2015年8月31日月曜日

8月31日 送別会。


8月31日、送別会。

1972年(昭和47年)4月に俸給生活を開始して、爾来43年、たった2つの会社しか経験してないけど、ま、大過なくというのか、ここまで来れた。

家族や周りの人たちのサポートのお蔭だ。
こんなヤツを、みんな、よくサポートしてくれたもんだ。

今日は、
朝から、息子と同年代の退職者から電話やメールが来た。
退職日を覚えてくれていたみたいだ。
定時の頃は、エレベータホールまでたくさんが見送りに来てくれた。
あやうく、ウルウルだったよ。

夜はすごいご馳走とうまい酒。

最後に、気のあう友人とお茶飲んで、帰宅。

いい日だった。

Les Alyscamps ~ Vincent van Gogh — Art Pics Channel

【国会前デモ】参加者はなぜ立場を超えて法案反対で足並みをそろえたのか — ハフィントンポスト日本版 : 60年安保闘争の光景が浮かぶ。学生仲間と腕を組み国会前を歩いた。「動員が多かったからね。今日は市民が自発的に集まっている。いい光景じゃないか。民主主義が定着したんだね」と目を細めた。



[映画ニュース] 竹野内豊主演作「人生の約束」特報で圧巻の祭りを再現した本編映像初披露 — 映画.com

8月30日の国会前空撮 この中の一人だったなあとプチ自己満足 もっともっとやったろうじゃないか、なあみんな!



8月30日(日) 全国100万人大行動 @国会前 雨なんかなんのその 国会前はホコテン状況 12万人が結集 私も12万分の1になってきた それにしても、みんな、不思議なほど明るいね 2015-08-30

8月30日(日) 全国100万人大行動 @国会前 (ツイッター写真) 坂本龍一さん CBC AFP 毎日新聞空撮 園子温さん 森村誠一さん 山口二郎さん 自由の森学園の生徒たちがレ・ミゼラブル民衆の歌を歌っている








2015年8月30日日曜日

美術館の愉しみと井上陽水『長い坂の絵のフレーム』

美術館の愉しみに少しハマってしまって、
画家に関する本などを読み始めたりしてる。

で、このことでなんかデジャブ感が拭いきれなかったんだけど、
先週、ふと、これだ、というのに気付いた。

井上陽水『長い坂の絵のフレーム』の、
昼下がりは 美術館で 考えたり」ってとこだ。

「生まれつき僕たちは 悩み上手に出来ている」ってのもいいよね。


長い坂の絵のフレーム from NHK

(歌詞)

この頃は友達に 手紙ばかりを書いている
ありふれた想い出と 言葉ばかりを並べてる
夢見がちな 子供たちに 笑われても

時々はデパートで 孤独な人のふりをして
満ち足りた人々の 思い上がりを眺めてる
昼下がりは 美術館で 考えたり

誰よりも幸せな人
訳もなく悲しみの人
長い坂の絵のフレーム

生まれつき僕たちは 悩み上手に出来ている
暗闇で映画まで 涙ながらに眺めてる
たそがれたら 街灯りに 溶け込んだり

これからも働いて 遊びながらも生きて行く
様々な気がかりが 途切れもなくついてくる
振り向いたら 嫌われたり 愛されたり

誰よりも幸せな人
訳もなく悲しみの人
長い坂の絵のフレーム

誰よりも幸せだから
意味もなく悲しみまでが
長い坂の絵のフレーム

下は国立近代美術館




靉光 『シシ』(1936(昭和11)) 『眼のある風景』(1938(昭和13)) (国立近代美術館常設展) : シュールだろうと何だろうと、もうそんなことはかまわないではないか、これはもう、靉光の一つの壮大なる「自画像」であるといってもいいのではないのか。(窪島誠一郎)

津田青楓 『犠牲者』 『ブルジョア議会と民衆生活』(下絵) 東京国立近代美術館の常設展 : 小林多喜二虐殺に触発されて描かれた。津田は、「十字架のキリスト像にも匹敵するようなものにしたいという希望を持つて、この作にとりかかつた」(『老画家の一生』)と記す

古沢岩美 『餓鬼』(1952) (国立近代美術館 常設展) : 「兵卒としての私の戦争への総決算的作品」と作者が呼ぶこの作品は、権威が失墜した山県有朋の銅像を背景に、痛ましい傷痍軍人の姿を描いています。・・・批評家からは、「動機は理解できる。しかし、出来上がったものは醜悪きわまるものだ」と酷評されました。

夭折の画家 村山槐多『バラと少女』(1917年 大正6年) 関根正二『三星(さんせい)』(1919年 大正8年) (国立近代美術館 常設展) : 日本にもあなたに似た絵かきが居た 長谷川利行や佐伯祐三や村山槐多や さかのぼれば青木繁に至るまでの、 たくさんの天才たちが居た 今でも居る。 そういう絵かきたちを、 ひどい目にあわせたり それらの人々にふさわしいように遇さなかった 日本の男や女を私は憎む。 (三好十郎の戯曲『炎の人』より)

藤田嗣治 『アッツ島玉砕』 国立近代美術館(常設展示 「誰がために戦う?」) : 「「戦争記録画」を単なる戦争賛美画ではなく,戦争の悲惨さを表現した戦争画であると見直す動きが出てきた。しかし,総力戦であった大東亜戦争・アジア太平洋戦争を一副の絵で表現するのは困難で,画家の戦争観の影響した主題が問題となると思われる。」

中村研一 『コタ・バル』 国立近代美術館(常設展示 「誰がために戦う?」)

