小池東京都知事、石原前知事まで実施していた追悼文送付を7年前より停止。その理由を、以前は「諸説ある」とか「後世の歴史家が判断すること」とか言って逃げていたが、今年は「全ての方々に慰霊する」と一般論に解消させる。勿論、あたかもその事実が無かったかのように、「朝鮮人」「虐殺」の語は一切使わない。〈100年前の世界043〉大正12(1923)年9月1日 朝鮮人虐殺⑨ 〈1100の証言;千代田区、豊島区〉 「〔略。大塚の空蝉橋では〕夜になると朝鮮人が口笛で合図をしあって神社〔大塚天祖神社〕の縁の下にかくれていると言う密告に、憲兵が出てきて縁の下の人間を発砲して殺したが1人であった。こうしたことに刺激されて、小島屋〔下宿先〕の家主の引率する自警団も、17名殺ったが、そのうち3名は普段左翼がかったことを言っている地区内の住民で、主義者だから混ぜて殺ってしまえということになった。」 より続く
大正12(1923)年
9月1日 朝鮮人虐殺⑩
〈1100の証言;中野区〉
細井稔
〔1日、上高田で〕ところが夕刻すぎると、大変物凄なニュースが入って来た。一つは、朝鮮人が暴動を起こしたらしい。井戸には毒薬を投げ入れられる危険があるので、各井戸は確(しっか)りと蓋をした上で、沢庵石のような重石をのせ、よく注意せよとの指令。二つ目は、豊多摩刑務所から極悪の罪人が多数逃げ出した。近所の民家に押入り、衣類、金銭、食物を強奪する危険があるので、各戸とも戸締りを厳重にし用心すること、との触れが回った。
そうなると、自警団貝も、日本刀や、鉄棒、火消しのとび口、手頃な真竹で竹槍を丹念に作り、ゴマ油を竹の先に塗ったり、大変な異様さと殺伐さを減らせて来た。夜に入ると半鐘が乱打され、囚人が刑務所から逃げ出したというので、村中、恐怖に包まれた。そのうち各方面の畑の方で、怪しいものがいるぞと叫声が上がり、あちこち一晩中ざわめき、生きた心地はしなかった。しかし不審な者は殆んどつかまらなかったようだ。
翌日2日は、自警団の所はいっそう物々しくなり、前記のように武器を持った人が増し、上高田へ入る人々は、怪しいと見ると皆引止められ、色々訊問された。日本人らしからぬ者は、知人でもいて証明すればパスできたが、そうでない人達は、「イロハ四十八文字」「あいうえお」をいえるかいえぬかで識別された。いえぬ者は、トコトンしらべられた。
上高田では、朝鮮の人達や、危険視された人々の殺傷は、ほとんど私達は聞いていなかったのでよかったと思う。
(細井稔他編『ふる里上高田の昔語り』いなほ書房、1982年)
〈1100の証言;練馬区〉
芹沢西左衛門〔野菜を売りに行った大塚市場から帰る途中で被災〕
〔1日〕途中の様子を見ても家がつぶれたり、火災がおきたところはなかったが、ガラスの割れた家は多かった。また、武蔵大学付近の道路に亀裂ができていた。練馬駅の所の鐘紡のレンガ塀が倒れ、女子工員8人が死んだ。〔略〕夜になると、井戸に毒を入れられるというデマが広まり、どの家でも夜通し井戸を守るのに懸命だった。さらに本所・両国方面の死体処理に出ることを命ぜられた。悪臭の漂う中で多くの死体を処理するのはとてもつらかったので、2、3日で行くのをやめてしまった。その後も井戸を守る夜番などが続き、私も一時健康を害してしまうほどだった。
(練馬区教育委員会編『古老聞書』練馬区教育委員会、1979年)
〈1100の証言;文京区/大塚〉
幸野岩雄〔当時師範学校教諭〕
「帝都から免れ帰った幸野岩雄師範教諭の実見談」
〔1日〕護国寺の前を大塚の仲町へ出たが、ここでは兵器支廠の塀が倒れ兵士は剣を付けて護っている中に多数の避難者を収容していた。漸くにして高等師範学校へ着いたのは午後6時半頃であったが、学校の広大な庭園には既に避難者が満たされていた。その夜半である。1日の真夜中の頃だ。誰言うともなしに火事は不逞鮮人が爆弾を投じ又は火を放つからだ、鮮人には気をつけねばならぬと噂は噂を生んで人心は恟々としていた。
〔略〕翌2日になると朝鮮人の暴行は各方面より伝あり、在郷軍人青年団はみな棍棒を携帯して鵜の目鷹の目で鮮人を探しまわり見付かり次第警察へ突き出している。
〔略〕池袋へ行く途中鮮人が捕まっているのを見た。〔略〕又目白台の付近でも鮮人の警察へ引きずられて行くのを2、3人も見たが、その顔には生血がタラタラ流れていた。
