2010年9月29日水曜日

東京 桜田濠の彼岸花(曼珠沙華) 2010年 桜田門から半蔵門まで

昨年(2009年)は9月17日に同じコースを歩いた。
昨年の記事はコチラ
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今年は残暑猛暑激しく、秋らしくなったと思ったら急転、10月下旬くらいの気温、更に曇天・雨天が続いた。
関東地方は、今日くらいが晴天(快晴ではないが)で、明日はまた雨模様、以降は曇天の予想。
・・・という訳で、
今日(9月29日)、彼岸花狙いで、桜田門から半蔵門まで桜田濠傍を歩いた。
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桜田門近くで、白花



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桜田門の前は、法務省旧館。
以前に記事にしました。コチラ
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国会前辺りで赤花と白花の小さい群生
実は、この赤色はきれいな方です。
全体的に、脱色されたような赤色が多い。
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そして、三宅坂辺りで白色の群生
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半蔵門近くには赤花がぽつりぽつりと。
下の写真の中央下にある脱色されたような赤色が多い。
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半蔵門前から桜田門方面を見る
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2010年9月28日火曜日

昭和15年9月27日、日独伊三国軍事同盟締結。「・・・自ら辞を低くし腰を屈して侵略不仁の国と盟約をなす国家の恥辱之より大なるは無し・・・」(荷風「断腸亭日乗」)

