報国寺。
建武元年(1334)創建の臨済宗建長寺派のお寺。
庭園と竹林が立派です(但し有料)。
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報国寺より少し南へ行くと旧華頂宮邸があります。現在は鎌倉市が買収して管理しているそうです。一般公開をしているように書いてありましたが、当日は何故かお休み。
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「歴史的建造物インデックス」をご参照下さい。
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「★鎌倉インデックス」をご参照下さい。
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2009年5月29日金曜日
秩父困民党蜂起までの官憲側の動き
明治17(1884)年11月1日(風布村では前日)の秩父困民党蜂起までの官憲側の動きを以下に纏めました。
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1.官憲側の登場人物
①埼玉県警察本署(県警本部、浦和)警部警部鎌田冲太(39、鹿児島県士族):
戊辰戦争では鳥羽伏見の戦から参加した歴戦の勇士。幕府軍を追撃し大阪に進撃。東征では吉田県令と同じ北陸道先鋒に加わり、越後鶴ヶ岡の激戦で敵弾を受けて後送。その後、薩摩藩から年禄8石を受けて療養。
明治2年3月、砲隊伍長として軍に復帰、藩主島津忠義に従って上京、徴兵隊に加わる。
4年12月、埼玉県勤務となり主に警察事務に従い、一時埼玉裁判所検事局の逮部課に勤務して犯人の逮捕取調に当る。
8年10月、警部・巡査制度発足と共に4等警部に任ぜられ、17年の秩父事件発生当時は警察本署(県警本部)警視部長兼国事担当、警部長(警察本部長)に次ぐ県警ナンバーツー。
事件発生前より、秩父地方不穏が地元警察から報告されると、自ら現地に乗り込み情報収集にあたる。
事件後の19年8月、秩父郡長に栄進。
明治42年、「秩父暴動実記」を執筆。体験をもとに、各種報告書・訊問調書などによって記述し、官側動き、暴徒側の内幕も伝える事件の一級史料となる。
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②寄居警察署長石井暢三警部(39、山口県士族)
③大宮郷警察署長斉藤勤吉警部(埼玉県出身)
④本野上分署長雨宮警部補
⑤熊谷警察署長山室警部(30、宮崎県士族)
⑥松山警察署長吉峰警部(35、鹿児島県士族)
⑦小川分署長深滝警部補(29、新潟県)
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2.密告
警察は、秩父での困民党の動きを察知しており、この年明治17年春以降、秩父郡の大官郷警察署長、本野上・小鹿野の各警察分署長は、警部長に対し、貧民間に不穏の兆候ありと報告し、警察本署(県警本部)では、国事担当鎌田警部が幾度も秩父に出張して内偵。
大官郷・本野上・小鹿野の各警察署(分署)の定員は49名(欠員10名)。
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鎌田警部の説明。
「十七年春以来、秩父郡内は不穏ノ兆候アルニヨリ、鎌田ハ特ニ県令初メ警部長ノ命ニ依り、不知按検(フチアンケン)トシテ十幾回秩父ニ往返セシヤ、殊ニ其七、八月頃ノ如キハ警部長ニ従ヒテ七十名ノ巡査ヲ率ヒ、秩父諸所ノ集会ヲ駆逐セシ事アリシ、就中微行シテ入秩セシ時ノ如キハ、秩父三署員ノ知リ得ザリシ事モアルベシ、而シテ暴徒中ニハ■(ヨシミ)ヲ送リ、信ヲ通ズルモノ数名アリ」(鎌田冲太「秩父暴動実記」)
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戸長の働き(密告、説諭)
(例)野巻村戸長の富田佐平次の行動。「暴発以前ヨリ彼等ノ挙動ヲ傍観シ、心窃(ヒソ)カニ憂慮アルヨリ、村人等ニ対シ彼等ニ接近スベカラザル主旨ヲ説明シツ、アルニ、彼等ノ多勢ガ簑山其他ニ密会セシヲ知ルヤ、之ヲ其筋ニ急報セシノミナラズ、大野原・黒谷ノ両村人一同ガ其役場ニ会合セシ時モ、其村吏卜共ニ、無稽ノ動作ナカルベキ主旨ヲ講演セシコトアリキ」(鎌田冲太「秩父暴動実記」)
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10月、困民党の高利貸交渉が活発になり、警察署は「臨時ノ視察」に多忙となる。
しかし、10月14日、秩父郡横瀬村の集団強盗2件、翌15日の男衾郡西ノ入村の同一手口の強盗事件は、困民党の資金獲得作戦と判断されていない。