東京 国立近代美術館で荻原守衛のブロンズ『女』に遭遇した




The Black Feather Hat ~ Gustav Klimt — Art Pics Channel

8月30日(日) 全国100万人大行動 @国会前 (ツイッター写真) 坂本龍一さん CBC AFP 毎日新聞空撮 園子温さん 森村誠一さん 山口二郎さん 自由の森学園の生徒たちがレ・ミゼラブル民衆の歌を歌っている




















8月30日(日) 全国100万人大行動 @国会前 雨なんかなんのその 国会前はホコテン状況 12万人が結集 私も12万分の1になってきた それにしても、みんな、不思議なほど明るいね 2015-08-30














"Cinema is dead. It died in 1962, I think it was in October!" - Aki Kaurismaki Ava Gardner — Distracted Film

8月30日(日) 全国100万人大行動 @国会前 雨なんかなんのその 国会前はホコテン状況 12万人が結集 私も12万分の1になってきた それにしても、みんな、不思議なほど明るいね 2015-08-30

国会前に行ってきた。
雨などなんのその、熱気が一帯を支配していた。
それにしても、みんな、不思議なほど明るいね。
まだまだやるぜって感じだね。

▼アベ政治を許さない

▼公明党議員よ、目をさませ
▼戦争法案廃案


▼戦争させない

▼子供を戦争へ行かせない! 人殺しをさせない

▼戦争NO


▼戦争は嫌だ

▼9条壊すな

▼「民主主義ってなんだ」 「これだ」

▼NO  WAR

▼殺すな 殺されるな

8月30日(日) 全国100万人大行動 @国会前 (ツイッター写真) 坂本龍一さん CBC AFP 毎日新聞空撮 園子温さん 森村誠一さん 山口二郎さん 自由の森学園の生徒たちがレ・ミゼラブル民衆の歌を歌っている

8月30日の国会前空撮 この中の一人だったなあとプチ自己満足 もっともっとやったろうじゃないか、なあみんな!






12月30日 まだお昼の12時なのにもうこんなに集まってる! / 【国会前、今】どちらの宗派の方かは分かりませんが平和の祈りが響いてます。 / 国会前、 高校生たちの澄んだ美しい歌声。  / 希望のエリア、既にこの人出。 / さてそろそろ我も出陣!






8月30日(日) 全国100万人大行動 @国会前 雨なんかなんのその 国会前はホコテン状況 12万人が結集 私も12万分の1になってきた それにしても、みんな、不思議なほど明るいね 2015-08-30


靉光 『シシ』(1936(昭和11)) 『眼のある風景』(1938(昭和13)) (国立近代美術館常設展) : シュールだろうと何だろうと、もうそんなことはかまわないではないか、これはもう、靉光の一つの壮大なる「自画像」であるといってもいいのではないのか。(窪島誠一郎)   


靉光 『シシ』 1936(昭和11)

美術館の説明書
題名どおりライオンが描かれています。
絵具を塗り、それを削ったり拭き取ったりし、そしてまた塗るという過程を、何度も何度も繰り返すことで生み出されるこの絵画の中に、ライオンの姿を把握するのは少し時間がかかるかも知れません。
ですが、よければ立ち止まって、その姿態を見つけてください。
絵画の前で立ち止まり、画面の隅々にまで目を配ること、それは作家の制作における息の長い時間を想起させるとともに、あっという間に過ぎ去ってしまう光陰に抗い、この場に留まり、じっくりと眺め、沈思する経験をもたらしてくれます。

HP 「屋根裏部屋の美術館」より

作品「シシ」(1936年)
大谷省吾氏による作品解説
(BM美術の杜 2007,Vol.13 「生誕100年 靉光 AI-MITU」文/大谷省吾)

 靉光が転機を掴んだのは、ライオンの連作によってだった。上野動物園に通い、さまざまな動物をスケッチするうちに、集中して取り組んだシリーズである。1936年(昭和11年)の中央美術展で準賞を受けた《シシ》はそのひとつ。しかし、どこにライオンがいるのか、一見したところよくわからない。じっと見ていると、左を向いて体を丸めてうずくまる姿が、ようやく見えてくるのだが、それにしても私たちがふつうライオンと聞いて思い浮かべる姿とは、かけ離れている。しかし、存在感は強烈である。この存在感は、どのようにして生み出されたのだろう。
 
《シシ》に近づいてよく見ると、絵具が何層も重なれているのが分かる。ある部分では、パレットナイフのようなもので削った跡がある。光と影の対比は強いが、とはいえ立体感をだすことはあまり意図されていない。むしろべったりと、油絵の具の材質感を強調するような塗り方がなされている。ここでは、ライオンの存在感とが、大画面の中でせめぎあっているのだ。

***作品解説***

 ライオン(シシ)は中央やや右下に大きな口を開いて笑っているように描かれている。中央やや左上には、大きな尻がある。そうすると、この尻の形、色からすると、左を向いている動物は、熊だろうか。そして、その間に二匹の黒い動物が立っている。
 また、熊の顔に見える部分は、ウサギにも見える。そのウサギの右上には、黒い動物が何匹かいる。
 作品下には、蛇に巻き付かれたような犬がいる。かといって、犬は苦しんでいる訳ではなく、穏やかな顔をしている。
 そして、作品左下には、蛇の大きな口の中にいる犬?がいる。作品左上には上に頭を持ち上げ、口を開き餌を飲み込もうとしているカバがいる。上部中央やや左には、ゾウの鼻らしきものがある。作品右上には、三匹の動物が描かれている。左は牛で、右が犬である。そして、その真ん中には、耳の大きな、目が光っている奇妙な動物が描かれている。三匹とも魔物だろうか。
 この作品は、この作品は、トリックアートで、楽しい動物園が描かれている。
 しかし、ここには、存在感のない男もいる。




靉光 『眼のある風景』 1938(昭和13)