昭和15年9月27日、日独伊三国軍事同盟締結
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翌日(9月28日)の新聞報道
「朝日新聞」
三国同盟成立により帝国外交の一大転換が完成し、
「今後帝国外交はこの枢軸外交を中軸として東亜共栄圏の確立に邁進することとなるべく、これを阻止せんとする旧勢力に対しては一段と毅然たる態勢をとることになるだろう」と述べる。
社会面では、
「いまぞ成れり”歴史の誓い”」の見出に、
「決意を眉中に浮べて幾度か万歳を唱えて誓いの盃をあげる日独伊三国の世界史を創る人々、紅潮する松岡外相の頬、高く右手をあげて「ニッポン!ニッポン!」と叫ぶオット独大使、大きな掌で固い握手をして廻るインデルリ伊大使、
条約の裏に”密使”として滞京中のスターマー独公使がきょうは覆面を脱いでにこやかに盃を乾す”世界史転換”の夜の感動であった」
と、同盟締結に最大級の賛辞を呈す。
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9月28日の永井荷風「断腸亭日乗」(段落を施す)
九月念八日。晴。世の噂によれば日本は独逸伊太利両国と盟約を結びしと云ふ。
(此間三行弱切取。以下欄外補)
愛国者は常に言へり日本には世界無類の日本精神なるものあり外国の真似をするに及ばず
然るに自ら辞を低くし腰を屈して侵略不仁の国と盟約をなす国家の恥辱之より大なるは無し
其原因は種々なるべしと雖も余は畢竟儒教の衰滅したるに因るものと思ふなり
(以上補)
燈刻漫歩。池の端揚出しに夕飯を喫し浅草を過ぎて玉の井に至る。
数年来心やすき家あれば立寄りて景気を問ふに昼すぎの商売は差止めになりたれば今のところさして困りもせず。・・・
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条約締結後の近衛首相のラジオ放送(日時不詳)
「米国は日本が三国同盟を締結して世界新秩序建設に邁進する真意を諒解し、且又新しい世界新秩序建設といふことに米国自身が従来の立場を反省し相携へて協力するといふならば、日独伊三国は喜んで米国とも協力することにならう。
然し、米国がこの三国の立場を理解せず三国同盟を敵対行為として来るならば、三国は敢然之れと戦ふ覚悟はある。」
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西園寺公望は、
興津の坐漁在で三国同盟成立の報を聞き、側近の女たちに
「これで、もうお前たちさえも、畳の上で死ぬことは出来なくなるだろう」
と言ったまま、床の上に終日瞑目して語らなかったという。
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同盟調印約2週間後、連合艦隊司令長官山本五十六は
原田熊雄と食事をしながら、
「自分の考えでは、アメリカと戦争するということは、ほとんど全世界を相手にするつもりにならなければ駄目だ。
要するにソヴィエトと不可侵条約を結んでも、ソヴィエトなどというものは当てになるもんじゃない。
アメリカと戦争しているうちに、その条約約を守ってうしろから出て来ないということを、どうして誰が保証するか。
結局自分は、もうこうなった以上、最善を尽して奮闘する。そうして「長門」の艦上で討死するだろう。
その間に、東京あたりは、三度ぐらいまる焼きにされて、非常なみじめな目に会うだろう
結果において近衛だのなんか、気の毒だけれども、国民から八ツ裂きにされるようなことになりやせんか。」
と語る。
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11月中旬、山本は、支那方面艦隊司令長官嶋田繁太郎宛て手紙で、
「日独伊軍事同盟前後の事情、其後の物動許画の実情を見ると、現政府のやり方はすべて前後不調なり、
今更米国の経済圧迫に驚き、憤慨し困難するなどは、小学生が刺那主義にてうかうかと行動するのにも似たり」
と述べる。
また、「過日ある人の仲介にて近衛公が是非会ひ度との由なりしも、再三辞退せしが余りしつこき故、大臣の諒解を得て二時間ばかり面会せり」とあり、
9月初の及川海相主催の海軍首脳会議で上京の折に、山本は荻外荘を訪問。
日米戦になった場合の海軍の見通しについて質問され、
「初め半年や一年は、ずいぶん暴れて御覧に入れます。しかし二年、三年となっては、全く確信は持てません。三国同盟が出来たのは致し方がないが、かくなった上は、日米戦争の回避に極力御努力を願いたいと思います」
と答える。
近衛は、海軍が三国同盟にあっさり賛成したので、不思議に思い次官に話を聞くと、
物動方面は容易ならず、海軍戦備にも幾多欠陥あり、同盟には政治的に賛成したが、国防上は憂慮すべき状態だということで失望した、海軍は海軍の立場を考えて意見を樹ててもらわねば困る、国内政治問題は首相の自分が善処すべき次第でる、というような話があった。
手紙では、山本は、
「随分人を馬鹿にしたる如き口吻にて不平を言はれたり、是等の言分は近衛公の常習にて驚くに足らず、要するに近衛公や松岡外相等に信頼して海軍が足を土からはなす事は危険千万にて、誠に陛下に対し奉り申訳なき事なりとの感を深く致候、御参考迄」
と書く。
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井上成美の批判
「近衛という人は常に他力本願で、海軍に一と言やれないと言わせれば自分は楽だという考え方なんです。
・・・艦隊将兵四万への気兼ねも捨てて、敢てはっぎり言うべきでした。
事は、国家百年の運命が決するかも知れない場合なんです。
そうでなくても責任感の薄い、優柔不断の近衛公に、半年や一年ならたっぷり暴れて見せるというような曖昧な表現をすれば、素人は判断を誤るんです
総理、あなた三国同盟なんか結んでどうする気か、あなたが心配している通りアメリカと戦争になりますよ、なれば負けですよ、やってくれと頼まれても、自分には戦う自信がありません。
対米戦の戦えない者に聯合艦隊司令長官の資格無しと言われるなら、自分は辞任するから、後任に誰か、自信のある長官をさがしてもらいたいと、強くそう言うべきでした。
・・・あの一点は黒星です。山本さんのために惜しみます。」
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ここで、以下、
