馬賢純、陸奥鶴館城主黒川稙国、日産隅守護島津貴久、雲・隠・困・伯・石・作・備中・備後等守護尼子晴久、肥後八代城主名和行興、河内飯盛城主・相伴衆三好長慶、肥後八代城主相良義陽、日薩隅守護島津義久。
*
7月23日
・島津義弘、薩摩に誕生。
*
8月(日付なし)
・ブリュッセルでネーデルランド総督マリアとフランソワ1世妃エレオノールが会談(2人は姉妹)。フランソワ1世 は、ミラノ公国を望むが、皇帝カール5世は拒否。
*
・夏~翌春、フランソワ・ラブレー(「ガルガンチュア物語」作者)、ローマ滞在。アレッサンドロとフィリポ・ストロッツィとの対立など記述。アレッサンドロがカール5世の傀儡であることを見抜く。
*
8月10日
・イッポリート・デ・メディチ枢機卿、暗殺。愛人コロンナ家未亡人ジューリア・ゴンザーガ(後、イタリア宗教改革で大きな役割果たす)。犯人はパオロ3世とフィレンツェ大公アレッサンドロ・デ・メディチ。
*
8月17日
・カール5世艦隊、チュニスよりシチリアへ出航。イタリアをバルバリア人の侵略から守った勝利の栄光。
*
8月18日
・今川氏輝支援の北条氏綱・氏康父子2万5千、小田原進発、甲斐郡内に出陣。19日、国境万沢口(南部町)で武田信虎と戦う。信虎が勝利。
*
[北条、今川、武田の関係]:
北条氏は駿河今川氏と主従関係にあり、今川氏親が武田信虎と敵対、武田信虎は北条氏と敵対する扇谷上杉朝興と同盟。
大永6(1526)年、今川氏親没の頃、氏親娘・瑞渓院を氏綱子・氏康の妻に迎える。また、氏親の子氏輝と武田信虎も和睦成立。
天文4(1535)年、信虎が協約を破り駿河に侵攻、信虎が勝利して和談。
翌5年(1536年)3月、今川氏輝病没後、家督を巡り駿河は内乱となるが、信虎は、氏輝弟の善徳寺承芳(義元)を支援し、還俗した義元の家督継承の翌年、武田信虎と今川義元との甲駿同盟が成立。
北条氏は今川氏と断交し、扇谷上杉朝興・武田信虎・今川義元と敵対するこになる。
*
8月21日
・郡内の小山田越中守信有と武田信虎の弟勝沼信友の軍勢2千、山中湖畔に布陣。信虎嫡男太郎勝千代(15)、傳役板垣信方と布陣。22日、湖畔の戦い。武田信虎、都留郡山中で北条勢と戦い敗れる。勝沼信友(信虎弟)・小山田信有、討死。
*
9月(日付なし)
・扇谷上杉朝興、甲斐に出陣する北条氏綱の留守を突いて、相模中郡に出兵、木礎を焼く。
*
9月3日
・大内義隆、日華門の修理料100貫を献上。太宰大弐を希む。
*
9月7日
・ジャック・カルティエ(44、1491~1557)、2度目の北米探検。セントローレンス川を遡り、14日ケベックに到着。数名は更に遡り、10月2日到達した町をモントレアル(モントリオール)と名付ける。
*
9月15日
・北条氏綱、入間川で扇谷上杉勢を破る。10月13日、氏綱、相武豆と上総・下総の軍勢で扇谷上杉家本城の武蔵河越城を攻める。
*
9月17日
・武田信虎、諏方碧雲斎(頼満)と諏方社の宝鈴を鳴らして和睦
*
9月27日
・幕府、日蓮宗5ヶ寺に長福寺領安堵の施行を命令(「長福寺文書」)。
*
10月8日
・第3代古河公方足利高基(51)、没(異説1539年6月8日)。
*
10月10日
・島津家に内紛。島津勝久没落し、薩摩・大隅・日向の諸氏も内紛状態に。
*
10月24日
・最後のミラノ公フランチェスコ・スフォルツァ2世、没(スフォルツァ家断絶)。
*
11月(日付なし)
・スペイン人の傀儡インカ帝王マンコ2世、スペイン人のインデイオに対する暴虐ぶりに怒り、武力蜂起を決意、クスコ脱出を図り捕えられる。各地でインディオの反乱。
*
11月1日
・仏・スペイン紛争再燃。
仏、ハプスブルク家との協定派モンモランシーに代り提督シャポが実権掌握。フランソワ1世、ミラノに関する権利要求。アントニオ・デ・レイバ率いる皇帝軍、ミラノ公領無血占領。フランソワ1世、サヴォワ、ビエモンテ侵略。
*
11月7日
・朝廷、狩野元信に唐絵屏風を描かせる(「後奈良院宸記」)。
*
12月3日
・三河岡崎城主松平清康、再び尾張侵攻開始。5日、守山崩れ。尾張清洲城主織田信秀との戦いで守山に出陣。近侍に背後から襲われて斬殺。27日、織田信秀、松平清康の喪に乗じて三河に攻め入るが、松平清康弟康孝に大樹寺で敗れる。
*
12月22日
・周防長門などの守護大内義隆、太宰大弐の官を申請。義隆はこれまで恒例の献金を充分行い、今回の礼として宮中日華門修理費100貫を献上。27日、後奈良天皇は一旦許可し口宣案の手続きに入るよう女房奉書を発給。28日、態度急変。女房奉書を返却させ任官を拒否。武家で大弐を拝した者は清盛以来いなく、天皇も逡巡する。
*
12月29日
・大内義隆、小弐資元親子を放逐。
to be comtinued
*
この年(月日なし)
・若狭守護武田家の家督争い。
この年、守護武田元光、出家して子の信豊への家督継承を急ぐが、弟信孝を擁立する勢力が出現。また、これまで武田軍の藩屏の役割を果たす有力被官で小浜代官の粟屋元隆が離反、天文7年には武田軍と戦闘となる。弟信孝も越前から若狭へ侵攻する気配を見せるが、元光は幕府を通し越前朝倉氏にその制止を要請、これを断念させる。
*
・この頃、若越の廻船は下北半島方面へも出向くようになり、この年、野辺地湊(青森県野辺地町)の五十嵐甚右衛門家の初代が、越前三国よりこの地に移住したと伝えられる。
*
・シチリア島。シチリア人の異端審問所反対要求に対し、カール5世、異端審問所の権力制限に同意。
*
・ドイツのシュバイヤーとコロ、アンデス東側のパパメーネ河畔を探検
*
・メキシコ。コルテス、カリフォルニア南東部にラ・パスの町を建設。
*
・キューバ。ハコボの金鉱枯渇。この時点でキューバの原住民人口は2千人に減少。
*
・ラスカサス、ニカラグアに到着。ドミニコ修道会開設。
*
・インカ帝国の財宝によりブームとなったパナマ。アウディエンシア開設。
*
・ペドロ・デ・メンドサ、ペルー貿易中継地としてブエノスアイレスを建設。入植者1,500人と共にブエノスアイレスに上陸、後、伝染病などのため植民を放棄。
*
・スコットランド王、ローマ教皇より「高位聖職者指名権」を取得。
*
・マイルズ・カヴァデイル「英訳聖書」。ルター訳に依存するところ大。1539年「グレート・バイブル」出版。
*
・フランソワ1世、「シュノンソー城」をトーマ・ボイエ息子より購入。
シュノンソー城:1515~1522、大蔵大臣トーマ・ボイエと妻カトリーヌ・ブリリネが造営。1547年、アンリ2世が寵姫ディアンヌ・ド・ポワティエに譲渡。ディアンヌ・ド・ポワティエ、5つのアーチの「橋」を架け。カトリーヌ・ド・メディチ、橋の上に「ギャラリー」を建造(1580年完成)。
*
・ミケランジェロ、「最後の審判」制作に着手。
*
・イッポリート・デ・メディチ(26)、没(1509~1535)。トスカナ公アレッサンドロが毒殺。
*
・ポンメルン、プロテスタント都市に転向。
*
・エチエンヌ・ドレ、「キケロを模範することに関する対話」。キケロを無視したエラスムスを攻撃。ドレにとってはキリスト教よりもキケロ。
*
・ミシェル・セルヴェ、リヨンで「プトレマイオス地理学」新版を校訂註釈して発表。比較地理学の先駆者。他に医学、星占学。「彼(セルヴェ)は無限なるものに苦悩せしめられ、彼方なるものを捜し求める人々の一人」(オーギュスト・ディード「ミシェル・セルヴェとカルヴァン」)。
*
・ジュネーヴ。ギョーム・ファレルの扇動により民衆、旧教会略奪破壊。
*
・ボーンホルム沖の海戦。
デンマーク、リューベックの船隊を撃破、ハンザ同盟の海上支配を終わらせる。
*
1月(日付なし)
・越後守護代長尾為景の拠点の1つ下倉山城(新潟県堀之内町)、守護上杉定実の一族上条定憲により包囲、攻撃。越後は国を二分する混乱となる。
*
1月2日
・山科言継(28)、右近衛権少将から同権中将に補任。
*
1月6日
・日向、長倉能登守、国人と謀り伊東祐吉を擁立し佐土原城に入城。伊東祐清、難を避けるために剃髪して隠居。12日、伊東祐吉、伊東家当主として曽井城に入城。15日、清武城に入城。2月19日、宮崎城に入城。
*
1月21日
・ヘンリ8世、教皇パウルス3世に反撥しトマス・クロムウェルに修道院の実態調査を命じる。
クロムウェル部下ライトン博士が調査。
ケント・ランドン大修道院では情婦と同衾する男、食器棚には男装した女。144の宗教施設は悪徳度合いがソドムに匹敵(修道院は子供だらけ、聖職者(大修道院長・修道士・托鉢修道士)は、娼婦だけでなく既婚女性ともいちゃついている)。調査に基づき、議会は修道院を弾圧。
カンタベリー大司教クランマー、密かに結婚していた2度目の妻をヘンリ8世の怒りに備え、ドイツに送り返す。
*
1月21日
・パリ高等法院、クレーヴ広場で「檄文事件」犯人の新教徒6人を火刑。フランソワ1世、ドイツのルター派諸侯に「大逆罪」による処刑と説明、納得させる。
*
2月(日付なし)
・フランソワ1世、オスマン皇帝スレイマン1世と同盟。皇帝カール5世への対抗策。
*
・~6月、ラブレー(リヨン市立病院医師)、「檄文事件」で身の危険を感じ姿をくらます。
*
2月5日
・大風により禁裏日華門が転倒。
*
2月14日
・美濃で大洪水。枝広・井口間で死者2万余、家屋数万が失われる。
*
2月17日
・若狭で大日照り。この日~6月29日迄殆ど雨が降らない。
*
3月(日付なし)-
・毛利元就、備後多賀山城(比婆郡)の多賀山通続(久意)を降す。
*
・アイルランド総督キルデア伯トーマスの根城メイヌース城陥落、全滅。トーマスはロンドン送還後1537年2月に処刑。キルデア家絶滅。
*
3月18日
・朝廷、京都山科郷沽却の木材に公事賦課を停止(「後奈良院宸記」)。
*
4月17日
・メキシコ中心にヌエバ・エスパーニャ副王領設立。
アステカ初代副王にアントーニオ・デ・メンドーサ(45)就任。15年間(副王在位1535~1552)。メンドーサ、ラ・プラタへ入植者1,500人。コルテスの行動は制約される。
*
コルテスがアステカ帝国を征服して14年経過。コルテスに名声・人望・権力・富が集中。
メンドーサの使命は、国王権威確立、役人の悪弊是正、インディオ帰順と改宗促進、国王財政への最大利益収納のための植民地経済の発展など。メンドーサは原住民に対して家父長の如く接し、待遇・法的地位の改善に努力したといわれる。
1542年、「インディアス新法」は経済的混乱を引き起こしスペイン人の反発を招くため実施を見合わせる。
1546年、原住民の反乱鎮圧の際に、偶然サカテカス銀山を発見。この銀山はペルー副王領ボリビアのポトシ銀山と共に国王財政に大きく貢献。産業の振興に務め、小麦・オリーブ・絹・牛などのヨーロッパ産その他の産物の生産を奨励。
1542年、コロナードの探検隊を「シボラの7つの都」発見のために北方へ派遣(1540年コロナードはグランド・キャニオン発見)。
1551年、61才で第3代ペルー副王として派遣。ペルーでは国王権威の回復に努め、息子を各地鉱山に派遣してインディオの労働条件を報告させるが、志半ばで病に倒れ1552年62才でペルーで没。
*
4月28日
・利休(千与四郎、14)、記録上に初めて現れる。
この日の日付のある「念仏差帳(サツチヨウ)日記」(堺の念仏寺の周囲の築地塀修理の為、地下より1貫文ずつ寄付させる奉加帳)で、大小路町以下10ヶ町の住人、計114名が列挙される中に、今市町に千与四郎(利休)の名が見える。
他に、
①文明の頃に既に知られる薬屋・和泉屋・奈良屋などの名がある。
②「つしかはな(辻ケ花)」がある。おそらく辻ケ花染めに関するもっとも古い時期の史料の一つであり、堺にはこうした新しい染色技法も早くから発達しているのがわかる。
③舳松(ヘノマツ)町の皮屋は武野紹鷗。この頃は新助五郎という材木町の天王寺屋(津田)宗及。今井家の宗久も堺では納屋と呼ばれており、市小路町か材木町中浜の「なや」のうちのどれかと推定できる。宗久は大永2(1522)年生まれの利休より2歳年長で、利休より2年長生き。津田宗及は生年不明だ利休と同じ天正19年(1591)没。
後年、信長・秀吉の中心的な茶頭として活躍するこの3人はほぼ同年齢。この時、14歳の利休はまだ紹鷗に師事していなく、入門は19歳の時と伝えられている。
*
5月(日付なし)
・末、エラスムス、フライブルクからバーゼルに移住。フローベンの印刷所で働く(フライブルク滞在:1529年4月~1535年5月末)。バーゼルでは宗教改革の嵐は収まっていた。
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5月19日
・ジャック・カルティエ、セント・ローレンス川探検
*
6月5日
・武田信虎、駿河に出兵。富士河沿い南下。27日、国境万沢口で今川氏輝と対陣。
*
6月12日
・細川晴元の兵、大坂の本願寺証如の兵を攻撃して破る。
証如は主戦派下間頼秀・頼盛を追放し興正寺蓮秀らの努力で、この年和議を成立させ、晴元政権との共存路線を採用。
*
6月13日
・越後守護代長尾為景、朝廷(後奈良天皇)に、長尾家が拝領していた御旗が紛失し新調したいと申請。この日、許されて「御旗御免綸旨」なるものを与えられる(「いよいよ函底に収め、永々累代の家宝に備」えるようにと為景に命じる)。為景は、長尾家が錦旗を授かる程の家格であると国内に誇示。礼銭100貫文余。
この年1月、為景の拠点の1つ下倉山城(新潟県堀之内町)、守護上杉定実の一族上条定憲により包囲、攻撃。越後は国を二分する混乱となる。
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6月20日
・岩富(弥富)城・小西城の原氏、足利義明の小弓城を攻める。弥富殿「原朗典」、小西衆の高橋・江口・佐藤氏らが討死。
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6月22日
・ロチェスター司教ジョン・フィッシャー、ヘンリー8世がローマ教会と絶縁することに反対し、刑死(斬首)。トマス・モアと同じく「首長令」に対する誓約を頑強に拒絶。カトリック内部からの刷新を信じて異端と戦う。
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6月24日
・北ドイツ都市ミュンスター、諸侯軍により陥落。
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7月(日付なし)
・皇帝カール5世、地中海のイスラム海賊バルバロッサの根拠地チュニスに遠征。提督ジェノヴァ人アンドレア・ドーリア(69、1466~1560)。
14日、カール5世艦隊、チェニス手前のラ・ゴレッタ要塞を攻略(ろ獲品中に3つのゆり印のついた大砲数門、フランスとトルコの同盟の証拠)。チェニス城内のキリスト教徒の捕虜数千人を解放。3日間、皇帝軍がチュニスを掠奪、劫掠(皇帝カール5世の汚点)。バルバロッサを取り逃がす。
*
・フランシスコ・ピサロ、ディエゴ・デル・アルマグロ(スペイン人600、インディオ数千率い)をチリ探検に派遣、リマ(王達の都)建設。
1535年アルマグロはチリ探検に派遣。ティティカカ湖西岸からボリビア大地、アンデス山脈を越えコピアポで太平洋岸に出る。同行インディオの1500人死亡、困難な山岳踏破。コピアポから更に南下して現在のサンチアゴあたりまで進み、ペルーへ向かう。帰路はアタカマ砂漠を縦断。2年をかけた遠征。この遠征で一群のアルマグロ心酔派を生み出す。
*
7月6日
・英、大法官トマス・モア(57)、王位継承法への署名を拒んだため大逆罪。ロンドン搭に15ヶ月間幽閉されたのち、この日斬首。
*
7月21日
・能登守護畠山義総、修理大夫の官を申請。翌日、偶然、美濃守護土岐頼芸も修理大夫の官を申請。いずれも礼銭が少なく(10貫)却下。頼芸は併せて蘭麝待の破片を所望。後奈良天皇は、香木(将軍義政より献上された破片)は下賜。
*
後奈良天皇期(1539~41)、禁裏料(皇室直轄領)の収入も途絶えがちになり、公卿の半数近くが在国(大名の許に寄寓)せねばならない状況。官位濫発が天皇に残された唯一の増収の道となる。「左京大夫」「修理大夫」が濫発され「官位インフレ」状態となる。
*
「左京大夫」という官位。
南北朝合一時点(1392二年)で左京大夫の官を帯びている大名は三河・若狭守護一色詮範(アキノリ)のみ。6ヶ国守護職の大内義弘は左京権大夫(義弘の次々代、大内盛世の時、左京大夫に任官)。当時は右京大夫は管領家の細川氏以外に許されておらず、京職の長官であるとの両京大夫の本来のあり方からすると、右京大夫は管領の称号、左京大夫は侍所頭人の称号(侍所頭人となる資格のある四職家(山名、一色、京極、赤松4家)にしか許されない官)ということになる。
*
永正14(1517)年、陸奥の伊達稙宗がこの官を拝するや、甲斐の武田、伊豆・相模の後北条が左京大夫を望み、任ぜられる。国持大名でもない伊達稙宗に与えられるならば、自分らには当然であろうというのが武田・後北条らの言い分であった筈。
小田原城主北条氏綱がこの官に任ぜられるのは、享禄2(1529)年8月~3年2月の間で、この頃、氏綱は大永3(1523)年、江戸城を上杉朝興より奪取、朝興ら旧勢力から「他国の凶徒」呼ばわりされ、支配の正統性を確保するため大永3年6~9月の間、伊勢から北条に改姓し、さらに朝廷に奏請して左京大夫に任官。伊達・武田ら周辺諸大名と同格の体裁を整える。
その後、天文年間(1532~55)、岩城・大宝寺・結城・大崎など、奥羽地方の小名にまでこの官途が与えられるようになる。天文8(1539)年は、10月に近江守護六角定頼の子の義賢に、翌11月に播磨守護赤松政村に与えられ、天文10年8月には、陸奥の岩城重隆と出羽の大宝寺晴時が任ぜられ、陸奥・出羽だけでも幾人もの左京大夫が並立する有様となる。
*
戦国期(1493明応2~1568永禄11)、「左京大夫」に補任された大名。
防長豊筑等守護大内義興、陸奥守護伊達稙宗、甲斐守護武田信虎、相模小田原城主北条氏綱、防長豊筑等守護大内義隆、近江守護六角義賢、播磨守護赤松政村、陸奥国人岩城重隆、出羽国人大宝寺晴時、下総国人結城晴広、陸奥国人大崎義長、防長豊筑等守護大内義長、陸奥梁川城主伊達晴宗、相模小田原城主北条氏康、美濃守護斎藤義竜、河内飯盛城主三好義継、三河岡崎城主徳川家康。
*
「修理大夫」。
鎌倉期の執権・連署が受領した(しかも当時は修理権大夫)官で、南北朝合一時点(1392年)でこの官を許されている大名は斯波一族の加賀守護義種のみ。九州の名族大友氏でも修理権大夫の官どまり。その後、永享年間(1429~41年)に一色氏当主義貫(侍所頭人)や畠山庶流家畠山満則(能登守護)に許されるが、いずれも幕閣の重臣会議(閣議)に出席しうる家格に限られている。
*
陸奥の黒川稙国、肥後の名和行興らは土豪から成長した「田舎小名」で、守護でも国持大名もない。黒川氏は最上氏分家で、陸奥鶴館城(宮城県黒川郡大和町)主、名和氏も八代城主・古麓城主として八代一郡の郡主の地位を出ない。肥後の相良義陽も、同国南3郡(人吉・芦北・球磨)支配程度。