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10月26日
秩父郡下日野沢村と付近に潜行中の本野上分署巡査宮川貞吉は、探偵復命書によって分署長に対し困民党蜂起の近い動きがあるとかなり正確に報告。
「貧民モ一時ハ帰宅シ農業ヲ営ミヲルト雖モ、又聞クトコロニヨレバ、教唆者ノ如キハ処々ニ相会シ、談合中ナル趣、/右党員ノ頭分トカ申ス者ハ、本月廿四日飯田村字岩戸沢(岩殿沢)へ相会シ、而シテ本月廿七日ハ多ク石間村城峯へ相会スル趣キ、而シテ其末ハ薄村、両神山へ相会スレバ、最早、会議モ事ヲ決スル哉ノ趣キ聞込候事」。
但し、この時点では、まだ田代栄助ら首謀者の名は挙がっていない。
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10月27日
浦和の警察本署(県警本部)探偵掛の野沢弥太郎巡査宛てに、秩父郡下小鹿野村の小鹿神社神官泉田某より手紙が至急便で届く。
同巡査は秩父へ出張中なので、国事担当鎌田警部が開封すると、
「明廿八日ニハ人民ヲ集メ、貸金渡世ノ者へ示談ヲ為シ、之ヲ肯ンゼザレバ其主タル者ヲ害シ、次デ戸長役場ニ乱入シ、奥印簿ヲ焼棄シ、若シ警察官主魁者ヲ捕へタルトキハ、合薬ヲ以テ其署ヲ破り、留置人ヲ救ヒ出シ、之卜一同シ、国税ヲ除クノ外諸税及ビ学校ヲ廃スル等ノ事ヲ本県庁ニ強願スル事ニ議決シ、今其準備中ナリ」とある。
鎌田警部から報告を受けた江夏警部長は、「直ニ出張、至当ノ処分ヲナスベシ」と命じる。
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鎌田警部は田代常太郎巡査を伴い、中山道鉄道(高崎線)で浦和から熊谷へ向う。車中で偶然東京からの帰途にある伊藤秩父郡長に会ったので、寄居警察署長石井警部・本野上分署長雨宮警部補・大宮郷警察署長斉藤警部に対し「今夜小鹿野へ微行集合スベシ」の伝言を依頼。
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■(小鹿野)
その後、鎌田警部は、本庄警察署と八幡山分署に立寄り、夜半小鹿野町に入り、密告者の泉田を町の旅館に招じ、各署長同席のうえ、困民党の動きを聞く。
密告者は田代栄助と接触し、困民党への同盟を申入れ、田代から10月28日蜂起の日時・場所などを聞きだしたという。警察は、この時初めて、困民党主謀者が、大宮郷の田代栄助や男衾郡西ノ入村の新井周三郎であることを知る。
情勢分析の会議は朝4時まで続くが、鎌田警部や各署長は、この情報の判断評価に迷い、直ちに関係署に指令して、陰謀首魁とみられるこの2名の動静を探らせると、いずれも「所在知レズ」とのこと。よって、困民党は密かに蜂起準備中ではないかと憂慮するが、翌28日朝にはその兆候は現れず。
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密告者泉田某は前年11月、野天賭博の現場を襲われ逮捕されるが、その後脱走し、禁固3ヶ月・罰金30円の刑を受けている。恐らくその時警官との腐れ縁ができたと思われる。
密告の内容は、
「鎌田警部致ストコロノ小鹿野神社祠官泉(某)ノ十月廿六日夜小鹿野町旅舎ニオイテ石井警部以下五名ノ警部、警部補ノ面前ニ在テ密告スルヲ雨宮警部ノ傍聴セル筆記ノ写書
十月十七日 (某)、田代栄助宅へ往キ自由党へ加盟ヲ請ヒ、他ニ同盟者ノアルヲ告グ。栄助曰ク一時故アリテ解散セシメタリ。而シテ金策ノ方法ヲ立テ貧民党へ檄文ヲ発スルノ計画ナリト云フ
十月二十一日 栄助、(某)ノ宅へ来り告ゲテ曰ク、貧民党ハ来ル二十六日小魁タル者集会シ、二十八日一般ニ嘯集スルノ目的ナリ。・・・」(鎌田冲太警部復命書)。
石間の山中に集まるのは一六ヵ村の総代で、貧民党の幹部から借金の四ヵ年据置・四〇ヵ年賦返済を高利貸に強請し、承認しなければ爆裂弾で放火し、戸長役場に乱入して奥書簿を焼きすて、警察を襲撃して浦和の県庁まで押出す計画である。」というもの。
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この密告者の小鹿野神官神官泉田某の子の泉田蔀は兵糧方として蜂起に参加している。
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3.警察署長の小鹿野会議
この日(28日)、各署長は自ら探索することになり、大宮郷警察署長斉藤警部は姻火製造場を、寄居警察署長石井警部は石間村と下吉田村を担当し、本野上分署長雨宮警部補は群馬県側との情報交換の為、鬼石巡査派出所に赴く。
この日、彼らが見たものは、麦播きを急ぐ農民で、少し気になるのはしきりに「今般自由党総理板垣退助世直シノ軍ヲ起ス」との噂であった。15日夜の西ノ入村での集団強盗事件について、その後の捜査で、一味が「軍用金ヲ募ルニヨリ徴収スル所ノ粗税金ヲ悉皆出スベシ」と言い、犯人5人の人相書の中に田代栄助に似た者がおり(実際には田代は加っていない)、一味らしい者が前夜新井周三郎宅に泊ったことを突きとめ、これは困民党と関連があるらしいことがわかっている。
