2020年7月31日金曜日

慶応4年/明治元年記(27)慶応4年(1868)5月16日~22日 江戸鎮台・3裁判所設置(関東経営開始) 第1次長岡城攻防戦(長岡城落城、河合継之助は桑名藩領加茂で同盟軍による長岡城奪還を図る) 

慶応4年/明治元年記(26) 慶応4年(1868)5月13日~15日 朝日山争奪戦(長岡戦争の天王山、新政府軍、朝日山奪取失敗) 上野戦争(彰義隊攻撃、1日で壊滅)
より続く

慶応4年(1868)
5月16日
・中外新聞、別段中外新聞を発行して彰義隊攻撃の戦況報道。新聞号外のはじめ。
・米大統領弾劾裁判投票、アンドルー・ジョンソン大統領が1票差で罷免を免れる
・プラハ、国民劇場定礎式
5月17日
・土佐藩兵、佐賀藩兵と共に会津藩内通の嫌疑がかかる真岡の代官所を襲撃。
・尾張藩博徒部隊(集義隊200余)、名古屋より北越出兵。12月24日帰国。
・新撰組原田左之助、本所の神保山城守屋敷で没。
・石阪昌孝、江戸より、橋本道助と帰宅。小島家に寄り、官軍と彰義隊の戦闘の模様を報告(「小島日記」)。彰義隊と新政府軍の戦争直後の上野寛永寺を訪ねて、「酸鼻呑声来往人」と賦す(「吟朋詩集」)。
5月18日
・政府、各国代表に外国人の新潟通行禁止を要請
・徴兵7番隊(旧赤報隊2・3番隊)、四条隆詞に随行し京都発。
・九条総督、仙台より盛岡に向かう。のち秋田で沢副総督と合流。
・江湖新聞の福地源一郎、新聞に掲載した「強弱論」で逮捕。
・振武軍、発足(彰義隊別派が改称?)。
5月19日
・新政府、江戸鎮台・3裁判所設置。関東経営開始。鎮台(長官)は大総督有栖川宮が兼任。その下に江藤新平(民政兼会計営繕)ら判事6人。
22日、江戸南北町奉行所、市政裁判所に改め官軍に引渡し。奉行は解任、与力・同心は禄高扶持米これまで通り、引き続き勤役。
・政府、大総督に会津征伐大総督を兼ねさせ、大総督府は従来の三道総督をやめ、代りに奥羽征討白河口、同越後口総督を置き、東北・越後戦争の為の態勢を敷く。
・太政官札を発行。
・上総木更津請西藩主林中祟ら遊撃隊300、小田原藩主を左幕に勧誘。武器援助密約結び箱根関所を襲撃。
・第1次長岡城攻防戦
政府軍(参謀山県狂介)、長岡占領。濃霧を利用して政府軍が信濃川を渡河、長岡城下を攻撃。同盟軍各隊が救援に向かうが既に長岡城は落城。桑名軍含め同盟軍は退却、栃尾・加茂に集結。河井継之助はガットリング砲3門で迎撃するが、左肩を負傷し、栃尾方面へ退却。戦火のため城下2500戸が焼失。 藩主牧野忠訓一族は城外へ避難、八十里峠方面守備の会津藩一瀬要人・秋月悌次郎の勧めで八十里峠を越えて会津へ落ちる。
19日払暁、三好重臣と報国隊軍監熊野直介は長州軍奇兵隊3番隊(堀潜太郎)・長府藩報国隊2番隊(内藤芳介)・4番隊(木村安八)を率い渡河、長岡城正面の中島方面に上陸。続いて高田藩榊原若狭大隊(380程)・加賀藩2中隊相当(小川仙之助・斉藤興兵衛)も渡河、中島周辺に次々と新政府軍が上陸。また三好達が上陸した北側の蔵王方面には薩摩軍外城3番隊(有馬誠之丞)・4番隊(中村源助)・城下士小銃10番隊(山口鉄之助・)等が上陸、蔵王堂城陣地の長岡軍を撃破し占拠。
同盟軍主力を妙見高地に配置し、長岡城守備戦力は脆弱で、河井は新政府軍奇襲を知り長岡城放棄を決意(元来、長岡城は平城のため防御力がなく、それ故に妙見高地を奪取し置いている)。河井は藩主親子を会津に脱出させ、自らガトリング砲を操り新政府軍を拘束、その間に旗下部隊を栃尾方面に撤退させる遅滞戦術を成功させる。
山県は小千谷から出撃し妙見高地奪取を目指すが、妙見高地の同盟軍の激しい迎撃により撃退。この隙、同盟軍は妙見高地から殆ど損害なく撤退。山県・三好の長岡城奪取は成功するが、同盟軍主力の捕捉殲滅には失敗、同盟軍根拠地を奪取するものの同盟軍戦死者は50弱というほぼ無傷の状態で取り逃がす。ただ河井にとっては、兵力的損害は少いものの、弾薬・食糧・金を失う痛手を負う。
同盟軍は栃尾へ撤退、長岡からの撤退軍と妙見高地からの撤退軍が栃尾で合流し、更に後退し桑名藩領加茂に向う。加茂には米沢軍を主力とする援軍が到着し、同盟軍戦力は約3千となり、背後の新潟港から諸外国から購入した銃砲・弾丸の補給が容易になったため新政府軍への反撃を開始。
長岡城を奪取した新政府軍は、同盟軍追撃を目指し進軍するが、前線が伸び過ぎ補給が追いつかなくなる(攻勢限界点に達する)。
5月21日
・政府、キリスト教徒100余名の山口、福山、津和野3藩分預を命令
5月22日
・加茂において越後在陣の同盟軍幹部等の大軍議。各藩の思惑・面目等が入れ乱れ戦略方針不明確。翌23日も軍議。
結集戦力
米沢軍参謀甘粕継成・大隊長中条豊前等約1千、長岡軍総督河井継之助・軍事掛花輪救馬等約700、会津軍総督一瀬要人・奉行秋月剃次郎等約700、桑名軍軍事奉行金子権太左衛門・隊長立見鑑三郎等約320、上山藩家老堀新兵衛約105、村上藩家老水谷孫平次等約160、村松藩家老森重内等約80。
河井継之助は長岡城奪取には見附制圧が必要不可欠と力説し、同盟軍首脳がこれを了承、主攻撃を見附に、赤坂・与板方面に助攻撃を行なうと決する(「甘粕継成日記」)。部隊配備は、見附方面への右翼軍(米沢軍・衝鋒隊)、赤坂~見附を突く左翼軍(長岡軍・村松藩兵)、与板方面軍(桑名軍・会津軍)に分かれて進軍。また新政府軍の出雲崎方面軍に備え、弥彦口には庄内軍・会津軍が守備(実際は、①見附方面に米沢軍・衝鋒隊・山形藩兵・会津軍が、②赤坂方面に長岡軍・会津軍・米沢軍・村松藩兵が、③与板方面に会津軍・桑名軍・米沢軍が進軍)。
・福井藩、会津征討のため越後口出兵を命じられる。従来同藩は、春嶽を先頭に、政府軍東征に反対しているが、奥州・北越諸藩の同盟・反抗は容赦はできないとして出兵準備に着手。

つづく


【増補改訂Ⅳ】大正12年(1923)9月2日(その9)「十人ぐらいの人が、火消しのとび口を人の体に突き刺して連行しているのを見ました。悪いことをしたかどうかもわからないのに、朝鮮人だということで、そんなことをする人もいることを知って、がく然としました。ただただびっくりしました。そのことは気持ちのなかに、あとあとまで残りました。」

【増補改訂Ⅳ】大正12年(1923)9月2日(その8)「子安自警団員の多くは日本刀を肩にして自転車を疾駆し、「朝鮮人は1人残らず打ち殺せと只今警察から命令が出ました」とわざわざ生麦方面まで触れまわったほどで、このため恐怖の町民は奮ひ起ち、2日~4日までの3日間で50余体の朝鮮人の惨殺死体が主として鉄道線路付近に遺棄された」 「此夜、鮮人十七八名、反町遊郭の裏デ惨殺サレタ」
より続く

大正12年(1923)9月2日
【横浜証言集】3 横浜市北部地域の朝鮮人虐殺証言
(2)高鳥山、反町、二ッ谷橘、東神奈川付近
②黒河内巌(七軒町在住)「警官が鮮人と見たらみな打ち殺せと」
大正十二年九月一日/前日宇田川叔母来泊/宇田川叔母 おけい すゝ子東京へ行 月島/福沢 宇田川徳蔵 三十五日墓参として出発/神奈川駅ニテ地震 直チニ帰宅/朝十時雨止/午前十一時五十八分大地震/家族一同在宅/地震卜同時ニ全町ノ家屋潰倒 所々ヨリ火ヲ起ス/二階ノ荷物 箪 フトン 行李 風呂敷包略全部運ビ出シ船へ積ミ避難ス/避難セシ船へ火ガ移り他ノ船へ避難ス/福吉約十人 中屋二人 藤の家三人 亀藤の家七人 坂部三人 家族八人海水ヲ注ギ一夜ヲ明カス 夫レガ為メ 栄 私 喜み江三人共眼ヲ痛メ 更ニ明ク事ガ出来ズ 二、三日間ハ失明ナリ
九月二日/宇田川叔母ハ帰レリ/朝家族ヲ引キ纏メ 高島山へ避難シ 露セリ/同夜ハ朝鮮人ガ飲用水井戸へ毒ヲ打チ込ミタリトテ 鮮人卜見タラ皆 打殺セト極端ナル達シアリ 依テ鮮人ト邦人卜間違ヒ ナグリ合等ニテ混雑セリ
九月三日/高島山ヲ引キ払ヒ 青木小学校へ立退ケリ/喜み江と小児二人ヲ栄ガ連レテ関沢へ行ク/坂部モ東京ヨリ来り 関沢へ行 同所モ泊ル事モ不能トテ一同帰リ来レリ
九月四日/坂部一家族 東京へ出発セリ/眼モ少シハヨクナレリ
(「黒河内巌日記」横浜開港資料館所蔵)