*
戦国期(1493明応2~1568永禄11)、「修理大夫」に補任された大名。
日向・薩摩・大隅守護島津忠兼、相模守護・関東管領上杉朝興、豊後守護大友義鑑、肥前日野江城主有馬賢純、陸奥鶴館城主黒川稙国、日産隅守護島津貴久、雲・隠・困・伯・石・作・備中・備後等守護尼子晴久、肥後八代城主名和行興、河内飯盛城主・相伴衆三好長慶、肥後八代城主相良義陽、日薩隅守護島津義久。
*
7月23日
・島津義弘、薩摩に誕生。
*
8月(日付なし)
・ブリュッセルでネーデルランド総督マリアとフランソワ1世妃エレオノールが会談(2人は姉妹)。フランソワ1世 は、ミラノ公国を望むが、皇帝カール5世は拒否。
*
・夏~翌春、フランソワ・ラブレー(「ガルガンチュア物語」作者)、ローマ滞在。アレッサンドロとフィリポ・ストロッツィとの対立など記述。アレッサンドロがカール5世の傀儡であることを見抜く。
*
8月10日
・イッポリート・デ・メディチ枢機卿、暗殺。愛人コロンナ家未亡人ジューリア・ゴンザーガ(後、イタリア宗教改革で大きな役割果たす)。犯人はパオロ3世とフィレンツェ大公アレッサンドロ・デ・メディチ。
*
8月17日
・カール5世艦隊、チュニスよりシチリアへ出航。イタリアをバルバリア人の侵略から守った勝利の栄光。
*
8月18日
・今川氏輝支援の北条氏綱・氏康父子2万5千、小田原進発、甲斐郡内に出陣。19日、国境万沢口(南部町)で武田信虎と戦う。信虎が勝利。
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[北条、今川、武田の関係]:
北条氏は駿河今川氏と主従関係にあり、今川氏親が武田信虎と敵対、武田信虎は北条氏と敵対する扇谷上杉朝興と同盟。
大永6(1526)年、今川氏親没の頃、氏親娘・瑞渓院を氏綱子・氏康の妻に迎える。また、氏親の子氏輝と武田信虎も和睦成立。
天文4(1535)年、信虎が協約を破り駿河に侵攻、信虎が勝利して和談。
翌5年(1536年)3月、今川氏輝病没後、家督を巡り駿河は内乱となるが、信虎は、氏輝弟の善徳寺承芳(義元)を支援し、還俗した義元の家督継承の翌年、武田信虎と今川義元との甲駿同盟が成立。
北条氏は今川氏と断交し、扇谷上杉朝興・武田信虎・今川義元と敵対するこになる。
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8月21日
・郡内の小山田越中守信有と武田信虎の弟勝沼信友の軍勢2千、山中湖畔に布陣。信虎嫡男太郎勝千代(15)、傳役板垣信方と布陣。22日、湖畔の戦い。武田信虎、都留郡山中で北条勢と戦い敗れる。勝沼信友(信虎弟)・小山田信有、討死。
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9月(日付なし)
・扇谷上杉朝興、甲斐に出陣する北条氏綱の留守を突いて、相模中郡に出兵、木礎を焼く。
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9月3日
・大内義隆、日華門の修理料100貫を献上。太宰大弐を希む。
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9月7日
・ジャック・カルティエ(44、1491~1557)、2度目の北米探検。セントローレンス川を遡り、14日ケベックに到着。数名は更に遡り、10月2日到達した町をモントレアル(モントリオール)と名付ける。
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9月15日
・北条氏綱、入間川で扇谷上杉勢を破る。10月13日、氏綱、相武豆と上総・下総の軍勢で扇谷上杉家本城の武蔵河越城を攻める。
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9月17日
・武田信虎、諏方碧雲斎(頼満)と諏方社の宝鈴を鳴らして和睦
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9月27日
・幕府、日蓮宗5ヶ寺に長福寺領安堵の施行を命令(「長福寺文書」)。
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10月8日
・第3代古河公方足利高基(51)、没(異説1539年6月8日)。
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10月10日
・島津家に内紛。島津勝久没落し、薩摩・大隅・日向の諸氏も内紛状態に。
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10月24日
・最後のミラノ公フランチェスコ・スフォルツァ2世、没(スフォルツァ家断絶)。
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11月(日付なし)
・スペイン人の傀儡インカ帝王マンコ2世、スペイン人のインデイオに対する暴虐ぶりに怒り、武力蜂起を決意、クスコ脱出を図り捕えられる。各地でインディオの反乱。
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11月1日
・仏・スペイン紛争再燃。
仏、ハプスブルク家との協定派モンモランシーに代り提督シャポが実権掌握。フランソワ1世、ミラノに関する権利要求。アントニオ・デ・レイバ率いる皇帝軍、ミラノ公領無血占領。フランソワ1世、サヴォワ、ビエモンテ侵略。
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11月7日
・朝廷、狩野元信に唐絵屏風を描かせる(「後奈良院宸記」)。
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12月3日
・三河岡崎城主松平清康、再び尾張侵攻開始。5日、守山崩れ。尾張清洲城主織田信秀との戦いで守山に出陣。近侍に背後から襲われて斬殺。27日、織田信秀、松平清康の喪に乗じて三河に攻め入るが、松平清康弟康孝に大樹寺で敗れる。
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12月22日
・周防長門などの守護大内義隆、太宰大弐の官を申請。義隆はこれまで恒例の献金を充分行い、今回の礼として宮中日華門修理費100貫を献上。27日、後奈良天皇は一旦許可し口宣案の手続きに入るよう女房奉書を発給。28日、態度急変。女房奉書を返却させ任官を拒否。武家で大弐を拝した者は清盛以来いなく、天皇も逡巡する。
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12月29日
・大内義隆、小弐資元親子を放逐。
to be comtinued
2009年2月14日土曜日
治承4(1180)年記(3) 大輪田泊築造~改修
2年14日
・藤原俊成邸近隣で火事。五条京極邸焼亡。俊成・定家ら、源成実邸に避難。その後、定家は法勝寺の外祖母の家に移る。
*
□「二月十四日。天晴ル。明月片雲無シ。庭梅盛ンニ開ク。芬芳四散ス。家中人無ク、身徘徊ス。夜深ク寝所ニ帰ル。灯、髣髴(ハウフツ)トシテ猶寝ニ付クノ心無シ。更ニ南ノ方ニ出デ、梅花ヲ見ルノ間、忽チ炎上ノ由ヲ聞ク。乾ノ方卜云々。太(ハナハ)ダ近シ。須叟ノ間、風忽チ起リ、火北ノ少将ノ家ニ付ク。即チ車ニ乗りテ出ヅ。其ノ所無キニ依り、北小路成実朝臣ノ宅ニ渡り給フ。倉町等、方時煙二化ス。風太ダ利シト云々。文書等多ク焼ケ了ンヌ。刑部卿直衣ヲ着シ来臨サル。入道殿謁セシメ給フ。狭小ナル板屋、毎度堪へ難シ。」(「明月記」)。
*
明月片雲なき夜、梅花の香流るる中、定家は寝もやらず徘徊しているうちに火事があった。俊成とともに、北小路成実朝臣の家に避難する。やがて、刑部卿が見舞に来る。俊成が逢う。俊成の家は全焼した。定家は、父俊成に対し、終始敬称をもって記述。
*
□「十六日。晴天。今夜開院ニ行幸。衣裳等違乱ニ依り出仕セズ。東ノ大路ニ出デ、此ノ方ヲ望ム。只炬火ノ光ヲ見ル。後ニ間ク。供奉ノ公卿、大納言四人(大将・宗房・実国・宗国)、中納言四人(兼雅・大将・成範・実家)、参議(家通・実守・実宗)、三位(修範・実清・頼実)ト。武衛注セラルル所ナリ。」(「明月記」)。
*
高倉天皇の行幸に、火事で衣裳を焼失したためか供奉しなかったが、大路に出てはるかにこれを見、供奉の人々を聞書きする。
*
2月20日
・平清盛、摂津大輪田泊(おおわだのとまり)を修築を計画。宣下。
清盛の要請により、大輪田泊石椋(イシグラ)修造のため諸国雑物運上船の梶取・水主に夫役が課される(「東大寺文書」)。また、河内・摂津・和泉・山陽・南海道諸国より田1丁、畠2丁ごとに各1人の夫役を徴し、大々的な改修に着手。その結果、宋船が入港できるようになる。
*
平氏の経済的基盤たる日宋貿易のため。
これまでの改修は平氏の私力によるものだが、今回は国家権力を挙げてのものとなる。人夫動員は、瀬戸内周辺諸国人民を強制雇用する計画だが、荘園領主・民衆の抵抗が予想される。平氏は武力を用いても断固実行の姿勢を構え、朝廷に提出する実施要望書には平氏筆頭軍団長平貞能の名前が添えられる(「玉葉」同条)。
*
▽大輪田泊築造~改修の経緯。
[清盛と福原]
12世紀前半、院生の武力的支柱として台頭してきた伊勢平氏は、保元・平治の内乱を経て、強大な政治勢力となる。
平治の乱後、二条天皇親政派と後白河上皇の対立が激化。清盛は両派の間で巧みに政界を渡り、急速な昇進を果たす。
仁安元年(1166)内大臣、翌2年2月左右大臣を越えて太政大臣となる。公卿の子でない者が大臣に進むのは安和2年(969)以来200年ぶりという(「花園天皇宸記」元応元年6月21日)。太政大臣は一種の名誉職であり、辞任後、前大相国という肩書での発言が重要で、僅か3ヶ月で辞任し、氏長者を嫡男重盛に譲る。しかし、これからという時に大病を患い、翌年2月に出家する。
幸い一命をとりとめるが、間もなく(仁安4年正月~2月頃)、摂津国八部(ヤタベ)郡平野(神戸市兵庫区湊山町辺)の福原山荘に移り、以降10年以上ここに居住する。隠退時、清盛と妻時子は、六波羅館を出て重盛に譲り、清盛は福原へ、時子は西八条邸に移る。
*
清盛は福原転居の7年前の応保2年(1162)、摂津国八部郡の国衙領を得たと推測され、家司の藤原能盛に一郡全域の検注を命じる。八部郡は、摂津の最西部にあり、東は兔原(ウバラ)郡、北は有馬郡・播磨国美嚢(ミナキ)郡、西に明石郡、南に大阪湾がある(現在の神戸市中央区の西半、兵庫区・長田区・須磨区全域、北区の一部)。この検注に際し、郡内7ヶ荘も検注をうけ、九条家領輪田荘の31町が小平野(コビラノ)荘・井門(イト)荘・兵庫荘・福原荘の為に横領され、事実上平家領化してゆく。この中で、輪田荘にある和田の浜(その中に古代以来の重要港の大輪田泊がある)も福原荘に横領されたといわれる。
*
[承安の外交]
大阪湾は注ぎこむ河川の土砂のため水深が浅く、大船の出入りには難があり、京への物資は兵庫津で小船に積替え、淀川を溯上するのが定法。
つまり、大輪田は瀬戸内海を東進する大型船の最終寄港地となるため、ここの掌握は西国物流の掌握を意味する。それ故に、清盛はこmの大輪田泊の北2.5kmにある福原山荘に居を定めることにする。この西国物流掌握は、単に内海水運掌握のみでなく中国貿易(日宋貿易)による巨万の富の源泉の掌握となる。
*
嘉応2年(1170)9月には宋人が福原に来訪。京都では城南寺の競馬の最中であったが、後白河法王はそれが終るや福原に駆け付け、直接宋人を「叡覧」(「百練抄」9月20日条)する。右大臣九条兼実は「未曾有の事」「天魔の所為か」と仰天(「玉葉」9月20日条)。
承安2~3年、日宋関係は、貿易開始の前提として海賊除去を求める宋と、伝統的外交姿勢を踏み越えて行こうとする清盛・後白河の動きが一致し、以降日中貿易は大幅に拡大したと推測される。
*
「平家物語」巻1「吾身栄花」で平家の繁栄は、「楊州の金(コガネ)・荊州の珠(タマ)・呉郡の綾・蜀江の錦、七珍万宝一として欠けたる事なし」と記され、清盛の中国貿易から得る富を示す。中国からの流入品の一番は銅銭で、これが日本国内で流通する。この大量の宋銭流通は社会問題の発生を伴っていたらしく、前年治承3年(1179)お多福風邪らしきものが流行した際、人々は「銭の病」と呼んで忌避する(「百錬抄」6月条)。一方、日本の輸出品は、砂金・真珠・硫黄と杉・檜・松などの板・角材であった。
*
[経島築造]
承安2~3年の日宋交渉にあわせ、清盛は大輪田泊の改修を始める。
承安3年、兵庫嶋築造に着工(「帝王編年記」)、2年後の安元元年(1175)完成。
大輪田泊は、東南の大風常に扇(サワガ)しく、朝夕の逆浪凌ぎがたし」(「山槐記」治承4年3月20日条)といわれ、その波よけ風よけの為に作られた人工島も、翌年には崩れ去る。
そこで、阿波を本拠とし、吉野川下流南岸の沖積地の桜庭を中心に勢力をふるう平家の有力家人で、平家水軍の一翼を担う、田口良成(阿波民部大夫)が、改修工事責任者とされる。彼は、石の表面に一切経を書いて船に積み、船ごと沈める工法を採用(「延慶本平家物語」巻6太政大臣経島を突給事)し、経島と云われる所以となる。尚、阿倍民部大夫は壇の浦では平家に返り忠を行うことになる。
*
「平家物語」では、「入道死去」の次の章節で、清盛の生前の事績を語る部分で触れられる。
□「凡そは最後の所労の有様こそ、うたてけれ、(清盛の臨終の病苦の有様は厭わしかったが)まことはただ人とも覚えぬ事ども多かりけり。・・・又何事よりも、福原の経島築いて、今の世に至るまで、上下往来の船の煩ひなきこそ目出たけれ。彼の島は去んぬる応保元年二月上旬に築き初められたりけるが、同じき年の八月に俄かに大風吹き、大波立って皆ゆり失ひてき。又同じき三年三月下旬に阿波民部重能を奉行にて、築かせられけるが、人柱立てらるべしなんど、公卿僉議ありしかども、それは罪業なりとて、石の面に一切経を書いて、築かれたりけるゆゑにこそ、経島とは名付けたれ」とある(但し、年代表記は全て誤り)。
*
そしてこの年治承4年、最後の大輪田泊の改修が行われれるが、これは石椋(イシグラ)を修造する大々的な改修で、その結果、宋船が入港できるようになる。
*
2月21日
・高倉天皇(20)、平清盛娘・中宮徳子の子の言仁親王(ときひと、3)に譲位。4月22日、安徳天皇即位。
*
□「この日譲位の事有り(御歳三歳)。応徳三年の例を以てこれを行わる(旧主宮閑院第、新主宮五條東の洞院)。幼主の礼、同居の儀、保安・永治共に以て快からず。各別の御所、長和・応徳すでに吉例たり。仍って強いて各別の儀有りたり。」(「玉葉」同日条)。
*
2月23日
・定家、咳病により籠居。この後しばらく病悩。
*
前日(22日)、幼帝安徳の母儀中宮建礼門院平徳子の行啓があり、定家は、「徒然ニ依りヒソカニ」見物し聞書する。23日、「咳病不快ニ依り籠居」。定家の宿病咳病は、青春の頃からのもの。
2月26日
・藤原俊成、家族と共に藤原盛頼のいる勧修寺に移る。定家は病の為移らず。
to be continued
・藤原俊成邸近隣で火事。五条京極邸焼亡。俊成・定家ら、源成実邸に避難。その後、定家は法勝寺の外祖母の家に移る。
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□「二月十四日。天晴ル。明月片雲無シ。庭梅盛ンニ開ク。芬芳四散ス。家中人無ク、身徘徊ス。夜深ク寝所ニ帰ル。灯、髣髴(ハウフツ)トシテ猶寝ニ付クノ心無シ。更ニ南ノ方ニ出デ、梅花ヲ見ルノ間、忽チ炎上ノ由ヲ聞ク。乾ノ方卜云々。太(ハナハ)ダ近シ。須叟ノ間、風忽チ起リ、火北ノ少将ノ家ニ付ク。即チ車ニ乗りテ出ヅ。其ノ所無キニ依り、北小路成実朝臣ノ宅ニ渡り給フ。倉町等、方時煙二化ス。風太ダ利シト云々。文書等多ク焼ケ了ンヌ。刑部卿直衣ヲ着シ来臨サル。入道殿謁セシメ給フ。狭小ナル板屋、毎度堪へ難シ。」(「明月記」)。
*
明月片雲なき夜、梅花の香流るる中、定家は寝もやらず徘徊しているうちに火事があった。俊成とともに、北小路成実朝臣の家に避難する。やがて、刑部卿が見舞に来る。俊成が逢う。俊成の家は全焼した。定家は、父俊成に対し、終始敬称をもって記述。
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□「十六日。晴天。今夜開院ニ行幸。衣裳等違乱ニ依り出仕セズ。東ノ大路ニ出デ、此ノ方ヲ望ム。只炬火ノ光ヲ見ル。後ニ間ク。供奉ノ公卿、大納言四人(大将・宗房・実国・宗国)、中納言四人(兼雅・大将・成範・実家)、参議(家通・実守・実宗)、三位(修範・実清・頼実)ト。武衛注セラルル所ナリ。」(「明月記」)。
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高倉天皇の行幸に、火事で衣裳を焼失したためか供奉しなかったが、大路に出てはるかにこれを見、供奉の人々を聞書きする。
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2月20日
・平清盛、摂津大輪田泊(おおわだのとまり)を修築を計画。宣下。
清盛の要請により、大輪田泊石椋(イシグラ)修造のため諸国雑物運上船の梶取・水主に夫役が課される(「東大寺文書」)。また、河内・摂津・和泉・山陽・南海道諸国より田1丁、畠2丁ごとに各1人の夫役を徴し、大々的な改修に着手。その結果、宋船が入港できるようになる。
*
平氏の経済的基盤たる日宋貿易のため。
これまでの改修は平氏の私力によるものだが、今回は国家権力を挙げてのものとなる。人夫動員は、瀬戸内周辺諸国人民を強制雇用する計画だが、荘園領主・民衆の抵抗が予想される。平氏は武力を用いても断固実行の姿勢を構え、朝廷に提出する実施要望書には平氏筆頭軍団長平貞能の名前が添えられる(「玉葉」同条)。
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▽大輪田泊築造~改修の経緯。
[清盛と福原]
12世紀前半、院生の武力的支柱として台頭してきた伊勢平氏は、保元・平治の内乱を経て、強大な政治勢力となる。
平治の乱後、二条天皇親政派と後白河上皇の対立が激化。清盛は両派の間で巧みに政界を渡り、急速な昇進を果たす。
仁安元年(1166)内大臣、翌2年2月左右大臣を越えて太政大臣となる。公卿の子でない者が大臣に進むのは安和2年(969)以来200年ぶりという(「花園天皇宸記」元応元年6月21日)。太政大臣は一種の名誉職であり、辞任後、前大相国という肩書での発言が重要で、僅か3ヶ月で辞任し、氏長者を嫡男重盛に譲る。しかし、これからという時に大病を患い、翌年2月に出家する。
