昭和15年9月27日、日独伊三国軍事同盟締結
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翌日(9月28日)の新聞報道
「朝日新聞」
三国同盟成立により帝国外交の一大転換が完成し、
「今後帝国外交はこの枢軸外交を中軸として東亜共栄圏の確立に邁進することとなるべく、これを阻止せんとする旧勢力に対しては一段と毅然たる態勢をとることになるだろう」と述べる。
社会面では、
「いまぞ成れり”歴史の誓い”」の見出に、
「決意を眉中に浮べて幾度か万歳を唱えて誓いの盃をあげる日独伊三国の世界史を創る人々、紅潮する松岡外相の頬、高く右手をあげて「ニッポン!ニッポン!」と叫ぶオット独大使、大きな掌で固い握手をして廻るインデルリ伊大使、
条約の裏に”密使”として滞京中のスターマー独公使がきょうは覆面を脱いでにこやかに盃を乾す”世界史転換”の夜の感動であった」
と、
同盟締結に最大級の賛辞を呈す。
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9月28日の永井荷風「断腸亭日乗」(段落を施す)
九月念八日。晴。世の噂によれば日本は独逸伊太利両国と盟約を結びしと云ふ。
(此間三行弱切取。以下欄外補)
愛国者は常に言へり
日本には世界無類の日本精神なるものあり外国の真似をするに及ばずと
然るに
自ら辞を低くし腰を屈して侵略不仁の国と盟約をなす国家の恥辱之より大なるは無し
其原因は種々なるべしと雖も余は畢竟儒教の衰滅したるに因るものと思ふなり
(以上補)
燈刻漫歩。池の端揚出しに夕飯を喫し浅草を過ぎて玉の井に至る。
数年来心やすき家あれば立寄りて景気を問ふに昼すぎの商売は差止めになりたれば今のところさして困りもせず。・・・
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条約締結後の近衛首相のラジオ放送(日時不詳)。
「米国は日本が三国同盟を締結して世界新秩序建設に邁進する真意を諒解し、且又新しい世界新秩序建設といふことに米国自身が従来の立場を反省し相携へて協力するといふならば、日独伊三国は喜んで米国とも協力することにならう。
然し、米国がこの三国の立場を理解せず三国同盟を敵対行為として来るならば、三国は敢然之れと戦ふ覚悟はある。」
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西園寺公望は、
興津の坐漁在で三国同盟成立の報を聞き、側近の女たちに
「これで、もうお前たちさえも、畳の上で死ぬことは出来なくなるだろう」
と言ったまま、床の上に終日瞑目して語らなかったという。
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同盟調印約2週間後、
連合艦隊司令長官山本五十六は
原田熊雄と食事をしながら、
「自分の考えでは、アメリカと戦争するということは、ほとんど全世界を相手にするつもりにならなければ駄目だ。
要するにソヴィエトと不可侵条約を結んでも、ソヴィエトなどというものは当てになるもんじゃない。
アメリカと戦争しているうちに、その条約約を守ってうしろから出て来ないということを、どうして誰が保証するか。
結局自分は、もうこうなった以上、最善を尽して奮闘する。そうして「長門」の艦上で討死するだろう。
その間に、
東京あたりは、三度ぐらいまる焼きにされて、非常なみじめな目に会うだろう。
結果において
近衛だのなんか、気の毒だけれども、国民から八ツ裂きにされるようなことになりやせんか。」
と語る。
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11月中旬、山本は、支那方面艦隊司令長官嶋田繁太郎宛て手紙で、
「日独伊軍事同盟前後の事情、其後の物動許画の実情を見ると、現政府のやり方はすべて前後不調なり、
今更米国の経済圧迫に驚き、憤慨し困難するなどは、小学生が刺那主義にてうかうかと行動するのにも似たり」
と述べる。
また、「過日ある人の仲介にて近衛公が是非会ひ度との由なりしも、再三辞退せしが余りしつこき故、大臣の諒解を得て二時間ばかり面会せり」とあり、
9月初の及川海相主催の海軍首脳会議で上京の折に、山本は荻外荘を訪問。
日米戦になった場合の海軍の見通しについて質問され、
「初め半年や一年は、ずいぶん暴れて御覧に入れます。しかし二年、三年となっては、全く確信は持てません。三国同盟が出来たのは致し方がないが、かくなった上は、日米戦争の回避に極力御努力を願いたいと思います」
と答える。
近衛は、海軍が三国同盟にあっさり賛成したので、不思議に思い次官に話を聞くと、