文化遺産オンライン
眼のある風景
8回独立展(「風景」) 東京府美術館 1938

 戦時体制へと傾斜していく昭和10年代、時代の非常時性が喧伝(けんでん)されるなかで自分の存在を割りきり、あらたな状況を先取りする社会の尖兵たらんとする人々の生活感情にはアクセルがかかっていた。
第二の活況期といわれる新興美術運動の盛りあがりも、一面ではあおられた生活感情の現れであった。
上京後しばらく、靉光もその波にのみこまれ、精力的にモダニスムを吸収したが、処世に不器用な彼は、非人間化していく社会に合わせて、自分を画家として割りきれず、制作も行きづまって、しだいに自らの存在のうちに沈潜していった。
やがて、自虐的なほどの自己否定のなかから、近代化のうちに圧殺されてきた民衆的生活感情に連なるライオンが、存在のシンボルとして連作されたのち、意識的存在を批判する独自のシュルレアリスムに到達したのがこの作品であるといえよう。
ここでは、もはや、あらかじめ意識にのぼったシンボルが描写されるのではなく、おそらくはライオン時代の古カンヴァスを塗りつぶしていったのであろうが、自己中心的な解釈を停止した行為のうちに存在者が解体され、むしろ、粘着的な摩擦感をはらんだマティエールに、むきだしの存在そのもののリアリティが現れている。意識的存在を批判する意識下の眼には、それゆえに、観念的な批判にはないリアリティがある。


窪島誠一郎 『戦没画家 靉光の生涯 - ドロでだって絵は描ける -』より

 この「眼のある風景」をみたとき、私はちょっと口ではいいあらわせないような特殊な感想をもった。特殊というか、靉光の絵のもつ、何か腹の底をえぐってくるようなふしぎを迫力に圧倒されたのだった。

 いちめんの赤褐色の闇のむこうにうずくまる生きものはいったい何だろう。じっと息をひそめてこちらをうかがっている、えたいのしれない奇妙な朱黒い生きもの。それは木の根っこのようにもみえるし、いびつなかっこうをした土のかたまり、半ば破壊されたトルソのようにもみえる。そのまんなかのやや左寄りに、じっとこちらをみつめているするどい眼が一つ、何ものかの襲来をまちうけているかのようにあやしくひかっている。どこかおびえでもしているように青白い光をたたえた巨大な眸(ひとみ)。それはまるで、重苦しくたれこめた時代の闇のなかにあって、身じろぎもせず敵をみすえている媛光自身の眼であるといっていいかもしれない。

 この作品について、ヨシダ・ヨシエ氏は「明らかなシュールへの第一作」と評しているけれども、それは当時の画壇に流入しっつあったシュールレアリスム画法の、まざれもない試作の一つであったと同時に、靉光の新境地をひらく冒険的作品の一つでもあったといえるだろう。

 画友鶴岡政男は、そのころの靉光の培風寮の仕事場をふりかえって「十帖ぐらいの彼の画室には、彼のモチイフである、枯れた草木や黒い石ころ、目刺しや芽の出た馬鈴薯などが、テーブルの上にころがっていて、その上の天井からは干乾びた雉子(キジ)がつる下げてあり、西日のあたる窓の中で、その骨についた羽根が、ふんわりふんわり動いていた」(『異端の画家たち』)とかいているが、たぶん「眼のある風景」も、そうした靉光だけのもつ一種異様な密室空間、そこに生じた靉光の「自己と対峙する時間」から生まれた絵であることはまちがいない。・・・

 私は「眼のある風景」は、靉光の何ものかにたいする一種の憤懣のようなものが塗りこめられた絵ではないかと思った。

 靉光は、自分の心の内部にあれほどのするどい眼光をそそぐことによって、自らの人生の怨念や遺恨をはらそうとしたのではないか。そしてその怨念は、やはり靉光自身の生いたち、たた戦争へ戦争へとすべりこんでゆくやりきれない時代への、画家としての欲求不満や鬱屈ともつながるものに思えて仕方なかった。あの重たげで奥ぶかい赤褐色の暗闇は、ほかならぬ画家靉光をとりかこむ底なし沼のような時代の闇であり、そこにひかる眼光は、靉光の精神をつねに監視しつづけているもう一人の靉光の眼でもあったはずなのだった。

 ・・・。シュールだろうと何だろうと、もうそんなことはかまわないではないか、これはもう、靉光の一つの壮大なる「自画像」であるといってもいいのではないのか。

 木の根っこみたいな抽象的なかたちが、靉光の姿にみえるというのではない。そのえたいのしれない赤褐色の闇につつまれた画面の奥底に、はっきりと人間靉光の相貌がうかびあがってくるのである。あやしくうごめくかたまりは、当時の靉光の精神のかたまりであり、そこにひかる眼光は靉光自身の光である。そして、その闇をおしつぶすようにたれさがった乳白色の空と、そのむこうにみえるごくわずかな群青のひろがりは、靉光の心のなかにあった希望の明るさである。明るさと暗さのあいだからじっとこちらをみつめている靉光のその眼は、あまりにもさびしくせつない。

 そういう見方をすれば画家の絵はすべて自画像であるともいえるだろうが、この 「眼のある風景」には、靉光自身の精神、肉体、絶望、希望の一切がおしこめられデフォルメされ、合体されているといってもいいだろう。そしてそれは、靉光がかつて「ライオン」の画中において示唆していた、描こうとする対象にいかに自分という人間の存在のレアリティを出すか、というきわめて困難な作業でもあったのだろう。
 
 私がはじめて東京国立近代美術館でその絵をみたときにおそわれた、あの戦慄にも似たふしぎな感動は、たぶん作品がもっている色彩や造形の不可思議さ、あやしさにうたれただけでなく、その絵のうしろに立つ一人の画家の強烈な生命力にうたれたためたったのではないかと思われるのだ。