幸い一命をとりとめるが、間もなく(仁安4年正月~2月頃)、摂津国八部(ヤタベ)郡平野(神戸市兵庫区湊山町辺)の福原山荘に移り、以降10年以上ここに居住する。隠退時、清盛と妻時子は、六波羅館を出て重盛に譲り、清盛は福原へ、時子は西八条邸に移る。
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清盛は福原転居の7年前の応保2年(1162)、摂津国八部郡の国衙領を得たと推測され、家司の藤原能盛に一郡全域の検注を命じる。八部郡は、摂津の最西部にあり、東は兔原(ウバラ)郡、北は有馬郡・播磨国美嚢(ミナキ)郡、西に明石郡、南に大阪湾がある(現在の神戸市中央区の西半、兵庫区・長田区・須磨区全域、北区の一部)。この検注に際し、郡内7ヶ荘も検注をうけ、九条家領輪田荘の31町が小平野(コビラノ)荘・井門(イト)荘・兵庫荘・福原荘の為に横領され、事実上平家領化してゆく。この中で、輪田荘にある和田の浜(その中に古代以来の重要港の大輪田泊がある)も福原荘に横領されたといわれる。
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[承安の外交]
大阪湾は注ぎこむ河川の土砂のため水深が浅く、大船の出入りには難があり、京への物資は兵庫津で小船に積替え、淀川を溯上するのが定法。
つまり、大輪田は瀬戸内海を東進する大型船の最終寄港地となるため、ここの掌握は西国物流の掌握を意味する。それ故に、清盛はこmの大輪田泊の北2.5kmにある福原山荘に居を定めることにする。この西国物流掌握は、単に内海水運掌握のみでなく中国貿易(日宋貿易)による巨万の富の源泉の掌握となる。
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嘉応2年(1170)9月には宋人が福原に来訪。京都では城南寺の競馬の最中であったが、後白河法王はそれが終るや福原に駆け付け、直接宋人を「叡覧」(「百練抄」9月20日条)する。右大臣九条兼実は「未曾有の事」「天魔の所為か」と仰天(「玉葉」9月20日条)。
承安2~3年、日宋関係は、貿易開始の前提として海賊除去を求める宋と、伝統的外交姿勢を踏み越えて行こうとする清盛・後白河の動きが一致し、以降日中貿易は大幅に拡大したと推測される。
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「平家物語」巻1「吾身栄花」で平家の繁栄は、「楊州の金(コガネ)・荊州の珠(タマ)・呉郡の綾・蜀江の錦、七珍万宝一として欠けたる事なし」と記され、清盛の中国貿易から得る富を示す。中国からの流入品の一番は銅銭で、これが日本国内で流通する。この大量の宋銭流通は社会問題の発生を伴っていたらしく、前年治承3年(1179)お多福風邪らしきものが流行した際、人々は「銭の病」と呼んで忌避する(「百錬抄」6月条)。一方、日本の輸出品は、砂金・真珠・硫黄と杉・檜・松などの板・角材であった。
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[経島築造]
承安2~3年の日宋交渉にあわせ、清盛は大輪田泊の改修を始める。
承安3年、兵庫嶋築造に着工(「帝王編年記」)、2年後の安元元年(1175)完成。
大輪田泊は、東南の大風常に扇(サワガ)しく、朝夕の逆浪凌ぎがたし」(「山槐記」治承4年3月20日条)といわれ、その波よけ風よけの為に作られた人工島も、翌年には崩れ去る。
そこで、阿波を本拠とし、吉野川下流南岸の沖積地の桜庭を中心に勢力をふるう平家の有力家人で、平家水軍の一翼を担う、田口良成(阿波民部大夫)が、改修工事責任者とされる。彼は、石の表面に一切経を書いて船に積み、船ごと沈める工法を採用(「延慶本平家物語」巻6太政大臣経島を突給事)し、経島と云われる所以となる。尚、阿倍民部大夫は壇の浦では平家に返り忠を行うことになる。
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「平家物語」では、「入道死去」の次の章節で、清盛の生前の事績を語る部分で触れられる。
□「凡そは最後の所労の有様こそ、うたてけれ、(清盛の臨終の病苦の有様は厭わしかったが)まことはただ人とも覚えぬ事ども多かりけり。・・・又何事よりも、福原の経島築いて、今の世に至るまで、上下往来の船の煩ひなきこそ目出たけれ。彼の島は去んぬる応保元年二月上旬に築き初められたりけるが、同じき年の八月に俄かに大風吹き、大波立って皆ゆり失ひてき。又同じき三年三月下旬に阿波民部重能を奉行にて、築かせられけるが、人柱立てらるべしなんど、公卿僉議ありしかども、それは罪業なりとて、石の面に一切経を書いて、築かれたりけるゆゑにこそ、経島とは名付けたれ」とある(但し、年代表記は全て誤り)。
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そしてこの年治承4年、最後の大輪田泊の改修が行われれるが、これは石椋(イシグラ)を修造する大々的な改修で、その結果、宋船が入港できるようになる。
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2月21日
・高倉天皇(20)、平清盛娘・中宮徳子の子の言仁親王(ときひと、3)に譲位。4月22日、安徳天皇即位。
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□「この日譲位の事有り(御歳三歳)。応徳三年の例を以てこれを行わる(旧主宮閑院第、新主宮五條東の洞院)。幼主の礼、同居の儀、保安・永治共に以て快からず。各別の御所、長和・応徳すでに吉例たり。仍って強いて各別の儀有りたり。」(「玉葉」同日条)。
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2月23日
・定家、咳病により籠居。この後しばらく病悩。
*
前日(22日)、幼帝安徳の母儀中宮建礼門院平徳子の行啓があり、定家は、「徒然ニ依りヒソカニ」見物し聞書する。23日、「咳病不快ニ依り籠居」。定家の宿病咳病は、青春の頃からのもの。
2月26日
・藤原俊成、家族と共に藤原盛頼のいる勧修寺に移る。定家は病の為移らず。
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2009年2月12日木曜日
1871年3月 ジャコバンの見果てぬ夢か・・・(9)
前回(3月29日)の追加
○[コミューン群像:シャルル・ロンゲ(1833~1903)]
商人の家庭に生まれる。1860年代初めからパリで、雄弁家、ジャーナリスト、共和主義的諸新聞の寄稿家として有名になる。長く小プルジョア的社会主義(ブルードン主義)の影響を受ける。
1865年5月編集していた新聞「ラ・リヴ・ゴーシュ」の禁止後、ベルギーに行き、6月23日からこの新聞発行を再開。1865年秋、リュージュでの国際学生大会に出席。警察から逃れる為ロンドンに移住しインタナショナルフランス人支部に入る。
1866年1月9日、総評議会員に選ばれ、1月16日、ベルギー担当通信書記に任命される。マルクスの要請により、ブリュッセルで(1866年)、国際労働者協会創立宣言の新訳を準備発行、初版(パリ版)の誤謬・歪曲を修正。1866年夏、フランスへの旅行中逮捕され8ヶ月投獄。
1867年10月28日、パリで、ジョヴァンニ・ガリパルディ支持、フランス軍のローマ法王援助抗議のデモに参加して逮捕される。
1870年9月4日革命後、20区中央共和委員会委員になり、国民軍第248大隊長になる。この大隊が10月31日蜂起に参加した為罷免される。
1871年3月27日~5月21日パリ・コミューン『官報』編集長。4月16日の補欠選挙で、第16区のコミューン議員に選出され、27日から労働・交換委員会委員。公安委員会設置に反対投票し、コミューンの「少数派」宣言に署名。コミューン敗北後、ロンドンに亡命。欠席裁判で死刑判決。
第1インタナショナル・ロンドン協議会(1871年9月)、ハーグ大会(1872年9月)の代議員。マルクスの方針を支持。コミューンの経験に基づき、社会主義変革を実現するには、団結したプロレタリア党が必要であると主張。
その後、改良主義的見解に戻り、ポシビリスト(最大限綱領主義者)に接近。1880年恩赦後、フランスに帰国。1868年、市参事会員に選出される。
1872年からマルクスの長女イェンニーの夫。
*
-------------------------------------------------------
3月30日
・仏、家賃、及び公設質屋に預けられた物品の販売に関する布告(3月29日署名、3月30日公布)。
*
未納家賃支払い免除措置。
「パリ・コミューンは・・・布告する---
第一条、借家人に対し、一八七〇年一〇月、一八七一年一月および四月期限の家賃の全般的延期が行なわれる。
第二条、借家人が過去九ヵ月間に支払った全金額は、将来の支払分から控除されるであろう。・・・」。(パリでは家賃は、3ヶ月毎に先払いで支払われる。家賃の支払いの9ヶ月間(1870年10月1日~1871年7月1日)停止すつ事で、パリ住民は、総額4億フランの負債を免れる。戦争と龍城の犠牲は勤労市民だけでなく、資産家・家主も負わねばらぬという原則に立脚。唯一の欠点は、全借家人にこれが適用された為、投機業者などこの間に利益を稼いだ者の家賃支払も免除されるという点。
*
「パリ・コミューンは布告する-単独条項。公設質屋に預けられた物品の販売は一時中止される。」
*
・コミューン選挙委員会、被選出議員(全選挙民の投票数の1/8未満も含め)を確認し、「コミューンの旗は世界共和国の旗である」ことに基づき外国人でインタナショナル会員レオ・フランケルの選出を確認。
*
・コミューンの決定。
コミューン議員テイスを郵政局長に、コミューン議員ベレーをフランス銀行代表委員に任命。コミューン議員が各区の行政権力を持ち、公民的行為の遂行権限を持つと決定。
保険会社の帳簿・金庫の没収についての決定。
コミューン諸委員会に広範な全権を与える決議。
パン焼業者の手持現金を、ヴェルサイユに送付させないように没収する決定。
反革命新聞「フィガロ」発行停止。
*
日常業務の一般的管理のため常任執行委員会を任命、その下に9専門委員会を組織(4月20日~この常任執行委員会は廃止、専門委員会代表者会議がこれに代わる)。
専門委員会の活動は、コミューン議員中から任命された1、2名の代表がこれを管理。
郵便業務管理は指物師テイス、造幣廠管理は青銅匠カムラン、病院管理は老革命家トレリアール、財政業務ジュールドとヴァルラン。
*
・パリ第20区中央委員会、コミューン諸法令を完全に承認すると声明。セイヌ県砲兵隊中央委員会はコミューン参加を声明。
*
・国民軍中央委員会、クリュズレ将軍を陸軍省代表委員として派遣し、国民軍を再編し、適当な指導機関をつくる任務を与える。国民軍、パンテオン(フランスの偉人を合祀するパリの寺院)上に赤旗を掲げる。
*
・インターナショナル派フランケル、マルクスに宛てて、達成された革命は「未来のあらゆる革命の起る余地を奪うだろう。なぜなら、社会の領域において要求すべきものはもはやなくなるであろうから」と書く。
*
○[コミューン群像:レオ・フランケル]
宝石工。60年代末から労働者運動に参加。インタナショナルパリ諸支部連合評議会委員、パリ在住ドイツ労働者支部を組織。
1870年7月、インタナショナルパリ組織裁判事件で禁錮・罰金判決。
ドイツ軍のパリ攻囲中、国民軍に勤務。1月22日蜂起に参加。3月18日蜂起指導者の1人。3月26日コミューン議員に当選(第13区)。3月29日から労働・工業・交換委員会委員、4月5日から財政委員会委員。4月20日から労働・工業・交換委員会代表委員、執行委員会委員。労働者、事務員の労働保護、失業一掃のためにコミューンの政策を指導。4月28日コミューン会議で、パン焼工場の夜業禁止法案審議にあたり、「われわれは自治体の諸問題を擁護するためだけでなく、社会的改革を実施するためにもここにいるのである」と述べる。コミューンの注文を受けている裁縫工場主たちが、労働者を搾取している事を暴露し、今後は注文を労働者団体に与えるよう提案し、「三月一八日の革命が、もっぱら労働者階級によって遂行されたということをわれわれは忘れてはならない。平等を原則とするわれわれが、この階級のためになにもしないならば、わたしはコミューンの存在に意義をみとめない」と強調。
コミューンに入った僅かなマルクス主義者の1人で、マルクスと文通し、労働者立法問題でマルクスと相談。公安委員会設置に賛成するが、5月15日コミューンの「少数派」宣言には署名。「五月の一週間」の戦闘に積極的に参加。コミューン弾圧後、イギリスに亡命。軍法会議(欠席裁判)で死刑判決。
ロンドンで、インタナショナル総評議会に補充され、オーストリア・ハンガリー担当通信書記になる。ロンドン協議会(1871年)、ハーグ大会(1872年)の代議員。バクーニンとギヨームの除名に賛成。1875年ドイツに移住、更にオーストリア・ハンガリーに移住。ハンガリー総労働者党創立者の1人(1880年創立)。社会主義宣伝の為に3度裁判にかけられる。1883年オーストリアに移住し、1889年からパリに居住。第2インタナショナル創立に参加、第1回パリ大会(1889年)で議長。ブリュッセル大会(1891年)とチューリヒ大会(1893年)代議員。
*
○[コミューン群像:アルペール・プレデリク・フェリクス・テイス(1839~81)]
労働者、金属切断工。1867年、製鋼工ストライキに参加。製鋼工協会を代表してインタナショナル・ブリュッセル大会(1868年)代議員。パリの職業組合を連合会議所に団結する発起人。インタナショナル第3次裁判(1870年)で禁固2年・罰金判決をうける。
1870年9月4日革命後、国民軍第152部隊に勤務。20区中央共和委員会委員。同職組合連合会議所の指導者。ドイツ軍のパリ攻囲中、労働組合とインタナショナル諸支部を政治闘争に組織的に参加させる。
1871年3月26日、同時に2区(第21、18区)からコミューン議員に選出される。3月30日郵便局長に任命され、通信事務を整え、高級事務員のサボタージュを粉砕。4月5日から財政委員会委員。4月3日から労働・交換委員会委員。公安委員会設置に反対投票し、「少数派」宣言に署名。「五月の一週間」の戦闘に積極的に参加。コミューン崩壊後、ロンドンに亡命。欠席裁判で死刑判決。
1871年8月8日、インタナショナル総評議会員に選ばれ、会計係になる。ロンドン協議会(1871年9月)の代議員として、コミューン経験にもとづく労働者階級の政治行動についての決議を支持。1871年秋、マルクス参加の下にロンドンにつくられた「社会調査サークル」の一員。セクト主義的冒険主義的な「一八七一年、ロンドン在住フランス人支部」が、テイスを総評議会反対闘争に引き入れようとするが失敗。1880年恩赦でフランスに帰国、社会主義運動に参加。
*
・連盟軍50、イシ砦を通り、ムードンの東方クラマール(シャティオンとともにヴァンヴ砦の前哨地)に出現。彼らは住民たちに直接選挙を実施させる。
*
・ヴェルサイユ軍が偵察。ヌイーの橋上でサーベルをかざすド・ガリフェ将軍は、部下を従えず、連盟兵にとり囲まれるが、釈放される。
*
・マルセイユ。臨時県委員会が綱領的宣言を採択。マルセイユ市会、革命勢力に反対する「秩序」勢力支持を呼び掛ける。
to be continued
○[コミューン群像:シャルル・ロンゲ(1833~1903)]
商人の家庭に生まれる。1860年代初めからパリで、雄弁家、ジャーナリスト、共和主義的諸新聞の寄稿家として有名になる。長く小プルジョア的社会主義(ブルードン主義)の影響を受ける。
1865年5月編集していた新聞「ラ・リヴ・ゴーシュ」の禁止後、ベルギーに行き、6月23日からこの新聞発行を再開。1865年秋、リュージュでの国際学生大会に出席。警察から逃れる為ロンドンに移住しインタナショナルフランス人支部に入る。
1866年1月9日、総評議会員に選ばれ、1月16日、ベルギー担当通信書記に任命される。マルクスの要請により、ブリュッセルで(1866年)、国際労働者協会創立宣言の新訳を準備発行、初版(パリ版)の誤謬・歪曲を修正。1866年夏、フランスへの旅行中逮捕され8ヶ月投獄。
1867年10月28日、パリで、ジョヴァンニ・ガリパルディ支持、フランス軍のローマ法王援助抗議のデモに参加して逮捕される。
1870年9月4日革命後、20区中央共和委員会委員になり、国民軍第248大隊長になる。この大隊が10月31日蜂起に参加した為罷免される。
1871年3月27日~5月21日パリ・コミューン『官報』編集長。4月16日の補欠選挙で、第16区のコミューン議員に選出され、27日から労働・交換委員会委員。公安委員会設置に反対投票し、コミューンの「少数派」宣言に署名。コミューン敗北後、ロンドンに亡命。欠席裁判で死刑判決。
第1インタナショナル・ロンドン協議会(1871年9月)、ハーグ大会(1872年9月)の代議員。マルクスの方針を支持。コミューンの経験に基づき、社会主義変革を実現するには、団結したプロレタリア党が必要であると主張。
その後、改良主義的見解に戻り、ポシビリスト(最大限綱領主義者)に接近。1880年恩赦後、フランスに帰国。1868年、市参事会員に選出される。
1872年からマルクスの長女イェンニーの夫。
*
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3月30日
・仏、家賃、及び公設質屋に預けられた物品の販売に関する布告(3月29日署名、3月30日公布)。
*
未納家賃支払い免除措置。
「パリ・コミューンは・・・布告する---
第一条、借家人に対し、一八七〇年一〇月、一八七一年一月および四月期限の家賃の全般的延期が行なわれる。
第二条、借家人が過去九ヵ月間に支払った全金額は、将来の支払分から控除されるであろう。・・・」。(パリでは家賃は、3ヶ月毎に先払いで支払われる。家賃の支払いの9ヶ月間(1870年10月1日~1871年7月1日)停止すつ事で、パリ住民は、総額4億フランの負債を免れる。戦争と龍城の犠牲は勤労市民だけでなく、資産家・家主も負わねばらぬという原則に立脚。唯一の欠点は、全借家人にこれが適用された為、投機業者などこの間に利益を稼いだ者の家賃支払も免除されるという点。
*
「パリ・コミューンは布告する-単独条項。公設質屋に預けられた物品の販売は一時中止される。」
*
・コミューン選挙委員会、被選出議員(全選挙民の投票数の1/8未満も含め)を確認し、「コミューンの旗は世界共和国の旗である」ことに基づき外国人でインタナショナル会員レオ・フランケルの選出を確認。
*
・コミューンの決定。