物動方面は容易ならず、海軍戦備にも幾多欠陥あり、同盟には政治的に賛成したが、国防上は憂慮すべき状態だということで失望した、海軍は海軍の立場を考えて意見を樹ててもらわねば困る、国内政治問題は首相の自分が善処すべき次第でる、というような話があった。
手紙では、山本は、
「随分人を馬鹿にしたる如き口吻にて不平を言はれたり、是等の言分は近衛公の常習にて驚くに足らず、要するに
近衛公や松岡外相等に信頼して海軍が足を土からはなす事は危険千万にて、誠に陛下に対し奉り申訳なき事なりとの感を深く致候、御参考迄」
と書く。
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井上成美の批判。
「近衛という人は常に他力本願で、海軍に一と言やれないと言わせれば自分は楽だという考え方なんです。
・・・艦隊将兵四万への気兼ねも捨てて、敢てはっぎり言うべきでした。
事は、国家百年の運命が決するかも知れない場合なんです。
そうでなくても責任感の薄い、優柔不断の近衛公に、半年や一年ならたっぷり暴れて見せるというような曖昧な表現をすれば、素人は判断を誤るんです。
総理、あなた三国同盟なんか結んでどうする気か、あなたが心配している通りアメリカと戦争になりますよ、なれば負けですよ、やってくれと頼まれても、自分には戦う自信がありません。
対米戦の戦えない者に聯合艦隊司令長官の資格無しと言われるなら、自分は辞任するから、後任に誰か、自信のある長官をさがしてもらいたいと、強くそう言うべきでした。
・・・
あの一点は黒星です。山本さんのために惜しみます。」
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ここで、以下、
この年のこの月(昭和15年9月)の三国同盟を巡る動きをかいつまんで・・・
9月5日
・
海相吉田善吾中将、辞職。後任は及川古志郎大将、次官は豊田貞次郎中将。
吉田は、ドイツとの軍事同盟締結について、陸海軍事務当局は支持、海軍省首脳は反対で、板ばさみ。ノイローゼで入院静養。
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及川海相は、海軍として三国同盟に対する最終的態度を決定するため海軍首脳会議を招集。
席上、及川海相は、ここで海軍が反対すれば第2次近衛内閣は総辞職の他なく、海軍として内閣崩壊の責任をとる事は到底出来ないので、
同盟条約締結に賛成願いたいと述べる。
伏見軍令部総長宮以下、各軍事参議官、艦隊・各鎮守府長官の発言はなし。
連合艦隊司令長官山本五十六が、
「昨年八月まで、私が次官を勤めておった当時の企画院の物動計画によれば、その八割は、英米勢力圏内の資材でまかなわれることになっでおりました。
今回三国同盟を結ぶとすれば、必然的にこれを失う筈であるが、その不足を補うために、どういう物動計画の切り替えをやられたか、この点を明確に聞かせていただき、・・・」
と質問するが、及川海相は、この問いに答えず、
「いろいろ御意見もありましょうが、先に申し上げた通りの次第ですから、この際は三国同盟に御賛成ねがいたい」とを繰返す。
この時、先任軍事参議官大角岑生大将が、「私は賛成します」と口火を切り、それで、ばたばたと一同賛成となる。
会議後、山本は及川をとっちめ、及川は、「事情やむを得ないものがあるので、勘弁してくれ」と謝るが、山本は、「勘弁ですむか」と、緊張した場面になったという。
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9月12日
・4相会談。
松岡外相、スターマー特使の案の受諾を主張、及川海相は同意を保留。松岡外相と海軍側との意見調整し、14日、下打合せ。
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スターマーとの間に三国同盟交渉が進み、海軍だけが反対を固執するのは困難で、また海軍の中堅層は三国同盟締結積極的である。
13日、海軍首脳部と松岡とが折衝、付属議定書・交換公文をもうけ、参戦の場合に締約国が自主的に判断できるようにすることなどで一致。
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コロンビア大学歴史学教授モーレイが元駐日ドイツ大使オットから得た証言。
海軍が絶対譲れないとする一線は、条約締結後ドイツ・米国間に戦端が開かれた場合、日本は自動的参戦の義務を負うのかという問題で、米が第2次欧洲大戦に参戦すれば、日本も自動的に対米戦争に突入させられるのは困る、ということ。
「ベルリンからの訓令は、一貫して「自動参戦でなくてはならぬ」というのであったが、松岡が「これを自主参戦に改めなければ海軍がどうしても承服しない。自動参戦の条項を何とかしてくれ」と言って来た。