この年のこの月(昭和15年9月)の三国同盟を巡る動きをかいつまんで・・・
9月5日
海相吉田善吾中将、辞職。後任は及川古志郎大将、次官は豊田貞次郎中将。
吉田は、ドイツとの軍事同盟締結について、陸海軍事務当局は支持、海軍省首脳は反対で、板ばさみ。ノイローゼで入院静養。
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及川海相は、海軍として三国同盟に対する最終的態度を決定するため海軍首脳会議を招集。
席上、及川海相は、ここで海軍が反対すれば第2次近衛内閣は総辞職の他なく、海軍として内閣崩壊の責任をとる事は到底出来ないので、同盟条約締結に賛成願いたいと述べる
伏見軍令部総長宮以下、各軍事参議官、艦隊・各鎮守府長官の発言はなし。
連合艦隊司令長官山本五十六が、
「昨年八月まで、私が次官を勤めておった当時の企画院の物動計画によれば、その八割は、英米勢力圏内の資材でまかなわれることになっでおりました。
今回三国同盟を結ぶとすれば、必然的にこれを失う筈であるが、その不足を補うために、どういう物動計画の切り替えをやられたか、この点を明確に聞かせていただき、・・・」
と質問するが、及川海相は、この問いに答えず、
「いろいろ御意見もありましょうが、先に申し上げた通りの次第ですから、この際は三国同盟に御賛成ねがいたい」とを繰返す。
この時、先任軍事参議官大角岑生大将が、「私は賛成します」と口火を切り、それで、ばたばたと一同賛成となる。
会議後、山本は及川をとっちめ、及川は、「事情やむを得ないものがあるので、勘弁してくれ」と謝るが、山本は、「勘弁ですむか」と、緊張した場面になったという。
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9月12日
・4相会談。
松岡外相、スターマー特使の案の受諾を主張、及川海相は同意を保留。松岡外相と海軍側との意見調整し、14日、下打合せ。
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スターマーとの間に三国同盟交渉が進み、海軍だけが反対を固執するのは困難で、また海軍の中堅層は三国同盟締結積極的である。
13日、海軍首脳部と松岡とが折衝、付属議定書・交換公文をもうけ、参戦の場合に締約国が自主的に判断できるようにすることなどで一致。
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コロンビア大学歴史学教授モーレイが元駐日ドイツ大使オットから得た証言。
海軍が絶対譲れないとする一線は、条約締結後ドイツ・米国間に戦端が開かれた場合、日本は自動的参戦の義務を負うのかという問題で、米が第2次欧洲大戦に参戦すれば、日本も自動的に対米戦争に突入させられるのは困る、ということ。
「ベルリンからの訓令は、一貫して「自動参戦でなくてはならぬ」というのであったが、松岡が「これを自主参戦に改めなければ海軍がどうしても承服しない。自動参戦の条項を何とかしてくれ」と言って来た。
それでスターマーと相談の上、ベルリンへは電報を打たず、この件は自主参戦でいいのだという、松岡とわれわれの間だけのプロトコールを作って、サインをし、海軍側に提示してもらった」。
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14日下打合せ。
出席者:外相、同次官、陸相、同次官、軍務局長(陸軍)、参謀次長、海相、同次官、軍務局長(海軍)、軍令部次長。
席上、松岡外相が熱弁。
「今や日本は、独伊と結ぶか、独伊を蹴って米英の側に立つか、ハッキリした態度を決めねばならぬ時期に来ている。
平沼内閣の様に曖昧にしてドイツの提案を蹴った場合、ドイツは英国を降し、最悪の場合は欧洲連邦を作り、米国と妥協し、欧洲連邦の植民地には、日本に一指も染めさせねであろう
しかし日独伊同盟を締結すれば、対米関係は悪化し、物資の面では戦争遂行にも国民生活にも非常な困難が来る。
そこで独伊とも米英とも結ぶということも一つの手で、全然不可能とは思わないが、そのためには、支部事変は米国の言う通りに処理し、東亜新秩序などという望みを捨て、少くとも半世紀は米英に頭を下げる心算でなければならぬ。
それで国民は承知するか。十万の英霊は満足出来るか。(米英と結ぶと)前大戦の後でアンナ目に会ったのだから、今度はドンナ目に会うか解らぬ。況や蒋介石は抗日でなく侮日排日が一層強くなる。中プラリンではいかぬ。
即ち米と提携は考えられぬ。残された道は独伊との提携以外になし」(「近衛首相覚書」及び矢部貞治「近衛文麿」下)。
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下打合せの席上、近藤信竹軍令部次長は、
「海軍はアメリカにたいする戦争の準備がないが、来年四月になれば完成する。もし既設艦艇を艤装し、商船二五〇万トンを武装することができれば、アメリカとの速戦即決で勝利を得る見込がある。
しかし速戦即決でなく長期戦ならば困難で、アメリカがどんどん建艦をやり、日本との比率の差がますます大きくなって日本は追いつかない。
そういう意味から言えば、戦争としては今日が一番有利だ」と説明。
及川海相は、「それ以外に道はない、ついては軍備充実につき政府、とくに陸軍当局も考慮してほしい」と述べる。
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のちに近衛首相が豊田貞次郎海軍次官に対し、
これまで三国同盟締結に批判的であった海軍が、及川海相になって態度を改めた事情について尋ねると、
豊田は「海軍は腹の中では三国同盟に反対だが、海軍がこれ以上反対することは政治事情が許さないから賛成する。軍事上の立場からはアメリカを相手として戦う確信はない」と答える。
更に近衛が、海軍としては純軍事的立場から検討してほしいと言うと、
豊田は、「今日となっては海軍の立場も諒承されたい。この上は三国同盟による軍事上の援助義務が発生しないよう、外交上の手段によってこれを防ぐはかない」と答える(近衛文麿の手記「失はれた政治」)。
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9月16日