コミューン議員テイスを郵政局長に、コミューン議員ベレーをフランス銀行代表委員に任命。コミューン議員が各区の行政権力を持ち、公民的行為の遂行権限を持つと決定。
保険会社の帳簿・金庫の没収についての決定。
コミューン諸委員会に広範な全権を与える決議。
パン焼業者の手持現金を、ヴェルサイユに送付させないように没収する決定。
反革命新聞「フィガロ」発行停止。
*
日常業務の一般的管理のため常任執行委員会を任命、その下に9専門委員会を組織(4月20日~この常任執行委員会は廃止、専門委員会代表者会議がこれに代わる)。
専門委員会の活動は、コミューン議員中から任命された1、2名の代表がこれを管理。
郵便業務管理は指物師テイス、造幣廠管理は青銅匠カムラン、病院管理は老革命家トレリアール、財政業務ジュールドとヴァルラン。
*
・パリ第20区中央委員会、コミューン諸法令を完全に承認すると声明。セイヌ県砲兵隊中央委員会はコミューン参加を声明。
*
・国民軍中央委員会、クリュズレ将軍を陸軍省代表委員として派遣し、国民軍を再編し、適当な指導機関をつくる任務を与える。国民軍、パンテオン(フランスの偉人を合祀するパリの寺院)上に赤旗を掲げる。
*
・インターナショナル派フランケル、マルクスに宛てて、達成された革命は「未来のあらゆる革命の起る余地を奪うだろう。なぜなら、社会の領域において要求すべきものはもはやなくなるであろうから」と書く。
*
○[コミューン群像:レオ・フランケル]
宝石工。60年代末から労働者運動に参加。インタナショナルパリ諸支部連合評議会委員、パリ在住ドイツ労働者支部を組織。
1870年7月、インタナショナルパリ組織裁判事件で禁錮・罰金判決。
ドイツ軍のパリ攻囲中、国民軍に勤務。1月22日蜂起に参加。3月18日蜂起指導者の1人。3月26日コミューン議員に当選(第13区)。3月29日から労働・工業・交換委員会委員、4月5日から財政委員会委員。4月20日から労働・工業・交換委員会代表委員、執行委員会委員。労働者、事務員の労働保護、失業一掃のためにコミューンの政策を指導。4月28日コミューン会議で、パン焼工場の夜業禁止法案審議にあたり、「われわれは自治体の諸問題を擁護するためだけでなく、社会的改革を実施するためにもここにいるのである」と述べる。コミューンの注文を受けている裁縫工場主たちが、労働者を搾取している事を暴露し、今後は注文を労働者団体に与えるよう提案し、「三月一八日の革命が、もっぱら労働者階級によって遂行されたということをわれわれは忘れてはならない。平等を原則とするわれわれが、この階級のためになにもしないならば、わたしはコミューンの存在に意義をみとめない」と強調。
コミューンに入った僅かなマルクス主義者の1人で、マルクスと文通し、労働者立法問題でマルクスと相談。公安委員会設置に賛成するが、5月15日コミューンの「少数派」宣言には署名。「五月の一週間」の戦闘に積極的に参加。コミューン弾圧後、イギリスに亡命。軍法会議(欠席裁判)で死刑判決。
ロンドンで、インタナショナル総評議会に補充され、オーストリア・ハンガリー担当通信書記になる。ロンドン協議会(1871年)、ハーグ大会(1872年)の代議員。バクーニンとギヨームの除名に賛成。1875年ドイツに移住、更にオーストリア・ハンガリーに移住。ハンガリー総労働者党創立者の1人(1880年創立)。社会主義宣伝の為に3度裁判にかけられる。1883年オーストリアに移住し、1889年からパリに居住。第2インタナショナル創立に参加、第1回パリ大会(1889年)で議長。ブリュッセル大会(1891年)とチューリヒ大会(1893年)代議員。
*
○[コミューン群像:アルペール・プレデリク・フェリクス・テイス(1839~81)]
労働者、金属切断工。1867年、製鋼工ストライキに参加。製鋼工協会を代表してインタナショナル・ブリュッセル大会(1868年)代議員。パリの職業組合を連合会議所に団結する発起人。インタナショナル第3次裁判(1870年)で禁固2年・罰金判決をうける。
1870年9月4日革命後、国民軍第152部隊に勤務。20区中央共和委員会委員。同職組合連合会議所の指導者。ドイツ軍のパリ攻囲中、労働組合とインタナショナル諸支部を政治闘争に組織的に参加させる。
1871年3月26日、同時に2区(第21、18区)からコミューン議員に選出される。3月30日郵便局長に任命され、通信事務を整え、高級事務員のサボタージュを粉砕。4月5日から財政委員会委員。4月3日から労働・交換委員会委員。公安委員会設置に反対投票し、「少数派」宣言に署名。「五月の一週間」の戦闘に積極的に参加。コミューン崩壊後、ロンドンに亡命。欠席裁判で死刑判決。
1871年8月8日、インタナショナル総評議会員に選ばれ、会計係になる。ロンドン協議会(1871年9月)の代議員として、コミューン経験にもとづく労働者階級の政治行動についての決議を支持。1871年秋、マルクス参加の下にロンドンにつくられた「社会調査サークル」の一員。セクト主義的冒険主義的な「一八七一年、ロンドン在住フランス人支部」が、テイスを総評議会反対闘争に引き入れようとするが失敗。1880年恩赦でフランスに帰国、社会主義運動に参加。
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・連盟軍50、イシ砦を通り、ムードンの東方クラマール(シャティオンとともにヴァンヴ砦の前哨地)に出現。彼らは住民たちに直接選挙を実施させる。
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・ヴェルサイユ軍が偵察。ヌイーの橋上でサーベルをかざすド・ガリフェ将軍は、部下を従えず、連盟兵にとり囲まれるが、釈放される。
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・マルセイユ。臨時県委員会が綱領的宣言を採択。マルセイユ市会、革命勢力に反対する「秩序」勢力支持を呼び掛ける。
to be continued
2009年2月11日水曜日
横浜 日本郵船歴史博物館
明治17(1884)年10月16日~23日 秩父(12)「乍恐天朝様ニ敵対スルカラ加勢シロ」 佐久の由党員菊池貫平・井出為吉、秩父蜂起に同調決意 自由党本部の鎮撫使、秩父入り
■明治17(1884)年秩父(12)「乍恐天朝様ニ敵対スルカラ加勢シロ」
*
10月16日
・「朝野新聞」雑報「年賦無利息請願党」。困民党を「無類ニケチナル党派」と揶揄。
この頃、「自由新聞」社説もまた、困民党は「国家心腹の病」「誠に恐るべき1大痼疾の開端」と突き放す。
*
10月18日
・石坂公歴ら神奈川県出身の在京民権青年たちの読書会、始まる。~18年1月17日(9回)。神奈川県自由党系青年を結集。若林美之輔・堀江荘太郎・北村門太郎(透谷)・水島丑之助ら第1線民権家など20名。
北村門太郎(透谷、早稲田大政治科)は11月15日に1回出席のみ(透谷の心境は公歴から離れ始める)。
*
10月19日
・「自由党中有名ノ弁士」を招いて大宮で演説会。
*
19日
・露木殺し被告加藤民五郎ら8人全員死刑判決。横浜重罪裁判所。
農民や指導者(須長ら)の抱く先の「松木騒動」同等の処分との甘い期待は裏切られ、権力の強い意思を示す。
*
10月20日
・秩父、新井周三郎宅で会合。
「周三郎宅ニ寄り集合シタル折、周三郎ガ延期願立御取上ゲニナラザレバ、債主ヲ打毀チタル上、警察署ヲモ破壊スルヨリ外ナシト云フニ同意致シヲリタリ。」
*
・佐久。秩父郡三沢村の小野派一刀流剣士(田代栄助の子分)荻原勘次郎(23、のち三沢村小隊長、懲役8年)、南佐久郡相木村菊池恒之助(40)方を訪問。
自由党員菊池貫平・井出為吉に秩父蜂起の際の同調求め賛意得る。荻原が戻るとき井出代吉を視察のために同道させる(佐久の第1陣)。
*
勘次郎、「今回大宮の田代栄助を首領と仰ぎ以て政府顚覆の革正軍を起すぺく、既に檄を四方に飛ばし、秩父一度蹶起せば四隣忽ち響応の策略である。就ては当地諸君に於ても是非参加を仰ぎたい。・・・来る二十六日には秩父郡石間村あのう山(莱野山)に大会を催するから様子見旁々有志両三輩の御臨場を仰ぎたい・・・」と言う。
北相木村の自由党員・有志は協議のうえ、菊池貫平、井出為吉、菊池市三郎、高見沢仙松の4人をまず派遣し、「篤と形勢を視察の上、模様によっては全部引揚げる事、又充分見込みがある様なら誰か一人帰還報告を待ち夫れより一同出発仕ようといふことにした」と云う。
また、「公然到着を報じ一旦同盟をなせし上、又其模様が面白からじとあって其処を立退くと云ふ事は、場合に依って或は出来兼ねるやも知れず。是は夜に入って、群集に交り、篤と様子を見極めた上にて充分見込みが相立つ様なら、其処で公然申込むも決して遅い話でない」と菊地貫平が主張。
*
佐久からは、第1陣(21日)井出代吉、第2陣(25日)北相木村菊池恒之助(40)・菊池市三郎(20)、第3陣(27日)北相木村菊池貫平(37)・井出為吉(25)が、秩父へ出発。
*
□秩父と佐久の関係。
萩原勘次郎を宿泊させた菊池恒之助(40)の判決文(罰金15円)に、「被告人ハ明治十七年九月頃萩原勘次郎外壱名ヲ剣道指南ノタメ自村ニ招待シテ宿泊セシメタリシ際、埼玉県武蔵国秩父郡ニオイテ困民団結ノ模様アルヲ聞知シ居タルトコロ同年十月二十日サラニ勘次郎来宅、同郡ニオイテイヨイヨ困民党ヲ結ビ債主ニ対シ年賦据置ノ談判ヲナシソノ急ヲ救ハント計画中ナレバ当地方ニオイテモソノ党ヲ結ビ彼我通牒シテ談判セバ困民ノタメナラント勧誘セラレ同意ヲ表シ」とある。
これを見るだけでも勘次郎は、既に9月に「剣道指南」の名目でこの村を訪問しており、秩父からのオルグのアプローチは以前よりあったと推測できる。
*
10月20日
・この頃(20日頃)、群馬・山中谷の乙父村の鶴吉、上州自由党の拠点・南甘楽郡坂原村の党員新井省三に秩父の様子を尋ねる。石間の新井繁太郎に聞けとのことで、彼を訪問し11月1日蜂起を知る。
新井愧三郎の南甘楽郡坂原村には自由党員29名で2/3が明治15年以降入党者。しかし、秩父事件参加者は新井省三含む2名のみ。また、群馬側の秩父事件被告261名中、この村からは雇われた代人2名のみ。
*
10月22日
・この頃(22日頃)、群馬・日野村の新井貞吉(小板橋禎吉)、恩田宇市のオルグを受ける。
*
宇市は、「何レ当年之内ニハ秩父郡ニ於テ自由党ノ式ヲ挙ルニ付、其時ニハ自由党ハ出ル様ニ」と内々聞かされ、その後も、「式ヲ挙ル事モ荒増極マリ、今一度秩父へ往テ来レバ時日モ定マルニ付、村方ノ自由党へ能ク咄シヲシテ置イテ貰ヒタシ」と聞かされる。このとき宇市らは貞吉の家に泊る。
*
10月23日
・この頃、大井憲太郎派遣の自重促す「鎮撫」使氏家直国、井上伝蔵宅入り。
「東京ノ本部カラ軽率ナキ様致セト申越シタル」(常次郎尋問)。先に秩父自由党(井上伝蔵か)が獄中の村上泰治の妻ハンを大井憲太郎の許に派遣。
ハンは、大井を竹川町の邸に訪ね、「兵を挙ぐる、まさに三日の中に在る」と告げる。大井は驚き軽挙妄動がことを誤ると戒め、氏家直国を秩父へ急派し説得させる。しかし、困民たちの堅い決意を翻意させることはできない。
*
□「而して一方に於ては、村上の妻を遣はして大井憲太郎の所に到らしめ、兵を拳ぐるまさに三日の中に在るを報ず。大井大に驚き、其軽挙事を誤るを慮り、特に部下氏家直国を遣はして之を鎮撫せしむ・・・。」(「自由党史」)。
「東京ノ本部カラ軽卒ナキ様致セト申越シタルコト」
「問 東京本部ヨリ、何日、誰レカ伝蔵方ニ来リシカ、且ツ汝ハ本部ノ使ニ面会セシヤ。
答 使ノ来リシハ本年十月二十三日ノ夜ニ有之候、而シテ其使ノ氏名ハ自分知ラザルハ勿論、巳ニ面会モ致サザルナリ、尤モ暴発ノ事ニ決シタルガ為メ、使モ力ヲ落シ帰京シタリト伝蔵ヨリ承知セリ。」(常次郎訊問調書)。
村上泰治の妻ハンを本部に派遣したのは前後の文脈から井上伝蔵と推測できる。
*
□常次郎供述に、「自由党本部ヨリ下吉田村井上伝蔵方ニ騒挙ノ事ナキ様ニ致セト申越シタル事モアレバ、自分外ニ井上伝蔵ハ強ヒテ平和説ヲ唱へクレドモ・・・」とあり、秩父国民党内で自由党中央に名の知られる正式党員伝蔵・常次郎は、本部指令の平和説をとったと推測できる。
この平和説は本部指令への盲従と日和見主義と見られ、常次郎は即時決起派加藤織吉・柏木太郎吉からと、関東一斉蜂起・蜂起延期説の栄助と、から挟撃される。
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23日
・ドイツ留学中森鴎外、衛生学者ホフマン訪問。
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to be continued
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10月16日
・「朝野新聞」雑報「年賦無利息請願党」。困民党を「無類ニケチナル党派」と揶揄。
この頃、「自由新聞」社説もまた、困民党は「国家心腹の病」「誠に恐るべき1大痼疾の開端」と突き放す。
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10月18日
・石坂公歴ら神奈川県出身の在京民権青年たちの読書会、始まる。~18年1月17日(9回)。神奈川県自由党系青年を結集。若林美之輔・堀江荘太郎・北村門太郎(透谷)・水島丑之助ら第1線民権家など20名。
北村門太郎(透谷、早稲田大政治科)は11月15日に1回出席のみ(透谷の心境は公歴から離れ始める)。
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10月19日
・「自由党中有名ノ弁士」を招いて大宮で演説会。
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19日
・露木殺し被告加藤民五郎ら8人全員死刑判決。横浜重罪裁判所。
農民や指導者(須長ら)の抱く先の「松木騒動」同等の処分との甘い期待は裏切られ、権力の強い意思を示す。
*
10月20日
・秩父、新井周三郎宅で会合。
「周三郎宅ニ寄り集合シタル折、周三郎ガ延期願立御取上ゲニナラザレバ、債主ヲ打毀チタル上、警察署ヲモ破壊スルヨリ外ナシト云フニ同意致シヲリタリ。」
*
・佐久。秩父郡三沢村の小野派一刀流剣士(田代栄助の子分)荻原勘次郎(23、のち三沢村小隊長、懲役8年)、南佐久郡相木村菊池恒之助(40)方を訪問。
自由党員菊池貫平・井出為吉に秩父蜂起の際の同調求め賛意得る。荻原が戻るとき井出代吉を視察のために同道させる(佐久の第1陣)。
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勘次郎、「今回大宮の田代栄助を首領と仰ぎ以て政府顚覆の革正軍を起すぺく、既に檄を四方に飛ばし、秩父一度蹶起せば四隣忽ち響応の策略である。就ては当地諸君に於ても是非参加を仰ぎたい。・・・来る二十六日には秩父郡石間村あのう山(莱野山)に大会を催するから様子見旁々有志両三輩の御臨場を仰ぎたい・・・」と言う。
北相木村の自由党員・有志は協議のうえ、菊池貫平、井出為吉、菊池市三郎、高見沢仙松の4人をまず派遣し、「篤と形勢を視察の上、模様によっては全部引揚げる事、又充分見込みがある様なら誰か一人帰還報告を待ち夫れより一同出発仕ようといふことにした」と云う。
また、「公然到着を報じ一旦同盟をなせし上、又其模様が面白からじとあって其処を立退くと云ふ事は、場合に依って或は出来兼ねるやも知れず。是は夜に入って、群集に交り、篤と様子を見極めた上にて充分見込みが相立つ様なら、其処で公然申込むも決して遅い話でない」と菊地貫平が主張。
*
佐久からは、第1陣(21日)井出代吉、第2陣(25日)北相木村菊池恒之助(40)・菊池市三郎(20)、第3陣(27日)北相木村菊池貫平(37)・井出為吉(25)が、秩父へ出発。
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□秩父と佐久の関係。
萩原勘次郎を宿泊させた菊池恒之助(40)の判決文(罰金15円)に、「被告人ハ明治十七年九月頃萩原勘次郎外壱名ヲ剣道指南ノタメ自村ニ招待シテ宿泊セシメタリシ際、埼玉県武蔵国秩父郡ニオイテ困民団結ノ模様アルヲ聞知シ居タルトコロ同年十月二十日サラニ勘次郎来宅、同郡ニオイテイヨイヨ困民党ヲ結ビ債主ニ対シ年賦据置ノ談判ヲナシソノ急ヲ救ハント計画中ナレバ当地方ニオイテモソノ党ヲ結ビ彼我通牒シテ談判セバ困民ノタメナラント勧誘セラレ同意ヲ表シ」とある。
これを見るだけでも勘次郎は、既に9月に「剣道指南」の名目でこの村を訪問しており、秩父からのオルグのアプローチは以前よりあったと推測できる。
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10月20日
・この頃(20日頃)、群馬・山中谷の乙父村の鶴吉、上州自由党の拠点・南甘楽郡坂原村の党員新井省三に秩父の様子を尋ねる。石間の新井繁太郎に聞けとのことで、彼を訪問し11月1日蜂起を知る。
新井愧三郎の南甘楽郡坂原村には自由党員29名で2/3が明治15年以降入党者。しかし、秩父事件参加者は新井省三含む2名のみ。また、群馬側の秩父事件被告261名中、この村からは雇われた代人2名のみ。
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10月22日
・この頃(22日頃)、群馬・日野村の新井貞吉(小板橋禎吉)、恩田宇市のオルグを受ける。
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宇市は、「何レ当年之内ニハ秩父郡ニ於テ自由党ノ式ヲ挙ルニ付、其時ニハ自由党ハ出ル様ニ」と内々聞かされ、その後も、「式ヲ挙ル事モ荒増極マリ、今一度秩父へ往テ来レバ時日モ定マルニ付、村方ノ自由党へ能ク咄シヲシテ置イテ貰ヒタシ」と聞かされる。このとき宇市らは貞吉の家に泊る。
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10月23日
・この頃、大井憲太郎派遣の自重促す「鎮撫」使氏家直国、井上伝蔵宅入り。
「東京ノ本部カラ軽率ナキ様致セト申越シタル」(常次郎尋問)。先に秩父自由党(井上伝蔵か)が獄中の村上泰治の妻ハンを大井憲太郎の許に派遣。
ハンは、大井を竹川町の邸に訪ね、「兵を挙ぐる、まさに三日の中に在る」と告げる。大井は驚き軽挙妄動がことを誤ると戒め、氏家直国を秩父へ急派し説得させる。しかし、困民たちの堅い決意を翻意させることはできない。
*
□「而して一方に於ては、村上の妻を遣はして大井憲太郎の所に到らしめ、兵を拳ぐるまさに三日の中に在るを報ず。大井大に驚き、其軽挙事を誤るを慮り、特に部下氏家直国を遣はして之を鎮撫せしむ・・・。」(「自由党史」)。
「東京ノ本部カラ軽卒ナキ様致セト申越シタルコト」
「問 東京本部ヨリ、何日、誰レカ伝蔵方ニ来リシカ、且ツ汝ハ本部ノ使ニ面会セシヤ。