⑦神奈川県立工業学校機械科四年「朝鮮人が戦っている。27人捕まり2、3人は殺された」
9月2日正午頃、電気会館で朝鮮人が戦ってると聞いたので、急いで行って見ると、大勢戦って居る。橋の所で一人は死に一人は川の中に投げ込まれていた。会館の近くに行つ見ると家の中で大乱闘が始って居る。家から一人が飛び出してまさかりを持つて土工に飛び掛った。怒り狂つて居た土工は鉄棒で相手の腹を貫いた。倒れる所を頭を打つて殺していた。
之れに力を得て大勢で室の中に飛び込んで手当り次第に捕へ始めた。捕へられれば命は無いと思つた鮮人は椅子を投げたりピストル迄乱射して抵抗した弾丸が無くなつたので次の室へ逃る、追ひかける、二階へ逃る、追ひかける。逃場を失ひ2、3人は屋根へ上り他は仕方が無のいて窓から飛び下りた。そして皆鉄棒で、なぐられて、捕まって仕舞つた。
屋根へ逃げた者は追ひかけられて海へ飛び込んだ。
かうして27人中殆捕まり2、3人の者は殺されやつと形が付いた。大勢の人の顔にはやうやく安心の色が見えた。
⑩大野林火「隣町からの伝令に緊張」
神奈川斎藤分に住む父の友人の離れまがいの一室に親子3人落ちついたのは2日の昼過ぎ。余震はまだまだ頻繁であったが、それでも峠を越し、その方の不安は遠のいたが、食料品店、衣服品店をはじめ店々への浸入、略奪が口々に伝えられた。子安の日清製粉、港の倉庫も襲われたという。そうした不穏な空気をさらに強めたのが、朝鮮人が暴動を起こしたとか、井戸に毒を投入したとかの流言蜚語である。当時の斎藤分は文字通りの町はずれ、裏は畑つづき、夜はしんのやみであった。従って自警は当然であるが、竹槍、さらには日本刀まで持ちだしたのは、専らそのためである。いまどこそこまで押し寄せていると、まことしやかに隣町から伝令が来るのだから緊張せざるを得ぬ。理性を失ったと云われれば、その通りだが、いったん狂うとつぎつぎ狂う。夜間の通行は殆どなかったが、それでもあると誰何がきびしくその返答に些かの不審があると不祥事にもなった。
(「神奈川の写真誌 関東大震災」一九七一年)

⑫フェリス女学院本科五年「恐ろしさ」
〔神奈川町三八一番地で〕2日目の露営した時の恐ろしさ、鮮人の顔や胸から出ている真紅の血潮のそのものすごさ、そしてその時にも平然としてつれて行かれる彼等の不思議とも思われるその態度等を見、又何万という国民や外国人の残酷な死を傍にききながら、自分達ばかり生きて行くという不幸か幸か。選ばれた者として大きな責任を果すのに、どうしていったらよいかと考えさせられた。

⑬金子富男「火消しのとび口を人の体に突き刺して連行」
〔九月二日神奈川の御殿町に移る〕印象に残っているのは、朝鮮人が井戸に毒を入れたという話でした。たまたま、十人ぐらいの人が、火消しのとび口を人の体に突き刺して連行しているのを見ました。悪いことをしたかどうかもわからないのに、朝鮮人だということで、そんなことをする人もいることを知って、がく然としました。ただただびっくりしました。そのことは気持ちのなかに、あとあとまで残りました。
(「語りつぐ関東大震災 横浜市民84人の証言」一九九〇年)

⑯中村保蔵 (栗原・下栗原北在住、被災当時、数えの三〇歳) 「三ッ沢辺りの路傍に死体が転がっていた」
〔二日、神奈川へ貸していた乳牛を引き取りにいく〕途中、三ッ沢辺りの路傍に死体が転がっているのを見ました。さすがにコモはかぶせてありましたが、それは朝鮮人を追い込んで殺した死体だったらしいのです。      (「座間の語り伝え⑪」一九八四年)
⑬安藤耕平 (被災当時一三歳) 「朝鮮人を見るとたちまち大勢で追いかけ」
〔神奈川下反町で古物商。学校は祭礼で休み→父の兄のいる白旗の納屋で一晩→母の実家神奈川新町へ。二日〕街中に移ると、今度は流言蜚語が私たちを新たな恐怖に包んだ。それは、朝鮮人が井戸に毒を入れているとか、少女を襲って殺害したとかいう噂である。そのため、朝鮮人を見るとたちまち大勢で追いかけ、棒や石を投げて攻撃するという騒ぎがいたるところで突発した。日本人でも、間違えて襲われることもあった。
(「週刊読売」一九八三年九月一一日号「特別企画関東大震災60年」)

つづく

重症者 3週間で3倍近く増加 さらに増えるおそれ 新型コロナ(NHK)


【政府と地方自治体の間、現状認識の落差大きい 司令塔はどこに?】 東京と大阪のコロナ感染状況は「感染漸増段階」政府 分科会 / 菅官房長官、感染再拡大「憂慮すべき状況」緊急事態宣言は否定的 / (沖縄)県外―沖縄間の渡航自粛要請へ 県独自の緊急事態宣言 知事が発表へ / 岐阜県独自“第2波の非常事態”宣言 名古屋で酒伴う飲食自粛を / 独自の緊急宣言、休業要請も 感染増・医療切迫なら―小池都知事 / 大阪府 ミナミの一部エリアで休業や時短営業の要請を決定    

---------------
---------------------------

松井一郎大阪市長PCR検査について再度「そもそもお金出しても機械がない」 7/30(木) 市長定例会見

▼準備の時間はタップリあったハズ(↓7月1日の記事)

【名古屋コロナ陽性率「異常に高い」本当のヤバさ】 50%超の日も、感染拡大に検査態勢追いつかず(東洋経済) / 日本で最も新型コロナの陽性率が高いと言われる名古屋市.....WHOは5%を基準値としている。名古屋市の陽性率40%は検査が足りていない(遥かに多くの感染者がいる)ことを示唆。東京都は約6.5%、大阪府は約10%。 / 愛知県が名古屋市に検査を引き受けると呼びかけているが市はそれに応じていない(東海テレビ) / ワイドスクランブルを見ている方々から「名古屋市長へのインタビュー、酔っ払いに話を聞いてるみたいなんだけど」「全然ひとの話を聞かず話してる」「名古屋市長大丈夫?」という呟きが…


---------------------------

 

2020年7月30日木曜日

外食1000店超が閉鎖 業態転換などで長期低迷に備え(日経新聞); ジョイフル200店、コロワイド196店、吉野家150店……。新型コロナを背景に、外食の上場主要100社が2020年度に計1000店超の閉店を計画    

------------------------

【「3兆円」に見合うメリットは? 核燃料サイクル(動画)】 青森・#六ヶ所村 で建設中の核燃料再処理工場が稼働の前提となる安全審査に正式に合格しました。27年前から着工された施設は、総工費3兆円。いま、本当に必要なのでしょうか?— news zero    


2020年7月29日水曜日

今日は横浜スカイビルにある「牛味蔵」というお店でランチ(&プチ昼飲み) 2020-07-29

7月29日、曇
長い梅雨がまだ明けない。
今日は横浜スカイビルにある「牛味蔵」というお店でランチ(&プチ昼飲み)。
ま、簡単に言えば居酒屋さんでしたね。

食後、横浜駅周辺を散歩。
先月、「日本のサグラダファミリア」と揶揄されていた「終わらない工事」がようやく一段落ついて西口エリアが新らしくなったんだけど、なんだかそんなにワーッと驚くほどでもないような、、、

あちこち徘徊したので今日の歩数は1万4千歩だった。








感染経路不明、全国で5割超(日経新聞); 「クラスター追跡で新型コロナ感染を封じ込める対策は限界を超えた」。東京では「家庭」での感染が「夜の繁華街」を上回り、感染経路不明は全国で5割超に。どこで感染するか分からない状況になりつつあります / 家庭内感染が30人。5人家族2組と4人家族2組が全員感染 / 東京都の感染者、増える家庭内:東京新聞 / “夜の街”を上回り...東京で「家庭内感染」が最多に 軽症者ホテルの確保は(FNN);「東京都で、直近1週間の感染状況を調べたところ、家庭内感染が「夜の街」を上回り、最も多くなっていることがわかった」 / コロナ“家族道連れ感染”で重症化、最悪シナリオの行方(NEWS ポストセブン) 

--------------------------

   冒頭の調査にもあるように、もともと高齢者の多い日本は新型コロナの重症化リスクが世界で飛び抜けて高く、このまま中高年に感染拡大すれば、一気に危機的状況となる。

 一石さんが話す。

「このままだと、ねずみ算式に重症者が増加する可能性があります。感染者が多ければ多いほどウイルスが変異を繰り返し、より凶暴化する恐れがあります。現在、若い人たちの元気な細胞で育っているウイルスが突然凶暴化して、高齢者を苦しめるようになることが最悪のシナリオです」