 ただ、それもまた、あらかじめ靉光が「眼のある風景」制作にあたって企図していたものであるとはいえないようだ。

 なぜなら靉光という画家は、画布にむかうときにそういった大上段にふりかぶった、「人生の煩悶」だとか「自己への問いかけ」とかいった動機や衝動によって絵筆を運ぶ画家ではなかったからだ。この作品が鑑賞者にあたえる衝撃とさえいっていい感動は、じつは靉光がほとんど作為していなかったものから発せられたものなのであり、それはあくまでも、靉光が生み落した絵のもつ色彩、形態がもたらしたものであるというしかないのだ。それはある意味で、靉光が画布の上に繰りかえし繰りかえし塗りこめていたマチエール(材質効果)と、そこに必然的にうかびあがった靉光の企図しなかった「絵の力」であるといえるのではなかろうか。

 げんに靉光は、この「眼のある風景」が完成したとき
 「いったい自分は何を描きたかったのか、わからぬままこの絵は出来上ってしまった気がする」
当時「培風寮」の隣の部屋に住んでいた画友森鴻光にそうもらしていたという。

 そして、森鴻光が
 「この古カンバスの下にはライオンが描かれていたんじゃないのか」
と問うと、
 「何しろ新しいカンバスを買う金がなかったから」
いかにもそうだ、といった顔をして片目をつぶったという。

(引用おわり)



靉光 『素描図巻』



8月30日 全国100万人大行動@国会前 現在の様子。準備が進んでいます。←もうこんなに集まってる! / 「過剰警備監視」のために17人の国会議員が、たすきをかけて国会周辺を見回ります。その結果は15時前に国会正門前のステージから報告する予定です。弁護士もいつものように腕章をまいて警備を続けます。 / 10:50。既に本部は設けられ、太鼓打ち鳴らされ、シュプレヒコールが轟いてるよ。   








8月30日(日) 全国100万人大行動 @国会前 雨なんかなんのその 国会前はホコテン状況 12万人が結集 私も12万分の1になってきた それにしても、みんな、不思議なほど明るいね 2015-08-30



脚本家倉本聰さんらが 呼びかけ人となって設立 戦争をさせない北海道委員会 29日札幌市抗議集会とデモ 主催者発表で約3500人

NHK日曜討論で、共産党の小池さん、「今日午後2時から国会前で大集会が開かれる!テレビを見ているみなさんもご一緒に」と呼びかけ! / 社民党の吉川議員、「今日の午後、私も行きますが、稀代の悪法を廃案に持ち込みたい」と。 その後民主党議員が、再び集会の告知。アナは慌てて遮った




土佐料理のお店で懇親会 2015-08-28

8月28日(金)は土佐料理のお店で懇親会。
おいしい料理ときれいな盛り付けだったが、残念、写真はこれだけ。

2015年8月29日土曜日

福つくし by Yōshū Chikanobu 1889 — Art Pics Channel

Four Cut Sunflowers ~ Vincent van Gogh — Art Pics Channel

[映画ニュース] 米ワーナー・ブラザースがダンテ「神曲 地獄篇」を映画化

[映画][名画プレイバック]第21回:『ガス燈』(1944年)監督:ジョージ・キューカー 主演:イングリッド・バーグマン — シネマトゥデイ

「戦後」とは何なのか (小熊英二 『朝日新聞』2015-08-27あすを探る)

「戦後」とは何なのか 小熊英二 (『朝日新聞』2015-08-27あすを探る)

 「戦後」とは何なのか。それはいったい、いつ終わるのか。

 諸外国では、「戦後」とは、おおむね終戦から10年前後を指す。そもそも、多くの戦争を戦った国の場合、「戦後」はいくつも存在する。

 しかし日本では、「戦後」は70年も続いている。それでは、日本にとっての「戦後」とは何なのか。
 私の意見では、日本の「戦後」とは、単なる時期区分ではない。それは、「建国」を指す言葉である。

 日本国は、大日本帝国が滅亡したあと、「戦後」に建国された国である。もちろん、日本国の構成員が、一夜にして変わったわけではない。しかしそれは、1789年にフランス共和国が建国され、1776年にアメリカ合衆国が建国されたのと同様に、「戦後」に建国された国である。

 では日本国は、どんな骨格をもって建国されたのか。いうまでもなく、日本国憲法がその骨格である。

 憲法を指す英語constitutionとは、「骨格」ないし「構成」という意味である。まず前文に、こういうコンセプトで国を造る、という宣言が書かれる。そして、コンセプトを具体化するための国の設計図が、各条項として書かれている。

 日本国憲法の前文は、二つのコンセプトを掲げている。国民主権と平和主義である。その前提にあるのは、戦争の惨禍の後にこの国は建国された、という共有認識である。

 その意味で、日本国憲法の最重要条項は、第1条と第9条だ。すなわち、天皇を「主権の存する国民」の統合の象徴と位置付けた第1条と、「戦力」放棄をうたった第9条が、前文に掲げられた国民主権と平和主義の国を具体化する条項である。

 従ってこの2条項の改正は、基本コンセプトの変更を意味する。他の条項については、国民主権と平和主義をよりよく実現するための改正、ということもありうるだろう。しかし前文・第1条・第9条の改正は、国の骨格そのものの変更である。

 フランスやアメリカでも、憲法の各条項の改正は行われる。しかし、人権宣言と独立宣言は変えない。それは、建国の基本的精神を変更することであり、つまりは「『フランス共和国』や『アメリカ合衆国』をやめる」ことを意味するからだ。