〔略〕2日頃からは一般の人心は寧ろ地震の恐怖よりも不逞鮮人の暴行に対し全く夜も寝むれぬ有様で、恟々とし只その噂にのみ胸を騒がせていた。この夜である。2日の夜の午後8時半頃突然警備中の在郷軍人青年団が「諸君鮮人等は焼け残った小石川方面を襲うべく屡々侵入しつつある。今夜は高等師範及小石川小学校を中心として焼き払えといっているから充分に警戒して下さい」という事であった。
一同は実に意外の警告に呆然としてしまったが、間もなく11時頃と思うが一大強震が来たのと殆ど同時位に18、9の夜警青年は大きな声で「只今鮮人の女が50名程と男も交って春日町の方から高師の庭内に入って来た。彼等の男は印祥纏を着て、山に十の字の付いた提灯又は昔のガンドウ提灯を持っているから大いに警戒して下さい」と振れて回った。と間もなく同心町の魚屋の裏へ今鮮人が放火して焼け出した。その鮮人はつかまったと交々(こもごも)来る警報に、一同はその夜はマンジリともする事が出来なかった。
(『愛媛新聞』1923年9月7日)
〈1100の証言;文京区/小石川〉
黒澤明〔映画監督。当時中学2年生。小石川の大曲付近在住〕
その夜〔1日夜〕人々を脅かしたものは、砲兵工廠の物音である。〔略〕時々、砲弾に引火したのか、凄まじい轟音を発して、火の柱を吹き上げた。その音に人々は脅えたのである。私の家の町内の人々の中には、その昔は伊豆方面の火山の爆発で、それが連続的に火山活動を起しつつ、東京方面に近付いているのだ、とまことしやかに説く人もあった。
〔略〕下町の火事の火が消え、どの家にも手持ちの蝋燭がなくなり、夜が文字通りの闇の世界になると、その間に脅えた人達は、恐ろしいデマゴーグの俘虜になり、まさに暗闇の鉄砲、向う見ずな行動に出る。〔略〕関東大震災の時に起こった、朝鮮人虐殺事件は、この闇に脅えた人間を巧みに利用したデマゴーグの仕業である。私は、髭を生やした男が、あっちだ、いやこっちだと指差して走る後を、大人の集団が血相を変えて、雪崩のように右往左往するのをこの目で見た。
焼け出された親類を捜しに上野へ行った時、父が、ただ長い髭を生やしているからというだけで、朝鮮人だろうと棒を持った人達に取り囲まれた。私はドキドキして一緒だった兄を見た。兄はニヤニヤしている。その時、「馬鹿者ッ!」と、父が大喝一声した。そして、取り巻いた連中は、コソコソ散っていった。
町内の家から一人ずつ、夜番が出ることになったが、兄は鼻の先で笑って、出ようとしない。仕方がないから、私が木刀を持って出ていったら、やっと猫が通れるほどの下水の鉄管の傍へ連れていかれて、立たされた。ここから朝鮮人が忍びこむかも知れない、というのである。
もっと馬鹿馬鹿しい話がある。町内の、ある家の井戸水を飲んではいけないというのだ。何故なら、その井戸の外の塀に、白墨で書いた変な記号があるが、あれは朝鮮人が井戸へ毒を入れた目印だというのである。私はあきれ返った。何をかくそう、その変な記号というのは、私が書いた落書だったからである。
私は、こういう大人達を見て、人間というものについて、首をひねらないわけにはいかなかった。
(黒澤明『蝦蟇の油 - 自伝のようなもの』岩波書店、1984年)
松田徳一〔駒込で被災〕
かくて、1日の夜は、神明社の空地に、露営する事になった。予は20年来練った事なれど、家族や多くの婦女子などは、はじめて体験するらしいので、夜もすがらろくろく眠ることさえ叶わぬ。しかも、激震は絶えず連続的に、またやや強震のそれは2時間乃至3時間おきに、間歇的に見舞うのであった。日が暮れて間もない時に、ある若者が「ソラ、朝鮮人が来た、火を放った、ソラソラ、そこにそこに。」と。老若男児は更なり、幼さ小児までが、手に鉄棒を提げ、追い回る様は、あたかも兎狩りや豚駆りのようで、人々の神経は極度に昂奮して、町の辻々やその入口には、関所が至る所に二重や三重にも重複して設けられ、さながら蟻の遙出る穴もないという有様であって、いちいち通行人を誰何し始めたのは、今から思っても滑稽の様でもある。
〔略〕人々の扮装は、赤毛布ならぬ上衣を左手に携え、右手には棍棒や鉄棒や、金剛杖など、手に手に持ちピストルや短刀を懐中するものなどもあり。
