昨日(30日)、自宅のすぐ傍でサクラが咲いているのを見付けた。
春はもうすぐそこに。
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そのサクラのすぐ近くにはウメも咲いていた。
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下は、本日(31日)。
JR東戸塚駅前の白旗神社がある丘の入口にあるもの。
右側に白梅、左側に紅梅。
ただ、紅梅はもうピークを過ぎていましたので、アップは白梅のみ。
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「四季のうつろいインデックス」をご参照下さい。
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2010年1月31日日曜日
天文20(1551)年3月~5月 ザビエル、山口入り 日本人修道士ロレンソ誕生 三好長慶暗殺未遂事件 遊佐長教暗殺 真田幸綱、戸石城を攻略 [信長18歳]
天文20(1551)年 [信長18歳]
*
春
・ザビエル、山口入り。
後の日本人修道士ロレンソ、山口でフランシスコ・ザビエルの説教を聴き熱心なキリシタンとなる。
*
ザビエルは山口入りに際しては、威儀を正し、インド総督の手紙、日本人が見たことのない進物、豪華な挿絵入り聖書、注釈書などの贈り物も持って大内義隆を訪問。
京都では、着の身着のままで贈り物もない事の不利さを思い知らされていた。内裏や延暦寺でも取り次いで貰えなかったのは進物がなかったからで、日本では清く貧しい伝道者であるよりも外見が立派でなければならないことを知った。
大内義隆は、珍しい物品に満足し、ザビエルが携帯する金襴の祭服を着せてみせて手を叩いて喜び、すぐに宣教許可を与えた。日本人は好奇心が強く、うるさく質問し、知識欲が旺盛で、質問に限りがなく、昼夜を分かたず質問し、尽きることがなかったという。
*
「彼らは地球が円いことを知りませんでしたし、太陽の軌道についても知りませんでした。彼らはこれらのことやその他、たとえば、流星、稲妻、降雨や雪、そのほかこれに類した事について質問しました。それらの質問に私たちが答え、よく説明しましたところ、大変満足して喜び、私たちを学識のある者だと思ったようです。」
このような答えに満足した人たち500人余が洗礼を受ける。中には、僧侶として学問を極めた人もいて、その教理の欺瞞、僧侶たちが犯している罪(男色)を暴露。
*
ロレンソ:
年齢25~26歳、琵琶を片手に「平家物語」などを語って暮らしを立てている琵琶法師。
「全能なるデウスは、光栄ある使徒パウロが言っているとおり、強い者を辱めるために、最も低いもの、最も卑しいものを選びたもうたように、同じ御主は、彼が日本で入会することを許されたイエズス会の最初のいるまんとなるように、ほとんど全く視力を欠き、生まれながらに甚だおかしな容貌をしたこの男を選びたもうた。」(フロイス「日本史」)。
抜群の記憶力と、語り部としての優れた話術、生来の優れた知能、彼なくして僧侶や身分の高い人たちとの討論は不可能で、彼の不退転の熱意は、キリスト教国で教育された者でもこれ以上でなかったであろうとフロイスは賞賛。
*
3月3日
・三好長慶、京都市中に地子銭を課す。松永久秀はこれを厳しく取り立てる。
*
3月8日
・三好長慶暗殺未遂事件。
近江朽木で幽居の将軍義輝、刺客を放つ。
4日、京都吉祥院(下京区吉祥院)の長慶屋敷に忍び込む稚児風の刺客が侵入。連累は60余名という。14日、伊勢貞孝の屋敷でで進士(シンジ)九郎賢光に襲われ負傷。賢光はその場で自害。
*
「伊勢守(伊勢貞孝)昨日三好(吉祥院、長慶)所へ罷り向かう。大飲に及ぶと云々。
然る処去夜小童忍び入る。焼討ちすべきの造意と云々。彼の小童召し取り強(拷)問す。
今朝近所の物(者)これを取る。但し他行と云々。下京に於いて両人召し取る。晩天三人生害すと云々。六十人計り同類これありと云々。」(「言継卿記」3月8日条)。
*
3月14日
・香西元成・三好政勝(政長の子)・柳本・宇津ら丹波勢、洛中に乱入。ゲリラ活動。
*
三好政勝は、天文18年6月、摂津榎並城を出奔し、丹波桑田郡の地侍宇津氏(北区宇津を本貫とする土豪)らに匿われていた。
この政勝・元成らの丹波山間部を根拠とするゲリラ軍は、義輝側の最強の精鋭部隊で、執拗に長慶に対し抵抗。政勝らは、千本通りを二条~五条まで南下し、東郊の郷村を焼き打ちして引揚げる。
*
5月
・大内義隆の家臣陶隆房、大友晴英を大内家の養子に請うため、大友義鎮に要請。
*
5月5日
・三好長慶岳父・河内守護代遊佐長教、高尾城内で将軍義輝(細川晴元)の放つ刺客(時宗僧侶)により暗殺。
*
[遊佐長教暗殺の報復]
河内の富裕な国人の萱振某が河内上郡代(上半国守護代か?)に任ぜられ、高屋城城代となる。
河内守護は、畠山稙長・政国が相次いで没し、畠山高政が後嗣となっているが、若年のため実権は守護代層が掌握。
ところが、下郡代(下半国守護代)・飯盛城代安見直政が、河内上郡代萱振某が遊佐長教暗殺に関係しているらしいとの情報をかぎつける。
安見は、大和越智氏の中間であったといわれ、兵卒として働いているうち、鑓突きの術に優れているのが長教の目にとまり、長教のもとで下郡代に抜擢され、士卒5千を動かす大身となる。直政は、時宗僧侶の周辺を密かに調査しこの情報を入手する。
*
天文20年12月、河内両郡代の不仲を心配した長慶は、安見の子を萱振方へ聟入り(養子縁組)させる仲介をとり、それが機縁で、直政も高屋城を訪れるようになり、両者は交流するようになる。
*
天文21年2月10日、直政は、飯盛城下に「数奇の座敷」を造営し萱振を招待し、酒宴半ばで萱振主従10人を斬殺。
その後直ちに、直政は家臣を高屋城下に向かわせ萱振屋敷を襲撃させ、萱振一族の子女全てを殺害。城内の野尻・中小路氏ら萱振方の土豪は抵抗するが、安見側は大軍をくり出し全てを切腹に追いやる。
ただ萱振某の弟の萱振隆生だけは飯盛城を脱出し、大和生駒を経て奈良へ落ちるが、遊佐一族の筒井氏に捕らわれ高屋城に送られる。
*
安見直政は、亡主遊佐長教の仇を討ったとして武名が上り、「弓取の上にては神妙なる働らき、比類なし。君忠の者なり」と、畿内に名を知られるようになる。
長教の弟の根来の松坊が萱振と一味していたことが発覚し、有馬温泉(神戸市北区)に湯治に出ているところを、長慶が派遣した兵により殺害される。
*
こうして長教暗殺後、徹底した報復がなされ、結果的には畠山氏弱体化に拍車をかけ、河内の三好氏領国化をもたらす事になる。
*
これら長教にまつわる事件の詳細は、賢忍房良尊(興福寺僧侶)が筆写していた大般若経六百帖の奥書に記した「天文間日次記」と称されている。「大日本伝皇代記」「長享年後畿内兵乱記」等にも一致し、大筋は史実を踏まえたものと見ることができる。
*
5月9日
・大内義隆、宗養・寿慶らと「宮島千句」を行う。
*
5月26日
・武田方の真田幸隆(幸綱、39、小県郡真田郷が拠点)の調略により、上田在の戸石城(上田市)落城。村上義清、本城葛尾城(坂城町)に後退。小県郡域でも武田氏が主導権を掌握。
その後の更科・埴科郡域の領主・地侍調略にも幸綱の働きによるところ大。
*
[信濃真田氏]
真田氏は小県郡の古族滋野一族といわれる海野氏の分かれで、室町中期頃から真田郷の小領主としてみえる。