それでスターマーと相談の上、ベルリンへは電報を打たず、この件は自主参戦でいいのだという、松岡とわれわれの間だけのプロトコールを作って、サインをし、海軍側に提示してもらった」。
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14日下打合せ。
出席者:外相、同次官、陸相、同次官、軍務局長(陸軍)、参謀次長、海相、同次官、軍務局長(海軍)、軍令部次長。
席上、松岡外相が熱弁。
「今や日本は、独伊と結ぶか、独伊を蹴って米英の側に立つか、ハッキリした態度を決めねばならぬ時期に来ている。
平沼内閣の様に曖昧にしてドイツの提案を蹴った場合、
ドイツは英国を降し、最悪の場合は欧洲連邦を作り、米国と妥協し、欧洲連邦の植民地には、日本に一指も染めさせねであろう。
しかし日独伊同盟を締結すれば、対米関係は悪化し、物資の面では戦争遂行にも国民生活にも非常な困難が来る。
そこで独伊とも米英とも結ぶということも一つの手で、全然不可能とは思わないが、そのためには、支部事変は米国の言う通りに処理し、東亜新秩序などという望みを捨て、少くとも半世紀は米英に頭を下げる心算でなければならぬ。
それで国民は承知するか。十万の英霊は満足出来るか。(米英と結ぶと)前大戦の後でアンナ目に会ったのだから、今度はドンナ目に会うか解らぬ。況や蒋介石は抗日でなく侮日排日が一層強くなる。中プラリンではいかぬ。
即ち米と提携は考えられぬ。残された道は独伊との提携以外になし」(「近衛首相覚書」及び矢部貞治「近衛文麿」下)。
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下打合せの席上、近藤信竹軍令部次長は、
「海軍はアメリカにたいする戦争の準備がないが、来年四月になれば完成する。もし既設艦艇を艤装し、商船二五〇万トンを武装することができれば、アメリカとの速戦即決で勝利を得る見込がある。
しかし速戦即決でなく長期戦ならば困難で、アメリカがどんどん建艦をやり、日本との比率の差がますます大きくなって日本は追いつかない。
そういう意味から言えば、戦争としては今日が一番有利だ」と説明。
及川海相は、「それ以外に道はない、ついては軍備充実につき政府、とくに陸軍当局も考慮してほしい」と述べる。
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のちに近衛首相が豊田貞次郎海軍次官に対し、
これまで三国同盟締結に批判的であった海軍が、及川海相になって態度を改めた事情について尋ねると、
豊田は「海軍は腹の中では三国同盟に反対だが、海軍がこれ以上反対することは政治事情が許さないから賛成する。
軍事上の立場からはアメリカを相手として戦う確信はない」と答える。
更に近衛が、海軍としては純軍事的立場から検討してほしいと言うと、
豊田は、「今日となっては海軍の立場も諒承されたい。この上は三国同盟による軍事上の援助義務が発生しないよう、外交上の手段によってこれを防ぐはかない」と答える(近衛文麿の手記「失はれた政治」)。
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9月16日
・臨時閣議、三国同盟案承認。19日、御前会議承認。26日、枢密院本会議、満場一致可決。
臨時閣議後、近衛が参内すると、天皇は前日木戸に言ったのと同機の事を言う。
近衛は、日露戦争直前の御前会義後、明治天皇が伊藤博文を別室に招き、憂慮を示したのに対し、伊藤が「国が敗れようとするばあいには私は爵位勲等を拝辞し、単身戦場におもむいて討死いたす覚悟でございます」と述べた故事を引用し、「及ばずながら私も誠心誠意ご奉公申し上げます」と奉答。
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9月19日
・御前会議、三国同盟案承認。
海軍軍令部総長、①日米開戦を回避、②南方問題は平和的に行う、③有害な排米英言動の取締り、④海軍軍備の強化促進への協力、表明。
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出席者:近衛首相、松岡外相、東條陸相、及川海相、河田蔵相、星野企画院総裁、閑院宮参謀級長、沢田次長、伏見宮軍令部総長、近藤次長、原枢密院議長。
主に軍令部総長・枢密院議長が、国力持続見通しと対策、長期戦に要する石柑資源確保見通し、対米関係・対ソ関係に及ぼす影響、自主的参戦が認められているのか否かなどを質問。
政府の答弁は極めて不満足なもので、国力持続見通しについて、
近衛首相は、
「新事態の発生に伴い、英米との貿易関係がいっそう悪化することが予想され、最悪のはあいには輸入物資の入手が全面的に不可能になることもあろう。わが国の現状では主要な軍需資材を英米にまつことが多く、したがって相当の困難はまぬかれない」