〔略。2日〕 なお火焔は一向にやまず。益々盛となり、サア神楽坂が焼けかけた、柳町が!若松町が火事!と、朝鮮人が300人ばかり、横浜方面より押寄せて来た。サア大変だ大変だと噂は噂を生じ、それからそれへと、根もなき虚伝が拡がりて、混乱不安の状は真に名状すべき辞がない。在郷軍人青年会有志会とて、公私の団体は各同区町の警備に任じ、各竹刀棍棒ピストル鉄棒などを持って護身の武器となし、真実に物騒千万戦国状態であった。
午後4時、東京府及びその近県にわたり、戒厳令が下った。兵隊がいよいよ乗り込んだ。しかも将校は軍刀を、下士以下は戦時武装をなし、各所の哨所にはいち早く着剣した兵卒が立つ事になった。
(松田徳一『涙の泉』二酉社、1923年)
三輪俊明〔当時8歳。浅草田島町で被災、本郷西片町へ避難〕
〔1日夜遅く〕 ここで朝鮮人騒ぎが始まった。朝鮮人が戸毎の井戸に毒薬を入れて回っているというデマが、ここ本郷にも広がり始めた。従って本郷辺りも住民による自警団が組織され、各自は、日本刀とか、ピストルを携行して警戒するという物騒なことに発展して行った。
(三輪俊明『生い立ちの記』表現社、1987年)
『報知新聞』(1923年10月29日)
「警官の非を挙げて本郷自警団が決起 煽動、宣伝の事実を一々指摘して内相、総監に検挙団員の釈放を迫る」
まず曙町村田代表から、9月1日夕方曙町交番巡査が自警団に来て「各町で不平鮮人が殺人放火をしているから気をつけろ」と2度まで通知に来た外、翌2日には警視庁の自動車が「不平鮮人が各所に於て暴威を逞しうしつつあるから各自注意せよ」との宣伝ビラを散布し、即ち鮮人に対し自警団その他が暴行を行うべき原因を作ったのだと報告すれば、
次に森川町の小野代表が立って、丁度9月4日肴交番の巡査は折柄通行中の支那人を捕え鮮人と間違えて、この鮮人をヤッツケロと自警団員を使嗾したので団員の多勢はこれを殴打負傷させた。支那人は付近の医師の手で一命はとり止めだが、9月14日になって自警団員が殴った事が知れて14名の団員は重大犯罪者の如く取扱われ目下東京刑務所に収監されている。その責任は果して誰にあるか、尚本件については証人も多数あると卓を叩いて悲憤の涙を流し、
続いて千駄木町その他各町代表はいずれも警官の非行を報告し、この際本郷区はこれを一部の区会議員や自警団のみに止めず本郷全区民の声として一般の世論を喚起し、目下収監されている団員救助の方法を講ずる為め佐藤氏〔弁護士佐藤有泰〕を委員長とし数名の委員をしてこれが貫徹を期するため、警官の非行を一括して警視総監、内務大臣に陳情することを悲憤憤慨の裡に可決したというが、早くもこの事を探知した上野憲兵隊では事件のより以上悪化せんことを恐れ特に私服を増派して驚戒中である。
〈1100の証言;港区/麻布〉
鈴木東民〔労働運動家、ジャーナリスト、政治家。当時麻布で下宿生活〕
9月1日が来る。関東大震災は40年前の昔ばなしとなったが、東京の真中でそれを経験したわたしの印象は、今でもなまなましい。そのときわたしは地獄絵を目のあたりに見たのです。数々の惨劇の中でも、朝鮮人虐殺にわたしは戦慄と憤りとを感じました。
「朝鮮人反乱」のデマを発案した張本人が誰であるかをわたしは知らないが、それを流布するのに官憲も手伝ったことは事実です。「朝鮮人300人の一隊が機関銃を携えて代々木の原を進撃中」とか「朝鮮人の婦女子が毒物を井戸に投入しつつあり」とかいった類のビラが麗々しく、いたる所の交番に張られているのをわたしは見ました。
朝鮮人を殺せというので、「自警団」が組織されました。八百屋や魚屋のあんちゃんたちまで、竹ヤリや日本刀をぶりまわして、朝鮮人を追いまわし、われわれ市民を監視したり、どなりつけたりしました。わたしの下宿の主人は、錆びついた仕込み杖をひっぱり出して砥石にかけました。
それを笑ったというので、その下宿の主人と下宿人である若い検事とが、わたしに食ってかかりました。朝鮮人の反乱を信じない態度が、非国民だというのです。その検事はどなりました。「警察が認めていることを、君は否定するというのですか」と。東京市民の99%までが、この調子でした。
(「衆愚」鎌田慧『反骨 - 鈴木東民の生涯』講談社、1989年)
つづく