この日、鎌田警部と石井・斉藤両警部は協議し、「今ヤ麦播き最中ナレバ、近日集合スベキ景況ナシ、此後ハ巨魁二名ノ所在ヲ探知シテ逮捕スルノ外好手段ナシ」との結論に達し、鎌田警部は「若シ事急ニ出ズルトキハ、一ハ熊谷・本庄両署ノ所轄署へ応援ヲ請ヒ、一ハ警部長ニ報知スル事」を各署長に指示し、浦和への帰途、途中の各署にこの旨を伝えることになる。
この時点で26日の困民党「粟野山会議の決定(11月1日蜂起)」は、警察側には漏れていない。
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10月29日
鎌田警部は小鹿野町から八幡山町に向い、途中で鬼石町から戻る雨宮警部補と行きあい、「彼ノ地ノ景況ヲ聞キ」、申し合せ事項を伝え、八幡山分署に立ち寄り、この夜は同郷の浜田分署長と懇談して同所に宿泊。
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10月30日
鎌田警部は本庄・深谷の各署に立ち寄り、秩父の情勢を伝え、浦和の県庁に帰り、巡査数名を秩父に派遣。
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10月31日
地方官会議のため東京へ出張中の吉田県令を除く、笹田書記官・江夏警部長・鎌田警部ら県首脳は行田町に出張し、翌1日栃木県佐野町から埼玉県に入り、行田~鴻巣のコースで帰京する三条太政大臣一行警護の為、沿道に多数の警官を配置。
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4.風布村蜂起の第1報
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■(寄居)
10月29日
「小鹿野会議」から帰った寄居警察署長石井警部は、各方面に巡査を派遣して農民の動静探索に当らせる。
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10月30日夜
風布村をはじめ近村の困民党加盟者が蜂起に向って動き始め、火薬を買い集めているとの報告を受ける。
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10月31日早朝
石井署長は、急使を派遣し松山警察署と小川警察分署に応援を要請、更に情報確認の為に巡査を風布村に派遣。
風布村から井戸村への道路に「暴徒凡ソ二百名、兵器ヲ携へ屯集」との報告があり、石井署長は、困民党の本格的蜂起と判断し、午後2時5分、浦和の警察本署(県警本部)に電報でこれを報告。電報は、まず電文を熊谷警察署に持参し、熊谷から打電しなければならず、この急報を受けた熊谷警察署長山室警部は、これを浦和の警察本署(県警本部)に電報し、三条警護のため行田町に出張中の警部長には報告の特使を派遣し、自ら巡査2名を率い寄居に向う。
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「十月三十一日午後二時五分寄居警察署ヨリ本県警察本署へ電報アリ、英文意ニ曰ク秩父郡風布村金尾村ノ困民等飛道具ヲ携へ小鹿野地方へ暴発スルノ景況ナリ。因テ速ニ警部巡査派出アレトアリ」(「「秩父暴動始末」に収められた秩父事件の第1報)。
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寄居警察署長石井警部は、風布村を所轄する本野上分署にこれを伝える為、自ら同署に向うが、分署長雨宮警部補は、大宮郷警察署に出向いていて不在。
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■(大宮郷)
本野上分署長雨宮警部補も、29日夜、風布村の不穏の動きを察知し、巡査を派遣して探索させると、30日午後11時、風布村とその近村は、11月1日に下吉田村の椋神社に集合する為の動きを始めているとの報告を受ける。
31日午前5時、雨宮警部補は、指揮を受ける為に本野上分署を出発し大宮郷警察署に向う。雨宮警部補は、大宮郷警察署長斉藤警部と風布村の暴徒鎮圧策を協議し、大宮郷警察署と本野上分署の警官隊は井戸村の通路を遮断し、寄居警察署の警官隊は金尾口を進撃して暴徒を撃破するとの計画をたてる。そして雨宮警部補が、寄居警察署に対して、これを伝えることになる。
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■(寄居)