と述べながら、既に生産を拡充し貯蔵に努めているから、消費統制強化と緊要方面への集中使用により切り抜けられると答弁。
石油その他資源確保見通しについても、松岡・東条・星野の答弁は確信のあるものではない。
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枢密院議長原嘉道の質問。
「此条約ノ発表二ヨリ日本ノ態度明白トナラハ
(米国は)極力日本ニ対スル圧迫ヲ強化シ極力蒋ヲ援助シ日本ノ戦争遂行ヲ妨クへク
又独伊ニ対シ宣戦シアラサル米国ハ日本ニ対シテモ宣戦スル事ナク経済圧迫ヲ加フヘク
日本ニ対シ石油、鉄ヲ禁輸シ又日本ヨリ物資ヲ購入セス長期ニ亘リ日本ヲ疲弊戦争ニ堪ヘサルニ至ラシムル如ク計フヘシト考フ。」。
これに対する松岡の回答。
「・・・(米国は)多分日本カ支那ノ全部少クモ半分ヲ放棄スレハ或ハ一時米国卜握手シ得へケンモ将来決シテ対日圧迫ハ巳ムモノニアラス。
・・・今や米国ノ対日感情ハ極端ニ悪化シアリテ僅カノ気嫌取リシテ恢復スルモノニアラス只々我レノ毅然タル態度ノミカ戦争ヲ避クルヲ得へシ」(沢田参謀次長覚書)。
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9月26日
・朝から枢密院審査委員会に三国同盟条約が付議、可決。
夜、枢密院本会議、三国同盟満場一致可決。
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委員会では、同盟締結がアメリカを刺赦し対米関係悪化を憂える声、戦争長期化の場合の資源(特に石油)調達見通しについての質問、ドイツにたいする不信、ドイツの斡旋による日ソ国交調整を疑問とする質問などが出る。
本会議では石井菊次郎顧問官が、
「ドイツはもっとも悪しき同盟国であって、ドイツ国或はその前身たるプロシャ国と結び、同盟によって利益を受けたものの無いことは顕著な事実である。
のみならず、これがため不慮の災難を蒙り、ついに社稷を失うに至った国すらある
。ドイツ宰相ビスマルクはかつて、国際同盟には一人の騎馬武者と一匹の驢馬とを要する、そうしてドイツは常に騎馬武者でなければならぬといった。
・・・総統ヒトラーは危険少なからざる人物と考える。マキャベリに私淑し、その君主論を常に座右に備えているという。・・・彼ヒトラーのドイツが永きに及んで日本の誠実な友であると考えることは出来ない」、「
ヒトラーも防共協定があるにもかかわらず、独ソ不可侵条約を結んだことからわかるとおり、条約を一片の紙片とみており、イタリアも同様であるから、この条約の運用には十分注意する必要がある」との意見を表明。
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枢密院審査委員会審議席上、近衛首相は、
「欧洲戦争に参加せずして我が地位を強化する為めに、此の条約を締結せんとす。但し最悪の場合には之に対処すべき覚悟あり」と述べる(深井英五「枢密院重要議事覚書」)。
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枢密院審査委員会審議席上、委員の質問に対する松岡外相の回答。
「(米英と協調するには)支那より手を引き、南進を止むることを覚悟せざるべからず。
国が亡びんとする場合ならばそれも巳むを得ざるべきが、今日支那より手を引き、南進を止むることは可能なりや。
之を不可能とせば、日米戦争は不可避なり。本条約は之を阻止せんとするもの」。
「我が南洋発展の途上日米戦争の危険甚だ大なり。独力にて之を回避することは難し。
故に独逸を我方に引付けて我が地歩を強固ならしめんとするなり。
本条約の結果、日米の感情は一時一層悪化するならん。
然れども日独提携して米に当るは日米戦争を阻止し得ベき可能性を生ずる所以なり」。
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この日朝、近衛は参内拝謁の後、枢密院審査委員会に出席。
激しい質疑応答に疲れていたが、昼食後再びお召しがあり、天皇と庭へ散歩に出た時、天皇は
「
この条約が出来たら、国民はさぞ難儀をするだろうな」と言う。
それを聞いてた近衛は失神。
10日前、松岡外相提案の三国軍事同盟案が臨時閣議で全貞一致承認を見て、経過上奏に近衛が参内すると、
天皇は、「ここまで来たらやむを得ない。総理大臣はこの重大な時機にどこまでも自分と苦楽を共にするか」と確かめた上、沈痛な面持ちで裁可の内意を与える。
天皇の再度の憂慮を聞き、近衛は強いショックを受け、脳貧血を起こす。
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