天文10(1541)年5月の海野平の合戦で一族の海野棟綱らと敗れて、上野平井城の上杉憲政を頼る。
天文16年閏7月の武田氏の志賀城攻めには、幸綱が武田方として出陣しており、それ以前での武田氏への帰属であろう。
天文18(1549)3月、幸綱が仲介して帰属した望月源三郎に知行700貫文を安堵しており(「高白斎記」)、既に信濃先方衆としての立場を確認できる。
翌19年7月、幸綱自身が上田で300貫文の知行宛行を約束され、後に真田氏が上田領に進出する契機になる。
翌年、戸石城を攻略。これは、信玄同様の調略をもって容易に占領したといわれて、その後の更級・埴科郡域の領主・地侍への調略も、幸綱の働きによるところが大きい。
*
天文22(1553)年8月の村上義清信濃逃亡後は、上田領を与えられ、3男昌幸を人質として甲府に送る。
永禄4(1561)年11月以降の西上野攻略戦略では中心的働きをする。
永禄6年10月の岩櫃城(群馬県東吾妻町)攻略後は、城代として吾妻領支配に深く関与する。
*
その後、嫡男信綱が信濃先方衆筆頭として幸綱の後を継承し、3男昌幸は、信玄膝下で奥近習衆から侍大将になる。
昌幸は甲斐旧族の武藤家を継ぎ、武藤喜兵衛と改称し、武田家臣団の中でも特異な働きをする。信玄最晩年の元亀3(1572)年、奉行人の1人になる(他国衆としては異例の処遇)。
天正3(1575)年5月の長篠の戦いでの兄信綱・昌輝戦死後は、復姓して真田家の家督を継ぐ。
勝頼時代、本領真田郷を中心とする上田領支配のかたわら、岩櫃城代として上野国吾妻郡域の地侍衆統率も担当し、重臣として甲府へも出仕。
天正6年6月の甲越同盟(武田・上杉間)成立後には、東上野侵攻戦略の先頭に立ち、同8年5月には、沼田城(群馬県沼田市)を攻略して城主となり、新たに沼田領も支配。
しかし、天正10(1582)年3月、武田家は滅亡し、以後、北条・上杉・徳川・織田・豊臣氏らの大大名や、統一政権との折衝の中で生き残り戦略を展開。
天正15年4月、秀吉の大坂城に出仕し、上田・沼田領を安堵され、大名としての地位を確立。
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「★信長インデックス」をご参照下さい
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春
・ザビエル、山口入り。
後の日本人修道士ロレンソ、山口でフランシスコ・ザビエルの説教を聴き熱心なキリシタンとなる。
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ザビエルは山口入りに際しては、威儀を正し、インド総督の手紙、日本人が見たことのない進物、豪華な挿絵入り聖書、注釈書などの贈り物も持って大内義隆を訪問。
京都では、着の身着のままで贈り物もない事の不利さを思い知らされていた。内裏や延暦寺でも取り次いで貰えなかったのは進物がなかったからで、日本では清く貧しい伝道者であるよりも外見が立派でなければならないことを知った。
大内義隆は、珍しい物品に満足し、ザビエルが携帯する金襴の祭服を着せてみせて手を叩いて喜び、すぐに宣教許可を与えた。日本人は好奇心が強く、うるさく質問し、知識欲が旺盛で、質問に限りがなく、昼夜を分かたず質問し、尽きることがなかったという。
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「彼らは地球が円いことを知りませんでしたし、太陽の軌道についても知りませんでした。彼らはこれらのことやその他、たとえば、流星、稲妻、降雨や雪、そのほかこれに類した事について質問しました。それらの質問に私たちが答え、よく説明しましたところ、大変満足して喜び、私たちを学識のある者だと思ったようです。」
このような答えに満足した人たち500人余が洗礼を受ける。中には、僧侶として学問を極めた人もいて、その教理の欺瞞、僧侶たちが犯している罪(男色)を暴露。
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ロレンソ:
年齢25~26歳、琵琶を片手に「平家物語」などを語って暮らしを立てている琵琶法師。
「全能なるデウスは、光栄ある使徒パウロが言っているとおり、強い者を辱めるために、最も低いもの、最も卑しいものを選びたもうたように、同じ御主は、彼が日本で入会することを許されたイエズス会の最初のいるまんとなるように、ほとんど全く視力を欠き、生まれながらに甚だおかしな容貌をしたこの男を選びたもうた。」(フロイス「日本史」)。
抜群の記憶力と、語り部としての優れた話術、生来の優れた知能、彼なくして僧侶や身分の高い人たちとの討論は不可能で、彼の不退転の熱意は、キリスト教国で教育された者でもこれ以上でなかったであろうとフロイスは賞賛。
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3月3日
・三好長慶、京都市中に地子銭を課す。松永久秀はこれを厳しく取り立てる。
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3月8日
・三好長慶暗殺未遂事件。
近江朽木で幽居の将軍義輝、刺客を放つ。
4日、京都吉祥院(下京区吉祥院)の長慶屋敷に忍び込む稚児風の刺客が侵入。連累は60余名という。14日、伊勢貞孝の屋敷でで進士(シンジ)九郎賢光に襲われ負傷。賢光はその場で自害。
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「伊勢守(伊勢貞孝)昨日三好(吉祥院、長慶)所へ罷り向かう。大飲に及ぶと云々。
然る処去夜小童忍び入る。焼討ちすべきの造意と云々。彼の小童召し取り強(拷)問す。
今朝近所の物(者)これを取る。但し他行と云々。下京に於いて両人召し取る。晩天三人生害すと云々。六十人計り同類これありと云々。」(「言継卿記」3月8日条)。
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3月14日
・香西元成・三好政勝(政長の子)・柳本・宇津ら丹波勢、洛中に乱入。ゲリラ活動。
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三好政勝は、天文18年6月、摂津榎並城を出奔し、丹波桑田郡の地侍宇津氏(北区宇津を本貫とする土豪)らに匿われていた。
この政勝・元成らの丹波山間部を根拠とするゲリラ軍は、義輝側の最強の精鋭部隊で、執拗に長慶に対し抵抗。政勝らは、千本通りを二条~五条まで南下し、東郊の郷村を焼き打ちして引揚げる。
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5月
・大内義隆の家臣陶隆房、大友晴英を大内家の養子に請うため、大友義鎮に要請。
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5月5日
・三好長慶岳父・河内守護代遊佐長教、高尾城内で将軍義輝(細川晴元)の放つ刺客(時宗僧侶)により暗殺。
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[遊佐長教暗殺の報復]
河内の富裕な国人の萱振某が河内上郡代(上半国守護代か?)に任ぜられ、高屋城城代となる。