 しかもこれから先、お盆の帰省などで高齢者が若者と接触する機会が増え、家庭内感染で重症化する人が激増する可能性も否定できない。

 実際、重症者数はすでに増加している。7月23日までの1週間で東京は10人から21人に、大阪でも4人から13人に増えた。厚労省が4月、5月の状況を分析すると、重症者のピークは5月8日で、新規感染者が最も多かった日から約1か月後だったことがわかった。このままいくと、ウイルスの弱毒化など奇跡が起きない限り重症者は増え続け、8月中旬にはピークを迎え100人を超す可能性がある。



関連記事







チャートで見る日本の感染状況 新型コロナウイルス(日経新聞); 東京の感染経路不明、4月下旬以来の高水準 ← 「夜の街」とかを悪者に仕立て上げている間に、、、、、 / 感染経路、東京や大阪で約6割不明 クラスター対策限界(朝日)← 吉村大阪府知事は「若い人のドンチャン騒ぎ」が原因としか言わない、、、、 / (大阪)「221人のうち感染経路が判明しているのは1人だけで、...」 / 松井一郎大阪市長「PCR検査を増やしたくても機械がない、人もいない」     


(引用)
221人のうち感染経路が判明しているのは1人だけで、残りは感染経路が分からないか、分からない人の濃厚接触者だということです。多くは軽症か無症状ですが、重症者も3人いるということです。



私たちに求められている、たくさんのこと。GoとStayとWithとWorkとVacation。— 武田砂鉄 ← 政治或いは政治家は「何を」する?

皆さんは、おかしいと思いませんか?感染拡大が広がる中、都知事は数字を気ままな時間に披露して不安を煽るだけで何もせず、総理大臣は記者会見もせず引き篭り、感染拡大について厚生労働大臣は何も言わず、経済再生担当大臣がペラペラ喋って状況は一切改善しない。皆さんは、おかしいと思いませんか? — 松尾貴史 / 安倍首相、半分夏休みモードに - 別荘静養はコロナ次第(共同) / 首相、逆境に「巣ごもり」 コロナ・豪雨対応 1カ月会見なし(毎日)




 

2020年7月28日火曜日

相模原事件後も止まらない「命の選別」 医療の世界の「自己決定」と「自己責任論」 / 「かわいそうだと思うなら、助ければいい」 雨宮処凛さんが「死なせる」ことが解決と考える人に訴えたいこと(BuzzFeed)



 

2020年7月27日月曜日

慶応4年/明治元年記(26) 慶応4年(1868)5月13日~15日 朝日山争奪戦(長岡戦争の天王山、新政府軍、朝日山奪取失敗) 上野戦争(彰義隊攻撃、1日で壊滅) 

慶応4年/明治元年記(25) 慶応4年(1868)5月2日~12日 小千谷・慈眼寺会談決裂 奥羽越列藩同盟成立 第2次今市戦争(大鳥隊敗北) 同盟軍、妙見山占領
より続く