答 使ノ来リシハ本年十月二十三日ノ夜ニ有之候、而シテ其使ノ氏名ハ自分知ラザルハ勿論、巳ニ面会モ致サザルナリ、尤モ暴発ノ事ニ決シタルガ為メ、使モ力ヲ落シ帰京シタリト伝蔵ヨリ承知セリ。」(常次郎訊問調書)。
村上泰治の妻ハンを本部に派遣したのは前後の文脈から井上伝蔵と推測できる。
*
□常次郎供述に、「自由党本部ヨリ下吉田村井上伝蔵方ニ騒挙ノ事ナキ様ニ致セト申越シタル事モアレバ、自分外ニ井上伝蔵ハ強ヒテ平和説ヲ唱へクレドモ・・・」とあり、秩父国民党内で自由党中央に名の知られる正式党員伝蔵・常次郎は、本部指令の平和説をとったと推測できる。
この平和説は本部指令への盲従と日和見主義と見られ、常次郎は即時決起派加藤織吉・柏木太郎吉からと、関東一斉蜂起・蜂起延期説の栄助と、から挟撃される。
*
23日
・ドイツ留学中森鴎外、衛生学者ホフマン訪問。
*
to be continued
2009年2月9日月曜日
横浜 ヘボン博士邸跡
*
前に一度引用した一文です。
*
「慶応二年には、幕府が一般に海外渡航を許した。この年岸田吟香が、ヘボンとともに上海に渡っている。ヘボン、米国長老教会の宣教師で医師、安政六年(一八五九)来日、のち明治学院最初の総理となる。ヘボン式ローマ字の創始者である。このヘボンの和英辞書編纂の助手となったのが岸田吟香で、稿が完成した一八六六年、その印刷のため上海に渡ったのである。このときは約九ヵ月で帰国するが、のち『東京日日』の主筆として、福地桜痴、成島柳北らとともに活躍、一八七七年(明治十)東京日日を辞すると、銀座に楽善堂という薬店を開業、ヘボンから処方を教わった眼薬精綺水の販売を始め、一八八〇年、英租界河南路に葦堂支店を開設した。上海の楽善堂は、薬・雑貨のほか、中国の古典の小型活字版を出版して好評を博し、年に三万冊の売り上げをみたという。
いっぽう岸田はこれによって得た資金で、多くの「支那浪人」や軍人を食客として養い、漢口・長沙など各地には、これらによる楽善堂支店・出張所が開設され、日本の中国進出の触角あるいは尖兵ともなった。岸田は東亜同文会、東亜同文書院の創設にも関わっている。画家の岸田劉生の父としても知られる。」(丸山昇「上海物語」(講談社学術文庫)。
*
ヘボンの律義さが印象的。
*
天文3(1534)年 信長1歳
天文3(1534)年 [信長1歳]
1月10日
・三条西実隆、若狭武田氏の在京雑掌吉田四郎兵衛光慶から旧冬の書状と海鼠腸五桶を受け取り、22日扇子と共に四郎兵衛へ書状を遣わす(「実隆公記」)。
*
24日
・山科言継、山科郷還付安堵の礼に将軍義晴の仮幕府のある桑実寺へ下向。~閏正月4日。この頃の将軍義晴と山城守護晴元の状況。
*
山科家は山科東庄の農民の半済闘争による年貢難渋に悩まされ、天文2年8月、将軍足利義晴の滞在する近江の桑実寺に雑掌を派遣して安堵の奉書を要請、同月15日付で幕府の奉行人奉書発給を受ける。
「山科内蔵頭雑掌申す城州山科大宅郷地頭職・同諸散在椥辻等の事、去年御下知を成さると雖ども、違乱の族未だ休まずと号し、事を左右に寄せ年貢難渋せしむと云々。以ての外の次第なり。早く先々の如く厳密に彼の雑掌に沙汰し渡すべきの由、仰せ出さるゝ所の状件の如し。 天文二 八月十五日 (飯尾)尭連判 (松田)晴秀判 当所名主沙汰人中」
*
しかし、幕府奉書のみでは実効なく、同年9月5日、言継は雑掌沢路隼人佐を摂津芥川城に下向させ、山城守護細川晴元の遵行状の交付を仰ぐ。
「山科内蔵頭家雑掌申す禁裏御料所城州東庄大宅郷地頭職・同諸散在地椥辻等の事、公方の御下知を対せられ相違無きの処、繹を左右に寄せ年賀以下難渋すと云々。言語道断の次第なり。所詮、他の妨を退け厳密に其の沙汰を彼の雑掌に致すべきの由状件の如し。天文二 九日七日 (茨城)長隆 当所名主百姓中」。
茨木長隆は細川晴元の奉行人。この頃は、芥川城(高槻市)で細川氏による訴訟手続・審理が実行されており、京都の荘園領主その他種々の権益を権力によって保障されることを望む人々は、近江桑実寺と摂津芥川城の双方へ足を運ぶ必要がある。
*
[行程]
24日、局務(太政官外記局の事務を掌る家)押小路師象・雑掌沢路隼人佐・小者与三郎と共に京都発。
25日五ツ時分(午前8時前後)桑実寺着。姻戚の高倉家の宿へ落ち着き、翌26日九ツ過ぎ(正午過ぎ)、将軍義時の居所へ出向く。言継には特に対面が許され、持参した太刀を義晴に献上。その後、子局(コノツボネ)・今局(イマノツボネ)などに土産の薫物をことづけ、近習の朽木民部少輔の居館を訪ね、次いで内談衆大館常興・同高信・同兵庫頭・近習三淵弥二郎・上野与三郎・細川伊豆守・奉行人清四郎らを訪問、それぞれ土産として馬具の手綱・腹帯等をつかわす。夜は高倉永家の居館で宴会、前記の近習、海老名備中守・小林民部少輔・安東平次郎等の奉公衆が招請され、深夜大飲に及ぶ。
このように桑実寺には将軍側近はじめ内談衆・申次・奉公衆・奉行人(右筆衆)など、幕府家臣団の殆どが各宿坊や近辺民家等に分宿し、幕府の機構がそっくり湖東の一寺院に移動した観がある。
桑実寺は近江守護六角定頼の本城(守護所)観音寺城の西南の山すそに位置する要害の地にある。
*
2月(日付なし)
・越前敦賀郡司下代の前波吉長下知状によると、これより先、川舟衆と河野屋衆の間に紛争。
裁決は越前諸浦の入買(塩・四十物などの買い付け)は川舟衆のみに認められ、入舟(荷物の敦賀湊への運送)は川舟・河野屋両座にのみ許されるとし、他が入舟を行なったときは荷物など押さえて注進せよとする。
*
敦賀湊を含む敦賀郡は、朝倉氏支配下では敦賀郡司が置かれて支配される。
敦賀湊では室町中期頃には船仲間として川舟座・河野屋座が成立。
川舟座は嶋郷内の舟人により構成され、廻船業の主力となる。河野屋座もやがて廻船業に加わるが、天正年間(1573~92)には川東へ移り、川東御所辻子町・川東唐人橋町ができたといわれる。
*
2日
・日向、米良一揆衆、新納高城を攻め落とす。5日、伊東祐清、伊東左兵衛佐派をほぼ制圧。28日、新納高城の米良一揆衆を鎮圧するが、重臣荒武三省ら多数を失う。
*
29日
・荘園領主山科言継、禁裏「六町」町組の執行機関「月行事」(ガツギョウジ)に宛てて、禁裏の周囲に防禦用堀を構えるため朝廷より人夫動員命令が下ると伝達(「言継卿記」3月1日条)。
但し、この六町は禁裏堀人夫賦課の為に編成された特殊な組町で、この段階では荘園体制に組込まれている。町衆による町の自発的防衛は未成立。
*
山科家の折紙。
「禁裏様東南の堀の事、近日御用心の間、御警固を致されんが為、六町の輩普請せられ候はば神妙たるべきの由、堅く申すべきの旨、山科殿御奉行候所なり。仍て状件の如し。 天文三年二月廿九日 沢路隼人佐重清判 坂田民郡少輔頼家判 六町月行事」。
自治的組織としての町組「六町」の存在を示す初見史料。町組の執行機関「月行事」が置かれており、厳蔵主(ゾウス)がその月行事である事などが判明する。
*
この「月行事」は、農村における自治組織「惣」の執行機関、乙名(オトナ)・沙汰人等に相当。文明17(1485)年末の山城上3郡国一揆にも「惣国月行事」として史料に現れている(「大乗院寺社雑事記」文明18年5月9日条)。また、近世都市の下級町役人として江戸・大坂・博多等にその名称が残る。このような自治組織町組「六町」(一条二町・正親町二町・鳥丸・橘辻子)は京都の町組の個別名称として初めて現れるもので、六町結成の直接的契機は、禁裏堀普請人夫の賦課とされる。
*
山科言継の邸宅は、禁裏御所に近い一条烏丸下ル東側、烏丸通りに面する場所にある(現、京都御苑内の乾御門・中立売御門の中間、宮内庁京都事務所の南側付近)。この言継の居住した一条鳥丸の周辺に禁裏六丁町が形勢される。
*
3月(日付なし)
-
・越後守護上杉定実の一族上条定憲と守護代長尾為景、上条・柏崎周辺で合戦。
*
・仏、エチエンヌ・ドレ、トゥールーズで逮捕。3日間下獄。釈放。5月下旬、逃亡。9月リヨンへ。
*
18日
・朝廷、将軍足利義晴へ法華宗徒の京都山科郷違乱を停止させる(「言継卿記」)。
*
法華一揆は天文2年末以降、反細川晴元党・一向一揆の拠点となるうる郊外農村を焼払うが、この頃には更に進んで郷村の下地支配を行おうと、洛外農村の代官請(徴税請負)を諸領主に申請するに至る。山科言継の山科七郷もその対象となる。
町一揆を疑惑の目で眺めていた言継は、ここに至り明確に警戒・不快の念を持つ。「広橋(兼秀)より使いこれあり。山科七郷の儀に就(ツ)いて申し度きこと有るの由申され候。番の間明日罷るべきの由申し候い了んぬ。」。翌日広橋兼秀の邸へ赴く。「四ツ時分広橋へ罷り向かうの処、江州椿阿より、大和内山の中院僧正を以て言伝てすと云々。日蓮衆、木沢(長政)に付きて六角(定頼)を以て、宇治郡十一ケ郷・山科七郷・東山十郷散在一円申し請うと云々。山科の儀相支えらるべきの由申し候と云々。言語道断の儀なり。則ち披露すべきものなり。」(「言継卿記」3月15日条)。
*
この町一揆の要請は、木沢長政・六角定頼が絡んでおり、天文元(1532)年の山科本願寺焼打ちとその後の一向一揆弾圧に関する法華一揆への恩賞を意味することは明らか。
言継は、政所被官の下笠又次郎を細川晴元被官の内藤・波々伯部(ハウカベ)両氏の許へ遣わし、雑草の沢路隼人佐を山科庄の現地に下向させ情勢を探らせ、翌日朝廷に参内しこのことを内奏(「言継卿記」同年3月16、17日条)。3月18日、朝廷は、山科七郷郷民が禁裏門役を勤仕していることを理由に、法華一揆の代官請を拒否し、将軍に対してこれを施行すべきを命じた頭弁宛ての女房奉書を発給(「同」3月18日条)。このように山科七郷の代官請は停止されるが、その他地域の状況は判明しない。
*
4月(日付なし)
・大内軍、豊後勢場原(セイバガハラ、大分県山香町山浦)で大友軍に大勝。24日、大内義隆、禁裏に即位料を献上。
*
・フランス、ジャック・カルティエ、セント・ローレンス湾とそのその周辺を調査
・スペイン、無名征服者による「ペルー征服記」刊行
*
5月(日付なし)
・大内軍、豊後薄野浦(大分県真玉町)で、7月、豊後玖珠軍で、大内軍と戦う。大内軍、大友義鑑を豊後の一角に封じ込める体制をとりつつある。
*
・後奈良天皇、大内義隆他に即位費用進献を命じる女房奉書を下す。1536年迄に2500貫近くが納入される(太宰大弐を狙う大内義隆が1535年正月2140貫を、1535年11月朝倉義景が100貫を納入。
*
4日
・ジャン・カルヴァン、ノワイヨンにおける聖職禄の受領をやめてカトリック教会と絶縁。逃避生活続ける。パリ→ポワチエ→オルレアン→ロレーヌ→ストラスブール→バーゼル(晩秋)
*
12日
・織田信長、誕生。
*
6月(日付なし)
・越前今立郡水落の代官小島景重、近間藤四郎(武士)が当地で紙を販売する権利を認める。この販売権は「正金与大郎紙之座」と呼ばれ府中住人の正金与大郎が持っていたもので、一部が近間に譲渡さる。この際、近間は水落神明社に参物を沙汰することを命じられる。狭い範囲で在地有力寺社が紙販売の座に関与している。
*
・アイルランド総督キルデア伯トーマス、ダブリン城包囲。陥落出来ず。
*
29日
・将軍義晴、近江湖東の桑実寺を引き払い坂本に到着。
*
30日
・備前守護代浦上政宗(天神山城)の将島村豊後守盛実(高取山城主)、宇喜多能家を備前砥石城に攻め、殺害。子(興家)、孫の八郎(直家)、郎党らは鞆の浦へ逃亡。備前福岡の豪商阿部善定、鞆の浦に逼塞している宇喜多一族を6年間引き取る。
*
7月(日付なし)
・毛利元就、備後宮城(殿奥城、芦品郡)の宮直信を攻め落とす
*
・真里谷武田恕鑑、病没。後継信隆は小弓公方足利義明の攻撃に対して北条氏綱を頼る。
*
・スペイン、「ペルー及びクスコ地方征服実録」刊行
*
20日
・大内義隆の兵と大友義鑑の兵、豊後国玖珠郡にて戦う。
*
24日
・仏、フランソワ1世、免税射手隊を7軍団(6千名/軍団)に編成替え。徴兵制導入。
*
・ジャック・カルティエ、フランソワ1世の命を受けセントローレンス河流域を探索。ガスペ半島上陸。北米大陸の北半分をフランス領と宣言。
*
8月3日
・木沢長政・三好政長ら、一向宗徒を山城の谷山城(西京区松尾万石町付近)に攻め敗れる。
「谷の城今日の風雨にやぐら壁等吹き破ると云々。仍て今夜落ち候い了んぬ。」(「言継卿記」8月3日条)。
「夜中より今朝に至り谷の城焼くと云々。去り乍ら大井河の水事の外深く候て、諸陣各西岡にこれありと云々。」(「同」4日条)。
天文2年6月、晴元は大坂石山の証如光教と三好千熊丸(のち長慶)の仲介により和睦しているが、一揆の抗戦派と細川晴国らはまだ晴元に抵抗を続け、今やまた京都近郊にその勢力が及ぶ。
*
11日
・三好伊賀守ら、本願寺証如(光教)に応じて摂津椋橋城に拠る。細川晴元の兵、これを攻めて交戦するが敗れる。
*
・結城晴朝、下総に誕生(異説1535年)。
*
15日
・イエズス会の実質的な創立。
パリ、イグナティウス・デ・ロヨラ(43)、フランシスコ・ザビエル(28)以下7人の同志、モンマルトルの丘に登り聖ディオニソス小聖堂地下で①清貧、②貞潔、③聖地巡礼後、使徒的生活に献身を誓う。(1540年、教皇パウロ3世、正式認可)
*
26日
・摂津在の細川晴元、上洛。相国寺泊。近江朽木在の将軍義晴、上洛。両者和解。
*
9月(日付なし)
・大内氏の豊前守護代杉重俊、大友被官の星野親忠兄弟を筑後大生寺城(福岡県浮羽町)に敗死させる。
*
3日
・将軍義晴、入京。建仁寺入り。ついで南禅寺に移る。
*
10月(日付なし)
・三好千熊丸(長慶)、木沢長政の仲介で細川晴元と講和(晴元に帰服)。幕僚(内衆)となる。
*
・大内軍、肥前勢福寺城を包囲。少弐冬尚は蓮池城(佐賀県蓮池町)に逃亡。一方、大内義隆は龍造寺家兼に和睦を依頼。30日、少弐資元の隠居と冬尚への東肥前半国安堵を条件に、大内義隆・少弐資元講和成立。12月14日、大内義隆が働きかけ、将軍義晴の勧告により、大内・大友講和締結。
*
・教皇パウルス(パオロ)3世(66)、即位(アレッサンドロ・ファルネーゼ、位1534~1549)。妹ジュリアは教皇アレクサンデル6世の愛人。教皇庁粛清、イエズス会認可(1540年)、アヴィニョンやイタリアの異端審問再編成、トリエント公会議召集(1545~1563) 。
*
・初旬、リヨン市立病院医師ラブレー(40)、「第一の書(ガルガンチェア)」。
・リヨン、エチエンヌ・ドレ、「演説集」(序文日付34/8/13)。トゥールーズでの演説(トゥールーズ市民攻撃文)。
*
17日
・檄文事件(プラカード事件、アンボアーズ事件)。
パリやオルレアンなどの街頭、カトリックのミサを非難するビラが出現。フランソワ1世居室の扉に貼り付ける。国王フランソワ1世、新教徒に対する弾圧を開始(ジャン・オリユー説:弾圧したのはパリ高等法院でフランソワ1世はドイツルター派との同盟を重視、寛大な態度)、翌年5月まで続く。クレマン・マロ、フランソワ・ラブレーなど文学者・思想家、パリ退去。
*
20日
・三好政長、本願寺証如(光教)の兵三好伊賀守らと摂津国潮江荘に戦うが敗れる。
*
11月(日付なし)
・小弓公方足利義明、真里谷武田信隆(恕鑑の子)の拠る椎津城を攻撃。信隆は逃亡、西上総の峰上・百首両城及び真里谷新地の天神台城(木更津市)を拠点に、北条氏の援軍を得て対抗。
*
・武田太郎(晴信、14)の妻・上杉氏(上杉朝興の娘)、難産のため没。
*
・イングランド国教会成立。
ヘンリ8世、宗教改革議会召集。「国王至上法(国家首長令)」可決・制定。国王を英国宗教界における唯一・最高の首長と定める。英教会制度はローマ・カトリック教会から独立。首長はイングランド国王。
*
19日
・幕府、吉田兼永と吉田兼右の唯一神道に関わる相論を裁許。吉田兼右へ管掌させる裁決を下す。
*
12月(日付なし)
・大内義隆、後奈良天皇の即位費用2千貫文を献上。太宰大弐任官の狙い。しかし、天皇生母が没し、即位礼は36年に延引。
*
・帰京後まもない将軍義晴、大友義鑑に大内義隆との講和を命じる。
*
5日
・雑務料の関所に対し法華一揆が新立の関所と見なして停廃させている。事実上法華一揆が京都周辺の関所の設立停廃認可権を行使している状況が窺える。
*
「土御門修理大夫有春朝臣申す雑務料の事、年中二季日数を限り自余に混ぜられず古今相違無きの処、新関の類と号し違犯すと云々。太(ハナハ)だ然るべからず。所詮重ねて御成敗の上は、先々の如く其の沙汰を致すべし。更に遅怠有るべからざるの由仰せ出さるゝ所の状件の如し。 天文三 十二月五日 長俊(花押) 貞兼(花押) 諸法花(華)衆諸壇(檀)方中」(「土御門文書」)。
*
天文元(1532)年~5(1536)年、細川晴元政権と法華一揆は共存・補完関係にある。
山城郡代の存在にも拘らず、幕府が法華一揆に洛中(梅津等の洛外大社寺門前を含む)の軍事・刑事警察権を付与していた点が推測される。
この時期の細川氏の奉行人、茨木長隆・飯尾元運(モトモチ)・為清らの同地域における発給文書にも、概ね所務・雑務沙汰つまり動産不動産関係の行政執行命令に限定され、洛中には細川氏の検断権が及んでいなかったことがほぼ裏付けられる。
*
21日
・幕府、土御門亀寿丸に洛中巷所を安堵(「土御門文書」)。
to be continued
1月10日
・三条西実隆、若狭武田氏の在京雑掌吉田四郎兵衛光慶から旧冬の書状と海鼠腸五桶を受け取り、22日扇子と共に四郎兵衛へ書状を遣わす(「実隆公記」)。
*
24日
・山科言継、山科郷還付安堵の礼に将軍義晴の仮幕府のある桑実寺へ下向。~閏正月4日。この頃の将軍義晴と山城守護晴元の状況。
*
山科家は山科東庄の農民の半済闘争による年貢難渋に悩まされ、天文2年8月、将軍足利義晴の滞在する近江の桑実寺に雑掌を派遣して安堵の奉書を要請、同月15日付で幕府の奉行人奉書発給を受ける。
「山科内蔵頭雑掌申す城州山科大宅郷地頭職・同諸散在椥辻等の事、去年御下知を成さると雖ども、違乱の族未だ休まずと号し、事を左右に寄せ年貢難渋せしむと云々。以ての外の次第なり。早く先々の如く厳密に彼の雑掌に沙汰し渡すべきの由、仰せ出さるゝ所の状件の如し。 天文二 八月十五日 (飯尾)尭連判 (松田)晴秀判 当所名主沙汰人中」
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しかし、幕府奉書のみでは実効なく、同年9月5日、言継は雑掌沢路隼人佐を摂津芥川城に下向させ、山城守護細川晴元の遵行状の交付を仰ぐ。
「山科内蔵頭家雑掌申す禁裏御料所城州東庄大宅郷地頭職・同諸散在地椥辻等の事、公方の御下知を対せられ相違無きの処、繹を左右に寄せ年賀以下難渋すと云々。言語道断の次第なり。所詮、他の妨を退け厳密に其の沙汰を彼の雑掌に致すべきの由状件の如し。天文二 九日七日 (茨城)長隆 当所名主百姓中」。
茨木長隆は細川晴元の奉行人。この頃は、芥川城(高槻市)で細川氏による訴訟手続・審理が実行されており、京都の荘園領主その他種々の権益を権力によって保障されることを望む人々は、近江桑実寺と摂津芥川城の双方へ足を運ぶ必要がある。