河内守護は、畠山稙長・政国が相次いで没し、畠山高政が後嗣となっているが、若年のため実権は守護代層が掌握。
ところが、下郡代(下半国守護代)・飯盛城代安見直政が、河内上郡代萱振某が遊佐長教暗殺に関係しているらしいとの情報をかぎつける。
安見は、大和越智氏の中間であったといわれ、兵卒として働いているうち、鑓突きの術に優れているのが長教の目にとまり、長教のもとで下郡代に抜擢され、士卒5千を動かす大身となる。直政は、時宗僧侶の周辺を密かに調査しこの情報を入手する。
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天文20年12月、河内両郡代の不仲を心配した長慶は、安見の子を萱振方へ聟入り(養子縁組)させる仲介をとり、それが機縁で、直政も高屋城を訪れるようになり、両者は交流するようになる。
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天文21年2月10日、直政は、飯盛城下に「数奇の座敷」を造営し萱振を招待し、酒宴半ばで萱振主従10人を斬殺。
その後直ちに、直政は家臣を高屋城下に向かわせ萱振屋敷を襲撃させ、萱振一族の子女全てを殺害。城内の野尻・中小路氏ら萱振方の土豪は抵抗するが、安見側は大軍をくり出し全てを切腹に追いやる。
ただ萱振某の弟の萱振隆生だけは飯盛城を脱出し、大和生駒を経て奈良へ落ちるが、遊佐一族の筒井氏に捕らわれ高屋城に送られる。
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安見直政は、亡主遊佐長教の仇を討ったとして武名が上り、「弓取の上にては神妙なる働らき、比類なし。君忠の者なり」と、畿内に名を知られるようになる。
長教の弟の根来の松坊が萱振と一味していたことが発覚し、有馬温泉(神戸市北区)に湯治に出ているところを、長慶が派遣した兵により殺害される。
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こうして長教暗殺後、徹底した報復がなされ、結果的には畠山氏弱体化に拍車をかけ、河内の三好氏領国化をもたらす事になる。
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これら長教にまつわる事件の詳細は、賢忍房良尊(興福寺僧侶)が筆写していた大般若経六百帖の奥書に記した「天文間日次記」と称されている。「大日本伝皇代記」「長享年後畿内兵乱記」等にも一致し、大筋は史実を踏まえたものと見ることができる。
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5月9日
・大内義隆、宗養・寿慶らと「宮島千句」を行う。
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5月26日
・武田方の真田幸隆(幸綱、39、小県郡真田郷が拠点)の調略により、上田在の戸石城(上田市)落城。村上義清、本城葛尾城(坂城町)に後退。小県郡域でも武田氏が主導権を掌握。
その後の更科・埴科郡域の領主・地侍調略にも幸綱の働きによるところ大。
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[信濃真田氏]
真田氏は小県郡の古族滋野一族といわれる海野氏の分かれで、室町中期頃から真田郷の小領主としてみえる。
天文10(1541)年5月の海野平の合戦で一族の海野棟綱らと敗れて、上野平井城の上杉憲政を頼る。
天文16年閏7月の武田氏の志賀城攻めには、幸綱が武田方として出陣しており、それ以前での武田氏への帰属であろう。
天文18(1549)3月、幸綱が仲介して帰属した望月源三郎に知行700貫文を安堵しており(「高白斎記」)、既に信濃先方衆としての立場を確認できる。
翌19年7月、幸綱自身が上田で300貫文の知行宛行を約束され、後に真田氏が上田領に進出する契機になる。
翌年、戸石城を攻略。これは、信玄同様の調略をもって容易に占領したといわれて、その後の更級・埴科郡域の領主・地侍への調略も、幸綱の働きによるところが大きい。
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天文22(1553)年8月の村上義清信濃逃亡後は、上田領を与えられ、3男昌幸を人質として甲府に送る。
永禄4(1561)年11月以降の西上野攻略戦略では中心的働きをする。
永禄6年10月の岩櫃城(群馬県東吾妻町)攻略後は、城代として吾妻領支配に深く関与する。
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その後、嫡男信綱が信濃先方衆筆頭として幸綱の後を継承し、3男昌幸は、信玄膝下で奥近習衆から侍大将になる。
昌幸は甲斐旧族の武藤家を継ぎ、武藤喜兵衛と改称し、武田家臣団の中でも特異な働きをする。信玄最晩年の元亀3(1572)年、奉行人の1人になる(他国衆としては異例の処遇)。
天正3(1575)年5月の長篠の戦いでの兄信綱・昌輝戦死後は、復姓して真田家の家督を継ぐ。
勝頼時代、本領真田郷を中心とする上田領支配のかたわら、岩櫃城代として上野国吾妻郡域の地侍衆統率も担当し、重臣として甲府へも出仕。
天正6年6月の甲越同盟(武田・上杉間)成立後には、東上野侵攻戦略の先頭に立ち、同8年5月には、沼田城(群馬県沼田市)を攻略して城主となり、新たに沼田領も支配。
しかし、天正10(1582)年3月、武田家は滅亡し、以後、北条・上杉・徳川・織田・豊臣氏らの大大名や、統一政権との折衝の中で生き残り戦略を展開。
天正15年4月、秀吉の大坂城に出仕し、上田・沼田領を安堵され、大名としての地位を確立。
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「★信長インデックス」をご参照下さい
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昭和13年(1938)3月17日~26日 スペイン戦線、アラゴンの村々が陥落。 総動員法、貴族院通過。 日本軍、台児荘で包囲される。 電力国家管理関係法成立。
昭和13年(1938)3月17日~26日
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この月の
スペイン戦線の状況についてはコチラ、
ドイツのオーストリア侵略過程はコチラ、
をご参照下さい。
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3月17日
・イタリアのファシスト使節来日
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3月17日
・フランス下院、ブルム内閣信任。369対176。
ブルム政府は国境再開を要請するネグリンに同意。しかし、それ以上の支援措置はとらず。
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3月17日
・スペイン、アラゴン戦線。フランコ軍がアラゴンのカスペを陥落。
16日、フランコ軍のバロン、ムニョス・グランデス、パウティスタ・サンチェス指揮の3個師団がカスぺを包囲。南部では、アランダが共和国戦線を突破し、モンタルパンを占領。