・臨時閣議、三国同盟案承認。19日、御前会議承認。26日、枢密院本会議、満場一致可決。
臨時閣議後、近衛が参内すると、天皇は前日木戸に言ったのと同機の事を言う。
近衛は、日露戦争直前の御前会義後、明治天皇が伊藤博文を別室に招き、憂慮を示したのに対し、伊藤が「国が敗れようとするばあいには私は爵位勲等を拝辞し、単身戦場におもむいて討死いたす覚悟でございます」と述べた故事を引用し、「及ばずながら私も誠心誠意ご奉公申し上げます」と奉答。
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9月19日
・御前会議、三国同盟案承認。
海軍軍令部総長、①日米開戦を回避、②南方問題は平和的に行う、③有害な排米英言動の取締り、④海軍軍備の強化促進への協力、表明。
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出席者:近衛首相、松岡外相、東條陸相、及川海相、河田蔵相、星野企画院総裁、閑院宮参謀級長、沢田次長、伏見宮軍令部総長、近藤次長、原枢密院議長。
主に軍令部総長・枢密院議長が、国力持続見通しと対策、長期戦に要する石柑資源確保見通し、対米関係・対ソ関係に及ぼす影響、自主的参戦が認められているのか否かなどを質問。
政府の答弁は極めて不満足なもので、国力持続見通しについて、
近衛首相は、
「新事態の発生に伴い、英米との貿易関係がいっそう悪化することが予想され、最悪のはあいには輸入物資の入手が全面的に不可能になることもあろう。わが国の現状では主要な軍需資材を英米にまつことが多く、したがって相当の困難はまぬかれない」
と述べながら、既に生産を拡充し貯蔵に努めているから、消費統制強化と緊要方面への集中使用により切り抜けられると答弁。
石油その他資源確保見通しについても、松岡・東条・星野の答弁は確信のあるものではない。
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枢密院議長原嘉道の質問。
「此条約ノ発表二ヨリ日本ノ態度明白トナラハ
(米国は)極力日本ニ対スル圧迫ヲ強化シ極力蒋ヲ援助シ日本ノ戦争遂行ヲ妨クへク
又独伊ニ対シ宣戦シアラサル米国ハ日本ニ対シテモ宣戦スル事ナク経済圧迫ヲ加フヘク
日本ニ対シ石油、鉄ヲ禁輸シ又日本ヨリ物資ヲ購入セス長期ニ亘リ日本ヲ疲弊戦争ニ堪ヘサルニ至ラシムル如ク計フヘシト考フ。」。
これに対する松岡の回答。
「・・・(米国は)多分日本カ支那ノ全部少クモ半分ヲ放棄スレハ或ハ一時米国卜握手シ得へケンモ将来決シテ対日圧迫ハ巳ムモノニアラス。
・・・今や米国ノ対日感情ハ極端ニ悪化シアリテ僅カノ気嫌取リシテ恢復スルモノニアラス只々我レノ毅然タル態度ノミカ戦争ヲ避クルヲ得へシ」(沢田参謀次長覚書)。
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9月26日
・朝から枢密院審査委員会に三国同盟条約が付議、可決。
夜、枢密院本会議、三国同盟満場一致可決。
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委員会では、同盟締結がアメリカを刺赦し対米関係悪化を憂える声、戦争長期化の場合の資源(特に石油)調達見通しについての質問、ドイツにたいする不信、ドイツの斡旋による日ソ国交調整を疑問とする質問などが出る。
本会議では石井菊次郎顧問官が、
「ドイツはもっとも悪しき同盟国であって、ドイツ国或はその前身たるプロシャ国と結び、同盟によって利益を受けたものの無いことは顕著な事実である
のみならず、これがため不慮の災難を蒙り、ついに社稷を失うに至った国すらある
。ドイツ宰相ビスマルクはかつて、国際同盟には一人の騎馬武者と一匹の驢馬とを要する、そうしてドイツは常に騎馬武者でなければならぬといった。
・・・総統ヒトラーは危険少なからざる人物と考える。マキャベリに私淑し、その君主論を常に座右に備えているという。・・・彼ヒトラーのドイツが永きに及んで日本の誠実な友であると考えることは出来ない」、「
ヒトラーも防共協定があるにもかかわらず、独ソ不可侵条約を結んだことからわかるとおり、条約を一片の紙片とみており、イタリアも同様であるから、この条約の運用には十分注意する必要がある」との意見を表明。
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枢密院審査委員会審議席上、近衛首相は、
「欧洲戦争に参加せずして我が地位を強化する為めに、此の条約を締結せんとす。但し最悪の場合には之に対処すべき覚悟あり」と述べる(深井英五「枢密院重要議事覚書」)。
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枢密院審査委員会審議席上、委員の質問に対する松岡外相の回答。
「(米英と協調するには)支那より手を引き、南進を止むることを覚悟せざるべからず。
国が亡びんとする場合ならばそれも巳むを得ざるべきが、今日支那より手を引き、南進を止むることは可能なりや。
之を不可能とせば、日米戦争は不可避なり。本条約は之を阻止せんとするもの」。
「我が南洋発展の途上日米戦争の危険甚だ大なり。独力にて之を回避することは難し。
故に独逸を我方に引付けて我が地歩を強固ならしめんとするなり。
本条約の結果、日米の感情は一時一層悪化するならん。
然れども日独提携して米に当るは日米戦争を阻止し得ベき可能性を生ずる所以なり」。
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この日朝、近衛は参内拝謁の後、枢密院審査委員会に出席。
激しい質疑応答に疲れていたが、昼食後再びお召しがあり、天皇と庭へ散歩に出た時、天皇は
この条約が出来たら、国民はさぞ難儀をするだろうな」と言う。
それを聞いてた近衛は失神
10日前、松岡外相提案の三国軍事同盟案が臨時閣議で全貞一致承認を見て、経過上奏に近衛が参内すると、
天皇は、「ここまで来たらやむを得ない。総理大臣はこの重大な時機にどこまでも自分と苦楽を共にするか」と確かめた上、沈痛な面持ちで裁可の内意を与える
天皇の再度の憂慮を聞き、近衛は強いショックを受け、脳貧血を起こす。
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2010年9月26日日曜日