慶応4年(1868)
5月13日
・(新7/2)朝日山争奪戦(長岡戦争の天王山)。新政府軍、朝日山奪取失敗。奇兵隊隊長時山直八、戦死。
新政府軍の攻撃に、朝日山南側守備の会津萱野隊200は敗退。政府軍は雷神隊が守る山頂付近に出現。長岡安田隊の軍刀槍による突撃体制と雷神隊の一斉攻撃で政府軍は落とされ退却。
朝日山攻防戦。
山県は北陸軍参謀時山直八(山県は奇兵隊軍監、時山は奇兵隊参謀)と今後の作戦を協議、妙見高地の要所朝日山奪取を決意。12日夜半、山県は増援を求めるため一旦後方に下がりるが、13日払暁、時山は信濃川周辺の濃霧を好機と見なし、手持ちの兵力のみで渡河開始。時山が率いるのは長州軍奇兵隊2番隊(久我四郎)・5番隊(野村三千三)・6番隊(山根辰三)・長府軍報国隊1番隊(下田恂介)・3番隊(諏訪好和)の5小隊と、薩摩軍2番遊撃隊(大迫喜右衞門)・外城3番隊(有馬誠之丞)・城下士小銃10番隊半隊(山口鉄之助)の3中隊相当の歴戦の精鋭部隊。時山は同盟軍に気づかれる事なく信濃川を渡河、長州軍(奇兵隊・報国隊)は朝日山北側より薩摩軍は西側より朝日山に攻め登る。時山自身は奇兵隊を率い北側より攻め寄せ、会津軍鎮将隊の陣地を次々に落とし山頂に迫る。この時、山頂間近の分かれ道で道案内の農民が道を間違え、山頂の同盟軍陣地の背後に出る積りが正面に出てしまうことになる。時山は、それでも攻撃を開始。山頂の陣地を守る歴戦の桑名雷神隊(立見鑑三郎)はこれを猛攻射撃、時山は銃弾を受け戦死、奇兵隊も総崩れになり朝日山から敗走。長州軍敗走を知った薩摩軍も撤退し、新政府軍の朝日山攻撃は失敗に終る。山県は同志の死を悼み、「仇まもる、砦のかがり、影ふけて、夏も身に染む、越の山風」と詠う。
・米沢藩、総督色部長門・参謀甘粕継成とし越後へ出陣。
この日、大隊長大井田修平率いる馬廻組7小隊による1大隊(古海勘左衛門隊・増岡孫次郎隊・曾根敬一郎隊・桃井清七郎隊・長右馬之助隊・山下太郎兵衛隊・戸狩左門隊)・色部総督直属6小隊による1大隊(浅羽徳太郎2番散兵隊・下秀丸1番散兵隊・潟上弥助隊・徳間久三郎隊・高野広次隊)・砲2門の約650が越後へ出陣。15日、追加軍勢として馬廻組10小隊(土肥伝右衛門隊・関文次隊・山崎理左衛門隊・西堀源蔵隊・三股九左衛門隊・佐藤久左衛門隊・岡田文内隊・古海又左衛門隊・上野貞助3番散兵隊・寺島太一4番散兵隊)・30匁大筒隊4隊(石栗善左衛門隊・桐生源作隊・三矢清蔵隊・蓬田新次郎隊)を出陣させる。
・バイエルン王ルーヴィッヒ2世、ホーエンシュヴァンガウ村復元計画発表。
・北越戦線、与板・市坪の戦闘。会津・桑名と共に戦う水戸の市川隊、戦死者77を出す。
5月15日
・上野戦争。彰義隊攻撃。1日で壊滅。総指揮大村益次郎、桐野・篠原国幹先鋒。本郷台の肥前藩のアームストロング砲が威力を発揮。官30・彰義隊183戦死。新撰組原田左之助、彰義隊に加わり負傷。「西郷の胆力、大村の戦略老練、感心堪え難く候」(江藤新平)。
・山国隊、因幡藩佐分利鉄次郎隊と薩摩桐野利秋・篠原国幹先頭に上野広小路進撃。戦果あげるも戦死1・負傷4。
軍防事務局判事大村益次郎は、彰義隊との戦いを戦術的勝利のみならず戦略的勝利に繋げようとする。彰義隊を大々的に壊滅させ、①勝の策略(慶喜を呼び戻し江戸に100万石を与える)を砕く、②反新政府な旗本の敵対心を消沈させる、③江戸市民に新時代到来を意識させる。江戸在の大総督府参謀林玖十郎・東海道軍参謀海江田らは彰義隊討伐に反対するが、大村はこれを押し切る。更に、夜戦を主張する声もあがるが、大村は白昼の攻撃に固執(勝ら幕臣や江戸市民に彰義隊討伐を見せつける、また、夜陰に紛れた砲火を恐れる)。
作戦配置。
実戦部隊
①主攻撃部隊(広小路・御徒町より上野寛永寺南方の黒門口を攻撃)。薩摩軍4中隊相当(城下士小銃1、3番隊・遊撃隊1番隊・兵具隊1番隊)・1番砲兵隊(7門)。鳥取軍2小隊(山国隊・支藩兵1小隊)・佐分利鉄次郎砲兵隊、後に援軍として近藤頼蔵砲兵隊(2門)。熊本軍5小隊(木造左門隊・和田権五朗隊・大槻権九朗隊・吉田源左衛門隊・柏原兼人隊)・砲兵隊、後に援軍として2小隊(寺本兵右衛門隊・堀十左衛門隊)。
②助攻撃部隊(団子坂・根津より上野寛永寺北西の天王寺・谷中門口を攻撃)。長州軍1中隊と2小隊(鋭武隊1中隊・施条銃足軽1番大隊4番中隊1番小隊・中間4番大隊1中隊1番小隊)。大村藩1小隊、佐土原藩兵1小隊及び臼砲1門、佐賀藩兵、岡山藩兵、尾張藩1小隊(中西真之助隊)及び仏製砲2門。途中より援軍として、津藩兵、福岡藩兵3小隊(郡右馬允隊・根本源五左衛門隊・大野十郎太夫隊)。
③砲撃部隊(本郷台より不忍池越に上野寛永寺を砲撃)。佐賀藩砲兵隊(アームストロング砲2門)、岡山藩砲兵隊(臼砲3門・米製砲2門)、津藩砲兵隊(臼砲2門)。
警戒部隊
①神田川水道橋:徳島藩2小隊(上田友秦隊・梯克好隊)、同和泉橋・同昌平橋:津藩兵、同神田橋:新発田藩兵。
②隅田川両国橋:久留米藩兵、同吾妻橋:紀州藩兵、同千住大橋:鳥取藩兵。
③森川追分宿場進駐:岡山藩兵、王子宿場進駐:福岡藩兵・芸州藩兵・津藩兵、戸田宿場進駐:岡山藩兵、川口宿場進駐:幕臣大久保氏の手勢。
④川越藩監視:福岡藩兵、忍藩監視:芸州藩兵、古河藩監視:佐賀藩兵。
黒門口には、①薩摩軍、②幕長戦争小倉口の戦いで長州軍奇兵隊・報国隊と互角以上の戦いを演じた熊本軍、③甲州柏尾・下野で歴戦の鳥取軍が投入される。
彰義隊の戦力
彰義隊本隊1~18番小隊(定員1小隊50、実際にはこれ以下)。その他の反新政府諸隊。遊撃隊(鳥羽伏見にも参加した剣士部隊)・幕府歩兵隊第8連隊・臥竜隊(幕府歩兵隊の残党)・菜葉隊(神奈川防衛の幕府歩兵隊)・水心隊(藩主らが率いる結城藩脱藩佐幕部隊)・神木隊(高田藩脱藩佐幕部隊)・卍隊(関宿藩脱藩佐幕部隊)・松石隊(明石藩脱藩佐幕部隊)・活気隊(小浜藩脱藩佐幕部隊)・高勝隊(高崎藩脱藩佐幕部隊)・純忠隊(その他の脱藩佐幕派による混成部隊)・他に砲兵隊。
13日、大総督府は作戦参加の諸藩兵に戦闘準備を布告、作戦図を配布。
14日、彰義隊討伐布告。外出を控えるよう、15日~3日間は河川の船の往来禁止と宿場人夫の使用を禁止(彰義隊の逃走防止)。また14日、徳川家に対し、翌日彰義隊討伐を実行するので、上野寛永寺の徳川家財宝を今日中に持ち出すよう連絡。勝は、戦争を回避すべく、山岡に託して寛永寺別当職覚王院義観に書状を送り上野山内から彰義隊を去らせるように懇願するが、断固徹底抗戦の姿勢を取る。但し、脱走者は多く、戦力は3千⇒1千に減少、元結城藩藩主(水心隊隊長)水野勝知、彰義隊の生みの親本多敏三郎も逃亡。
15日未明~3時、攻撃参加部隊が江戸城大下馬(二重橋)に集結、5~6時進軍開始、6時半~7時所定の部署に到着、7時~7時半攻撃開始。
黒門口の戦闘。薩摩・熊本・鳥取各藩兵は湯島天神経由で広小路に着。薩摩1番砲兵隊が、黒門から出て忍川に掛かる三枚橋に彰義隊が築いた簡易陣地を攻撃、簡単に破れ、残存兵は黒門内に逃げ込む。薩摩城下士小銃1番隊・同3番半隊がこれを追撃、広小路を北上し黒門を攻撃し、遊撃隊1番隊・兵具隊1番隊もこれに続く。広小路に薩摩軍が殺到し、熊本・鳥取軍の展開余裕がなくなり、両軍は広小路を横断し御徒町通りに移動、これを北上し、黒門口を側面から銃撃。彰義隊は上野山内の山王台(現在西郷像が在る辺り)に砲台を築き(7門)、ここから黒門攻撃の新政府軍を砲撃、広小路・御徒町通りから黒門進軍の新政府軍は、この山王台からの砲撃と黒門内からの銃撃(幕府歩兵隊)に阻まれ、黒門に迫れない状況。
一方の彰義隊も黒門口の新政府軍に対して、広小路・御徒町周辺の民家を放火して新政府軍の攻撃を遮ろうと試みるが、前日の雨の為思うように火が広がらず彰義隊の思惑は頓挫。
天王寺・谷中門口の戦闘開始
長州・佐賀・大村・佐土原・岡山・尾張各藩兵は団子坂を進軍、天王寺・谷中門口を攻撃。団子坂通り~天王寺~谷中門までには無数の寺院が在り、彰義隊はこれらの寺院の影から銃撃を行い、進軍する新政府軍を悩ませ、戦いは寺院を1つづつ占拠して前進する市街戦の様相を呈する。更に、大雨のため小川が増水・氾濫し、新政府軍の攻撃は遅々として進まず。長州軍はこの戦いに新鋭銃スナイドル銃(ゲベール・ミニェー・エンフィールドとは異なり、銃身後方から銃弾を装填出来、装填時間が短く連続発射が容易)が配布されるが、訓練が不充分で戦闘中に一旦後退してスナイドル銃の訓練を行うという失態を演じる。しかし、佐賀軍小銃隊がスペンサー銃(長州軍のスナイドル銃を超える性能の後装銃、ボルトアクションにより最大7発連続発射が可能、長岡藩のガトリング砲についで弾幕を張る事が出来る軍勢)で装備され、この猛射撃により長州軍が戻るまで持ちこたえられる。長州軍が戻ってからは、再び前進を再開。長州軍は戦線復帰するものの、今度は弾薬補充の為後退し津藩兵が戦線に参加。また佐土原藩兵も弾薬不足に陥り、福岡藩兵と交代。
黒門口突破と天王寺陥落
黒門口と天王寺・谷中門口とも戦線は膠着するが、佐賀藩砲兵隊の最新鋭アームストロング砲が、徐々に弾着点を修正し、正午頃、山内に弾着させ、その後は次々に山内の吉祥閣・中堂を炎上させる。この砲撃により、山内は動揺、彰義隊兵士の脱走が相次ぎ、応援諸隊の松石隊は隊長自ら命令して隊単位で脱走する始末。また、義観は輪王寺宮を伴い、彰義隊兵士を見捨てて逃走。彰義隊脱走者は、大村が意図して包囲網を開けておいた根岸方面に逃走。山内が混乱し始めた頃、主攻撃部隊の河田率いる鳥取軍が黒門の突破を試みる。鳥取軍は山王台からの砲撃に苦しむが、鳥取軍兵士がとある商家の2階に登ると山王台の様子が手に取るように見え、鳥取軍はこの商家より山王台に銃撃を開始。彰義隊の砲手達は次々に被弾し、山王台の砲撃力は弱まり、これを機に御徒町通りの薩摩軍遊撃隊1番隊(小倉壮九郎)・熊本軍和田権五朗隊と堀十左衛門隊・鳥取藩所属山国隊が、決死隊として山王台脇の崖を攀じ登り山王台突入を試み、山国隊が一番乗りで山王台に乗り込み、その後激戦の末に山王台を占拠。次に広小路の薩摩軍城下士小銃隊3番隊隊長篠原国幹は、西郷の突撃許可を得て、城下士小銃隊1番隊(鈴木武五郎)と共に黒門に突撃、これを突破。これに続き薩摩軍兵具隊1番隊(川路利良)・熊本軍も黒門から山内に突入。また別の軍勢が不忍池の方に回り、佐賀藩砲兵隊の弾道の下を潜り穴稲荷門を突破。一方、弾薬補給の為退いていた長州軍・佐土原軍が戦線復帰し、更に王子宿場から残りの津藩兵全兵が駆けつけ、佐賀・長州・大村・佐土原・岡山・尾張・福岡・津の全軍が寺院を1つづつ攻め落とし、上野寛永寺最大の支城の天王寺に攻め寄せ、これを落とし境内を放火。
上野陥落
天野は、黒門・天王寺陥落を知り小川斜三郎率いる幕府歩兵隊1小隊を率い黒門に駆けつけるが、薩摩軍を前に小川以下幕府歩兵隊は全員が逃走。この時、元幕府大目付大久保忠宜が「東照大権現」の旗を掲げ手勢を率い薩摩軍に突進するが、薩摩軍の銃撃により戦死、手勢は逃走。黒門突破後、彰義隊兵士の逃走が相次ぐなか、天野や首脳部は、未だ戦う彰義隊兵士に脱出命令も出さずに逃走。薩摩・熊本・鳥取各藩兵は、上野寛永寺境内各寺院に次々と放火、上野山内は火の海と化し、本道である御本坊も焼失、上野寛永寺は陥落。以降は掃討戦となるが、掃討戦も夕方には終わる。
彰義隊の多くは大村が意図的に包囲網を開けいた根岸方面に逃走するが、脱出後は、各宿場に配置された新政府軍に束縛・捕殺される。
翌16日、大村益次郎は彰義隊残党掃討作戦を発令。
敗残兵狩りの配置。広小路周辺:薩摩藩・熊本藩・鳥取藩、本郷・駒込・根津周辺:長州藩・佐賀藩・佐土原藩・大村藩・岡山藩、道灌山・谷中・王子周辺:芸州藩・津藩・久留米藩、浅草・蔵前周辺:福岡藩・尾張藩。また、河田率いる鳥取軍に上野山内警備を命じる。他にも芸州藩兵を甲州街道に進発させ彰義隊残党の甲州行き阻止を図る。この様な綿密な包囲網に、この日多くの彰義隊残党が捕縛される。
天野は江戸に潜伏して再起を計るが、警戒兵に捕らわれ獄中で病没。義観は奥羽に逃げ延びるが、奥羽越列藩同盟敗北後捕縛され獄中で憤死。一方、大村は勝海舟宅への家宅捜索という形で勝に警告を送り、以降勝は新政府軍に恭順。
・奥羽鎮撫総督九条の上洛問題で仙台藩にて列藩会議。結局、九条・前山に騙されて九条の転陣が決まる。18日、九条は仙台より盛岡に向う。7月1日、秋田城下で沢副総督と合流、同盟を離脱した秋田を政府軍の根拠地にして同盟軍と対決。前山清一郎の政治的外交手腕の勝利。
・米沢藩色部長門の本隊、越後入国。この日、国境近く下関村の米沢藩御用達商人渡辺三左衛門の屋敷(北越戦争で米沢軍中継基地となる)宿泊。横浜で購入したミニェー銃2千・スペンサー銃(元込7連発)250挺・その外弾薬雷管等を受け取る(「米沢甘粕備後日記」)。
色部は、17日、新潟の旧幕府奉行所からの治安維持軍派遣要請に応え3小隊(柿崎家教隊・芦名但馬隊・苅野鉄之助隊)を新潟に送る。また、同盟軍が結集しつつある加茂には4小隊(香坂与三郎隊・岩井源蔵隊・小倉吉蔵隊・松木幾之進隊)を送り、4小隊(斉藤篤信隊・香坂勘解由隊・芋川大膳隊・朝岡俊次隊)は色部と共に会津領水原に留まる。