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[行程]
24日、局務(太政官外記局の事務を掌る家)押小路師象・雑掌沢路隼人佐・小者与三郎と共に京都発。
25日五ツ時分(午前8時前後)桑実寺着。姻戚の高倉家の宿へ落ち着き、翌26日九ツ過ぎ(正午過ぎ)、将軍義時の居所へ出向く。言継には特に対面が許され、持参した太刀を義晴に献上。その後、子局(コノツボネ)・今局(イマノツボネ)などに土産の薫物をことづけ、近習の朽木民部少輔の居館を訪ね、次いで内談衆大館常興・同高信・同兵庫頭・近習三淵弥二郎・上野与三郎・細川伊豆守・奉行人清四郎らを訪問、それぞれ土産として馬具の手綱・腹帯等をつかわす。夜は高倉永家の居館で宴会、前記の近習、海老名備中守・小林民部少輔・安東平次郎等の奉公衆が招請され、深夜大飲に及ぶ。
このように桑実寺には将軍側近はじめ内談衆・申次・奉公衆・奉行人(右筆衆)など、幕府家臣団の殆どが各宿坊や近辺民家等に分宿し、幕府の機構がそっくり湖東の一寺院に移動した観がある。
桑実寺は近江守護六角定頼の本城(守護所)観音寺城の西南の山すそに位置する要害の地にある。
*
2月(日付なし)
・越前敦賀郡司下代の前波吉長下知状によると、これより先、川舟衆と河野屋衆の間に紛争。
裁決は越前諸浦の入買(塩・四十物などの買い付け)は川舟衆のみに認められ、入舟(荷物の敦賀湊への運送)は川舟・河野屋両座にのみ許されるとし、他が入舟を行なったときは荷物など押さえて注進せよとする。
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敦賀湊を含む敦賀郡は、朝倉氏支配下では敦賀郡司が置かれて支配される。
敦賀湊では室町中期頃には船仲間として川舟座・河野屋座が成立。
川舟座は嶋郷内の舟人により構成され、廻船業の主力となる。河野屋座もやがて廻船業に加わるが、天正年間(1573~92)には川東へ移り、川東御所辻子町・川東唐人橋町ができたといわれる。
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2日
・日向、米良一揆衆、新納高城を攻め落とす。5日、伊東祐清、伊東左兵衛佐派をほぼ制圧。28日、新納高城の米良一揆衆を鎮圧するが、重臣荒武三省ら多数を失う。
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29日
・荘園領主山科言継、禁裏「六町」町組の執行機関「月行事」(ガツギョウジ)に宛てて、禁裏の周囲に防禦用堀を構えるため朝廷より人夫動員命令が下ると伝達(「言継卿記」3月1日条)。
但し、この六町は禁裏堀人夫賦課の為に編成された特殊な組町で、この段階では荘園体制に組込まれている。町衆による町の自発的防衛は未成立。
*
山科家の折紙。
「禁裏様東南の堀の事、近日御用心の間、御警固を致されんが為、六町の輩普請せられ候はば神妙たるべきの由、堅く申すべきの旨、山科殿御奉行候所なり。仍て状件の如し。 天文三年二月廿九日 沢路隼人佐重清判 坂田民郡少輔頼家判 六町月行事」。
自治的組織としての町組「六町」の存在を示す初見史料。町組の執行機関「月行事」が置かれており、厳蔵主(ゾウス)がその月行事である事などが判明する。
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この「月行事」は、農村における自治組織「惣」の執行機関、乙名(オトナ)・沙汰人等に相当。文明17(1485)年末の山城上3郡国一揆にも「惣国月行事」として史料に現れている(「大乗院寺社雑事記」文明18年5月9日条)。また、近世都市の下級町役人として江戸・大坂・博多等にその名称が残る。このような自治組織町組「六町」(一条二町・正親町二町・鳥丸・橘辻子)は京都の町組の個別名称として初めて現れるもので、六町結成の直接的契機は、禁裏堀普請人夫の賦課とされる。
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山科言継の邸宅は、禁裏御所に近い一条烏丸下ル東側、烏丸通りに面する場所にある(現、京都御苑内の乾御門・中立売御門の中間、宮内庁京都事務所の南側付近)。この言継の居住した一条鳥丸の周辺に禁裏六丁町が形勢される。
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3月(日付なし)
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・越後守護上杉定実の一族上条定憲と守護代長尾為景、上条・柏崎周辺で合戦。
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・仏、エチエンヌ・ドレ、トゥールーズで逮捕。3日間下獄。釈放。5月下旬、逃亡。9月リヨンへ。
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18日
・朝廷、将軍足利義晴へ法華宗徒の京都山科郷違乱を停止させる(「言継卿記」)。
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法華一揆は天文2年末以降、反細川晴元党・一向一揆の拠点となるうる郊外農村を焼払うが、この頃には更に進んで郷村の下地支配を行おうと、洛外農村の代官請(徴税請負)を諸領主に申請するに至る。山科言継の山科七郷もその対象となる。
町一揆を疑惑の目で眺めていた言継は、ここに至り明確に警戒・不快の念を持つ。「広橋(兼秀)より使いこれあり。山科七郷の儀に就(ツ)いて申し度きこと有るの由申され候。番の間明日罷るべきの由申し候い了んぬ。」。翌日広橋兼秀の邸へ赴く。「四ツ時分広橋へ罷り向かうの処、江州椿阿より、大和内山の中院僧正を以て言伝てすと云々。日蓮衆、木沢(長政)に付きて六角(定頼)を以て、宇治郡十一ケ郷・山科七郷・東山十郷散在一円申し請うと云々。山科の儀相支えらるべきの由申し候と云々。言語道断の儀なり。則ち披露すべきものなり。」(「言継卿記」3月15日条)。
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この町一揆の要請は、木沢長政・六角定頼が絡んでおり、天文元(1532)年の山科本願寺焼打ちとその後の一向一揆弾圧に関する法華一揆への恩賞を意味することは明らか。
言継は、政所被官の下笠又次郎を細川晴元被官の内藤・波々伯部(ハウカベ)両氏の許へ遣わし、雑草の沢路隼人佐を山科庄の現地に下向させ情勢を探らせ、翌日朝廷に参内しこのことを内奏(「言継卿記」同年3月16、17日条)。3月18日、朝廷は、山科七郷郷民が禁裏門役を勤仕していることを理由に、法華一揆の代官請を拒否し、将軍に対してこれを施行すべきを命じた頭弁宛ての女房奉書を発給(「同」3月18日条)。このように山科七郷の代官請は停止されるが、その他地域の状況は判明しない。
*
4月(日付なし)
・大内軍、豊後勢場原(セイバガハラ、大分県山香町山浦)で大友軍に大勝。24日、大内義隆、禁裏に即位料を献上。
*
・フランス、ジャック・カルティエ、セント・ローレンス湾とそのその周辺を調査
・スペイン、無名征服者による「ペルー征服記」刊行
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5月(日付なし)
・大内軍、豊後薄野浦(大分県真玉町)で、7月、豊後玖珠軍で、大内軍と戦う。大内軍、大友義鑑を豊後の一角に封じ込める体制をとりつつある。
*
・後奈良天皇、大内義隆他に即位費用進献を命じる女房奉書を下す。1536年迄に2500貫近くが納入される(太宰大弐を狙う大内義隆が1535年正月2140貫を、1535年11月朝倉義景が100貫を納入。
*
4日
・ジャン・カルヴァン、ノワイヨンにおける聖職禄の受領をやめてカトリック教会と絶縁。逃避生活続ける。パリ→ポワチエ→オルレアン→ロレーヌ→ストラスブール→バーゼル(晩秋)
*
12日
・織田信長、誕生。
*
6月(日付なし)
・越前今立郡水落の代官小島景重、近間藤四郎(武士)が当地で紙を販売する権利を認める。この販売権は「正金与大郎紙之座」と呼ばれ府中住人の正金与大郎が持っていたもので、一部が近間に譲渡さる。この際、近間は水落神明社に参物を沙汰することを命じられる。狭い範囲で在地有力寺社が紙販売の座に関与している。
*
・アイルランド総督キルデア伯トーマス、ダブリン城包囲。陥落出来ず。
*
29日
・将軍義晴、近江湖東の桑実寺を引き払い坂本に到着。
*
30日
・備前守護代浦上政宗(天神山城)の将島村豊後守盛実(高取山城主)、宇喜多能家を備前砥石城に攻め、殺害。子(興家)、孫の八郎(直家)、郎党らは鞆の浦へ逃亡。備前福岡の豪商阿部善定、鞆の浦に逼塞している宇喜多一族を6年間引き取る。
*
7月(日付なし)
・毛利元就、備後宮城(殿奥城、芦品郡)の宮直信を攻め落とす
*
・真里谷武田恕鑑、病没。後継信隆は小弓公方足利義明の攻撃に対して北条氏綱を頼る。
*
・スペイン、「ペルー及びクスコ地方征服実録」刊行
*
20日
・大内義隆の兵と大友義鑑の兵、豊後国玖珠郡にて戦う。
*
24日
・仏、フランソワ1世、免税射手隊を7軍団(6千名/軍団)に編成替え。徴兵制導入。
*
・ジャック・カルティエ、フランソワ1世の命を受けセントローレンス河流域を探索。ガスペ半島上陸。北米大陸の北半分をフランス領と宣言。
*
8月3日
・木沢長政・三好政長ら、一向宗徒を山城の谷山城(西京区松尾万石町付近)に攻め敗れる。
「谷の城今日の風雨にやぐら壁等吹き破ると云々。仍て今夜落ち候い了んぬ。」(「言継卿記」8月3日条)。
「夜中より今朝に至り谷の城焼くと云々。去り乍ら大井河の水事の外深く候て、諸陣各西岡にこれありと云々。」(「同」4日条)。
天文2年6月、晴元は大坂石山の証如光教と三好千熊丸(のち長慶)の仲介により和睦しているが、一揆の抗戦派と細川晴国らはまだ晴元に抵抗を続け、今やまた京都近郊にその勢力が及ぶ。
*
11日
・三好伊賀守ら、本願寺証如(光教)に応じて摂津椋橋城に拠る。細川晴元の兵、これを攻めて交戦するが敗れる。
*
・結城晴朝、下総に誕生(異説1535年)。
*
15日
・イエズス会の実質的な創立。
パリ、イグナティウス・デ・ロヨラ(43)、フランシスコ・ザビエル(28)以下7人の同志、モンマルトルの丘に登り聖ディオニソス小聖堂地下で①清貧、②貞潔、③聖地巡礼後、使徒的生活に献身を誓う。(1540年、教皇パウロ3世、正式認可)
*
26日
・摂津在の細川晴元、上洛。相国寺泊。近江朽木在の将軍義晴、上洛。両者和解。
*
9月(日付なし)
・大内氏の豊前守護代杉重俊、大友被官の星野親忠兄弟を筑後大生寺城(福岡県浮羽町)に敗死させる。
*
3日
・将軍義晴、入京。建仁寺入り。ついで南禅寺に移る。
*
10月(日付なし)
・三好千熊丸(長慶)、木沢長政の仲介で細川晴元と講和(晴元に帰服)。幕僚(内衆)となる。
*
・大内軍、肥前勢福寺城を包囲。少弐冬尚は蓮池城(佐賀県蓮池町)に逃亡。一方、大内義隆は龍造寺家兼に和睦を依頼。30日、少弐資元の隠居と冬尚への東肥前半国安堵を条件に、大内義隆・少弐資元講和成立。12月14日、大内義隆が働きかけ、将軍義晴の勧告により、大内・大友講和締結。
*
・教皇パウルス(パオロ)3世(66)、即位(アレッサンドロ・ファルネーゼ、位1534~1549)。妹ジュリアは教皇アレクサンデル6世の愛人。教皇庁粛清、イエズス会認可(1540年)、アヴィニョンやイタリアの異端審問再編成、トリエント公会議召集(1545~1563) 。
*
・初旬、リヨン市立病院医師ラブレー(40)、「第一の書(ガルガンチェア)」。
・リヨン、エチエンヌ・ドレ、「演説集」(序文日付34/8/13)。トゥールーズでの演説(トゥールーズ市民攻撃文)。
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17日
・檄文事件(プラカード事件、アンボアーズ事件)。
パリやオルレアンなどの街頭、カトリックのミサを非難するビラが出現。フランソワ1世居室の扉に貼り付ける。国王フランソワ1世、新教徒に対する弾圧を開始(ジャン・オリユー説:弾圧したのはパリ高等法院でフランソワ1世はドイツルター派との同盟を重視、寛大な態度)、翌年5月まで続く。クレマン・マロ、フランソワ・ラブレーなど文学者・思想家、パリ退去。
*
20日
・三好政長、本願寺証如(光教)の兵三好伊賀守らと摂津国潮江荘に戦うが敗れる。
*
11月(日付なし)
・小弓公方足利義明、真里谷武田信隆(恕鑑の子)の拠る椎津城を攻撃。信隆は逃亡、西上総の峰上・百首両城及び真里谷新地の天神台城(木更津市)を拠点に、北条氏の援軍を得て対抗。
*
・武田太郎(晴信、14)の妻・上杉氏(上杉朝興の娘)、難産のため没。
*
・イングランド国教会成立。
ヘンリ8世、宗教改革議会召集。「国王至上法(国家首長令)」可決・制定。国王を英国宗教界における唯一・最高の首長と定める。英教会制度はローマ・カトリック教会から独立。首長はイングランド国王。
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19日
・幕府、吉田兼永と吉田兼右の唯一神道に関わる相論を裁許。吉田兼右へ管掌させる裁決を下す。
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12月(日付なし)
・大内義隆、後奈良天皇の即位費用2千貫文を献上。太宰大弐任官の狙い。しかし、天皇生母が没し、即位礼は36年に延引。
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・帰京後まもない将軍義晴、大友義鑑に大内義隆との講和を命じる。
*
5日
・雑務料の関所に対し法華一揆が新立の関所と見なして停廃させている。事実上法華一揆が京都周辺の関所の設立停廃認可権を行使している状況が窺える。
*
「土御門修理大夫有春朝臣申す雑務料の事、年中二季日数を限り自余に混ぜられず古今相違無きの処、新関の類と号し違犯すと云々。太(ハナハ)だ然るべからず。所詮重ねて御成敗の上は、先々の如く其の沙汰を致すべし。更に遅怠有るべからざるの由仰せ出さるゝ所の状件の如し。 天文三 十二月五日 長俊(花押) 貞兼(花押) 諸法花(華)衆諸壇(檀)方中」(「土御門文書」)。
*
天文元(1532)年~5(1536)年、細川晴元政権と法華一揆は共存・補完関係にある。
山城郡代の存在にも拘らず、幕府が法華一揆に洛中(梅津等の洛外大社寺門前を含む)の軍事・刑事警察権を付与していた点が推測される。
この時期の細川氏の奉行人、茨木長隆・飯尾元運(モトモチ)・為清らの同地域における発給文書にも、概ね所務・雑務沙汰つまり動産不動産関係の行政執行命令に限定され、洛中には細川氏の検断権が及んでいなかったことがほぼ裏付けられる。
*
21日
・幕府、土御門亀寿丸に洛中巷所を安堵(「土御門文書」)。
to be continued
2009年2月8日日曜日
東京 千駄木 鴎外観潮楼 漱石旧宅
この前にある小学校の名前も汐見台小学校なので、高台でもあり昔は品川の海が見えたのでしょう。
歌壇の調停者として観潮楼歌会を主宰。啄木も通ったんだ。
雑誌「めさまし草」の「三人冗語」という持ち回りの書評欄で、鴎外は一葉の「たけくらべ」を評価して一葉を世に出す。
「三人冗語」の斎藤緑雨は、一葉を好きになったようで、しょっちゅう一葉を訪ねたという話。
一葉の葬儀に際し、鴎外は騎馬の礼でもってこれを送ろうとするが、うちはそんな立派な葬儀をあげられないとのことで、断られた悲しい話など、確か関川夏央さんの「二葉亭四迷の明治四十一年」という本にあった記憶あり。
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漱石旧宅跡。
ここは「猫」を書いた時代のもので実物は確か岐阜県の明治村にあります。それと、確か漱石が住む10年以上前に鴎外が住んでいたはずです。
漱石の弟子の森田草平が、例の塩原事件後、この家で謹慎していたそうですが、夜な夜な外出しては「そこの漱石の家の者だ」ということで無銭飲食を重ねていたエピソードは、江口「わが文学半生記」にあり。
*
「わが文学半生記」が出たついでに、ワタシ的に印象に残ったくだり。
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漱石の葬儀の時・・・。
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「鴎外は大かたの名刺を私の前においた。「森林太郎」とあるだけで、ほかに何にもない。私は名刺をそっと芥川の前、におきかえた。芥川の眼が名刺と鴎外の扱とを見くらべた。と、思った瞬間、するどいきん張感が顔一めんにあふれ、そのひとみは異常な光をはなって鴎外の顔を見つめた。・・・
「あれが森さんかあ。」
「そうだよ。森さんだよ。君、いままでしらなかったのかい。」
「うん。はじめてだよ。いい顔をしているな。じつにいい顔だな。」
芥川は指をひろげて長い髪の毛をぐっと一つかき上げると、感嘆おくあたわずという風に、何度も同じ言葉をくりかえした。私はそのずっと前から、奥さんをつれて、根津の夜店を歩いては、古本屋をのぞいている鴎外を、ときどき見かけたことがあったのである。」
「あれが森さんかあ。」
「そうだよ。森さんだよ。君、いままでしらなかったのかい。」
「うん。はじめてだよ。いい顔をしているな。じつにいい顔だな。」
芥川は指をひろげて長い髪の毛をぐっと一つかき上げると、感嘆おくあたわずという風に、何度も同じ言葉をくりかえした。私はそのずっと前から、奥さんをつれて、根津の夜店を歩いては、古本屋をのぞいている鴎外を、ときどき見かけたことがあったのである。」
*
この芥川の初々しさが何ともいい。
*
そして、そのあとに以下のシーンが続きます。
「近づいて見ると芥川は手巾を顔にあて、うつ向きがちに歩きながらすすり泣きをつづけている。声を出すまいとして、むりにおさえるせいか、いきをする度に肩が苦しそうにゆすり上る。それを久米がなぐさめようとして、手を肩におき、しきりに顔をのぞきこむ。芥川のフロックの黒と久米のこげ茶の背広とが、白い光の中でくっきりと色彩の対照を示した。
芥川のいたいたしい様子を見ると、私ももう少しで涙が出そうになった。私は思った。今日のこの葬儀で一とうふかい悲しみに打たれたのは、弟子の中のだれよりも芥川ではないだろうか。「鼻」いらい、漱石にあれだけ高く評価され、あれだけ推賞された芥川。漱石からあのようないい手紙をあんなに度々もらった芥川。ふるいお弟子の多くに失望すればするほど、いよいよ漱石にとって新しいホープとなった芥川。そして漱石のおかげでこうしてぐんぐん文壇に出ていった芥川。その芥川にとって心のもっとも大きな支柱がこのようにして倒れたのである。これが全身をゆすり上げるほどの悲しみとならないでどうしよう。今日の芥川の悲しみが私にも一つ一つはっきりわかるような気特がした。そして、そばまでいって、よっぽど慰めの言葉をかけて見ようかとさえも思った。だが、下手にそんなことをすればかえって言葉がうそになる。そう考えて、ついにやめた。」