京都 北野天満宮 年代ものの絵馬 秀吉の史跡御土居跡

京都の北野天満宮
毎年、お正月の1日か2日には、家族で初詣をしている。
裏口に抜けて、平野神社のふゆざくらを見て、白梅町に達するルートを恒例にしている。
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しかし、今年は、理由は忘れたが、正月には行けないので、昨年末に詣でた。
この時は、千本釈迦堂にも行った(記事はコチラ)
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また、今年の桜の頃にも釈迦堂に行って、その際に、ここ北野天満宮にも立ち寄っている(記事はコチラと・・・、コチラ)。
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今回は、北野天満宮の絵馬と御土居跡をご紹介。
(写真は、昨年の夏、五番町辺りをぶらぶらした際に、北野さんにも立ち寄った時のもの)
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この絵馬は、北野天満宮の休憩所に飾られている。
年代ものが多く、辛うじて見られるものは、今回ご紹介するもの。
なかなかの味わいです。
「元禄・・・」と読めますが・・・?




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さて次は、御土居(おどい)
秀吉は、天正17、18年頃、京都の大改造を進めます。
元の内裏跡に聚楽第を造営し、京都をいわば聚楽第の城下町にしようという構想だったようです。
この時、京都を取り囲む城壁を築くのですが、これが御土居と呼ばれるものです。
私の母親が子供の頃には、市内にはまだ小高い土手がありよくそこで遊んだとのことですが、今はその痕跡も僅かしか残っていません。
しかし、地名には、以前にコチラの記事でご紹介したように少しは残っているようです。
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さて、北野神社内に残されている御土居は、外側に紙屋川という天然の濠を利用しているようで、かなりの高さをもったものであったようです。
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こんなにきれいに整備してあるのに、下には下りられないように柵がある。
何時この柵をあけるのだろう?
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お正月の風景
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2010年9月25日土曜日

大正12年(1923)9月4日~5日 亀戸事件 朝鮮人暴動の背後で糸を引いている者がいるとの新しい流言

大正12年(1923)9月4日
・亀戸事件
南葛労働会の川合義虎・平沢計七ら10人の労働運動家、亀戸警察署で軍隊(習志野騎兵第13連隊員)に虐殺。
9月末、布施辰治・春日庄次郎(出版産業従業員組合)ら10数人と荒川放水路土手を掘返して死体を捜す。
10月10日新聞発表。
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3日夜、南葛労働会本部となっている川合義虎の家から、川合と居合わせた労働者山岸実司・鈴木直一・近藤広造・加藤高寿・北島吉蔵が検束され、同会の吉村光治・佐藤欣治、純労働者組合平沢計七が亀戸署に引き立てられる。
夜~翌日、亀戸署では多数の朝鮮人が殺害されるが、彼等も、拘留されている自警団員らと共に斬殺。亀戸署は家族に対し、釈放したと欺き事件を隠し続ける。
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■「大阪毎日新聞」10月11日
(見出し)
「東京亀戸署が×余名を×殺した事実遂に暴露して発表さる」
(記事)
「大震災の起った際、東京亀戸署に多数労働者殺戮の惨事が強行されたが、絶対に秘密を守ると同時に、警視庁は内務省警保局と打ち合はせ、一切掲載の禁止を命じて許さなかったところ、証拠として消すべからざる事実に対し、秘密は到底保たれ得ペくもあらず、遂に十日警視庁はその事実を発表せざるを得ざるに至った」(「大阪毎日新聞」10月11日)
*
南葛労働組合の属する総同盟と自由法曹団弁護士たちが事件を究明。
検束された夜の亀戸署は静かで暴動の起る気配もなかったこと、平沢らは連行され、裸にされ激しい暴行の上、刺され首を斬られる。
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同日、
・埼玉・千葉両県も戒厳地区に含められる。
4日、警察のトラック5台で護送中の朝鮮人が、埼玉県の本庄・神保原両町の間で群衆に襲撃され21人を除いて皆殺しにされる事件が起る。
夜、船橋送信所長大森良三大尉は流言に脅かされて「SOS援兵たのむ船橋」の電文を送り、これは中国各地でも傍受される。
もっとも兇暴な江東地区の自警団が軍隊に鎮撫され、朝鮮人殺傷が止むのは7日頃。
*
・この日(7月4日)付け「大阪朝日新聞」。
(見出し)
「各地でも警戒されたし 警保局から各所へ無電」
(記事:段落を施す)
「神戸に於ける某無線電信で三日傍受したところによると、内務省警保局では朝鮮総督府、呉、佐世保両鎮守府並に舞鶴要港部司令官宛てに目下東京市内に於ける大混乱状態に附け込み、不逞鮮人の一派は随所に蜂起せんとするの模様あり
中には爆弾を持って市内を密行し、又石油缶を持ち運び混雑に紛れて大建築物に放火せんとするの模様あり。
東京市内に於て極力警戒中であるが各地に於ても厳戒せられたしとあった」
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・午前10時30分、東北線上り開通。
翌5日早朝には下り線も開通。
東北線開通により、北への輸送路が開かれ、関西へは信越線篠ノ井駅から中央線に乗り換えて輸送可能となる。
また、鉄道省は、4日より、一般避難民輸送を無料化する。
9月末迄に200万人を輸送するが、流言を全国に流布させることにもなる。
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この日、
・ウラジオ郊外セダンカで亡命生活の荒畑寒村らに大震災の一報入る。
10月中旬、上海に移動。
*
*
7月5日
・言論統制により、
警官・軍隊・自警団による朝鮮人虐殺の事実を隠し、また、新たな流言を流す事でこれをを正当化する工作
外国政府・内外世論・植民地支配への影響を危惧。
*
5日、各省と戒厳司令部との協議機関の臨時震災救護事務局警備部は、次の事項を事件の真相として宜伝し始める。
「鮮人に対しことさらに大なる迫害を加えたる事実なし」
「朝鮮人、暴行または暴行せんとしたる事実を極力調査し、肯定に努むること」
「海外宣伝は特に赤化日本人及び赤化鮮人が背後に暴行を煽動したる事実ありたることを宣伝するに努むること」。
この決定は、存在しない朝鮮人暴動の背後で社会主義者が糸をひいていたのだ、との新しい流言が生む。
*
この日、
・警視庁、正力官房主事と馬場警務部長名の通牒。
社会主義者の所在を確実につかみ、その動きを監視せよ
*
・この頃から、近藤憲二・福田狂二・浅沼稲次郎・稲村順三・北原竜雄らの社会主義者たちが続々検束される。
総同盟麻生久夫妻は、足尾銅山鉱夫がダイナマイトをもってきて騒擾を起すとのデマの為に赤ん坊づれで収容。
*
・この日、内閣告諭第2号及び関東戒厳司令官(福田雅太郎大将)命第2号。
「内閣告諭第二号 
今次ノ震災ニ乗ジ 一部不逞鮮人ノ妄動アリトシテ鮮人ニ対シ頗ル不快ノ感ヲ抱ク者アリト聞ク 
鮮人ノ所為若シ不穏ニ亙ルニ於テハ速ニ取締ノ軍隊又ハ警察官ニ通告シテ其処置ニ俟ツベキモノナルニ民衆自ラ濫リニ鮮人ニ迫害ラ加フルガ如キコトハ固ヨリ日鮮同化ノ根本主義ニ背戻スルノミナラズ 又諸外国ニ報ゼラレテ決シテ好マシキコトニアラズ 
事ハ今次ノ唐突ニシテ困難ナル事態ニ基因スト認メラルルモ刻下ノ非常ニ当り克ク平素ノ冷静ラ失ハズ慎重前後ノ措置ヲ誤ラズ以テ我国民ノ節制卜平和ノ精神ヲ発揮セムコトハ 本大臣ノ此際特ニ望ム所ニシテ民衆各自ノ切ニ自重ヲ求ムル次第ナリ 
内閣総理大臣伯爵 山本権兵衛」
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「一、自警ノ為団体若クハ個人毎ニ所要ノ警戒方法ヲ執リアルモノハ、予メ最寄警備隊、憲兵又ハ警察官こ届出其指示を受クベシ 
二、戒厳地域内ニ於ケル通行人ニ対スル誰何、検問ハ軍隊、憲兵及警察官二限り之ヲ行アモノトス 
三、軍隊、憲兵又ハ警察官憲ヨリ許可アルニ非ザレバ、地方自警団及一般人民ハ武器又ハ兇器ノ携帯ヲ許サズ」
*
*