つづく


【さすがにもう安倍内閣、ダメでしょう】 布マスクについて厚生労働省に改めて聞く。介護用布マスクについて6月22日に契約したのは約5800万枚。既に全量納品済みで、現在日本郵便の各地の倉庫にある状態である。代金も既に払っている。よってキャンセル、返品、返金要求はできないし、しない。 — 福島みずほ / 布マスク、今後さらに8千万枚を配布 不要論でも発注済(朝日新聞) / アベノマスク8000万枚「今後も配布」は続く…仕掛け人は“炎上動画”の発案者(デイリー新潮)/ 「news23」星浩氏.....「不可解な点も多い…こんなお金があるんだったら他の政策に振り向けるべき」(スポーツ報知)   

-----------------



 

【増補改訂Ⅳ】大正12年(1923)9月2日(その8)「子安自警団員の多くは日本刀を肩にして自転車を疾駆し、「朝鮮人は1人残らず打ち殺せと只今警察から命令が出ました」とわざわざ生麦方面まで触れまわったほどで、このため恐怖の町民は奮ひ起ち、2日~4日までの3日間で50余体の朝鮮人の惨殺死体が主として鉄道線路付近に遺棄された」 「此夜、鮮人十七八名、反町遊郭の裏デ惨殺サレタ」

【増補改訂Ⅳ】大正12年(1923)9月2日(その7)「久保町愛友青年会を初め在郷軍人会員は第一中学校の銃剣を持ちだして戦闘準備をととのへ保土ヶ谷の自警団と連絡をとって三十余名の鮮人を包囲攻撃し何れも重傷を負わせ内十名ほどは保土ヶ谷鉄道線路や久保山の山林内で死体となってうづめ、また池中に沈められた。」
より続く

大正12年(1923)9月2日
【横浜証言集】2 横浜中部地域の朝鮮人虐殺証言
(3)藤棚、西戸部、県立中第一学校(二日より戸部警察仮本部になる)付近
⑮神奈川県立工業学校機械科三年「津波が来る。朝鮮人が刀を抜いて四百人も押寄せてくる」
九月二日 曇 早朝日の出づる頃に父と共に我が家を出で、父の会社の様子を知る為に鉄道線路を歩みて子安に行く。線路を歩む者列をなし、両側には焼出された者が小屋を作って居る。〔戸部に引き返す→関内〕漸く家に帰って来た。握飯を食って少したつと「津浪が来る」、「朝鮮人が刀を抜いて四百人も押寄せて来る」といふ事が伝はると、近所の人達は皆一斉に山へ逃げた。其の騒ぎは大変な物であった。其の内に朝鮮人が三四人来たら消防夫や、警官が来て皆でなぐって連れて行った。人々は皆警戒して刀や鉄砲を持って居ったりした。家へ入る事が出来ず庭へ小屋を作った。其所で一先づ露をしのぐ事にした。かくして又夜を過した。
九月三日 十時頃横浜倉庫で米を呉れると云ふ事を聞いたので行って見ると、それは戦場のやうであった。荷車がずつと列んで其れへ米俵をかついで来ては又積んで居る。僕はよその人が米を3升ばかり呉れるのでそれをもらって帰って来たが、それは大変な騒ぎであった。

⑯神中生徒「傷ついた朝鮮人が相当収容され」
二日の昼頃になると、朝鮮人騒ぎがおこり、「今後、不逞鮮人数百名が神中を襲撃してくるという情報が入ったから十四才以上の男子は武器をもって闘うように」と在郷軍人会や青年団の幹部がいって回った。神中の武器庫が避難民によって破壊され、鉄剣、演習用の空砲等が全部持ち出された。また各自、日本刀、銃剣、鉄棒等を持って校内を歩き回るので物凄千万だった。夜になると、銃声、突撃ラッパ、カン声等が囁、神中の表門通や保土ヶ谷方面でするので、私たちは地震よりもその方の恐ろしさが身にこたえた。(後で思えば日本人同志の錯覚による出来事たったのだが)。
戸部警察署が焼けて神中に本部を移し、博物の教室が留置場に代用された。傷ついた朝鮮人が相当収容され、日赤救護班の治療を受けていた。
三日の夜、生田校長が有泉先生らを連れて提灯を下げて避難民の間を廻り、「奥少将の率いる軍隊が近くの一本松小学校に泊っているから、もし朝鮮人が襲撃してきた場合、皆で大声を出して、「山」というように、軍隊は「川」と答えて、すぐ応援に馳けつけてくれることになっています」と説明されると、皆安堵した気特になったことは今も忘れません。(昭和41年10月28日)
(「神中・神高・希聖ヶ丘高校百年史」所収「震災当時の神中の思い出」)
(4) 久保山方面
②神奈川県立工業学校機械科四年「巡査が朝鮮人が放火したり、井戸に毒を入れるから気をつけてくださいと」
僕はY君とS君と3人で久保山に避難した。途中どの食料品店も人でいっぱいであった。久保山から高い岡の向ふは僕の自宅であるが、煙が勢いよく立発って居るから大抵焼けているのであろうと思ったので帰る勇気もなく1時間余り山に坐ったのみあった。〔・・・〕
其の日〔二日〕の3時頃に巡査が「朝鮮人が放火をしたり、井戸に毒を入れるから気を付けて下さい」と、青年会の人に話をして居た。それを聞き伝へた者は奮起した。そして腕に赤い布をまいて同胞なる事を示し標の無い通行人をしらべて、内地人には赤い布を与へた。次ぎに白を又その次には赤白を付けた。2日の夜は来た。大人は刀或は竹槍及小刀を持って要所要所に集って、十分に防備した。
夜が更けると山の下の方で喊の声を上げて、勢を示して朝鮮人の来ぬ様に努め、山の上では盛に火を焚いて居た。その有様は戦争の如くであった。年寄小供に非常に恐しがって泣いた。夜明になって海軍陸軍隊が一小隊ばかり山に登って、僕の前を通り過ぎた。その時老いも若さ一声に、万歳を唱へた。
【横浜証言集】3 横浜市北部地域の朝鮮人虐殺証言
(1) 子安地域
①東海林静男「朝鮮人は一人残らず打ち殺せと今警察から命令がでた」
神奈川方面では2日朝から流説が伝わり、子安自警団員の多くは日本刀を肩にして自転車を疾駆し、「朝鮮人は1人残らず打ち殺せと只今警察から命令が出ました」とわざわざ生麦方面まで触れまわったほどで、このため恐怖の町民は奮ひ起ち、2日~4日までの3日間で50余体の朝鮮人の惨殺死体が主として鉄道線路付近に遺棄された。
(「神奈川の写真誌 関東大震災」一九七一年)
(2)高鳥山、反町、二ッ谷橘、東神奈川付近
①八木熊次郎(当時元街小教員)「警官が流言を広げ、自警団を組織」
〔反町在住、高島山へ避難〕九月二日、大空ハ黄灰色ニ霞ンデ頭上ノ絶へズ。ライジングサン石油タンクノ煙ガ渦巻イテ飛ブ。太陽ハ銅色ヲ帯ビテ煙ノ中ヲ縫ッテヰル。何トナク災禍ノ前兆ヲ示スモノノ如クデ一層不安ヲ増サシメタ。火災ハマダ全市ヲ包ンデ居ル。
コノ日午後、吾々ガ陣取ッテヰル草原へ巡査ガ駈ッテ来テ皆サン一寸御注意ヲ申マス。今夜、此方面へ不逞鮮人ガ三百名襲来スルコトニナッテ居ルサウデアル。又、根岸刑務所ノ一餘名ヲ解倣シタコレ等ガ社会主義者卜結託シテ放火強奪強姦並ニ投毒等ヲスル。
昨夜ハ、本牧方面ヲ襲来シタ。右ノヨウナ始末デアリマスカラ、今夜ハナル可ク皆様ガバラバラニナラヌ様ニ一所ニ集ッテ居テ下サイ。サウシテ万一怪シイ者ガ来タラ一同デ喚声ヲ挙ゲテ下サイ。猶、十六歳以上六十歳以下ノ男子ハ武装シテ警戒シテ下サイ。コレヲ聞イタ婦女子ハ皆震エ上ガッテ、各自重キ家具ヤ貴重品ヲ負ウテ狼狽シ始メタ。子供等ハ恐レテ泣キ出ス。目モ当テラレヌ有様デアッタ。
自分ハ家族ニ向ヒ決シテ心配スルニハ及バン若シテ不逞ノ鮮人攻メ来ルコトガアッデモ此処ニハ数十人ノ青年ガ居ルシ此下ニハ又何十人ト居ルノダカラ片ッ端カラ什スカラ心配スルナ。死セバ○ノ諸共ダ此様ナ周章スルト却ッテ命ヲヲトス。静カニシテ居ナサイト言ッテヰルト、午後四時過ギ向フノ山上デ喚声ガ起ッタ。一同ガ振り向ヒテ見ルト白服ヲ着夕者ガ幾十人カ抜剣シテ沢山ナ人ヲ追イカケテイル。其ヲ見夕者ハ異口同音ニ不逞鮮人襲来ダ、白服ノハ日本ノ青年団ダト騒グ。人々、戦々恐々急ニ避難場所ヲ変ヘル者、重キ荷物ヲ草叢へカクスモノアル。疲労卜不安ノ中二、其日ハ暮レカカッタ。各町ノ青年団衛生組合ノ人々ガ腕ニ赤布ヲ巻キ、向フ鉢巻、腰ニ伝家ノ実刀ヲ侃ビ、或ハ、竹槍・ピストル・猟銃共他鉄の棒ナド持ッテ避難地ノ草原へ集合シタ。恐ロシイ夜ノ戸張ハ全ク閉サレク。余燼ハ空ヲ赤ク染メテヰル。海上遥ニ低ク下限ノ月ガ懸ッテヰル。夜ノ十時過頃カラ各方面デ銃声ガ聞へ始メ提灯ノ火ガ幾ツトナク野原ヲ飛ンデヰル。折々、武装シタ青年ノ伝令ガ駈ッテ来テ「御注意ヲ願ヒマス。只今、会シイ者ガ数十名此方面へ這入ッタ形跡ガアリマス」等ト入替り立替り報告シテ来ル。此夜、鮮人十七八名、反町遊郭の裏デ惨殺サレタ。カカル不安ノ中ニ妻子ハマンジリトモセズ一夜ヲ明シタ。(二日朝六時ヨリ翌三日午前六時迄大小地震ガ三百三拾十四回アッタ)
〔・・・〕三日、鮮人襲来ノ報一層喧シク放火、強奪、強姦、井水二投毒、鮮人ト格闘セルコト等ノ報頻リニ伝へラレタ。此日、海軍陸戦隊ガ五十鈴、春日等ニテ到着シ、探照燈ノ光ガ暗澹タル空ヲ照シタ。避難民ノ混雑ハ昨日ニ同ジク。重傷者ノ死亡、妊婦ノ出産ナド目モアテラレヌ、ミジメサデアッタ。余震ハ午前六時ヨリ翌四日午前六時迄二百五十三回ニ及ンダ
(八木熊次郎「関東大震災日記一九二三年、櫛浜開港資料館保管)