*
江口は、漱石は弟子たちに絶望していて、その分芥川に肩入れしたという見解を持っています。
*
治承4年記(2) 「明月記」の始まり
1月20日
・言仁親王(3、ときひと、安徳)著袴の儀。
*
□「来月譲位の事有るべきに依って、急ぎ行わるる所なり。」(九条兼実「玉葉」)。
*
□「とう宮の御袴着、御魚味聞し召べきなど、花やかなる事ども世間にはのゝしりけれども、法皇は耳のよそに聞召ぞあはれなる。」(「平家物語」)。
*
○安徳天皇(1178~85)。
81代天皇。在位1180~85。父高倉天皇。母清盛娘徳子(建礼門院)。諱は言仁。外祖父清盛が溺愛する様子は「山槐記」に見える。清盛は、治承元年(1177)の鹿ヶ谷の謀議以降、白河院を幽閉し、この年2月21日、3歳の親王を皇位につける。しかし反平氏政権活動は開始され、養和元年(1181)清盛没後は本格化。寿永2年(1183)、木曾義仲が京都に迫り、天皇は平氏一門と共に西方へ下る。太宰府、宇佐八幡宮、屋島などへ在所を遷し、長門国壇ノ浦の戦で入水。「二品禅尼宝剣を持し、接察使(アゼチ)局先帝(春秋八歳)を抱き奉り、共に以て海底に没す」(「吾妻鏡」元暦2年3月24日条)。「平家物語」は祖母二位尼に抱かれて入水と伝える。
*
○建礼門院(1155~1213):
平徳子。父は平清盛。母は乎時子。承安元年(1171)高倉天皇の女御として入内、翌年中宮。治承2年(1178)皇子を産む。4年の安得天皇即位に際し、国母の地位に上る。翌5年正月、高倉上皇(21)は病没し、同年11月、女院号を宣下され建礼門院と号す。寿永2年(1183)、安徳天皇と平氏と共に都落ち、元暦2年(1185)、壇ノ浦では藤重ねの衣を着て入水するも、源氏方の渡辺党の武士に熊手で髪を引っ掛けられ、引き上げられる。その後、都に送還され、文治元年(1185)5月1日、東山長楽寺で出家。大原の寂光院に移り、安徳天皇、夫、平氏一門の菩提を弔って暮らす。阿波内侍(信西の娘)と安徳天皇の乳母大納言佐局(ダイナゴンボスケノツボネ)が生活を共にする。文治3年、頼朝は平家没官領のうち摂津国真井・嶋屋両荘(建礼門院の同母兄の平宗盛の所領)を与える。「吾妻鏡」では、建礼門院の「かの御幽栖を訪い申さるによってなり」(文治3年2月1日条)とあり、頼朝は人を遣わして女院の閑居の様を見させた上で措置する。「平家物語」灌頂巻は、大原寂光院の有り様を、「甍破れては霧不断の香を焼き、扉落ちては月常住の燈を挑(カカ)ぐとも、かやうの所をや申すべき」と描く。「平家物語」は、この山深い大原の女院のもとを後白河院が訪ね、往時を語り合い、やがて「寂光院の鐘の声」に送られて帰る場面で終る。
*
○九条兼実(1149~1207):
藤原忠通の3男、母は藤原仲光の女加賀。九条家を創設。通称、月輪関白殿、後法性寺殿。文治元年(1185)内覧、翌2年摂政ならびに氏長者。この間の人事は、頼朝の意向が大きく反映。「吾妻鏡」では、文治元年行家・義経の反逆に対し、兼実が「すこぶる関東を扶持せらるる」と頼朝を支持し、「頼朝欣悦したまふ」(文治元年11月7日条)とある。また、摂政就任にあたっては、「和漢の才智すこぶる人に越えしめたまふ」との人物評を記す(文治2年2月27日条)。兼実と近衛基通との摂関家領を巡る紛争では、頼朝が兼実を支援(「吾妻鏡」文治2年3月24日条)、後白河上皇は基通の主張を擁護し基通の勝利となる(「同」4月13日条)。文治3年(1187)記録所設置。文治5年太政大臣就任。建久元年(1190)娘任子が後鳥羽天皇に入内。建久2年関白。建久3年後白河法皇没後、頼朝征夷大将軍就任に奔走。建久6年(1195)東大寺落慶供養のため上洛した頼朝としばしば会談。建久7年11月1日、源(土御門)通親の養女在子の皇子出産を機に宮廷内の勢力が変転。11月24日兼実の娘中宮任子が内裏より退出させられ、25日兼実は事実上関白を罷免される。この建久7年の政変により兼実は失脚、連座して弟慈円も天台座主を辞す。背景には源通親の讒言、大姫入内を図る頼朝の意向があったと推測される。建仁2年(1202)1月28日、法性寺で出家。承元元年(1207)4月5日没(59)。「選択本願念仏集」は兼実の要請を受けて著されたものとされる。長寛2年~正治2年の約40年間の日記「玉葉」は「吾妻鏡」とならび、鎌倉期の重要史料とされる。
*
1月28日
・源(久我)通親、参議・左近衛権中将に就任。2月6日、拝賀(「明月記」)。24日、高倉院庁別当になって高倉上皇の院近臣となる。
*
□「参内、新宰相中将(通親)束帯にて渡殿に候ぜらる、招寄せ言談せくる、新頭(重衡)又参入す、中宮(高倉中宮徳子)御方に参る、大原野祭の御幣算儲く、退出、八条院に参る」(「明月記」2月9日条)。
*
28日
・平重衡(25)、蔵人頭(天皇の側近)に任命。
*
○平重衡(1157~1185):
清盛の5男、母は平時子、宗盛・知盛の同母弟。本三位中将と称す。軍略にすぐれ、この年治承4年(1180)、兄知盛と共に以仁王・源頼政を宇治川に討ち、同年暮れ、反平家の拠点南都を攻撃、東大寺・興福寺が灰燼に帰す。養和元年(1181)の墨俣川の戦い、寿永2年(1183)の水島合戦に勝利するが、寿永3年(1184)2月の一の谷の戦いで捕虜となり、三種神器との交換による源平間の講和を斡旋するが、実現できず。その後鎌倉に下向、鎌倉では丁重にもてなされるが、南都の要求に応じて幕府は身柄を引渡し、文治元年(1185)6月に泉木津で斬首。「平家物語」では関東での虜囚の身となった重衛の世話をした千手前の恋が印象的に描かれ、「吾妻鏡」では、重衛処刑の3年後、「恋慕の思い、朝夕に休まず」病いとなった千手前が24歳で没するとしている(「吾妻鏡」文治4年4月25日条)。
*
2月5日
・現存する定家(19)「明月記」の始まり。
実際は、前年治承3(1179)年3月11日、内の昇殿(内裏の殿上に昇る資格)を得た時からと推測される。
□「五日。右宰相中将(束帯)参入す、若しくは釈奠(セキテン)の次いでか、」(「明月記」)。
宰相(参議)右中将藤原実守が内裏(高倉天皇)に参入してきたが、それは釈奠の次いでに来たのだろうか)。「釈奠」は、孔子らの儒教の聖人を祭る朝廷の儀式。
*
2月9日
・定家(19)、内(天皇)に仕え、高倉天皇近臣で宰相中条の源通親や蔵人頭の平重衝と交流があり、高倉の中宮徳子や八条院にも仕えている。この日、大原野祭の御幣等準備のため、中宮平徳子に参る。
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2月11日
・定家(19)、姉高松院新大納言の夫藤原家通より布衣騎馬の故実を教えられる。
□「二月十一日。晴天。夜、雨下ル。関白ノ御弟元服ト云々。其ノ年十七。名、忠良(正五位下)。六角ニ向ヒ武衛ニ謁シ申ス。布衣騎馬ノ時、薄色ノ指貫ヲ着セバ、随身ヲ具スベン。浅黄ヲ着セバ、随身無力ルベキ由、先達ノ説有ル由、語り給フ。」。
関白藤原基通の弟忠良の元服。ついで、有職服飾の事を記す。儀式、服飾の精細な記録は、定家生涯の執心。
to be continued
・言仁親王(3、ときひと、安徳)著袴の儀。
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□「来月譲位の事有るべきに依って、急ぎ行わるる所なり。」(九条兼実「玉葉」)。
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□「とう宮の御袴着、御魚味聞し召べきなど、花やかなる事ども世間にはのゝしりけれども、法皇は耳のよそに聞召ぞあはれなる。」(「平家物語」)。
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○安徳天皇(1178~85)。
81代天皇。在位1180~85。父高倉天皇。母清盛娘徳子(建礼門院)。諱は言仁。外祖父清盛が溺愛する様子は「山槐記」に見える。清盛は、治承元年(1177)の鹿ヶ谷の謀議以降、白河院を幽閉し、この年2月21日、3歳の親王を皇位につける。しかし反平氏政権活動は開始され、養和元年(1181)清盛没後は本格化。寿永2年(1183)、木曾義仲が京都に迫り、天皇は平氏一門と共に西方へ下る。太宰府、宇佐八幡宮、屋島などへ在所を遷し、長門国壇ノ浦の戦で入水。「二品禅尼宝剣を持し、接察使(アゼチ)局先帝(春秋八歳)を抱き奉り、共に以て海底に没す」(「吾妻鏡」元暦2年3月24日条)。「平家物語」は祖母二位尼に抱かれて入水と伝える。
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○建礼門院(1155~1213):
平徳子。父は平清盛。母は乎時子。承安元年(1171)高倉天皇の女御として入内、翌年中宮。治承2年(1178)皇子を産む。4年の安得天皇即位に際し、国母の地位に上る。翌5年正月、高倉上皇(21)は病没し、同年11月、女院号を宣下され建礼門院と号す。寿永2年(1183)、安徳天皇と平氏と共に都落ち、元暦2年(1185)、壇ノ浦では藤重ねの衣を着て入水するも、源氏方の渡辺党の武士に熊手で髪を引っ掛けられ、引き上げられる。その後、都に送還され、文治元年(1185)5月1日、東山長楽寺で出家。大原の寂光院に移り、安徳天皇、夫、平氏一門の菩提を弔って暮らす。阿波内侍(信西の娘)と安徳天皇の乳母大納言佐局(ダイナゴンボスケノツボネ)が生活を共にする。文治3年、頼朝は平家没官領のうち摂津国真井・嶋屋両荘(建礼門院の同母兄の平宗盛の所領)を与える。「吾妻鏡」では、建礼門院の「かの御幽栖を訪い申さるによってなり」(文治3年2月1日条)とあり、頼朝は人を遣わして女院の閑居の様を見させた上で措置する。「平家物語」灌頂巻は、大原寂光院の有り様を、「甍破れては霧不断の香を焼き、扉落ちては月常住の燈を挑(カカ)ぐとも、かやうの所をや申すべき」と描く。「平家物語」は、この山深い大原の女院のもとを後白河院が訪ね、往時を語り合い、やがて「寂光院の鐘の声」に送られて帰る場面で終る。
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○九条兼実(1149~1207):
藤原忠通の3男、母は藤原仲光の女加賀。九条家を創設。通称、月輪関白殿、後法性寺殿。文治元年(1185)内覧、翌2年摂政ならびに氏長者。この間の人事は、頼朝の意向が大きく反映。「吾妻鏡」では、文治元年行家・義経の反逆に対し、兼実が「すこぶる関東を扶持せらるる」と頼朝を支持し、「頼朝欣悦したまふ」(文治元年11月7日条)とある。また、摂政就任にあたっては、「和漢の才智すこぶる人に越えしめたまふ」との人物評を記す(文治2年2月27日条)。兼実と近衛基通との摂関家領を巡る紛争では、頼朝が兼実を支援(「吾妻鏡」文治2年3月24日条)、後白河上皇は基通の主張を擁護し基通の勝利となる(「同」4月13日条)。文治3年(1187)記録所設置。文治5年太政大臣就任。建久元年(1190)娘任子が後鳥羽天皇に入内。建久2年関白。建久3年後白河法皇没後、頼朝征夷大将軍就任に奔走。建久6年(1195)東大寺落慶供養のため上洛した頼朝としばしば会談。建久7年11月1日、源(土御門)通親の養女在子の皇子出産を機に宮廷内の勢力が変転。11月24日兼実の娘中宮任子が内裏より退出させられ、25日兼実は事実上関白を罷免される。この建久7年の政変により兼実は失脚、連座して弟慈円も天台座主を辞す。背景には源通親の讒言、大姫入内を図る頼朝の意向があったと推測される。建仁2年(1202)1月28日、法性寺で出家。承元元年(1207)4月5日没(59)。「選択本願念仏集」は兼実の要請を受けて著されたものとされる。長寛2年~正治2年の約40年間の日記「玉葉」は「吾妻鏡」とならび、鎌倉期の重要史料とされる。
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1月28日
・源(久我)通親、参議・左近衛権中将に就任。2月6日、拝賀(「明月記」)。24日、高倉院庁別当になって高倉上皇の院近臣となる。
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□「参内、新宰相中将(通親)束帯にて渡殿に候ぜらる、招寄せ言談せくる、新頭(重衡)又参入す、中宮(高倉中宮徳子)御方に参る、大原野祭の御幣算儲く、退出、八条院に参る」(「明月記」2月9日条)。
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28日
・平重衡(25)、蔵人頭(天皇の側近)に任命。
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○平重衡(1157~1185):
清盛の5男、母は平時子、宗盛・知盛の同母弟。本三位中将と称す。軍略にすぐれ、この年治承4年(1180)、兄知盛と共に以仁王・源頼政を宇治川に討ち、同年暮れ、反平家の拠点南都を攻撃、東大寺・興福寺が灰燼に帰す。養和元年(1181)の墨俣川の戦い、寿永2年(1183)の水島合戦に勝利するが、寿永3年(1184)2月の一の谷の戦いで捕虜となり、三種神器との交換による源平間の講和を斡旋するが、実現できず。その後鎌倉に下向、鎌倉では丁重にもてなされるが、南都の要求に応じて幕府は身柄を引渡し、文治元年(1185)6月に泉木津で斬首。「平家物語」では関東での虜囚の身となった重衛の世話をした千手前の恋が印象的に描かれ、「吾妻鏡」では、重衛処刑の3年後、「恋慕の思い、朝夕に休まず」病いとなった千手前が24歳で没するとしている(「吾妻鏡」文治4年4月25日条)。
*
2月5日
・現存する定家(19)「明月記」の始まり。
実際は、前年治承3(1179)年3月11日、内の昇殿(内裏の殿上に昇る資格)を得た時からと推測される。
□「五日。右宰相中将(束帯)参入す、若しくは釈奠(セキテン)の次いでか、」(「明月記」)。
宰相(参議)右中将藤原実守が内裏(高倉天皇)に参入してきたが、それは釈奠の次いでに来たのだろうか)。「釈奠」は、孔子らの儒教の聖人を祭る朝廷の儀式。
*
2月9日
・定家(19)、内(天皇)に仕え、高倉天皇近臣で宰相中条の源通親や蔵人頭の平重衝と交流があり、高倉の中宮徳子や八条院にも仕えている。この日、大原野祭の御幣等準備のため、中宮平徳子に参る。
*
2月11日
・定家(19)、姉高松院新大納言の夫藤原家通より布衣騎馬の故実を教えられる。
□「二月十一日。晴天。夜、雨下ル。関白ノ御弟元服ト云々。其ノ年十七。名、忠良(正五位下)。六角ニ向ヒ武衛ニ謁シ申ス。布衣騎馬ノ時、薄色ノ指貫ヲ着セバ、随身ヲ具スベン。浅黄ヲ着セバ、随身無力ルベキ由、先達ノ説有ル由、語り給フ。」。
関白藤原基通の弟忠良の元服。ついで、有職服飾の事を記す。儀式、服飾の精細な記録は、定家生涯の執心。
to be continued
2009年2月7日土曜日
明治17(1884)年10月 秩父(11)「乍恐天朝様ニ敵対スルカラ加勢シロ」 一斉蜂起決定
■明治17(1884)年秩父(11)「乍恐天朝様ニ敵対スルカラ加勢シロ」
*
10月12日
・[一斉蜂起決定]
秩父困民党、下吉田村井上伝蔵宅。最高幹部(田代栄助・加藤織平・井上伝蔵・井上善作・落合寅市・新井周三郎・高岸善吉・坂本宗作・小柏常次郎・門平惣平の10名)、一斉蜂起決定(高利貸しを打毀し証拠書類を焼き捨てる)。
*
栄助は宗作の迎えを受け、午後4時頃、伝蔵の家に行き、現場幹部から、請願も借主との交渉もいずれも行き詰まったと報告を受ける。
幹部たちは、「此上ハ無是非次第ニ付、我一命ヲ抛テ腕力ニ訴へ」、高利貸打毀し、証書類焼き捨てを決行するより打開の道なし、と話合いをつけたので、ご同意頂きたいと提議。栄助が同意せざるを得ないほどに、事態は急迫。
高利貸の召喚状や強硬督促を受け、逃げ回る農民の数が増加し、困民党参加の農民の家で、夫婦喧嘩から子供を惨殺する惨劇も起こる。
*
10月13日
・秩父困民党田代栄助、伝蔵・周三郎・常次郎と共に石間村加藤織平を訪問。軍資金・弾薬調達協議。
14日、田代栄助・栄助の片腕柴岡熊吉(46)・新井周三郎・坂本宗作ら、軍資金調達の為、横瀬村富田源之助・柳儀作方襲撃、現金等強奪。15日、宮川寅五郎ら、男衾郡西ノ入村五ノ坪の豪農加藤勘一郎より現金など強奪。
*
柴岡熊吉の自供に基づき事件は明らかになる。熊吉判決文。
「被告人は田代栄助より貧民救助の目的をもって党与を集め暴挙を企てたること、その費途に苦しみ準備金を強敵せんとの協議にあずかり現金員を有するものは富田源之助ならんと答え、十月十四日夜、約のごとく横瀬村字姿ノ堤において栄助、新井周三郎、坂本宗作他数名と出会し、栄助の教令により大野茂吉とともに周三郎らと同村富田源之助宅を指示し持凶器強盗の所為を幇助した。・・・」
*
○新井周三郎、戦闘的人間に脱皮し、軍事面での指導部中枢におしあがる。
「十月十三日夜織平宅ニ於テ準備金強借セントノ議ニ与り翌十四日堀口幸助、宮川寅五郎、女部田梅吉、坂本宗作、新井甚作等卜共ニ栄助ノモトニ至り、同人ノ教令ニヨリ大野茂吉、柴岡熊吉ヲ先導トシ、或ハ兇器ヲ携へ秩父郡横瀬村富田源之助方ニ至り、栄助ハ途ニトドマリ甚吉、茂吉等ハ戸外ニ在テ瞭望シ、被告及ビ寅五郎ホカ数名ハ家内ニ押入り家人ヲ縛シ脅迫ヲ加へ、金八拾円刀槍衣類等十五点ヲ強取スルノミナラズ源之助父富田滝次郎ニ負傷セシメ・・・」。
更に、同夜その足で周三郎らは同じ横瀬村柳儀作方に押入り、翌15日、山を越えて自宅に帰り西ノ入村の富豪加藤勘一郎宅を襲う。加藤邸侵入に周三郎は加わらず、実兄輝蔵をひき入れ、宮川寅五郎、吉沢庄左衛門、門松庄右衛門らを「教令」する。(新井周三郎判決文)。この為、周三郎の実兄新井輝蔵は懲役6年を宣告される。
*
○柴岡熊吉:
田代栄助の第1の子分。大宮郷の荒川に近い近戸に居住。この年8月、借金のため身代限りとなり、近戸の家を追われて、横瀬村に近い坂氷の実姉の家に同居。その後も生活に困り、田代栄助を頼り、同人と連名で高利貸高野嘉代吉から5円を借りるなど、24~25円の借金がある。
「自分ハ暴徒ニ加入シ、負債廿四、五円ヲ踏ミ倒ス鎖々タル見込ハ無之、・・・昨今諸物価ハ下落シ、秩父郡中ノ人民高利貸ノ為メ非常ニ困難、貧者ハ益極貧ニナリ、高利貸ハ益利慾ヲ逞クシ、其惨状見ルニ忍ビズ、因テ身命ヲ捨テ困民ヲ救フニ尽力スルモノト決シ・・・望ヲ遠シテ高利貸ヲ斃シ、貧民ヲ救助シテ後御処分ヲ蒙ムルハ覚悟ノ筈ナリ・・・唯高利貸ヲ斃シ、秩父郡一円正規之利息ヲ以テ貸借スレバ、困難来ラズト相聞へタル次第ナリ」(「柴岡熊吉訊問調書」)。