一方、本野上分署に赴いた寄居署長石井警部は、風布に向かう自署の巡査7~8名に行きあい、「風布村ノ賊大勢ナルニ僅々少数ノ人員ヲ以テ当ルハ得策ニ非ズ、・・・五、六十名ノ巡査ノ来会スルヲ待テ進撃スルニ若カズ」と押し止め、一旦寄居警察署に戻る。
更に寄居に戻る途中、松山警察署長吉峰警部と小川警察署長深滝警部補率いる巡査17名にも会い、これに対しても「衆寡敵セズ」と説明し、共に寄居に引き返す。
その直後、本野上分署長雨宮警部補が来て、大宮郷警察署長と打合せた風布村の暴徒鎮圧計画を伝え、明1日払暁進撃を決める。
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寄居に戻った石井署長は、午後6時、江夏警部長への報告の為、風布村偵察の際、銃撃を受けた巡査に報告書を持たせて行田に向わせ、本庄・八幡山両署に巡査の応援を求める使いを出す。
午後7時、本野上分署から「暴徒本野上分署ヲ襲撃スルノ形勢アリ」の報告があり、応援のため小川分署長深滝警部補は巡査5名を率い本野上村に向う。
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午後6時の江夏警部長への報告。
「秩父郡村民等各兵器ヲ携へ嘯合スル実況ヲ知ラント欲シ巡査ヲ派遣シ視察セシムルニ風布村山中ニアリテ各自銃砲或ハ刀剣ヲ携へ白布ノ鉢巻ヲナシ同ジク襷ヲ掛ケ、几ソ八九十名屯集シ該巡査ニ向ヒ発砲セリ。為メニ退キ松山小川ノ両署ニ巡査ヲ要求セシニ警部某等巡査十名ヲ率ヒスデニ派出スルニ会シ是ヨリ大宮郷、本野上ノ両署卜協議シ所措セントス。」
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5.大宮郷警察署出動
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■(皆野)
大宮郷警察署長斉藤勤吉警部は、31日午前11時、本野上分署長雨宮警部補の来訪により「風布村不隠」を知ると、「集合ノ人民ニ対シ警察ノ精神ヲ傾注シ、静謐ヲ害スルコトナカレト説諭シ」解散させるべく、午後1時、警察署に巡査3名を残し、大宮郷警察署詰坪山需警部補と巡査10名を率い大宮郷を出発、皆野に向う。
皆野で巡査2名を斥候に出して情勢を窺うと、井戸村より風布村に至る路上に、白鉢巻・白襷の農民多数がいることが判明。
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本野上分署長雨宮警部補が、午後6時までに自署の巡査を率いて皆野村に来ることになっているが、それが遅れていたので、斉藤署長はそれを待たずに井戸村に向う。
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約半里(2km)進んで、下田野村の荒川河畔オンダシの河原に差し掛かると、白鉢巻・白襷の約20名(風布村を先発した大野福次郎指揮隊、7名が鳥銃、他は刀槍で武装)と遭遇。警官隊は包囲するように近付くが、農民隊はこれが警官隊であるとは知らず。誰何され、「大宮郷ノ警官ナリ」と答えると、農民隊の幾人かは逃亡、残った大野福次郎ら12名は、駆り出しに応じた、「警官ノ保護ヲ請フ」と弁明。
警官隊は農民隊を武装解除し、皆野村戸長役場に連行、捕縄を施され、巡査3名と臨時雇いの人夫15人に看守される。
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「皆野村派出ノ斎藤警部坪山警部補ハ巡査七八名ヲ率ヒ該村ヲ発シ井戸村二重ル途中薄暮ニ及ヒ暴徒十七八名各銃器其他刀剣竹槍等ヲ携へ出ツルニ会シ訊問数時ニシテ終ニ其携帯セル兇券ヲ脱セシム。因テ之ヲ収メ暴徒ヲ皆野村へ拘引訊問スルニ至ルトナリ・・・」(寄居警察署から県警本部へ電報)。
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この時、本野上分署長雨宮警部補が、巡査5名を率いて到着。両署長は情勢を検討し、風布村の武装農民は全部出撃していると判断し、両隊合同で困民党の集合場所とみられる下吉田村に向うが、途中で新井周三郎隊による金崎村永保社の被害を聞き、巡査1名を下吉田方面の斥候に出し、主力は金崎村に引返す。
永保社は「暴行名状ス可ラズ」までに破壊され、隣の山田戸長の家も「見ルニ堪へザル」ほど荒されている。
斉藤警部は、情勢の緊迫を感じ、一旦皆野村に引揚げ、下田野村で逮捕した大野福次郎ら12名を、熊谷監獄支署へ護送させる。
(福次郎は12月9日の予審終結後にようやく供述を始める)
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午後10時、県警鎌田警部が、三条太政大臣警護の出張の行田より急遽寄居警察署到着。
深夜、県警本部長江夏警部長が、行田で報告を聞き直ちに寄居に向う。