つづく


感染者試算「1万7000人」が「320人」に 破棄された2つの数字(東京新聞); 吉田は3つの試算を小池に報告。小池は23日に「320人」だけ公表。一転して危機感訴えたのは、延期が決まった翌日


【きょうの新規感染者数】8月4日 国内で新たに1237人感染 神奈川、沖縄で過去最多 東京309人は火曜としては最多 / 8月3日 今日の感染者920人(午後9時時点) / 8月2日 新たに1326人の感染確認 1000人超は5日連続 都市部で100人超え続く / 8月1日 新たに1535人の感染確認 東京、埼玉、千葉、奈良、長崎で過去最多更新 4日連続1000人超 / 7月31日 全国で新たに1563人感染確認 東京、愛知、福岡、沖縄などで最多更新



------------------- 【8月4日】 ------------------------- 【8月3日】 --------------------- 【8月2日】 ------------------------------- 【8月1日】 ------------------------------ 【7月31日】
----------------------- 【7月30日】 ------------------------------ 【7月29日】 -------------------------- 【7月28日】 --------------------------- 【7月27日】 --------------------------- 【7月26日】

2020年7月26日日曜日

慶応4年/明治元年記(25) 慶応4年(1868)5月2日~12日 小千谷・慈眼寺会談決裂 奥羽越列藩同盟成立 第2次今市戦争(大鳥隊敗北) 同盟軍、妙見山占領 

慶応4年/明治元年記(24) 慶応4年(1868)5月1日 白河口の激戦(同盟軍2,600が政府軍700に大敗、白河城奪還) 大総督府、江戸市中取締まりを彰義隊→政府軍と布告(事実上の宣戦布告) 箱館の引渡し完了
より続く

慶応4年(1868)
5月2日
・小千谷・慈眼寺会談決裂。長岡藩主席家老河井継之助(42)・岩村精一郎(23、東山道先鋒総督府軍軍監)。
嘆願書提出。長岡藩の苦しい立場と献金・出兵の無き事を弁明。藩論を統一し、会津・桑名・米沢等を説得の時間を欲しい旨を懇願。長岡藩の中立の立場等も説き、倒幕・会津征討の理由、真の官軍ならば恭順してもよいとも発言。河井の懇願空しく岩村精一郎はこれを拒絶、席を立つ。岩村の袴の裾をとって再度の懇願をしたといわれる。
5月3日
・河井継之助、会談前に兵を引かせた妙見高地奪回を決意、摂田屋の長岡軍本営光福寺に諸隊長を集め、会談決裂伝え開戦決意を表明。
4日、奥羽列藩同盟入り表明。長岡周辺で新政府軍と交戦中の会津軍・衝鋒隊・桑名軍を領内に迎え入れ戦力を増強。
・政府軍、小千谷から一部の軍を進発させ、長岡城下南3里の三国街道要地榎峠を占領。長岡を取り巻く本格的な戦闘開始寸前。
・奥羽列藩同盟成立。
仙台藩起草の盟約書、米沢藩の意見により改訂。米沢主導で30藩となる。4日、長岡藩。6日、北越6藩(長岡に加え、新発田、村上、村松、三根山、黒川)加盟。
5月4日
・ロッシュが横浜を出発し帰国の途につく
5月6日
・東久世通禧神奈川裁判所総督、江戸運上所において幕府から11ヶ国条約書を受領。
・奥羽越列藩同盟。
奥羽列藩同盟に北越6藩(長岡、新発田、村上、村松、三日市、黒川)が加わる。
「今度、奥羽列藩仙台に於て会議し、鎮撫総督に告げ、盟約を以て公平正大の道を執り、同心協力、上王室を尊び、下人民を憮恤し、皇国を維持し、而して宸襟を安んぜんとす。仍て条例左の如し。 一、天下の大義を伸べるを以て目的と為し、小節細行に拘泥すべからざる事。 一、海を渉る同舟の如く、信を以て居し義を以て動くべき事。 一、若し、不慮危急の事あらば、比隣の各藩、速やかに援救し、総督府に報告すべきの事。 一、強きを負み弱きを凌ぐ勿れ、私に利を営む勿れ、機事を泄す勿れ、同盟を離する勿れ。 一、城堡を築造し、糧食を運搬する、止むを得ずと雖も、漫りに百姓をして労役し、愁苦に勝えざらしむる勿れ。 一、大事件は列藩集議、公平の旨に帰すべし。細緻は則ちその宜しきに随ふべ き事。 一、他国に通諜し、或ひは隣境に出兵す、皆同盟に報ずべき事。 一、無辜を殺戮する勿れ、金穀を掠奪する勿れ、凡そ、事不義に渉らば、厳刑を加ふべき事。 右条々、違背あるに於ては、則ち列藩集議し厳譴を加ふべき者なり」(「維新史」)。
・第2次今市戦争。大鳥隊800、土佐藩兵400、大鳥隊敗北。靖兵隊矢田賢之助戦死。幕会軍、藤原に防衛陣地を構築、日光口からの政府軍侵入を防ぐ作戦に切り替え。18日、肥前藩兵が今市守備。土佐藩兵、宇都宮へ移動。
・越後赤田北方の戦い。政府軍大兵と互角の戦いで戦線は膠着状態。桑名藩の致人・神風隊、誤報により妙法寺に引き上げ、立見率いる雷神隊もやむおえず引き上げ。翌7日、会津藩よりの急使により、長岡へ転戦。
(政府軍兵力)薩摩10番隊・2番遊撃隊・2番砲隊・・約740、長州1~6番奇兵隊560、加賀藩兵1500、松代藩兵500、富山藩兵440、高田藩兵380、尾張・松本・高遠・飯田・上田の諸藩兵を合わせ5千(主力は薩摩・長州の1300余、中でも長州奇兵隊は歴戦の兵・屈指の精強部隊)。
(同盟軍兵力)越後口総督一瀬要人率いる会津藩兵約1千、古屋作左衛門の旧幕府衝鋒隊約500、桑名諸隊200、長岡藩兵3個大隊約1500、後に米沢藩1大隊約600、庄内藩4小隊約250、仙台藩1大隊約500。
5月9日
・光福寺で長岡藩家老河井継之助主導の軍議。妙見高地奪回作戦の計画を話し合い、出撃。10日払暁、妙見高地の榎峠を守る新政府軍に対し攻撃開始。
会津藩:越後口総督一瀬要人、水原奉行萱野右兵衛、朱雀隊佐川官兵衛・伴百悦、その他川瀬重次郎・中沢志津馬・井深宅右衛門。長岡藩:軍事総督河井継之助、軍事奉行川島億太郎・花輪求馬・安田多膳。桑名藩軍事総宰服部半蔵、軍事奉行山脇十左衛門・岩崎五太夫・町田老之丞・立見鑑三郎・馬場三九郎。衝鋒隊隊長古屋佐久左衛門、軍監松田昌次郎。浮撃隊隊長木村大作。
・奥羽鎮撫沢副総督、新庄より秋田着。同盟派の秋田は沢らの滞在を喜ばず、沢らは16日、大館まで進む。津軽藩は政府軍の入国を拒否し、沢らは暫く大館に留まる。
・大坂で銀目廃止が行われる
5月10日
・エドワード・スネルがチャーターした武器輸送船「カガノカミ」号、米沢領粟島に到着。旧式ミニエー銃2千、7連発銃は僅か200。13日、兵600で越後へ出兵。総督色部長門・参謀甘粕継成・大隊頭大井田修平。
・榎峠攻防戦。長岡・小千谷間の榎峠、同盟軍と新政府軍の戦い開始。同盟軍、妙見山を占領。
榎峠守備の新政府軍は尾張藩1小隊(津田九朗次郎)・上田藩1小隊のみ(新政府軍は援軍を送ろうとするが大雨による信濃川増水のため、対岸小千谷から援軍を送れない状況)。同盟軍河井は軍を三分、①主攻撃の軍事掛萩原要人率いる山本大隊所属3小隊(斉田轍隊・本富寛之丞隊・渡辺進隊)200・砲2門と佐川官兵衛率いる会津軍朱雀士中4番隊200を妙見本道から榎峠正面に向わせ、②助攻撃の軍事掛川島憶二郎率いる残りの山本大隊所属4小隊200(大川市左衛門隊・波多謹之丞隊・田中小文治隊・牧野八左衛門隊)を妙見山道から側面攻撃の為迂回させ、③会津軍鎮将隊200(官野右兵衛)・桑名軍浮撃隊50(木村大作)・神風隊(40町田老之丞)・衝鋒隊(古屋佐久左衛門)は大きく迂回させ妙見裏道から榎峠背後の朝日山方面に向わせる。
榎峠攻防戦。10日払暁、正面部隊は攻撃開始、狭い峠道では大兵力を展開出来ず、序盤は新政府軍有利で進む。しかし、助攻撃の迂回部隊長岡軍3小隊・砲兵隊が榎峠東の石坂山に辿りつき、山頂から銃撃・砲撃を開始すると、尾張・上田藩兵は浮き足立ち、その後会津・桑名・衝鋒隊の別働隊が榎峠南方の朝日山を占拠した事により、尾張・上田藩兵は半包囲状態に追い込まれ榎木峠から敗走。小千谷の新政府軍司令部では、山県有朋が同盟軍の銃撃音を聞いて急いで駈けつけ、軍監岩村を退け、自らこの方面の指揮を取り、ようやく反撃開始。しかし、夕方、援軍の薩摩軍・長州軍(奇兵隊・報国隊)・松代軍・尾張藩兵等が信濃川を渡河した頃には、榎峠・朝日山とも同盟軍が完全に占拠し、山県は一旦兵を退かせる。
会津佐川官兵衛と桑名山脇十左衛門の協議により朝日山を拠点にして攻撃する作戦を敢行、立見率いる雷神隊が朝日山占拠、陣地構築。
5月11日
・小浜藩兵、小浜に凱旋。2月、越後高田~信濃入り、4月、江戸着。5月、越後出兵、品川から海路越後今町港(上越市)に赴くがまもなく帰藩を許される。
5月12日
・北陸道軍軍監(長州藩)三好重臣(軍太郎)率いる海道軍、出雲崎等に篭る桑名軍・会津軍・水戸脱走軍等の同盟軍を駆逐しながら前進、この日、長岡西方5km弱にある長岡平野を見下ろす丘陵地帯の関原を制圧。
関原を本営とした三好は小千谷の山県と連絡を取り、同盟軍主力が妙見高地に居る隙を狙い、19日に海道軍が一気に信濃川を渡河して長岡城を攻撃する作戦を立てる。
・マルクス(50)提案、総務委員会、フランス・ベルギー政府の国際労働者協会への迫害に抗議する決議。