 逆にいえば、「日本国」を否定したい人々は、前文と第1条と第9条の改正を目標にしてきた。これらの改正をめぐる対立は、「日本国」の存廃をめぐる争いなのである。

 だが日本国は、国内条件だけで成立してきたのではない。戦争の惨禍を経て、平和主義を掲げた国の成立は、国際的には以下の二つなしにはありえなかった。すなわち、東京裁判と日米安保条約である。

 まず東京裁判なしには、日本国の国際社会復帰はありえなかった。また当時の国際情勢では、東京裁判と第9条なしに、第1条の前提である天皇の存続もありえなかった。

 そして第9条は、米軍の駐留抜きに実在したことはない。すなわち1952年までは占領が、1952年以降は日米安保条約が、米軍の駐留を正当化してきたのである。

 つまり「日本国」とは、第1条、第9条、東京裁判、日米安保の四つに立脚した体制である。これら四つは、相互に矛盾しながらも、冷戦期の国際条件では共存してきた。

 そして「戦後70年」とは、「建国70年」のことだ。もし、日本国の存立を支えている4要素が変更されれば、ないしバランスが変われば、「戦後」は終わる。それがない限り、たとえ何らかの紛争に日本が関わっても、「戦後」は続くだろう。

 いま「戦後」は不安定になっている。冷戦終結と国際社会の変動、戦争の記憶の風化、経済条件の変化などが、4要素のバランスと共存を脅かしているからだ。建国70年を迎えた日本国は、今後どんな国であるべきか。いま問われているのは、それである。その議論なしに、この国の未来は探れない。

(おぐま・えいじ 62年生まれ。慶応大数援・歴史社会学。『生きて帰ってきた男』『平成史』など)。





【美術手帖9月号】できました!9月号。作品から戦後70年を考える、「絵描きと戦争」特集です。表紙は今日マチ子さんの描き下ろし。第2特集では大野智さんの個展を紹介しています。8月17日に書店に並びます。 — 美術手帖

(Youtube) 『Les Misérables』 ♪民衆の歌イベントバージョン/オールキャスト / レ・ミゼラブル 感動のラスト ”民衆の歌”(DO YOU HEAR THE PEOPLE SING?) / 自由の森学園 有志の方々が明日、国会前で13時から『Les Misérables』の「民衆の歌」を100人規模で合唱されるということ。 / 「ケサラ」 自由の森学園 2011音楽祭


『Les Misérables』 ♪民衆の歌イベントバージョン/オールキャスト


レ・ミゼラブル 感動のラスト ”民衆の歌”
日本語字幕付 民衆の歌(DO YOU HEAR THE PEOPLE SING?)
ヒュー・ジャックマン アン・ハサウェイ


8月30日(日) 全国100万人大行動 @国会前 雨なんかなんのその 国会前はホコテン状況 12万人が結集 私も12万分の1になってきた それにしても、みんな、不思議なほど明るいね 2015-08-30


「ケサラ」 自由の森学園 2011音楽祭
作詞:西村義明 作曲:C.ペス 編曲:武義和


8月29日 平和安全保障法制の今国会での成立NO!緊急府民大集会」 @円山野外音楽堂 (ツイッター写真) 小林節さん講演も





京都文化博物館フィルムシアター、戦争と映画−戦意高揚映画から反戦映画まで。本日29日は『ひめゆりの塔』(1953)。「ひめゆり部隊」の十二週間にわたる悲惨な戦いを、彼女らの手記を元に水木洋子が脚本化。


東京 北の丸公園の秋の気配 池の畔のススキ タイワンホトトギス(もう少しで開花) 靖国神社のすずなりのギンナン

8月28日
北の丸公園の秋の気配
池の畔のススキ
タイワンホトトギス(もう少しで開花)

靖国神社のすずなりのギンナン






【いよいよ明日】 戦争法案廃案! 安倍政権退陣! 8.30国会10万人・全国100万人大行動 : 8月30日(日)14時~@国会議事堂周辺 / SEALDsは13時から始める / いよいよ明日30日の午後2時~国会10万人包囲行動の日です。民意を示す、歴史に残る日にしたいものです。少々天候が心配ですが、雨なら雨で香港の学生たちのように国会前で「傘の革命」で行きましょう。 / NAVERまとめ 国会100万人デモめぐり全国370ヶ所超で抗議活動が予定「"革命"の始まりだ」と法大元研究所長・教授    


















NAVERまとめ
国会100万人デモめぐり全国370ヶ所超で抗議活動が予定「"革命"の始まりだ」と法大元研究所長・教授
8月30日の実施を控えた「SEALDs」などによる国会100万人デモ。関連した抗議活動は全国370ヶ所超行われることがわかった。菅直人元首相は「安倍政権は遠からず倒れる」とブログで表明するなど、空前規模が予測されるデモ開催日が近づくにつれて話題が広まっている 更新日: 2015年08月29日



8月30日(日) 全国100万人大行動 @国会前 雨なんかなんのその 国会前はホコテン状況 12万人が結集 私も12万分の1になってきた それにしても、みんな、不思議なほど明るいね 2015-08-30







[映画]殺人犯の恋人と刑事の禁断の愛…“カンヌの女王”が魔性の女演じる妖艶な映像 / チョン・ドヨン×キム・ナムギル『無頼漢 渇いた罪』フォトギャラリー / 映画『無頼漢 渇いた罪』予告編 — シネマトゥデイ



8月28日 Sealds Kansai 戦争法案反対街宣アピール @神戸元町駅前 (ツイッター写真)


29日東京新聞 戦争法案絶対反対の声 ・赤川次郎さん 怒る : 積極的平和主義って何? 言葉を軽んじるな

「往生際が悪い」「引き際が汚らしい」「立つ鳥後を濁す」。橋下と維新の会 /  ~あの住民投票は何だったのか~ 松井「大阪都構想に再度挑戦するのが我々の使命」 橋下(住民投票前)「ラストチャンス ワンチャンス」 / 3ヶ月もしないうちに話を蒸し返すのはいかがなものか / 「松井の顔に泥塗ったのは必ず晴らしてやるから。許されへん」 まるでヤクザ / 5月17日 「市長任期まではやるが、それ以降は政治家はやらない」 「ここでウソつく必要はないので政治家は僕の人生から終了です」      







8月28日 金曜恒例のSEALDs が呼びかける安保法案に反対する国会前集会 (ツイッター写真) すべてのチカラを8月30日(13:00~)国会前へ!