17日、国際義勇軍各旅団が奮戦するもカスぺが陥落。英国人大隊指揮官サム・ワイルドらは、捕虜になるところを危うく逃がれる。フランコ軍は、アラゴン進出8日間で東100kmに進み、エプロとグァダルーぺ河畔で再編成の為の休息をとる。
攻勢再開は22日。
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3月17日
・ソ連、バレエ振付師ヌレエフ、誕生。
*
3月17日
・ポーランド、リトアニアに領土要求放棄を求める最後通諜を出す。
19日、リトアニアは、ポーランドに譲歩し国境を再開。
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3月18日
・英米両国の石油会社、従業員の昇給をメキシコ政府より求められるが拒絶。
メキシコ政府、両国石油会社の資本を接収し国有化。
英は国交断絶。米は銀購入停止。
*
・メキシコのカルデナス、「石油産業国有化に関する布告」発表。
スタンダード,シェルの抵抗を押しきり石油関係17社没収。油田国有化。収容資産管理の石油行政審議会(CAP)設立。
米国はメキシコ銀の買い付け拒否でこれに対抗。
米国石油資本は軍事介入を要請するが、ルーズベルトは拒否。
*
3月18日
・ソ連、ドイツによる脅威を受けた場合、国際連盟の枠内で仏ソ条約履行方法・手段の打合せ提案。英仏とも冷淡。
*
3月20日
・「死なう団盟主」江川桜堂、没。団員4人殉死。
*
3月21日
・アメリカ、バネー号賠償金として221万4,000ドルを日本に要求。日本承認。
*
3月22日
・スペイン、フランコ軍がアラゴンへの攻勢を再開。
サラゴーサ、ウエスカ、ビーナなど革命的な村々が陥落。
*
フランコ軍のソルチャーガとモスカルド両将軍は、ウェスカ~サラゴーサの150kmの戦線で5つの攻撃を開始、ウェスカ、タルディエンタ、アルクピエーレが陥落。翌日、ヤグニはエプロ河を渡河しピーナを占領。アラゴンの全ての村々が陥落。
*
3月23日
・メキシコ、石油会社国有化に関して、列強の威嚇の対抗するカルデナス政府支持の大デモ。
*
3月24日
・国家総動員法、政府原案通り貴族院通過、可決成立。
第1条で「国家総動員とは戦時に際し国防目的達成のため国の全力を最も有効に発揮せしむる様、人的物的資源を統制運用するを謂う」と規定
*
3月25日
・東京の飛行館、文学座第1回公演。森本薫「みごとな女」ほか上演、~3月26日。
*
3月25日
・日米漁業協定が成立。アラスカ沖サケ漁が禁止。
*
3月25日
・スペイン、アラゴンを制圧したフランコ軍は、カタロニアへ侵攻するが難渋する。
しかし、南アラゴンではフランコ軍は地中海への進撃を準備(共和国を分断する作戦)。
*
25日、フランコ軍のヤグエがフラーガを奪取し、カタロニアに侵攻するが、レリダでは共和国軍エル・カンぺシーノ師団が、1週間に亘り抵抗。
北方では、モスカルドがパルバストロに入り、更に北ではソルチャーガの部隊が、ピレネー山脈の谷あいで共和国砲兵隊や飛行機のたやすい攻撃目標となり行動の自由を失う。
南方では、アランダ、ガルシア・エスカメス、ベルティ、ガルシア・バリーニョが、空軍力の援護のもとに南アラゴンの高原を突進し地中海への進撃を準備。
ドイツは、歩兵掩護の為の戦闘機利用について多くを学ぶ。
バルセロナのネグリン政府では、国防相ブリエトとそれに影響をうけた外相ヒラールの敗北主義的言動が目立つようになる。
*
3月26日
・日本軍、台児荘で包囲される(~4月6日敗退)。
第10師団歩兵33旅団瀬谷少将の支隊、中国軍に包囲。救援の第5師団歩兵21旅団坂本順少将の支隊も包囲。4月6~7日、退却。
*
3月26日
・「電力管理法」「日本発送電株式会社法」などの電力国家管理関係法、成立。4月6日、公布。翌14年4月1日より電力管理が始まる。
*
各電力会社から一定規模以上の発電・送電施設を現物出資させ、日本発送電株式会社を設立、それを国家管理下におこうというもの。
会社所有は民間資本に任せるが、経営は国家が行なうというこの法律は、企業経営の自由、ひいては資本主義そのものを否定するものとして財界・実業家たちを恐れさせる。
電力統制は、昭和16年には配電部門に及び、国家総動員法に基づく「配電統制令」により、地域別に統合された9配電会社設立命令が出される。
*
前年10月13日、電力調査会官制が公布され、同18日に第1回調査会が開催される。
委員は、鉄道次官、貴衆両院議員、学識経験者、財界、5大電力の社長(反対派)など35名。
委員会への諮問事項は、「電力の国家管理をなし、国防の充実、国民年活の安定を図り、戦時体制に順応して生産力の拡大に備え、国防の充足、動力の動員を整え、産業計画遂行の円滑を期するは刻下喫緊の要務なり・・・。よってこれが急速実施に関する具体的方策を問う」というもの。
この年(昭和13年)1月25日、電力管理関係法律案、衆議院に上程され即日委員会に移され、1月31日から委員会の議事に入る。
*
①思想問題:
「問 本案は、レーニンの電力国営思想、ドイツの、社会主義のワイマール憲法のもとの電力事業社会化法案、それから、コールのソーシャリゼーション等に類するイデオロギーをもとにしたもの、少なくとも国家社会主義の実現を期するもので、純粋な経済問題とは思われないがどうだ。
答 一君万民の大義を政治上、産業経済上、徹底させるというほか、われわれの持つべきイデオロギーはあり得ない。本案は電気というような普遍的基礎的なものを取り上げて、これを一部でなく全国民に及ぶよう処置しようという趣旨であって、あらゆる産業を統制管理し、社会化しようとする第一歩であるなどというのはとんでもない誤解である。」
*
②国防問題:
「問 本案は時局に即した臨時の戦時立法とすべきものではないか。
答 わが国の立国の条件に照らし、存立に欠くべからざる恒久的な方策であって、戦時目当ての臨時立法ではない。しかし、現時急迫しておる時局の要求に応じても、最も適切な効果を発揮することは期待しておる。」
*
③公益法人電気協会の反対運動:
「問 東電社長小林一三氏が、昭和一〇年六月二九日、『東洋経済新報』誌上に、「水力電気のごとき国家百年の大計と終始すべき性質のものは、必ずしもその建設費に対する利潤のみを考えて事業化するということよりも、道路または港湾のごとき一国産業の基礎工程に処し、必要不可欠の設備の一つとして考えてみる時代がきたのではないか、電力界へまさに革命の機運がきたのではないか」と述べ、また東邦電力の松永社長も少なくとも発送電は一元的に総合運営すべき旨の論文を発表しておるにかかわらず、同じ趣旨に成るものとして当然賛成すべき本法案に反対の急先鋒となっていることこそ不可解であるが、更に池尾氏を会長とする電気協会は総力を挙げて猛反対を続け、時局に対する非協力の態度にあけくれておるのは、一部の私利のために公器を弄ぶものと思われる。監督官庁としての見解いかん。
答 事についての賛否の表明は自由であろうが、電気協会は公益法人であるから、その行動は公益を目的とすべきで、一部のため本分を逸脱せりと認めるに至らば、適当の処置をとる考えである。」
*
④発送電、配電の一元化:
「問 本案の目的達成のためには発送電だけでは足りない。配電まで一元的に管理するを必要としないか。
答 電気事業法を改正することとして、配電の末端まで管理の精神が流れるよう、しばらく推移をみることとしたのであるが、たって配電まで管理せよという趣旨であるならば今からでも用意はあると答えた所、決してそれには及ばないと、あわてて質問を打ち切った。」