昭和16年(1941)7月19日~24日 関特演 「いづれも冬仕度なれば南洋に行くにはあらず蒙古か西伯利亜に送らるゝならん」(荷風「断腸亭日乗」) ルーズベルト、野村大使に石油禁輸の可能性を警告

昭和16年(1941)7月19日
・国民政府、国共調整緊急会議開催
*
・米海軍第1任務部隊、アイスランドに向かうすべての艦船を保護する事となる。
(7月17日、アメリカ軍はアイスランドを占領)
*
・BBC勝利の「V」放送、占領下ヨーロッパにおけるレジスタンスを宣言。
*
・スターリン、国防相就任。 
*
7月21日
・山下奉文中将、満州防衛軍司令官として東京発、牡丹江へ赴任。
高級参謀片倉衷大佐、副長馬奈木敬信少将、参謀総長鈴木宗作中将。
*
・第3次近衛内閣初の大本営政府連絡会議。陸海軍両統帥部が注文をつける。
①7月2日御前会議決定に基づく内外諸施策を速やかに完遂し、特に目下進行中の対仏印進駐を既定方針通り的確に遂行すること。
②発足進行中の対南方及び北方戦備は渋滞遅延を許さず、強力確実に実行すること。
③日米国交調整は既定方針を堅持し、特に三国枢軸精神に背馳しないこと。
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永野軍令部総長の発言。
米ニ対シテハ今ハ戦勝ノ算アルモ、時ヲ追ウテ此ノ公算ハ少ナクナル
明年後半期ハ最早歯カ立チカネル。其後ハ益々悪クナル。
米ハ恐ラク軍備ノ整フ迄ハ問題ヲ引ヅリ、之ヲ整頓スルナラン。
従ツテ時ヲ経レハ帝国ハ不利トナル
戦ハスシテ済メハ之ニコシタ事ハナシ。然シ到底衝突ハ避クへカラストセハ、時ヲ経ルト共ニ不利トナルト云フ事ヲ承知セラレ度。
尚比島ヲ占領スレハ海軍ハ戦争カヤリヤスクナル。
南洋ノ防備ハ大丈夫相当ヤレルト思フ」。
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・文部省、「臣民の道」刊行。戦時下の国民道徳解説。
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・病気のハル長官に代り米国務次官ウェルズ、野村大使代理の若杉公使に、
「情報によれば日本は最近仏印を占領する模様であるが、かくては従来の会談は無用となる」
と警告。
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・ドイツ空軍、モスクワ初空襲。
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・フランス、ヴィシー政府ダルラン副総理、加藤外松駐仏大使に対し日本軍の南部仏印進駐承認要求を受諾。日仏議定書が成立。
23日、細目協定成立。
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7月23日
・野村大使から豊田外相宛ての電報。
「当方面の対日空気急変の原因は南進にあり。しかして南進はやがてシソガポール・蘭印に進む第一歩なりと認むるにあり」と伝える(野村吉三郎「米国に使して」)。
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・休養中のハル、電話でウェルズ次官に、日米交渉の中止を日本に伝えるよう命じる。
日本広東総領事の現地陸軍から出た、進駐に関する14日付本省宛電報が、19日「マジック」により解読され、新内閣の方針に変化なしと判断。
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・米国務次官ウェルズ、野村大使とも会談、重大申入れ。
「従来米国は能ふ限りの忍耐を以て日本と会談して来たが、今となつては最早会談の基調は失はれるに至った」(近衛著)。
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・野村駐米大使、本国へ「至急新内閣の対米方針を御内示相成度」と請訓。
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・ルーズベルト大統領、中国空軍再建への援助を承認。 
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7月24日
・「七月廿四日。・・・下谷外神田辺の民家には昨今出征兵士宿泊す。
いづれも冬仕度なれば南洋に行くにはあらず蒙古か西伯利亜に送らるゝならんと云
三十代の者のみにして其中には一度戦地へ送られ帰還後除隊せられたるものもありと云ふ。
市中は物資食糧の欠乏甚しき折からこの度多数の召集に人心頗恟々たるが如し。」(荷風「断腸亭日乗」改行を施す)。
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この頃、尾崎秀実は、三井の船舶部次長織田信太郎から、この頃の部隊移動の情報を入手し、これをゾルゲに伝える。
織田の情報:
「わたしたちの聞いているところでは、北よりも南に向かっている部隊の方が多いということです」
「北へ二十五万、南へ三十五万が送られて、内地に四十万が残っています」。
また、宮城は、満州へ移動する部隊の大半は未経験の兵士と予備兵で構成されており、ソ連と本気で戦うとしたら殆ど役立ちそうにない、とゾルゲに伝える。
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■「関特演」の緊急召集の実態と規模
海軍次官沢本頼雄中将の日記。
7月5日に参謀本部要貞と懇談し、陸軍側の方針を聞く。