2015年8月28日金曜日

Vincent van Gogh, Fritillaries in a Copper Vase, 1887 — Art Pics Channel

H・ミレン&R・レイノルズ出演、クリムトの名画めぐる人間ドラマが11月公開 — 映画ナタリー

注目の人直撃インタビュー(日刊ゲンダイ) 作家 池澤 夏樹 筋交いが入っていない日本という国家はいずれ潰れますよ -平和の民族が明治以降、カン違い -都合の悪いことはなかったことにする安倍政権 -新自由主義は「悲しい流しそうめん」

「外注」した政治 戦後70年いま取り戻す (高橋源一郎 『朝日新聞』2015-08-27論壇時評) : 「政治」や「社会」について違和を感じたなら、誰でも疑問の声をあげ、行動してもいいのだ。そんな当たり前のことが、いま起こりつつある。

「外注」した政治 戦後70年いま取り戻す 高橋源一郎(『朝日新聞』2015-08-27論壇時評)

 10年ぶりで高橋家の菩提寺を訪ねたとき、異様な光景に出会った。墓の3分の1ほどに白い紙が貼られていたのである。そこには「墓の所有者」に宛てて、これ以上連絡がつかないと墓を撤去することになる、と記してあった。
 「弔う」子孫がいなくなると、墓はなくなる。わたしは「墓仕舞(じま)い」ということばを、そのとき初めて知った。

■     ■     ■

 では、墓をなくしたとき、そこにいた霊はどこにいくのだろう。それとも、もう人々は、そんなものを信じることを止めたのだろうか。

①加藤典洋「死が死として集まる。そういう場所」(すばる9月号)

 加藤典洋が雑誌「すばる」の「戦争を、読む」という特集に寄せた短いエッセー(①)に、強い衝撃を受けた。そこで加藤は、70年前、偉大な民俗学者・柳田国男が考えたことを紹介している。

 柳田は、烈(はげ)しい空襲が続く東京で、夥しい死者を目の当たりにしながら、死者を弔うとは何か、と考えつづけた。とりわけ「南の海などで非業の死をとげている若者の魂はどうなるだろう」と。

 日本人は、ずっと、死んだ人間は、故郷の地に集まり、そこから生きている者を見守り、やがて、子孫から敬われ、弔われることで、すべての祖先の霊と合体してゆく、と考えてきた。だが、戦争による夥しい死の中で、子孫を作ることなく、異国で亡くなった魂はどうなるのか。そして、柳田は、日本人固有の死生観に基づき、「国に残った縁あるモット若い人たちが、海の藻屑となったり、ジャングルの奥で野ざらしになった死者の養子となることで、彼らを先租にし、その子孫となり、彼らを敬い、弔うようにしてはどうか、という」破天荒な政策を提案した、と加藤は指摘している。

②柳田国男『先祖の話』(角川ソフィア文庫)

 わたしは、加藤のエッセーに導かれて、問題の書「先祖の話」(②)を読んだ。そして、その静かな文章の底に、戦争の災禍を前にした、柳田の怒りと慟哭が流れているのを感じた。

 柳田は、戦争の死者を、ひとりひとりの個人が作る「家」が弔う、という形を提唱することで、「国家」が弔う、という靖国神社のあり方を、もっとも深いところで批判している。「戦争の死者」が戻りたかったのは、靖国ではなく、彼らの故郷や家族のもとのはずだったから。

同時に、いま柳田を読めば、もっとべつの視点を得ることもできる、とも思った。柳田が憂えたのは、人びとが、かつては我が手で行ってきた「慰霊」を、国家という「外部」に任せてしまったこと、すなわち、慰霊の「外注」だったのかもしれない。

 だが、わたしたちはみんな、少しずつ、「家事」も「教育」も、「外注」するようになったのだ。そのことによって、確かに、わたしたちは自由になった。その結果、得たものは何だったのだろう。

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③特集「17s(セブンティーンズ)で考えよう”戦後70年”」(助言役=木村草太、セブンティーン9月号)

 「戦後70年」の特集が、あらゆるメディァで行われた。中でも、わたしが強い印象を受けたのは、そのような政治的特集とは無関係と思われてきたメディアの、それだった。

 「夏休みに、誰よりもかわいくなるための16ページ」が別冊の、若い女の子向けの雑誌を代表する「セブンティーン」9月号に「17sで考えよう”戦後70年”」(③)という特集が載った。10人ほどの女子高校生を相手に、八つのテーマについて、憲法学者の木村草太が話をする。いや「一緒に考える」のである。およそ、若い世代とは関係なく思える「戦後70年」を近くに引き寄せるため、木村は、「教える」のではなく「ヒントを与える」ことに徹する。

 「政治って私たちが参加できるものなの?」という問いに、木村は「まず考えることが、政治にかかわるということ」と答え、「18歳からの選挙権、何をすればいいの?」という問いには、「自分をしっかり確立し、意見の異なる他者と共存する準備」をするよう呼びかける。その木村の誘(いざな)いへの、女の子たちの応答の柔らかさが素敵だった。

④特集「強行採決『安保法案』日本が壊れていく!」(女性自身8月4日号)
⑤特集「私たちは安保法案強行採決を託さない!」(週刊女性8月11日号など)