*
⑤強制出資:
「問 現物出資を強制し、その対価に将来、無価値となるかも知れぬ新会社の株券を交付するのは横領といわれても仕方がない。違憲立法ではないか。
答 所有権は法令の制限内で自由とは憲法、民法の明定する処であって、本法律により出資を強制してもなんら違憲ではない。
また、現物出資に対しては株券を交付するこそ当たり前のことである。その上、請求あらば現金で買い取るという特別配慮までしてあるので横領とは当たらないも甚しい。
新会社の株式が無価値となる懸念があるかどうかは、発送電会社法案の参考資料として収支目論見が出してあり充分御審議を煩わしたい。」
*
⑥外債問題:
「問 インデンテュア(外債の約定書)によると、担保物件の移転は承諾なしにはできないことになっておる。本案が担保設備を強制出資させるということは、このインデンテュアの違反である。
少なくとも必要の場合は繰り上げ償還を覚悟しなければならないが、どうか。
答 担保物件の移転が国の法律による強制の場合には、例外として可能だとするインデンテュアの例もある。本案では設備を移転しても担保はそのまま続けることにし、更に発送電会社、更に必要あらば政府が支払いを保証することにしてあるのだから、当然債権者保護は大きく加重され、問題が生じょうとは想像も及ばない。万一の場合の償還は考えてある。」
*
⑦料金、購入電力量、新会社収支の目論見書:
「問 目論見書の案によると、燃料石炭価をトン一四円平均とみてあるが、今、平均二〇円くらいが至当と思う。したがって料金の算定はずさんだといわねばならない。
更に新会社の収支見積りにも不安と思われる点が指摘される。
答 燃料炭は火力発電所の所在条件のいかんによって値段が違う。本州、中部一七円、九州六円、北海道七円が実際現状であるが、多少先高を見越し、消費量と消費地とを勘案し、平均一四円と算出した。これは算術平均ではない具体的なもので部分的な材料によったものではない。
なお、今後は、全国の所要量を一手で買入れることになり、従来よりも有利と予想しておる。
また新会社の収支については、一元的運営の利益、政府の資金援助、それから経営の合理化等で、現在よりよくなるとも悪くなることは想像できないけれど、卸売料金に政策を加味する場合も考え、六分配当に心配のないよう政府が保証を与えることにしておる。
*
⑧新会社の設立総会について:
「問 現物出資によって株主となる現在の電気事業者は、おおむね本案の反対者である。新会社の成立を希望しないものである。
だから創立総会の折に多数決で反対したら、会社が不成立に終る心配はないか。また成立しても、本法案の規定によって、株式の買戻しを請求されたら、払込み資本のなくなる幽霊会社同様のものになりはしないか。
答 本法案は会社を創立するための公法であるから、その設立を否認するような行為は許されないし想像もしていない。かりにやっても無効との見解である。
また現物出資者以外、一般公募の一億円の株主もあることである。買戻しを求められた株主は新たに買主を作れば問題はない。
当初は反対しても、一度法律となると、いさざよく協力態度に出ることは反対者もいっている位だから、政府として、あえて原案執行というような侮辱的な条項は規定をすることを差し控えたのである。」
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「★昭和13年記インデックス」をご参照下さい。
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この月の
スペイン戦線の状況についてはコチラ、
ドイツのオーストリア侵略過程はコチラ、
をご参照下さい。
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3月17日
・イタリアのファシスト使節来日
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3月17日
・フランス下院、ブルム内閣信任。369対176。
ブルム政府は国境再開を要請するネグリンに同意。しかし、それ以上の支援措置はとらず。
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3月17日
・スペイン、アラゴン戦線。フランコ軍がアラゴンのカスペを陥落。
16日、フランコ軍のバロン、ムニョス・グランデス、パウティスタ・サンチェス指揮の3個師団がカスぺを包囲。南部では、アランダが共和国戦線を突破し、モンタルパンを占領。
17日、国際義勇軍各旅団が奮戦するもカスぺが陥落。英国人大隊指揮官サム・ワイルドらは、捕虜になるところを危うく逃がれる。フランコ軍は、アラゴン進出8日間で東100kmに進み、エプロとグァダルーぺ河畔で再編成の為の休息をとる。
攻勢再開は22日。
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3月17日
・ソ連、バレエ振付師ヌレエフ、誕生。
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3月17日
・ポーランド、リトアニアに領土要求放棄を求める最後通諜を出す。
19日、リトアニアは、ポーランドに譲歩し国境を再開。
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3月18日
・英米両国の石油会社、従業員の昇給をメキシコ政府より求められるが拒絶。
メキシコ政府、両国石油会社の資本を接収し国有化。
英は国交断絶。米は銀購入停止。
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・メキシコのカルデナス、「石油産業国有化に関する布告」発表。
スタンダード,シェルの抵抗を押しきり石油関係17社没収。油田国有化。収容資産管理の石油行政審議会(CAP)設立。
米国はメキシコ銀の買い付け拒否でこれに対抗。
米国石油資本は軍事介入を要請するが、ルーズベルトは拒否。
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3月18日
・ソ連、ドイツによる脅威を受けた場合、国際連盟の枠内で仏ソ条約履行方法・手段の打合せ提案。英仏とも冷淡。
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3月20日
・「死なう団盟主」江川桜堂、没。団員4人殉死。
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3月21日
・アメリカ、バネー号賠償金として221万4,000ドルを日本に要求。日本承認。
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3月22日
・スペイン、フランコ軍がアラゴンへの攻勢を再開。
サラゴーサ、ウエスカ、ビーナなど革命的な村々が陥落。
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フランコ軍のソルチャーガとモスカルド両将軍は、ウェスカ~サラゴーサの150kmの戦線で5つの攻撃を開始、ウェスカ、タルディエンタ、アルクピエーレが陥落。翌日、ヤグニはエプロ河を渡河しピーナを占領。アラゴンの全ての村々が陥落。