「7-13動員、7-20運輸始、8月中旬終了、兵数は現在の三〇万より七〇~八〇万となり、徴用船九〇万頓を要す(十六師団体制)、・・・対蘇戦決意せば更に8D(*師団)を増し、在満一〇〇万兵となる(24D体制)」
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「関特演」は、演習・対ソ連示威行動ではなく、第一軍装(一装)を支給した戦うための動員。
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瀬島龍三の戦後の証言、「北方戦備」(未刊行)には、ソビエト軍に対する武力行使の場合の作戦構想が明確に書かれている。
「武力行使は、極東ソ連軍の戦力半減し、在満鮮十六箇師団(新に増派せる二師団を加えた)を以て攻勢の初動を切り、後続四箇師団を逐次加入し、約二十師団基幹を以て第一年度の作戦を遂行し得る場合であること。但し大本営としては総予備として更に約五箇師団を準備し、之を満洲に推進する如く腹案す」
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結果的には、予想に反して、ソ連がヨーロッパ戦線に相当する強力な新兵力でソ満国境を固めたため、武力行使の第一要件たる「極東ソ連軍の半減」が成立せず、陸軍は積極攻勢を断念。
しかも、南仏印進駐によりアメリカが強硬政策を採用し、北進方針は崩壊する。
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・この日着の野村駐米大使の電報。
米国では、従来の日米会談は東京側に「トピードー」(破壌)されるであろう、
また日本は、同盟国に対して、日米国交調整の試みは南進準備完了迄の謀略と説明している、との説が支配的となっている。(近衛書)
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この日午前
・ルーズベルト大統領は、義勇協力委員会の人々を引見した際、もし米国が対日石油輸出禁止をしていたならば、すでに日本は蘭印を占領し戦争となっていただろうと演説。*
午後の閣議、
・ルーズベルト大統領は、無制限国家非常事態宣言に基づき在米日本資産凍結を決定(26日発効
英・蘭印もこれに続き、前年締結された日蘭民間石油協定は破棄)。
但し、米政府は、これによって日米貿易を許可制の下におくとするが、直ちに全面禁輸を意図したのではなく、大統領は「資産凍結が全面禁輸をもたらさないことを、国務および海軍省の官僚に再度確約した」という(日本政府の出方を見守ることとする)。
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・米国のラジオニュース放送、日本の軍艦がカムラン湾沖に現れ、日本軍輸送船が海南島から南下しつつあると報道。
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この日、
・ルーズベルト大統領、野村吉三郎駐米大使に南部仏印進駐の中止を勧告。仏印中立化を提案。
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ルーズヴェルトは、
仏印進駐中止及び撤兵を前提とし、各国(日米英蘭支)が仏印中立を共同保障し、自由・公平に仏印物資を入手する「仏印中立化」提案を行なう。
また同時に、
日本軍が南部仏印に進駐すれば、米国国内の対日石油禁輸輿論を宥和することは国難になるであろうと述べる。
日本がもし軍事拠点確保の実力行動を続行すれば、アメリカは対抗措置をとらざるを得ないとの警告。日本はこれを無視し28日上陸開始
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同日付豊田宛野村電。
「従来輿論ハ日本ニ対シ石油ヲ禁輸スベシト強ク主張セシニ拘ラズ、自分ハ之ヲ太平洋平和維持ノ為ニ不可ナリト言ウテ説得シ来リシガ、今ヤ其ノ論拠ヲ失ウニ至レリ、ト述べテ石油ノ禁輸アルベキヲ仄カシ
・・・今ハ既ニ時期遅レタルノ感アリ、事前国務省卜打合セヲ為セシニ非ザルガト前置キシ、
若シ夫レ仏印ヨリ撤兵セラレ、各国其ノ中立(瑞西ノ如ク)ヲ保障シ、各国自由ニ公平ニ仏印ノ物資ヲ入手シ得ルガ如キ方法アリトセバ、自分ハ尽力ヲ惜マズト語り、且日本ノ物資入手ニハ自分モ極メテ同情ヲ持ツ」と述べる。
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同席のウェルズ国務次官記述。
大統領は、
米英側は仏印に脅威を与えていないのだから、日本の仏印進駐はそこを基地として更なる南進を意図したものと考えるほかない、
もし日本が石油獲得のために英蘭と戦争すれば、英国援助を国是とす米国にとっても重大な事態とならざるを得ない
と警告。
しかし仏印が中立化されれば、現地政府がドゴール政権化しないことを保証すると言う。
また日本の政策はドイツの圧力によるものであろうが(米側の思いこみで、野村も強く否定)、日本政府は理解していないが、ナチスは世界征服を意図しており、将来日本と米国の海軍は共同してヒトラーと戦わねばならなくなるとさえ述べる。
野村は中立化提案に心を打たれた様子だったが、日本側には面子の問題があり、真に偉大な政治家でなければ政策の転換をなし得ないだろうが、ただちに本国に報告すると述べる
辞去する野村に楽観的な気配は感ぜられなかったという。
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東京 北の丸公園 彼岸花(曼珠沙華)