 やはり政治とは縁遠いと思われた「女性週刊誌」も、毎週のように「安保法制」をめぐる動きを特集している。「強行採決『安保法案』日本が壊れていく!」(女性自身④)、「私たちは安保法案強行採決を許さない!」(週刊女性⑤)といった特集タイトルを見れば、そのスタンスがわかるだろう。なぜ、政治から「遠い」と思われてきたメディアで、政治への関心が高まってきたのだろうか。

 それは、平穏に見えた彼女たちの周りにも、危機が忍び寄っていることを敏感に感じとるようになったからなのかもしれない。いや、そのことによって、政治家や専門家に「外注」していた「政治」や「社会」を、自らの手に取り戻すことが必要だ、と思えるようになってきたからなのだろうか。

⑥堀靖樹「編集後記」(ビッグコミックオリジナル・戦後70周年増刊号)

 新旧のマンガ家が描いた、もしくはかって描いた「戦争マンガ」を集めた「ビッグコミックオリジナル・戦後70周年増刊号」の「編集後記」(⑥)に編集長の掘靖樹はこう書いている。

 「漫画家の想像力はもう何年も前から、日本の行く末に警鐘を鳴らしていたのです。漫画は別にお国のためにはなりません。そして、その作品で仕事をしている我々、編集者もしかりです。だからこそ、この時代の『嫌な感じ』に声をあげましょう。そんな増刊号です」

 「政治」や「社会」について違和を感じたなら、誰でも疑問の声をあげ、行動してもいいのだ。そんな当たり前のことが、いま起こりつつある。





Child labor at the Loray Mills, Gastonia North Carolina...1912. — Old Pics Archive

神保町シアターさんにて、8月29日(土)~『恋する女優 芦川いづみ』が始まります!芦川さんの可愛さがぎゅっと詰まった作品ばかりですので、ぜひ足を運んでください!チラシに素敵なメッセージが! — 映画会社日活

8月28日(旧暦7月15日)の金曜日 今日から七十二候「天地始粛(てんちはじめてさむし)」を迎えます。 ようやく暑さが静まるころ。秋雨前線が冷たい空気とともに秋を運んできます。 — 暦生活

2015年8月27日木曜日

古沢岩美 『餓鬼』(1952) (国立近代美術館 常設展) : 「兵卒としての私の戦争への総決算的作品」と作者が呼ぶこの作品は、権威が失墜した山県有朋の銅像を背景に、痛ましい傷痍軍人の姿を描いています。・・・批評家からは、「動機は理解できる。しかし、出来上がったものは醜悪きわまるものだ」と酷評されました。     






説明書
古沢岩美(1912-2000)
『餓鬼』 1952年昭和27年

 「兵卒としての私の戦争への総決算的作品」と作者が呼ぶこの作品は、権威が失墜した山県有朋の銅像を背景に、痛ましい傷痍軍人の姿を描いています。
 周囲には、古沢が見聞した戦地の日本軍の行為がちりばめられています。
 この作品は、まだ戦争の記憶が生々しく残っていた朝鮮戦争の最中に発表されたこともあって、多くの観衆を集めたようですが、当時の批評家からは、「動機は理解できる。しかし、出来上がったものは醜悪きわまるものだ」と酷評されました。


練馬区立美術館
古沢岩美 略歴・解説

1912年(明治45)、佐賀県三養基郡に生まれる。
1927年(昭和2)、久留米商業学校を中退、朝鮮大邱に渡り、叔父の店で働きながら絵を描く。
翌年上京して岡田三郎助宅に寄宿しながら本郷絵画研究所に通う。
1934年(昭和9)、豊島区東長崎にあった「長崎アトリエ村」に移り、画家たちと交流。
1938年(昭和13)、「第8回独立美術協会展」にシュルレアリズムに学んだ作品を出品し、注目を集める。
1939年(昭和14)には福沢一郎、麻生三郎らと美術文化協会を結成、第1回展から出品を続けた(1954年に退会)。
1943年(昭和18)、応召。中国で従軍の後1年間の捕虜生活を送り、1946年(昭和21)、帰国。
翌年、日本アヴァンギャルド美術家クラブ発会に参加。
1948年(昭和23)、「第1回モダン・アートクラブ展」出品作《憑曲》など、戦争体験を反映しまた社会のありようを批判・告発しながら、濃密なエロティシズム漂う絵画を描いた。
1982年(昭和57)には板橋区立美術館にて回顧展が開催された。


■古沢岩美、朝日新聞懸賞小説の挿絵コンクールに当選し、シンデレラ・ボーイとなる
(宇佐美承『池袋モンパルナス』より)

古沢岩美が朝日新聞懸賞小説の挿絵コンクールに当選し、千円の賞金を手にしたのだった。東京朝日新聞社創立五十周年を諦念しての賞金一万円の小説と同千円の挿絵の募集があり、小説では、戦後に原爆作家と呼ばれるようになった大田洋子の『桜の国』が当選し、古沢はその挿絵画家に選ばれたのだった。千円は、古沢のひと月の生活費の五十倍であった。

三千人をこす応募者のなかから、古沢は二度の予選を通過し、十二月に入って十人ほどの絵かきとともに数寄屋橋の本社に呼ばれた。寒かったが、なじみの質屋の松坂屋からオーバーを出す金もなく、寝間着同様の和服で出かけていった。まずは本社ビル五階の窓からみおろす銀座の風景を三十分で描かされ、そのあと、豪華な応接室で豪華な幕の内弁当がでた。みんながおじ気づいているとき、古沢ひとりがむさぼり食った。古沢はそのときまで、このようにうまい弁当を食ったことがなかった。食事のあと、銀座へでて街頭風景を描かされた。あれこれ描いたがまとまらず、時間がせまってきたとき、腹を据えて喫茶店にはいり、なんとか画面をまとめた。社へもどったら時間がすぎていたが、品のいい社員が「道に迷われたのではないかと心配していました」といってくれて事なきをえた。