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(11月1日、吉峰・斉藤両警部は、永保社襲撃の新井周三郎隊を追尾し、阿熊で手痛い目にあうことになる)
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地図上のポイントする地点は困民党蜂起旗揚げの椋神社のある下吉田村。
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1.官憲側の登場人物
①埼玉県警察本署(県警本部、浦和)警部警部鎌田冲太(39、鹿児島県士族):
戊辰戦争では鳥羽伏見の戦から参加した歴戦の勇士。幕府軍を追撃し大阪に進撃。東征では吉田県令と同じ北陸道先鋒に加わり、越後鶴ヶ岡の激戦で敵弾を受けて後送。その後、薩摩藩から年禄8石を受けて療養。
明治2年3月、砲隊伍長として軍に復帰、藩主島津忠義に従って上京、徴兵隊に加わる。
4年12月、埼玉県勤務となり主に警察事務に従い、一時埼玉裁判所検事局の逮部課に勤務して犯人の逮捕取調に当る。
8年10月、警部・巡査制度発足と共に4等警部に任ぜられ、17年の秩父事件発生当時は警察本署(県警本部)警視部長兼国事担当、警部長(警察本部長)に次ぐ県警ナンバーツー。
事件発生前より、秩父地方不穏が地元警察から報告されると、自ら現地に乗り込み情報収集にあたる。
事件後の19年8月、秩父郡長に栄進。
明治42年、「秩父暴動実記」を執筆。体験をもとに、各種報告書・訊問調書などによって記述し、官側動き、暴徒側の内幕も伝える事件の一級史料となる。
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②寄居警察署長石井暢三警部(39、山口県士族)
③大宮郷警察署長斉藤勤吉警部(埼玉県出身)
④本野上分署長雨宮警部補
⑤熊谷警察署長山室警部(30、宮崎県士族)
⑥松山警察署長吉峰警部(35、鹿児島県士族)
⑦小川分署長深滝警部補(29、新潟県)
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2.密告
警察は、秩父での困民党の動きを察知しており、この年明治17年春以降、秩父郡の大官郷警察署長、本野上・小鹿野の各警察分署長は、警部長に対し、貧民間に不穏の兆候ありと報告し、警察本署(県警本部)では、国事担当鎌田警部が幾度も秩父に出張して内偵。
大官郷・本野上・小鹿野の各警察署(分署)の定員は49名(欠員10名)。
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鎌田警部の説明。
「十七年春以来、秩父郡内は不穏ノ兆候アルニヨリ、鎌田ハ特ニ県令初メ警部長ノ命ニ依り、不知按検(フチアンケン)トシテ十幾回秩父ニ往返セシヤ、殊ニ其七、八月頃ノ如キハ警部長ニ従ヒテ七十名ノ巡査ヲ率ヒ、秩父諸所ノ集会ヲ駆逐セシ事アリシ、就中微行シテ入秩セシ時ノ如キハ、秩父三署員ノ知リ得ザリシ事モアルベシ、而シテ暴徒中ニハ■(ヨシミ)ヲ送リ、信ヲ通ズルモノ数名アリ」(鎌田冲太「秩父暴動実記」)
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戸長の働き(密告、説諭)
(例)野巻村戸長の富田佐平次の行動。「暴発以前ヨリ彼等ノ挙動ヲ傍観シ、心窃(ヒソ)カニ憂慮アルヨリ、村人等ニ対シ彼等ニ接近スベカラザル主旨ヲ説明シツ、アルニ、彼等ノ多勢ガ簑山其他ニ密会セシヲ知ルヤ、之ヲ其筋ニ急報セシノミナラズ、大野原・黒谷ノ両村人一同ガ其役場ニ会合セシ時モ、其村吏卜共ニ、無稽ノ動作ナカルベキ主旨ヲ講演セシコトアリキ」(鎌田冲太「秩父暴動実記」)
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10月、困民党の高利貸交渉が活発になり、警察署は「臨時ノ視察」に多忙となる。
しかし、10月14日、秩父郡横瀬村の集団強盗2件、翌15日の男衾郡西ノ入村の同一手口の強盗事件は、困民党の資金獲得作戦と判断されていない。
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10月26日
秩父郡下日野沢村と付近に潜行中の本野上分署巡査宮川貞吉は、探偵復命書によって分署長に対し困民党蜂起の近い動きがあるとかなり正確に報告。
「貧民モ一時ハ帰宅シ農業ヲ営ミヲルト雖モ、又聞クトコロニヨレバ、教唆者ノ如キハ処々ニ相会シ、談合中ナル趣、/右党員ノ頭分トカ申ス者ハ、本月廿四日飯田村字岩戸沢(岩殿沢)へ相会シ、而シテ本月廿七日ハ多ク石間村城峯へ相会スル趣キ、而シテ其末ハ薄村、両神山へ相会スレバ、最早、会議モ事ヲ決スル哉ノ趣キ聞込候事」。
但し、この時点では、まだ田代栄助ら首謀者の名は挙がっていない。