つづく

【増補改訂Ⅳ】大正12年(1923)9月2日(その7)「久保町愛友青年会を初め在郷軍人会員は第一中学校の銃剣を持ちだして戦闘準備をととのへ保土ヶ谷の自警団と連絡をとって三十余名の鮮人を包囲攻撃し何れも重傷を負わせ内十名ほどは保土ヶ谷鉄道線路や久保山の山林内で死体となってうづめ、また池中に沈められた。」

【増補改訂Ⅳ】大正12年(1923)9月2日(その6)「駅のホームなんか、見られたものじゃなかったですね。それに、人が竹ヤリで刺されているのも見ました。あのとき、朝鮮人が騒ぎを起こしたというデマ宣伝がありましたからね。」 「街は朝鮮人が非行を働くので此の場合警官の手が廻らずどしどし私刑にして居る、現に公園の横で朝鮮人十数名殺されて居たのを見て来た。」 
より続く

大正12年(1923)9月2日
【横浜証言集】2 横浜中部地域の朝鮮人虐殺証言
(3)藤棚、西戸部、県立中第一学校(二日より戸部警察仮本部になる)付近
②村上美江「神中〔第1中学〕に集められた避難民、男は教練用の銃で武装」
関東大震災 恐怖の二日間 夕方になると、メガホンを持った人が現れて、避難者は至急神中の運動場に集まれと命令された。朝鮮人が攻めてくるから危ないという。校庭はテントが敷いてある所が少しで大部分は土の上に坐る。隣の草原は真っ暗で誰も居ない。校庭から教練用の木の銃が持ち出され、40才までの男の人は前に集まれとメガホンが叫ぶ。そのうち暗い中でパチパチとピストルの光がして「そっちへ逃げたぞ」とか「右の方にかくれたぞ」とか叫び声がして、みんなちじこまっていると、みんなで「ウワーイ」とトキの声をあげろと二度三度命令される。暗やみを人が走り回ったり、叫び声がしたり、前の晩よりも緊張した恐ろしい夜になった。尋ね人を呼びかう声も禁じられていた。兵隊みたいな声の男が、怒鳴り声で指図をしなから人々の間を駆け回った。災害とは全く別の囲まれた夜、恐ろしい長い夜だった。やっと明るくなって、私たちは前のMさんの家に向かったが、途中で兵隊のような人に両方から引っ立てられて行く怪我をした人や道の脇の草の上に倒れている人や、地割れした道の割れ目の中に押し込められている人も見た。母は「見ないで、見ないで」と言うけれども、道が壊れているから、足元は見ないわけにはいかなかった。
(村上著「ヨコハマ育ち」創業出版、一九九五年)

③寿小学校五年男子「神中の原に逃げる。鮮人騒ぎには校内の武器で備える」
二日人々は税関にく物を取りに行く。又一つ心配しなければならないことがおこった。兄さんの身の上を思ふ。そうこうしてゐるうち「つなみつなみ」と人々が逃げる。僕等も神中の原へにげた。兄さんは神中4年生だから。居やうしないかとさがすが居ない。原にはひなん民がたくさん居て、僕等にたべ物をくれた。早や夜になると、鮮人さわざ校内の鉄砲や刀をもって来て守る 四方が山で四方から攻められる。時にわあわあいってはおしよせる、ぶるぶるふるへているとやがて兵隊が来た。そきた。その時はばんざいばんざいと皆かンこの声をあげた。
④東京日日新聞「自警団の虐殺」
横浜地方裁判所検事局 坂元検事戸部署で調査をする
保土ヶ谷、久保山辺でやられたのは多く戸塚辺の鉄道工事に雇われてゐたもので2日正午頃例の山口正憲一派のものが「鮮人三百名が襲撃してくる」との流言を放ったため久保田や其の付近に避難したものは自警団を組織し全部竹槍や日本刀を持って警戒し一方久保町愛友青年会を初め在郷軍人会員は第一中学校の銃剣を持ちだして戦闘準備をととのへ保土ヶ谷の自警団と連絡をとって三十余名の鮮人を包囲攻撃し何れも重傷を負わせ内十名ほどは保土ヶ谷鉄道線路や久保山の山林内で死体となってうづめ、また池中に沈められた。〔・・・〕人に対する警戒は十日ごろまでつづき、二日から一週間は深夜でもピストルの音が絶えなかった。          (一九二三年一〇月)
⑤フェリス女学院本科五年「捕まった二人松の木へしばられ、ぶたれ、血だらけで山中ひきずりまわす」
〔西戸部で二日〕突然「朝鮮人が井戸へ毒を入れたから、しばらく飲まずにいて下さい」という知らせ。この先水も飲めないなんて、なんてあわれな事だろうと思っている間もなく、「ホラ、朝鮮人が山へかくれた」というので、気の荒い若い人達は、手に手に鳶口やふとい棒を持って山へおいかけて来た。とうとう2人だけはつかまえられてしまって、松の木へしばりつけられて、頭といわず顔といわず皆にぶたれた。気の立っている人々はそれでもまだあきたらす、血だらけになった鮮人を山中ひきずりまわした。そして、夜になったら殺そうと話していた。〔二日夜〕そうしている内「今、鮮人が逃げたから気をつけて下さい」という。間もなく「ローソク消せ」という。あたりは一面真くら。その中でピストルの音さえ聞えるのである。私等はまるで戦場にでもいる心地がした。その内ガサガサと私共のいる所へ人の来る気配がした。「ホラ鮮人だ」と私等(女)は顔をふせてしまった。「誰れだ」とどなると「私です。どうぞ少しの間ここへおいて下さい」というのはたしか日本人らしいので、やっと安心して夜の明けるまでおいてあげた。