どうせだめだろうとあきらめ、美術文化の旗揚展の制作にもどった。大晦日が近づいたころ、年が越せるかどうか心配なほどに古沢は窮していた。ままよ、と質屋のおやじの古切着をりてセルパンへいき、すきなストラヴィンスキーを聴いていると、かつてその店のレコード係だった妻が駆けこんできて、唇をふるわせながら、来たわよ、来たわよと、わけのわからぬことを口走った。子どもに異変でもおきたかと思い、あわてて飛びだすと、妻は「朝日の旗を立てた高級車がうちのまえにきたのよ。あなた当選したのよ」といった。着物の裾をひるがえし、立教のキャンパスを駆けぬけると、路地の入口にまちがいなく黒塗りの高級車が軍艦旗のような社旗をつけてとまっていた。脇をすりぬけ、路地の奥のわが家にあがるなり、マグネシウムがたかれてなん枚も写真をとられた。

当選の社告と記事は、昭和十五年元旦の紙面に二面にわけて大きく出た。社会面には社告がのり、文化面には、
「前衛派の新人/苦学の栄冠/挿絵の古沢岩美氏」
の二段見出しに、紹介記事と、顎ひげをはやして笑っている写真と談話がのった。談話は長崎派の面目躍如であった。

故郷を出奔して十二年、古沢岩美は二十七歳であった。十枚の百円札を手にして古沢の脚はふるえた。すぐに質屋の松坂屋へ駆けこむと、利子もろくに払ってないのに本も洋服も、そのままにしておいてくれていた。主人はことのほか喜び、祝いの品をくれた。リヤカーを借りてきてうけだした品をつみ、古沢がまえを曳き、妻があとを押した。だれいうとなく、古沢はシンデレラ・ボーイと呼ばれるようになった。 

画材屋のいづみ屋、米屋、炭屋、酒屋、そして大家に、たまりにたまった借金を払い、三越へいって、いちばん高い着物を妻に買ってやり、そのうえでキャンヴァスを幾巻きも買って仲間にわけた。幅一メートル、長さ五メートル余でひと巻きのキャンヴァスは仲間をよろこぼせた。寺田政明はそのことを、のちのちまで恩に着た。

「久しぶりに新品のキャンヴァスを手にしたときは涙がでたな。ながいあいだ古キヤンしか使ってなかったからな。古沢はいい奴だ。なかなかできないことだ。本当の話だ」

長崎派の面々は、古沢からもらったまっ白のキャンヴァスを使って、旗揚展にむけて描きつづげでいった。


昭和十六年十二月八日、真珠湾攻撃の放送のときはどう思ったか
(『池袋モンパルナス』より)

「・・・昭和十六年十二月八日、真珠湾攻撃の放送のときはどう思いましたか」

「やった! と思いましたね。郷里の小学校の後輩が九軍神のひとりでな。そう、特殊潜航艇に乗って真珠湾攻撃に加わって戦死したんです。たのまれて想像で真珠湾攻撃の五十号の絵を描いて母校に寄付しましたよ。だけど、困った、負ける戦争だ、とも思ってましたよ。海軍から情報が入ってたから。ぼくは陸軍より、リベラルな海軍のほうがまだいいと思って、えのぐほしさに海軍の『くろがね会』に入ってたんだ。そこの平出大佐が”海軍は板割の浅太郎だ。陸軍の輸送船団という赤ん坊を背負ってチャンバラやってる。赤ん坊さえいなければ負けないのに”といってましたよ」


■鈴木庫三に斬られかけた話
(『池袋モンパルナス』より)

昭和十七年のある日、古沢は主婦之友社にたのまれて、その社の手帖に「靖国神社の歌」の挿絵を描いた。上部には満開の桜、前景には塹壕にさかさにつきさきった銃、そのうえには穴のあいた鉄兜、遠くぼかして靖国神社を描いたら、すぐに呼びつけられた。鈴木庫三は「陛下からおあずありした銃を土につきさすとは何事か、皇軍の鉄兜には穴はあかん」といった。古沢は「残念ながら鉄兜に穴があいたから死んだんでしょう。死にぎわに苦しまざれに銃をつきさしたんでしょう。それで靖国神社に配られたんでしょう」といった。鈴木は軍刀の柄に手をあけた。古沢はまたのちに鈴木の『国防国家と防空体制』という本の装幀をたのまれ、銀座に黒煙があがる絵を描いた。ふたたび呼びつけられ、「皇軍の護りは鉄壁である。敵機は一機たりとも入れぬ。そこへ直れ」といわれた。古沢があぐらをかいたら、鈴木はは軍刀を抜きかけ、しぶとい奴だ、と捨てぜりふを残して去った。


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東京 国立近代美術館で荻原守衛のブロンズ『女』に遭遇した

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Demonic puppets (1929) - Paul Klee — Art Pics Channel


8月27日 第34回すみだ錦糸町河内音頭大盆踊り 2015年 2日目 (ツイッター写真)




昨日のバラいろダンディ。 舞の海「近隣諸国が不穏な動きを見せているからそれに備えなければいけないと思うんですが、、、。」 「それは個別的自衛権。」 舞の海を一刀両断する室井佑月。 / 室井佑月さん。「シールズの行動は、利己的から一番遠い人たち。もういてもたってもいられない。30日の国会10万人包囲行動には私も参加します」 / 室井佑月の「8.30反安保デモ」参加宣言にネトウヨタレント・フィフィが噛み付いた! — litera