昨日(9月24日)昼休み、北の丸公園に彼岸花を探しに行きました。
現在のところ、群生しては咲いていませんが、10ヶ所くらいにぽつりぽつりと咲いています。
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ただ・・・、
この日の天候(曇り、時々雨)のせいか、
または、前夜の激しい雨(かなりの落葉が見られる)のせいか、
そして多分に、こ年の異常気象のせいだろうと思われますが、少なくとも昨日の状況は、下の写真のように精彩に欠く状態です。
来週以降も見てゆきます。









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9月29日に桜田濠(桜田門から半蔵門まで)の彼岸花を見に行きました。
白花がきれいに咲いています。ご参考まで(コチラにどうぞ)
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「★東京インデックス」  「★四季のうつろいインデックス」をご参照下さい
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2010年9月23日木曜日

東京 江戸城 特別展「皇室の文庫」 龍馬自筆「薩長同盟裏書」 「五箇条御誓文」 彼岸花(曼珠沙華)はまだ 中秋の名月二景

昨日(9月22日)、江戸城三の丸尚蔵館で開催中の特別展「皇室の文庫(ふみくら)」に行ってきた。
つい先日、朝日新聞でも紹介されたせいか、かなりの混みようでした。
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坂本龍馬が桂小五郎の求めに応じて「薩長同盟」の6ヶ条を保証するために書いた自筆の裏書きが展示されている。
また、五箇条御誓文(副本の原本)も展示されている。
現存する写本のなかでは最も保存状態がよいとされる「玉葉」も。



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「同心番所」近くに彼岸花がひっそりと・・・
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白鳥濠の畔にある彼岸花
もうすこし先です
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同じく、ススキも、まだです
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左側の城壁に沿って白鳥濠がある
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汐見坂から白鳥濠を見る
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この日、中秋の名月
東京、竹橋から気象庁ビルの上あたりの月をみる
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帰宅途上でみた月
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2010年9月22日水曜日

データ改ざんがバレてホッとした検察幹部 「天祐、琴光喜が現わる」

そもそもこの裁判では、検察側の証拠が一つとして採用されなかった。
この事を深刻に反省しないと、この国は闇黒から脱することができない。
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しかし、検察は、反省する氣などさらさらなかった。
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ここに来て急に、天祐の如く、「琴光喜」が現れた。
ホントに急に。
まあいい、兎に角・・・
これさえ切れば、「みそぎ」は終わる。
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急いで、「事件の構図」を作れ。
そして、早く、マスコミにリークしろ。
いいか、「琴光喜」一人が悪いんだゾ。
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エッ!
悪役は、前田じゃなくて国井だったんでは。
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「琴光喜」は国井の上司だ、「琴光喜」が国井を指導したんだ。
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いいか、
急いで、「事件の構図」を作れ。
そして、早く、マスコミにリークしろ。
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2010年9月19日日曜日

東京 北の丸公園 秋の気配を探して 池の畔のススキ ムクロジ エゴノキ クロガネモチ コムラサキ ナンテン ボケ サルビアにアゲハ舞う

先週金曜日(9月17日)、久しぶりに北の丸公園内を軽く一周しました。
お昼頃、気温は30℃くらいでしょう。
それでも、着々と秋が近づく気配がします。
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池の畔のススキ
(未だし)
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鈴なりのムクロジ
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エゴノキ
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クロガネモチ
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コムラサキ
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ナンテン
(色付きは未だし)
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ボケ
(殆ど終り)
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サルビアにアゲハ舞う
花はまだまだこれから。
ここのサルビアは見事ですよ。
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武道館の催し
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これは多分、アニメソングの催しだろう
上の一番左の方だけ、だいたい判る。
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