⑥フェリス女学院本科五年「鮮人騒ぎです」
〔西戸部で二日朝〕夜があげて焼跡を見に行く途中、みんな武装しているので一寸きいて見た。「知らないのですか、鮮人騒ぎです。日本人は鮮人に間ちがえられない為に赤布を付けるのです」と言った。それは大変と皆は赤布を付けた。「地震と火事、その上鮮人ではとてもたすからないね」と言った。そばの人が合言葉があるのでと話しているので、私共はきいて見た「「山と川、熱い寒い」と答えた。兄と父は竹槍を持って出かけた。私共はどんなに心配か分らない。日本人が鮮人と間違えられてころされる者も沢山にあった〔・・・〕。私どもはしかたなしに明朝、古郷へそうでで立った」
⑧フェリス女学院本科五年「朝鮮人が爆弾を持ってやって来た」
〔西戸部で〕 2日の午後になって一大難事がおそって来た。それは2日の日の午後「千人も朝鮮人が裂弾を持ってやって来た」という噂が一時に広まった。我々の運命はどこまで突落されるか分らない。その日から腕は赤の切でしばり、「山と川」との相言葉を使わねはならなかった。人々は皆竹槍や刀等をさげて、まるで戦争の姿である。私も死ぬなら鮮人に殺ないで死にたいと固い決心は決めて居った。しかし2日、3日と恐ろしい日を過ごす内にも、目の前に鮮人を見たわけでもなかった。震災にあい、又鮮人に驚かされ、この思い出多い難事はいつまで立つとも私達の口から消え失せる時はないであろう。

⑨神奈川県立工業学校建築科三年「喊声が盛んに起き、銃声が僕等のきもを冷やす」
恐ろしかった九月一日も過去って、又いやな二日の夜が段々せまって来る。〔・・・〕昨日の大震火災の出来事から、今日の鮮人さわざの事等が脳中を駆巡り、又新しい不安が湧いて来る。沈黙は長くつづいた。「わあー」 と言ふ喊の声が聞えた。皆はっと耳をそばだてた。と又 「わあー」 といふ声が以前に増してはっきりと聞える。「なんだらうか」 と先ず伯父が口を切る。「あれは青年団が鮮人を追立てるのでせう」と、哲さんがいふ。伯父「さうらしいな」。僕はやっとはっとした。喊声は盛に起る〔・・・〕そして銃声までが轟き出す。〔・・・〕ときの声が四方に起る。銃声が僕等のきもを冷す。〔・・・〕 「カタガク」と亜鉛板を踏む音がする。そしてそれが段々と高くなる。はっと思って思はず渡してもらった金棒を固く握りしまる。胸がどきんどきん鳴る。室内には一種異様な厳粛な空気が流れる。やがて音の主は小屋に向かって声をかけた。「私は隣漆畑ですが、鮮人が来たら見つけた方から声をかけ互に声援しませう。貴方の方には何か武器がありますか、私の方には日本刀1本と外に金棒が5本ありますから」「ではどうぞお願いします」「いいえ私の方こそ」 伯父さんとこんな会話をすますと、叉がたがたと音立てて帰って行った。〔翌朝〕 すでに起きて居る伯父さん等は、次の様な事を話合って居た。「昨夜はおそろしかったね」 「そして12時頃<西戸部方面は激戦になります、各自警戒を要す>なんて言って来ましたね」 「来た来た それよりもあの夜中の悲鳴たらどうだったい、あの何ともいはれぬ〈ひゃぁー〉と言ふ悲鳴たら」 「まったくあれはおそろしかったですね」
⑬佐藤伝志 (神奈川県戸部署巡査) 「虚偽が事実になる時」
神奈川県戸部署の巡査になって間もなく、関東大震災にあった。軽井沢派出所が私の受け持ち交番だった。〔・・・〕2日、夜明けとともに本署に出向いた。「朝鮮人が暴動を起こす」 の報を聞いたのはこのときである。署の内外は緊張した空気につつまれていた。そんなやさき、数十人の朝鮮人が武装して集会を開いているとの知らせが入った。「それッ」とばかり、居合わせた者全員が現場に急行したが、そこには人影ひとつなかった。右だ、左だ、いや向こうだと走り回っているうちに、恐ろしいもので、朝鮮人暴動は、もはや既成の事実として疑わなくなっていた。だれも彼もがそんな疑心暗鬼になり、私たちも、しまいにはサーベルを振り上げ、本気で追いかけた。
家屋の倒壊、断水、停電、出火〔・・・〕で平静さをまったく失っていた一般住民の激昂ぶりは、私たちに輪をかけてすさまじかった。町内ごとに自警団を組織し、竹ヤリ、日本刀、角材をたずさえ、徒党を組んで”朝鮮人狩り”をやった。町の辻で朝鮮人を取り囲み、袋だたきにしている光景も幾つかあった。いずれも、暴徒とは思えない一般朝鮮人市民であり、人がきをわけて入ってなだめようとするのだが、そのじぶんには、警察官といえどもへタに口出しすると命が危ないというありさまだった。私自身、危うく竹ヤリで突かれ、トビロで頭を割られるところだった。結局、まる一昼夜探索しても、朝鮮人の武装蜂起を裏付ける事実は何ひとつなく、このままでは犠牲者が出るばかりだということで、署が朝鮮人保護にのりだした。近くの学校の雨天体育場に5~60人を収容したと記憶している。このあと、3日から私は、県知事宅の警護をいいつかったが、市民、県民のいざこざの収拾や陳情こそあったが、朝鮮人による襲撃や暴動は、まったくなかったことを追述しておきたい。   (「潮」一九七一年六月)
⑭栄女「トロッコに乗せてくれた朝鮮人のおじさんは」
8月20日過ぎに吉田町から西戸部へ転居
私は独りぼっちですぐ裏から続く原っぱで何をしていたか覚えていないが遊んでいた時に、少し向うにトロッコが走っていた。そのトロッコのそば迄行って見ていたところ、トロッコを押していたその時分は朝鮮人と言っていたおじさんが、「乗りたいか」と聞いた。私はコックリとうなずいた。おじさんは私を抱いてトロッコの前に乗せてくれた。そして向う側に着くと空になった帰りのトロッコに私を渡してくれた。そして元に戻ると何かを乗せてまた私を乗せてくれた。それからはいく日か家を抜け出せるときは原っぱに行ってトロッコに乗せて貰った。私の判らない言葉で隣りのトロッコにひょいと渡してくれて、とても楽しかった。何故か判らないが、このことを言っては悪いような気がして家へ帰ってもだまっていた。義母は独り遊びが好きな子だからと思っていたようであった。
〔2日〕その夜から恐ろしい事が起きるのだった。養父を迎えに来た人に誘われて養父も棍棒を持って出掛けた。外が騒がしくなり、そのワーワーという人声に混って人の悲鳴が聞えた。その晩養父が帰って来て言うには、悪いことをした朝鮮人を追いつめて交番の前に折り重ねて置いて来たということだった。私は机の下でブルブルと震えていた。そんな事はない、そんな事はないと、口に出して言えないまま心の中で叫んでいた。あのおじさん達が悪いことをする筈がない。それなのに大勢の人に棍棒でなぐられて交番の前に積み重ねられている。どうして、どうして、そんなことにと、養父をはじめ追いつめた人達に言いたかった。でもどうしても言葉に出して言えなかった。「怖がることは何もないのだよ。ここへは朝鮮人は誰も来ないからね」と養父は震えている私に言った。義母は「変な子だね、地震の時に椅子に挟まれているのを引っはり出した時には泣きもしなかったのに、さあ、もう寝なさい、ここなら地震が来ても大丈夫だから」と言って隣りの部屋に行ってしまった。私はいつまでも震えが止まらなかった。
数え年9歳の女の子の前を通って棍棒を持った養父が出て行った。孤独な女の子をトロッコに乗せて遊ばせてくれたあの朝鮮人のおじさん達は、衆を頼んでのこととは言え殺された。それは養父の罪ではないことは判っていたけれど、その時の事は何かに向ってどうしても許せないという想いが消えなかった。〔・・・〕関東大震災の日となると、私に親切だったあの朝鮮人のおじさん達と養父が今でも二重写しになってなかなか消えない。だが今私の心の中で、もう忘れることにしようと思っている。
(「国際経済研究」一九九三年一〇月号所収「関東大震災の思い出」

つづく


(社説)虐殺の史実 都は改ざんに手貸すな(朝日新聞);「...だが「朝鮮人が暴動を起こした」「井戸に毒を投げ込んだ」といった虚偽の話が広がり、市民や軍、警察によって各地で虐殺が行われたのは厳然たる事実だ。多くの公的記録や証言があり、内閣府中央防災会議の報告書にも明記されている。...」   

--------------------------


 
---------------------

BBCニュース - ジョンソン英首相、「違うやり方もあったかもしれない」 新型コロナウイルス対策 / ジョンソン首相は、新型コロナへの初期対応に失敗した事実を認めず、はぐらかそうとした。しかしクンスバーグ政治編集長は毅然とした落ち着いた態度で「失敗していたのは事実なのに、なぜ認めないのですか」という意味の問いを繰り返し、最後にはジョンソン首相も問題があったことを認めた