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10月27日
浦和の警察本署(県警本部)探偵掛の野沢弥太郎巡査宛てに、秩父郡下小鹿野村の小鹿神社神官泉田某より手紙が至急便で届く。
同巡査は秩父へ出張中なので、国事担当鎌田警部が開封すると、
「明廿八日ニハ人民ヲ集メ、貸金渡世ノ者へ示談ヲ為シ、之ヲ肯ンゼザレバ其主タル者ヲ害シ、次デ戸長役場ニ乱入シ、奥印簿ヲ焼棄シ、若シ警察官主魁者ヲ捕へタルトキハ、合薬ヲ以テ其署ヲ破り、留置人ヲ救ヒ出シ、之卜一同シ、国税ヲ除クノ外諸税及ビ学校ヲ廃スル等ノ事ヲ本県庁ニ強願スル事ニ議決シ、今其準備中ナリ」とある。
鎌田警部から報告を受けた江夏警部長は、「直ニ出張、至当ノ処分ヲナスベシ」と命じる。
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鎌田警部は田代常太郎巡査を伴い、中山道鉄道(高崎線)で浦和から熊谷へ向う。車中で偶然東京からの帰途にある伊藤秩父郡長に会ったので、寄居警察署長石井警部・本野上分署長雨宮警部補・大宮郷警察署長斉藤警部に対し「今夜小鹿野へ微行集合スベシ」の伝言を依頼。
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■(小鹿野)
その後、鎌田警部は、本庄警察署と八幡山分署に立寄り、夜半小鹿野町に入り、密告者の泉田を町の旅館に招じ、各署長同席のうえ、困民党の動きを聞く。
密告者は田代栄助と接触し、困民党への同盟を申入れ、田代から10月28日蜂起の日時・場所などを聞きだしたという。警察は、この時初めて、困民党主謀者が、大宮郷の田代栄助や男衾郡西ノ入村の新井周三郎であることを知る。
情勢分析の会議は朝4時まで続くが、鎌田警部や各署長は、この情報の判断評価に迷い、直ちに関係署に指令して、陰謀首魁とみられるこの2名の動静を探らせると、いずれも「所在知レズ」とのこと。よって、困民党は密かに蜂起準備中ではないかと憂慮するが、翌28日朝にはその兆候は現れず。
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密告者泉田某は前年11月、野天賭博の現場を襲われ逮捕されるが、その後脱走し、禁固3ヶ月・罰金30円の刑を受けている。恐らくその時警官との腐れ縁ができたと思われる。
密告の内容は、
「鎌田警部致ストコロノ小鹿野神社祠官泉(某)ノ十月廿六日夜小鹿野町旅舎ニオイテ石井警部以下五名ノ警部、警部補ノ面前ニ在テ密告スルヲ雨宮警部ノ傍聴セル筆記ノ写書
十月十七日 (某)、田代栄助宅へ往キ自由党へ加盟ヲ請ヒ、他ニ同盟者ノアルヲ告グ。栄助曰ク一時故アリテ解散セシメタリ。而シテ金策ノ方法ヲ立テ貧民党へ檄文ヲ発スルノ計画ナリト云フ
十月二十一日 栄助、(某)ノ宅へ来り告ゲテ曰ク、貧民党ハ来ル二十六日小魁タル者集会シ、二十八日一般ニ嘯集スルノ目的ナリ。・・・」(鎌田冲太警部復命書)。
石間の山中に集まるのは一六ヵ村の総代で、貧民党の幹部から借金の四ヵ年据置・四〇ヵ年賦返済を高利貸に強請し、承認しなければ爆裂弾で放火し、戸長役場に乱入して奥書簿を焼きすて、警察を襲撃して浦和の県庁まで押出す計画である。」というもの。
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この密告者の小鹿野神官神官泉田某の子の泉田蔀は兵糧方として蜂起に参加している。
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3.警察署長の小鹿野会議
この日(28日)、各署長は自ら探索することになり、大宮郷警察署長斉藤警部は姻火製造場を、寄居警察署長石井警部は石間村と下吉田村を担当し、本野上分署長雨宮警部補は群馬県側との情報交換の為、鬼石巡査派出所に赴く。
この日、彼らが見たものは、麦播きを急ぐ農民で、少し気になるのはしきりに「今般自由党総理板垣退助世直シノ軍ヲ起ス」との噂であった。15日夜の西ノ入村での集団強盗事件について、その後の捜査で、一味が「軍用金ヲ募ルニヨリ徴収スル所ノ粗税金ヲ悉皆出スベシ」と言い、犯人5人の人相書の中に田代栄助に似た者がおり(実際には田代は加っていない)、一味らしい者が前夜新井周三郎宅に泊ったことを突きとめ、これは困民党と関連があるらしいことがわかっている。
この日、鎌田警部と石井・斉藤両警部は協議し、「今ヤ麦播き最中ナレバ、近日集合スベキ景況ナシ、此後ハ巨魁二名ノ所在ヲ探知シテ逮捕スルノ外好手段ナシ」との結論に達し、鎌田警部は「若シ事急ニ出ズルトキハ、一ハ熊谷・本庄両署ノ所轄署へ応援ヲ請ヒ、一ハ警部長ニ報知スル事」を各署長に指示し、浦和への帰途、途中の各署にこの旨を伝えることになる。