*
13日
・埼玉県男衾郡畠山村の負債騒擾 [秩父困民党とは別の動き]。
負債取り立ての厳しい債主(飯野道徳)と村内の負債者(28名)の対抗。小前総代人・旧戸長など村内指導者層は、負債者側の要求を代弁。
13日午前10時、困民ら、小前総代人5名に対し借金返済に関し掛合を行う債主(飯野道徳)へ「負債返済期限の延期」交渉を依頼。小前総代人は債主へ取継ぐが失敗。
14日、困民たち、寄居警察署へ届けでた上で村内の満福寺に集会、連合戸長役場(連合戸長本田親徳)宛の御説諭願書を作成、提出。戸長役場は書面を却下。
20~21日頃、前年明治16年3月の質地紛擾に際して取り決められた約定(「金穀其他貸借等都テ村内振合ニ基キ、自己仕間敷候」)を根拠に連合戸長役場へ再歎願(約定は、飯野道徳が親戚・組合・立ち入り中と連署で畠山戸長役場へ提出)。連合戸長は、約定書取り結びの手続が有効性を調べるが、飯野道徳の「脅迫之上成立候」との返答もあり、その効力を否定。
22日、約定取り結びの扱い人14名(中山重作ら)が、約定履行を飯野道徳の属する組合(5人組)を通じて申し入れる。
26日正午、満福寺へ集会せよとの回状。集会計画を知った飯野道徳は、松山警察署小川分署今市交番所へ通報、小川分署員は畠山村へ出張し、戸長役場で「巨魁ト思料スル者五名」(実際は小前総代人)を説諭、また債主に面会し説諭。
27日、飯野道徳は、説諭を入れ、松山警察署長・警部吉峰清宛てに「御請書」を提出。貸借関係を、人民相互の義務と規程し村内の治安確保と良好な人間関係(道徳的な共同体的関係)樹立のため、貸金請求にある程度の配慮を示すことで問題の解決を図る。
飯野道徳は、村役人の家柄ではなく、新興富裕層であり、富の集積の強引さにより村内で孤立。質地受戻の村方騒動と類似するが、小前総代・旧戸長などの介入に加えて、警察が解決の為の具体的方策にむけて積極的に係る。他地域の困民党事件の多くが、村内対抗ではなく、地域経済圏内の債主層との対抗(債主層の質的転換を意味する)であることと比較して、大きく異なる。
*
13日
・植木枝盛・奥宮健之、広島(14日)・岡山(18日)へオルグ。~22日。
*
奥宮健之は8月11日名古屋事件平田橋巡査古殺事件を犯したばかり。年末、遊説から東京に戻り逮捕、無期徒刑。明治30年7月特赦出獄。奥宮は土佐出身で枝盛と同年。枝盛は、1882(明治15)年奥宮が中心になって組織した車会党(人力車夫の懇親会)にも協力し、83~84年の枝盛の関東一円遊説では、奥宮が一緒だったこともある。
*
10月14日
・北多摩郡長砂川源五右衛門、八王子警察署長原田東馬に対し、「本部内暴民」が「末ダ両三人ヅツ山野ニ宿シ」ているが、尚捕縛する見込か知らせて欲しいと書簡。
原田は、鎮着就業の者はこれ以上求索しない故、心得違いのないように、尚、「津久井郡西多摩郡各地ノ景状モ漸ク自悔静謐・・・幸ノ事ニ御坐候」と回答。こうした内密の遣り取りは須長ら指導者にキャッチされている(須長文書在)。
*
14日
・「自由徒九名、当郡日野沢村、皆野村、野上郷下中、薄村、飯田、三山、河原沢、日尾、藤倉其外五ヶ村総代罷越一泊願候事」(三峯神社社務所日記)。翌日、祈祷下山とあり。
*
10月15日
・秩父困民党田代栄助、荒川本流地帯・困民党の手の及ばない地域(本野上村・白久村・小森村・大淵村・贄川村・大宮郷・影森村・横瀬村等)を1週間ほどオルグ。
このうち蜂起に参加した者は白久村坂本伊三郎・影森村塩谷長吉2名のみ(子分200余と豪語する栄助にしては少ない。栄助自身の主体の内的状況を表す?。栄助関連での参加者は血盟の子分柴岡熊吉、弟大河原三吉、甥磯田左馬吉ら血縁者)。
*
中旬
・利根川中流水田地帯・幡羅、北埼玉両群17ヶ村農民、小作料減免・負債返済延期の大集会。解散させられる。
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「★秩父蜂起インデックス」をご参照下さい
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to be continued
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10月12日
・[一斉蜂起決定]
秩父困民党、下吉田村井上伝蔵宅。最高幹部(田代栄助・加藤織平・井上伝蔵・井上善作・落合寅市・新井周三郎・高岸善吉・坂本宗作・小柏常次郎・門平惣平の10名)、一斉蜂起決定(高利貸しを打毀し証拠書類を焼き捨てる)。
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栄助は宗作の迎えを受け、午後4時頃、伝蔵の家に行き、現場幹部から、請願も借主との交渉もいずれも行き詰まったと報告を受ける。
幹部たちは、「此上ハ無是非次第ニ付、我一命ヲ抛テ腕力ニ訴へ」、高利貸打毀し、証書類焼き捨てを決行するより打開の道なし、と話合いをつけたので、ご同意頂きたいと提議。栄助が同意せざるを得ないほどに、事態は急迫。
高利貸の召喚状や強硬督促を受け、逃げ回る農民の数が増加し、困民党参加の農民の家で、夫婦喧嘩から子供を惨殺する惨劇も起こる。
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10月13日
・秩父困民党田代栄助、伝蔵・周三郎・常次郎と共に石間村加藤織平を訪問。軍資金・弾薬調達協議。
14日、田代栄助・栄助の片腕柴岡熊吉(46)・新井周三郎・坂本宗作ら、軍資金調達の為、横瀬村富田源之助・柳儀作方襲撃、現金等強奪。15日、宮川寅五郎ら、男衾郡西ノ入村五ノ坪の豪農加藤勘一郎より現金など強奪。
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柴岡熊吉の自供に基づき事件は明らかになる。熊吉判決文。
「被告人は田代栄助より貧民救助の目的をもって党与を集め暴挙を企てたること、その費途に苦しみ準備金を強敵せんとの協議にあずかり現金員を有するものは富田源之助ならんと答え、十月十四日夜、約のごとく横瀬村字姿ノ堤において栄助、新井周三郎、坂本宗作他数名と出会し、栄助の教令により大野茂吉とともに周三郎らと同村富田源之助宅を指示し持凶器強盗の所為を幇助した。・・・」
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○新井周三郎、戦闘的人間に脱皮し、軍事面での指導部中枢におしあがる。
「十月十三日夜織平宅ニ於テ準備金強借セントノ議ニ与り翌十四日堀口幸助、宮川寅五郎、女部田梅吉、坂本宗作、新井甚作等卜共ニ栄助ノモトニ至り、同人ノ教令ニヨリ大野茂吉、柴岡熊吉ヲ先導トシ、或ハ兇器ヲ携へ秩父郡横瀬村富田源之助方ニ至り、栄助ハ途ニトドマリ甚吉、茂吉等ハ戸外ニ在テ瞭望シ、被告及ビ寅五郎ホカ数名ハ家内ニ押入り家人ヲ縛シ脅迫ヲ加へ、金八拾円刀槍衣類等十五点ヲ強取スルノミナラズ源之助父富田滝次郎ニ負傷セシメ・・・」。
更に、同夜その足で周三郎らは同じ横瀬村柳儀作方に押入り、翌15日、山を越えて自宅に帰り西ノ入村の富豪加藤勘一郎宅を襲う。加藤邸侵入に周三郎は加わらず、実兄輝蔵をひき入れ、宮川寅五郎、吉沢庄左衛門、門松庄右衛門らを「教令」する。(新井周三郎判決文)。この為、周三郎の実兄新井輝蔵は懲役6年を宣告される。
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○柴岡熊吉:
田代栄助の第1の子分。大宮郷の荒川に近い近戸に居住。この年8月、借金のため身代限りとなり、近戸の家を追われて、横瀬村に近い坂氷の実姉の家に同居。その後も生活に困り、田代栄助を頼り、同人と連名で高利貸高野嘉代吉から5円を借りるなど、24~25円の借金がある。
「自分ハ暴徒ニ加入シ、負債廿四、五円ヲ踏ミ倒ス鎖々タル見込ハ無之、・・・昨今諸物価ハ下落シ、秩父郡中ノ人民高利貸ノ為メ非常ニ困難、貧者ハ益極貧ニナリ、高利貸ハ益利慾ヲ逞クシ、其惨状見ルニ忍ビズ、因テ身命ヲ捨テ困民ヲ救フニ尽力スルモノト決シ・・・望ヲ遠シテ高利貸ヲ斃シ、貧民ヲ救助シテ後御処分ヲ蒙ムルハ覚悟ノ筈ナリ・・・唯高利貸ヲ斃シ、秩父郡一円正規之利息ヲ以テ貸借スレバ、困難来ラズト相聞へタル次第ナリ」(「柴岡熊吉訊問調書」)。
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13日
・埼玉県男衾郡畠山村の負債騒擾 [秩父困民党とは別の動き]。
負債取り立ての厳しい債主(飯野道徳)と村内の負債者(28名)の対抗。小前総代人・旧戸長など村内指導者層は、負債者側の要求を代弁。
13日午前10時、困民ら、小前総代人5名に対し借金返済に関し掛合を行う債主(飯野道徳)へ「負債返済期限の延期」交渉を依頼。小前総代人は債主へ取継ぐが失敗。
14日、困民たち、寄居警察署へ届けでた上で村内の満福寺に集会、連合戸長役場(連合戸長本田親徳)宛の御説諭願書を作成、提出。戸長役場は書面を却下。
20~21日頃、前年明治16年3月の質地紛擾に際して取り決められた約定(「金穀其他貸借等都テ村内振合ニ基キ、自己仕間敷候」)を根拠に連合戸長役場へ再歎願(約定は、飯野道徳が親戚・組合・立ち入り中と連署で畠山戸長役場へ提出)。連合戸長は、約定書取り結びの手続が有効性を調べるが、飯野道徳の「脅迫之上成立候」との返答もあり、その効力を否定。
22日、約定取り結びの扱い人14名(中山重作ら)が、約定履行を飯野道徳の属する組合(5人組)を通じて申し入れる。
26日正午、満福寺へ集会せよとの回状。集会計画を知った飯野道徳は、松山警察署小川分署今市交番所へ通報、小川分署員は畠山村へ出張し、戸長役場で「巨魁ト思料スル者五名」(実際は小前総代人)を説諭、また債主に面会し説諭。
27日、飯野道徳は、説諭を入れ、松山警察署長・警部吉峰清宛てに「御請書」を提出。貸借関係を、人民相互の義務と規程し村内の治安確保と良好な人間関係(道徳的な共同体的関係)樹立のため、貸金請求にある程度の配慮を示すことで問題の解決を図る。
飯野道徳は、村役人の家柄ではなく、新興富裕層であり、富の集積の強引さにより村内で孤立。質地受戻の村方騒動と類似するが、小前総代・旧戸長などの介入に加えて、警察が解決の為の具体的方策にむけて積極的に係る。他地域の困民党事件の多くが、村内対抗ではなく、地域経済圏内の債主層との対抗(債主層の質的転換を意味する)であることと比較して、大きく異なる。
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13日
・植木枝盛・奥宮健之、広島(14日)・岡山(18日)へオルグ。~22日。
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奥宮健之は8月11日名古屋事件平田橋巡査古殺事件を犯したばかり。年末、遊説から東京に戻り逮捕、無期徒刑。明治30年7月特赦出獄。奥宮は土佐出身で枝盛と同年。枝盛は、1882(明治15)年奥宮が中心になって組織した車会党(人力車夫の懇親会)にも協力し、83~84年の枝盛の関東一円遊説では、奥宮が一緒だったこともある。
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10月14日
・北多摩郡長砂川源五右衛門、八王子警察署長原田東馬に対し、「本部内暴民」が「末ダ両三人ヅツ山野ニ宿シ」ているが、尚捕縛する見込か知らせて欲しいと書簡。
原田は、鎮着就業の者はこれ以上求索しない故、心得違いのないように、尚、「津久井郡西多摩郡各地ノ景状モ漸ク自悔静謐・・・幸ノ事ニ御坐候」と回答。こうした内密の遣り取りは須長ら指導者にキャッチされている(須長文書在)。
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14日
・「自由徒九名、当郡日野沢村、皆野村、野上郷下中、薄村、飯田、三山、河原沢、日尾、藤倉其外五ヶ村総代罷越一泊願候事」(三峯神社社務所日記)。翌日、祈祷下山とあり。
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10月15日
・秩父困民党田代栄助、荒川本流地帯・困民党の手の及ばない地域(本野上村・白久村・小森村・大淵村・贄川村・大宮郷・影森村・横瀬村等)を1週間ほどオルグ。
このうち蜂起に参加した者は白久村坂本伊三郎・影森村塩谷長吉2名のみ(子分200余と豪語する栄助にしては少ない。栄助自身の主体の内的状況を表す?。栄助関連での参加者は血盟の子分柴岡熊吉、弟大河原三吉、甥磯田左馬吉ら血縁者)。
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中旬
・利根川中流水田地帯・幡羅、北埼玉両群17ヶ村農民、小作料減免・負債返済延期の大集会。解散させられる。
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2009年2月5日木曜日
鎌倉 亀ヶ谷坂 岩船地蔵堂
*
岩船地蔵堂は看板にもあるように、頼朝の娘大姫を弔うためのものとか。
大姫は、人質となっている義仲の息子と恋におちるが、義仲追討後、この息子も殺され、心痛の余り衰弱し没するとの説話の主人公になってます。
大姫は、人質となっている義仲の息子と恋におちるが、義仲追討後、この息子も殺され、心痛の余り衰弱し没するとの説話の主人公になってます。
また、その間には、大姫を入内させて清盛同様に天皇の外孫になろうと目論む父母と共に上洛したりもします。この頼朝一家上洛には、九条兼実を追い落とそうとする源通親+丹後局の政争も絡んだり・・・(建久7年の政変)。
「黙翁年表」より
*
1183(寿永2)3月
・頼朝(37)、義仲追討の為に兵10万余を率い信濃へ向かう。
義仲(30)、越後境の熊坂山に布陣。
頼朝、善光寺へ進軍。
義仲、今井四郎兼平を使者に和議申し入れ、頼朝に敵対心を抱いていないと宣言。
頼朝は、義仲が嫡子義高(11)を人質として送り、頼朝の長女大姫と結婚させることを約束させ、和睦。25日、義高を送る。
*
・頼朝(37)、義仲追討の為に兵10万余を率い信濃へ向かう。
義仲(30)、越後境の熊坂山に布陣。
頼朝、善光寺へ進軍。
義仲、今井四郎兼平を使者に和議申し入れ、頼朝に敵対心を抱いていないと宣言。
頼朝は、義仲が嫡子義高(11)を人質として送り、頼朝の長女大姫と結婚させることを約束させ、和睦。25日、義高を送る。
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甲斐源氏武田信光が頼朝に、源義仲と平家が結ぶ動きありと讒言。また、義仲が頼朝と仲違いした源行家・志太義広を匿ったため、義仲・頼朝は不和になる。
*
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清水冠者(しみずのかんじゃ、「平家物語」巻7):
義仲、嫡子の清水冠者義重(よししげ)に海野・望月・諏方・藤沢ら有名な武将をつけ頼朝に送る。頼朝は、未だ成人した子を持っていず、この子を自分の子としようと、鎌倉へ連れて帰る。
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1184(寿永3)4月22日
・義仲嫡子志水義高(12)、鎌倉を出奔。
26日、頼朝家臣堀親家の郎党、義高を捕らえ、武蔵入間河原で斬る。義高は、義仲没後は「その意趣もつとも度(はか)りがたし」(「吾妻鏡」21日条)との理由。
大姫、実父が許婚を殺害したことを嘆き、病の床に。回復することなく、建久8年(1197)、没。
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1184(寿永3)4月22日
・義仲嫡子志水義高(12)、鎌倉を出奔。
26日、頼朝家臣堀親家の郎党、義高を捕らえ、武蔵入間河原で斬る。義高は、義仲没後は「その意趣もつとも度(はか)りがたし」(「吾妻鏡」21日条)との理由。
大姫、実父が許婚を殺害したことを嘆き、病の床に。回復することなく、建久8年(1197)、没。
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「去る夜より、殿中聊か物騒す。これ志水の冠者武衛の御聟たりと雖も、亡父すでに勅勘を蒙り戮せらるるの間、その子として、その意趣尤も度り難きに依って誅せらるべきの由、内々思し食し立つ。この趣を昵近の壮士等に仰せ含めらる。女房等この事を伺い聞き、密々姫公の御方に告げ申す。仍って志水の冠者計略を廻らし、今暁遁れ去り給う。この間女房の姿を仮り、姫君御方の女房これを圍み郭内を出しをはんぬ。馬を隠し置き、他所に於いてこれに乗らしむ。人に聞かしめざらんが為、綿を以て蹄を裹むと。而るに海野の小太郎幸氏は、志水と同年なり。日夜座右に在って、片時も立ち去ること無し。仍って今これに相替わり、彼の帳臺に入り宿衣の下に臥し、髻を出すと。日闌て後、志水の常の居所に出て、日来の形勢を改めず、独り双六を打つ。志水双六の勝負を好み、朝暮これを翫ぶ。幸氏必ずその相手たり。然る間殿中の男女に至るまで、ただ今に坐せしめ給うの思いを成すの処、晩に及び縡露顕す。武衛太だ忿怒し給う。則ち幸氏を召し禁しめらる。また堀の籐次親家已下の軍兵を方々の道路に分け遣わし、討ち止むべきの由を仰せらると。姫公周章し魂を鎖しめ給う。」(「吾妻鏡」同21日条)。
*
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「堀の籐次親家の郎従梟首せらる。これ御台所の御憤りに依ってなり。去る四月の比、御使として志水の冠者を討つが故なり。その事已後、姫公御哀傷の余り、すでに病床に沈み給い、日を追って憔悴す。諸人驚騒せざると云うこと莫し。志水が誅戮の事に依って、この御病有り。偏に彼の男の不儀に起こる。縦え仰せを奉ると雖も、内々子細を姫公の御方に啓さざるやの由、御台所強く憤り申し給うの間、武衛遁れ啓すこと能わず。還って以て斬罪に処せらると。」(「吾妻鏡」6月27日条)。
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義高関連はコチラ
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岩船地蔵堂
「鎌倉インデックス」はコチラ
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義高関連はコチラ
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岩船地蔵堂
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