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3月23日
・メキシコ、石油会社国有化に関して、列強の威嚇の対抗するカルデナス政府支持の大デモ。
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3月24日
・国家総動員法、政府原案通り貴族院通過、可決成立。
第1条で「国家総動員とは戦時に際し国防目的達成のため国の全力を最も有効に発揮せしむる様、人的物的資源を統制運用するを謂う」と規定
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3月25日
・東京の飛行館、文学座第1回公演。森本薫「みごとな女」ほか上演、~3月26日。
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3月25日
・日米漁業協定が成立。アラスカ沖サケ漁が禁止。
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3月25日
・スペイン、アラゴンを制圧したフランコ軍は、カタロニアへ侵攻するが難渋する。
しかし、南アラゴンではフランコ軍は地中海への進撃を準備(共和国を分断する作戦)。
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25日、フランコ軍のヤグエがフラーガを奪取し、カタロニアに侵攻するが、レリダでは共和国軍エル・カンぺシーノ師団が、1週間に亘り抵抗。
北方では、モスカルドがパルバストロに入り、更に北ではソルチャーガの部隊が、ピレネー山脈の谷あいで共和国砲兵隊や飛行機のたやすい攻撃目標となり行動の自由を失う。
南方では、アランダ、ガルシア・エスカメス、ベルティ、ガルシア・バリーニョが、空軍力の援護のもとに南アラゴンの高原を突進し地中海への進撃を準備。
ドイツは、歩兵掩護の為の戦闘機利用について多くを学ぶ。
バルセロナのネグリン政府では、国防相ブリエトとそれに影響をうけた外相ヒラールの敗北主義的言動が目立つようになる。
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3月26日
・日本軍、台児荘で包囲される(~4月6日敗退)。
第10師団歩兵33旅団瀬谷少将の支隊、中国軍に包囲。救援の第5師団歩兵21旅団坂本順少将の支隊も包囲。4月6~7日、退却。
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3月26日
・「電力管理法」「日本発送電株式会社法」などの電力国家管理関係法、成立。4月6日、公布。翌14年4月1日より電力管理が始まる。
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各電力会社から一定規模以上の発電・送電施設を現物出資させ、日本発送電株式会社を設立、それを国家管理下におこうというもの。
会社所有は民間資本に任せるが、経営は国家が行なうというこの法律は、企業経営の自由、ひいては資本主義そのものを否定するものとして財界・実業家たちを恐れさせる。
電力統制は、昭和16年には配電部門に及び、国家総動員法に基づく「配電統制令」により、地域別に統合された9配電会社設立命令が出される。
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前年10月13日、電力調査会官制が公布され、同18日に第1回調査会が開催される。
委員は、鉄道次官、貴衆両院議員、学識経験者、財界、5大電力の社長(反対派)など35名。
委員会への諮問事項は、「電力の国家管理をなし、国防の充実、国民年活の安定を図り、戦時体制に順応して生産力の拡大に備え、国防の充足、動力の動員を整え、産業計画遂行の円滑を期するは刻下喫緊の要務なり・・・。よってこれが急速実施に関する具体的方策を問う」というもの。
この年(昭和13年)1月25日、電力管理関係法律案、衆議院に上程され即日委員会に移され、1月31日から委員会の議事に入る。
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①思想問題:
「問 本案は、レーニンの電力国営思想、ドイツの、社会主義のワイマール憲法のもとの電力事業社会化法案、それから、コールのソーシャリゼーション等に類するイデオロギーをもとにしたもの、少なくとも国家社会主義の実現を期するもので、純粋な経済問題とは思われないがどうだ。
答 一君万民の大義を政治上、産業経済上、徹底させるというほか、われわれの持つべきイデオロギーはあり得ない。本案は電気というような普遍的基礎的なものを取り上げて、これを一部でなく全国民に及ぶよう処置しようという趣旨であって、あらゆる産業を統制管理し、社会化しようとする第一歩であるなどというのはとんでもない誤解である。」
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②国防問題:
「問 本案は時局に即した臨時の戦時立法とすべきものではないか。
答 わが国の立国の条件に照らし、存立に欠くべからざる恒久的な方策であって、戦時目当ての臨時立法ではない。しかし、現時急迫しておる時局の要求に応じても、最も適切な効果を発揮することは期待しておる。」
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③公益法人電気協会の反対運動:
「問 東電社長小林一三氏が、昭和一〇年六月二九日、『東洋経済新報』誌上に、「水力電気のごとき国家百年の大計と終始すべき性質のものは、必ずしもその建設費に対する利潤のみを考えて事業化するということよりも、道路または港湾のごとき一国産業の基礎工程に処し、必要不可欠の設備の一つとして考えてみる時代がきたのではないか、電力界へまさに革命の機運がきたのではないか」と述べ、また東邦電力の松永社長も少なくとも発送電は一元的に総合運営すべき旨の論文を発表しておるにかかわらず、同じ趣旨に成るものとして当然賛成すべき本法案に反対の急先鋒となっていることこそ不可解であるが、更に池尾氏を会長とする電気協会は総力を挙げて猛反対を続け、時局に対する非協力の態度にあけくれておるのは、一部の私利のために公器を弄ぶものと思われる。監督官庁としての見解いかん。
答 事についての賛否の表明は自由であろうが、電気協会は公益法人であるから、その行動は公益を目的とすべきで、一部のため本分を逸脱せりと認めるに至らば、適当の処置をとる考えである。」
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④発送電、配電の一元化:
「問 本案の目的達成のためには発送電だけでは足りない。配電まで一元的に管理するを必要としないか。
答 電気事業法を改正することとして、配電の末端まで管理の精神が流れるよう、しばらく推移をみることとしたのであるが、たって配電まで管理せよという趣旨であるならば今からでも用意はあると答えた所、決してそれには及ばないと、あわてて質問を打ち切った。」
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⑤強制出資:
「問 現物出資を強制し、その対価に将来、無価値となるかも知れぬ新会社の株券を交付するのは横領といわれても仕方がない。違憲立法ではないか。
答 所有権は法令の制限内で自由とは憲法、民法の明定する処であって、本法律により出資を強制してもなんら違憲ではない。
また、現物出資に対しては株券を交付するこそ当たり前のことである。その上、請求あらば現金で買い取るという特別配慮までしてあるので横領とは当たらないも甚しい。
新会社の株式が無価値となる懸念があるかどうかは、発送電会社法案の参考資料として収支目論見が出してあり充分御審議を煩わしたい。」
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⑥外債問題:
「問 インデンテュア(外債の約定書)によると、担保物件の移転は承諾なしにはできないことになっておる。本案が担保設備を強制出資させるということは、このインデンテュアの違反である。
少なくとも必要の場合は繰り上げ償還を覚悟しなければならないが、どうか。
答 担保物件の移転が国の法律による強制の場合には、例外として可能だとするインデンテュアの例もある。本案では設備を移転しても担保はそのまま続けることにし、更に発送電会社、更に必要あらば政府が支払いを保証することにしてあるのだから、当然債権者保護は大きく加重され、問題が生じょうとは想像も及ばない。万一の場合の償還は考えてある。」
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⑦料金、購入電力量、新会社収支の目論見書:
「問 目論見書の案によると、燃料石炭価をトン一四円平均とみてあるが、今、平均二〇円くらいが至当と思う。したがって料金の算定はずさんだといわねばならない。
更に新会社の収支見積りにも不安と思われる点が指摘される。
答 燃料炭は火力発電所の所在条件のいかんによって値段が違う。本州、中部一七円、九州六円、北海道七円が実際現状であるが、多少先高を見越し、消費量と消費地とを勘案し、平均一四円と算出した。これは算術平均ではない具体的なもので部分的な材料によったものではない。
なお、今後は、全国の所要量を一手で買入れることになり、従来よりも有利と予想しておる。
また新会社の収支については、一元的運営の利益、政府の資金援助、それから経営の合理化等で、現在よりよくなるとも悪くなることは想像できないけれど、卸売料金に政策を加味する場合も考え、六分配当に心配のないよう政府が保証を与えることにしておる。
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⑧新会社の設立総会について:
「問 現物出資によって株主となる現在の電気事業者は、おおむね本案の反対者である。新会社の成立を希望しないものである。
だから創立総会の折に多数決で反対したら、会社が不成立に終る心配はないか。また成立しても、本法案の規定によって、株式の買戻しを請求されたら、払込み資本のなくなる幽霊会社同様のものになりはしないか。
答 本法案は会社を創立するための公法であるから、その設立を否認するような行為は許されないし想像もしていない。かりにやっても無効との見解である。
また現物出資者以外、一般公募の一億円の株主もあることである。買戻しを求められた株主は新たに買主を作れば問題はない。
当初は反対しても、一度法律となると、いさざよく協力態度に出ることは反対者もいっている位だから、政府として、あえて原案執行というような侮辱的な条項は規定をすることを差し控えたのである。」
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「★昭和13年記インデックス」をご参照下さい。
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2010年1月29日金曜日
北の丸公園 カワヅザクラとカンザクラ、咲く (2010-01-29)
昨日、久しぶりに北の丸公園を散歩して、カワヅザクラとカンザクラが咲き始めているのを知った。
昨日はあいにくの曇り空、強風、一時雨で、写真が撮れなかったので、今日(29日)写真を撮ってきた。
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カワヅザクラ(河津桜)
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カンザクラ(寒桜)
もうかなりの咲きっぷりです。
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自然の役割分担なのか、何度かご紹介しているフユザクラはもう殆ど散っていた。
下の写真はその僅かな生き残り。
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前に一度ご紹介した武道館前駐車場の脇にあるロウバイ
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「★東京インデックス」 「★四季のうつろいインデックス」をご参照下さい。
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昨日はあいにくの曇り空、強風、一時雨で、写真が撮れなかったので、今日(29日)写真を撮ってきた。
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カワヅザクラ(河津桜)
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カンザクラ(寒桜)
もうかなりの咲きっぷりです。
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自然の役割分担なのか、何度かご紹介しているフユザクラはもう殆ど散っていた。
下の写真はその僅かな生き残り。
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前に一度ご紹介した武道館前駐車場の脇にあるロウバイ
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「★東京インデックス」 「★四季のうつろいインデックス」をご参照下さい。
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2010年1月25日月曜日
京都 清水寺 地主神社 産寧坂 二年坂
京都 清水寺
(写真は、奥の院から本堂、三重塔を眺めるところ)
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歴史。
宝亀9年(778)、大和の子島寺の延鎮上人が夢告によって、北にむかい東山山麓の音羽の滝で、白衣の行叡居士に出会い、霊木を授けられて観音像を彫れと命じられ、その観音像を滝上に建てた草庵に祀ったのが、始まりという。
延暦17年(789)、鹿狩にきた坂上田村麻呂が延鎮上人に会い、殺生を戒められ、同心合力して金色の十一面千手観音像をつくる。
大同2年(807)、田村麻呂夫人が仏堂を寄進して、その千手観音像を安置。
弘仁元年(810)、鎮護国家の道場となり、嵯峨天皇より「北観音寺」の宸筆を与えられる。