この時点で26日の困民党「粟野山会議の決定(11月1日蜂起)」は、警察側には漏れていない。
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10月29日
鎌田警部は小鹿野町から八幡山町に向い、途中で鬼石町から戻る雨宮警部補と行きあい、「彼ノ地ノ景況ヲ聞キ」、申し合せ事項を伝え、八幡山分署に立ち寄り、この夜は同郷の浜田分署長と懇談して同所に宿泊。
*
10月30日
鎌田警部は本庄・深谷の各署に立ち寄り、秩父の情勢を伝え、浦和の県庁に帰り、巡査数名を秩父に派遣。
*
10月31日
地方官会議のため東京へ出張中の吉田県令を除く、笹田書記官・江夏警部長・鎌田警部ら県首脳は行田町に出張し、翌1日栃木県佐野町から埼玉県に入り、行田~鴻巣のコースで帰京する三条太政大臣一行警護の為、沿道に多数の警官を配置。
*
4.風布村蜂起の第1報
*
■(寄居)
10月29日
「小鹿野会議」から帰った寄居警察署長石井警部は、各方面に巡査を派遣して農民の動静探索に当らせる。
*
10月30日夜
風布村をはじめ近村の困民党加盟者が蜂起に向って動き始め、火薬を買い集めているとの報告を受ける。
*
10月31日早朝
石井署長は、急使を派遣し松山警察署と小川警察分署に応援を要請、更に情報確認の為に巡査を風布村に派遣。
風布村から井戸村への道路に「暴徒凡ソ二百名、兵器ヲ携へ屯集」との報告があり、石井署長は、困民党の本格的蜂起と判断し、午後2時5分、浦和の警察本署(県警本部)に電報でこれを報告。電報は、まず電文を熊谷警察署に持参し、熊谷から打電しなければならず、この急報を受けた熊谷警察署長山室警部は、これを浦和の警察本署(県警本部)に電報し、三条警護のため行田町に出張中の警部長には報告の特使を派遣し、自ら巡査2名を率い寄居に向う。
*
「十月三十一日午後二時五分寄居警察署ヨリ本県警察本署へ電報アリ、英文意ニ曰ク秩父郡風布村金尾村ノ困民等飛道具ヲ携へ小鹿野地方へ暴発スルノ景況ナリ。因テ速ニ警部巡査派出アレトアリ」(「「秩父暴動始末」に収められた秩父事件の第1報)。
*
寄居警察署長石井警部は、風布村を所轄する本野上分署にこれを伝える為、自ら同署に向うが、分署長雨宮警部補は、大宮郷警察署に出向いていて不在。
*
■(大宮郷)
本野上分署長雨宮警部補も、29日夜、風布村の不穏の動きを察知し、巡査を派遣して探索させると、30日午後11時、風布村とその近村は、11月1日に下吉田村の椋神社に集合する為の動きを始めているとの報告を受ける。
31日午前5時、雨宮警部補は、指揮を受ける為に本野上分署を出発し大宮郷警察署に向う。雨宮警部補は、大宮郷警察署長斉藤警部と風布村の暴徒鎮圧策を協議し、大宮郷警察署と本野上分署の警官隊は井戸村の通路を遮断し、寄居警察署の警官隊は金尾口を進撃して暴徒を撃破するとの計画をたてる。そして雨宮警部補が、寄居警察署に対して、これを伝えることになる。
*
■(寄居)
一方、本野上分署に赴いた寄居署長石井警部は、風布に向かう自署の巡査7~8名に行きあい、「風布村ノ賊大勢ナルニ僅々少数ノ人員ヲ以テ当ルハ得策ニ非ズ、・・・五、六十名ノ巡査ノ来会スルヲ待テ進撃スルニ若カズ」と押し止め、一旦寄居警察署に戻る。
更に寄居に戻る途中、松山警察署長吉峰警部と小川警察署長深滝警部補率いる巡査17名にも会い、これに対しても「衆寡敵セズ」と説明し、共に寄居に引き返す。
その直後、本野上分署長雨宮警部補が来て、大宮郷警察署長と打合せた風布村の暴徒鎮圧計画を伝え、明1日払暁進撃を決める。
*
寄居に戻った石井署長は、午後6時、江夏警部長への報告の為、風布村偵察の際、銃撃を受けた巡査に報告書を持たせて行田に向わせ、本庄・八幡山両署に巡査の応援を求める使いを出す。
午後7時、本野上分署から「暴徒本野上分署ヲ襲撃スルノ形勢アリ」の報告があり、応援のため小川分署長深滝警部補は巡査5名を率い本野上村に向う。
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午後6時の江夏警部長への報告。
「秩父郡村民等各兵器ヲ携へ嘯合スル実況ヲ知ラント欲シ巡査ヲ派遣シ視察セシムルニ風布村山中ニアリテ各自銃砲或ハ刀剣ヲ携へ白布ノ鉢巻ヲナシ同ジク襷ヲ掛ケ、几ソ八九十名屯集シ該巡査ニ向ヒ発砲セリ。為メニ退キ松山小川ノ両署ニ巡査ヲ要求セシニ警部某等巡査十名ヲ率ヒスデニ派出スルニ会シ是ヨリ大宮郷、本野上ノ両署卜協議シ所措セントス。」
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5.大宮郷警察署出動
*
■(皆野)
大宮郷警察署長斉藤勤吉警部は、31日午前11時、本野上分署長雨宮警部補の来訪により「風布村不隠」を知ると、「集合ノ人民ニ対シ警察ノ精神ヲ傾注シ、静謐ヲ害スルコトナカレト説諭シ」解散させるべく、午後1時、警察署に巡査3名を残し、大宮郷警察署詰坪山需警部補と巡査10名を率い大宮郷を出発、皆野に向う。