承和14年(847)、三重塔建立、伽藍が完成していく。
法相宗の寺として南都興福寺に属す。南都・北嶺(延暦寺)の争いにより、しばしば諸堂は焼失。
寛永10年(1633)、徳川家光が本堂を再建
*
清水寺へは、先に、祇園花見小路~建仁寺~六波羅(六波羅密寺、六道珍皇寺)~八坂の塔を巡り、清水坂を上ってきた。
「★京都インデックス」に足跡があります。
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いきなり舞妓さん
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二年坂
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産寧坂(三年坂)
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仁王門
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三重塔
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西門
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振り返ると京都の街。
向こうの山は、明智光秀の「愛宕百韻」で知られる愛宕山。
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本堂
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いわゆる清水の舞台
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本堂から見る奥の院
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地主神社
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奥の院
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奥の院から見た本堂と三重塔
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本堂を見上げる
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音羽の滝
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寺を出て、高台寺の駐車場から見た八坂の塔
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八坂神社石段下まで歩く
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桜月夜ではなかったですが、清水・祇園とくれば、「今宵逢ふひとみな美しき」(晶子)のハズなんですが・・・(?)
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(写真は、奥の院から本堂、三重塔を眺めるところ)
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歴史。
宝亀9年(778)、大和の子島寺の延鎮上人が夢告によって、北にむかい東山山麓の音羽の滝で、白衣の行叡居士に出会い、霊木を授けられて観音像を彫れと命じられ、その観音像を滝上に建てた草庵に祀ったのが、始まりという。
延暦17年(789)、鹿狩にきた坂上田村麻呂が延鎮上人に会い、殺生を戒められ、同心合力して金色の十一面千手観音像をつくる。
大同2年(807)、田村麻呂夫人が仏堂を寄進して、その千手観音像を安置。
弘仁元年(810)、鎮護国家の道場となり、嵯峨天皇より「北観音寺」の宸筆を与えられる。
承和14年(847)、三重塔建立、伽藍が完成していく。
法相宗の寺として南都興福寺に属す。南都・北嶺(延暦寺)の争いにより、しばしば諸堂は焼失。
寛永10年(1633)、徳川家光が本堂を再建
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清水寺へは、先に、祇園花見小路~建仁寺~六波羅(六波羅密寺、六道珍皇寺)~八坂の塔を巡り、清水坂を上ってきた。
「★京都インデックス」に足跡があります。
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いきなり舞妓さん
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二年坂
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産寧坂(三年坂)
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仁王門
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三重塔
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西門
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振り返ると京都の街。
向こうの山は、明智光秀の「愛宕百韻」で知られる愛宕山。
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本堂
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いわゆる清水の舞台
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本堂から見る奥の院
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地主神社
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奥の院
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奥の院から見た本堂と三重塔
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本堂を見上げる
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音羽の滝
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寺を出て、高台寺の駐車場から見た八坂の塔
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八坂神社石段下まで歩く
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桜月夜ではなかったですが、清水・祇園とくれば、「今宵逢ふひとみな美しき」(晶子)のハズなんですが・・・(?)
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