皆野で巡査2名を斥候に出して情勢を窺うと、井戸村より風布村に至る路上に、白鉢巻・白襷の農民多数がいることが判明。
*
本野上分署長雨宮警部補が、午後6時までに自署の巡査を率いて皆野村に来ることになっているが、それが遅れていたので、斉藤署長はそれを待たずに井戸村に向う。
*
約半里(2km)進んで、下田野村の荒川河畔オンダシの河原に差し掛かると、白鉢巻・白襷の約20名(風布村を先発した大野福次郎指揮隊、7名が鳥銃、他は刀槍で武装)と遭遇。警官隊は包囲するように近付くが、農民隊はこれが警官隊であるとは知らず。誰何され、「大宮郷ノ警官ナリ」と答えると、農民隊の幾人かは逃亡、残った大野福次郎ら12名は、駆り出しに応じた、「警官ノ保護ヲ請フ」と弁明。
警官隊は農民隊を武装解除し、皆野村戸長役場に連行、捕縄を施され、巡査3名と臨時雇いの人夫15人に看守される。
*
「皆野村派出ノ斎藤警部坪山警部補ハ巡査七八名ヲ率ヒ該村ヲ発シ井戸村二重ル途中薄暮ニ及ヒ暴徒十七八名各銃器其他刀剣竹槍等ヲ携へ出ツルニ会シ訊問数時ニシテ終ニ其携帯セル兇券ヲ脱セシム。因テ之ヲ収メ暴徒ヲ皆野村へ拘引訊問スルニ至ルトナリ・・・」(寄居警察署から県警本部へ電報)。
*
この時、本野上分署長雨宮警部補が、巡査5名を率いて到着。両署長は情勢を検討し、風布村の武装農民は全部出撃していると判断し、両隊合同で困民党の集合場所とみられる下吉田村に向うが、途中で新井周三郎隊による金崎村永保社の被害を聞き、巡査1名を下吉田方面の斥候に出し、主力は金崎村に引返す。
永保社は「暴行名状ス可ラズ」までに破壊され、隣の山田戸長の家も「見ルニ堪へザル」ほど荒されている。
斉藤警部は、情勢の緊迫を感じ、一旦皆野村に引揚げ、下田野村で逮捕した大野福次郎ら12名を、熊谷監獄支署へ護送させる。
(福次郎は12月9日の予審終結後にようやく供述を始める)
*
午後10時、県警鎌田警部が、三条太政大臣警護の出張の行田より急遽寄居警察署到着。
深夜、県警本部長江夏警部長が、行田で報告を聞き直ちに寄居に向う。
*
(11月1日、吉峰・斉藤両警部は、永保社襲撃の新井周三郎隊を追尾し、阿熊で手痛い目にあうことになる)
*
*
地図上のポイントする地点は困民党蜂起旗揚げの椋神社のある下吉田村。
2009年5月28日木曜日
鎌倉のいしぶみ 大蔵幕府跡 西御門跡 東御門跡 宇津宮辻幕府跡 若宮大路幕府跡
鎌倉のいしぶみから、幕府跡の変遷を見てみます。
*
まず「大蔵幕府跡」。
治承4年(1180)に頼朝がこの地に屋敷を築いてから嘉禄元年(1225)まで。
*
この年、頼朝は富士川の合戦で平氏軍を破り、その後上洛せずに、佐竹氏を討ち12月に新邸に移ります。
*
12月12日
・頼朝、上総権介廣常が宅より新宅(八幡宮東側の大倉郷に竣工、大倉御所)移転への儀式。
頼朝と御家人の支配関係確認儀式(京に対して鎌倉政権樹立宣言)。
*
「和田の小太郎義盛最前に候す。加々美の次郎長清御駕の左方に候す。毛呂の冠者季光同右に在り。北條殿・同四郎主・足利の冠者義兼・山名の冠者義範・千葉の介常胤・同太郎胤正・同六郎大夫胤頼・籐九郎盛長・土肥の次郎實平・岡崎の四郎義實・工藤庄司景光・宇佐見の三郎助茂・土屋の三郎宗遠・佐々木の太郎定綱・同三郎盛綱以下供奉す。畠山の次郎重忠最末に候。
・・・今日、園城寺平家の為に焼失す。金堂以下堂舎・塔廟並びに大小乗経巻、顕密の聖教、大略以て灰燼と化すと。」(「吾妻鏡」同日条)。
この条は、足利義兼・山名義範の「吾妻鏡」初見記事。
*
(現代語)
「十二日、庚寅。・・・亥の刻に前武衛(頼朝)が新造の御邸へ移られる儀式があった。
(大庭)景義を担当として去る十月に工事始めがあり、大倉郷に作られた。
定刻に(頼朝は)上総権介広常の宅を出発し、新邸に入った。(頼朝は)水干を着て、(石和の栗毛の)馬に乗った。
和田小太郎義盛が最前を行き、加々美次郎良活が(頼朝の)馬の左につき、毛呂冠者季光が同じく右についた。
北条殿(時政)、同(北条)四郎主(義時)、足利冠者義兼、山名冠者義範、千葉介常胤、同(千葉)太郎胤正、同(東)六郎大夫胤頼、(安達)藤九郎盛長、土肥次郎実平、岡崎四郎義美、工藤庄司景光、宇佐美三郎助茂、土屋三郎宗遠、佐々木太郎定綱、同(佐々木)三郎盛綱以下が付き従った。畠山次郎重忠が最末に従った。
・・・出仕した者は三百十一人という。また御家人たちも同じく居館を構えた。これより以降、東国の人々は皆頼朝の徳ある道を進むのを目にして、鎌倉の主として推戴することになった。
鎌倉は元々辺鄙なので、漁師や農民以外、居を定めようという者は少なかった。そのため今この時にあたって、巷の道をまっすぐにし、村里に名前をつけた。それだけでなく家屋が立ち並び、門扉が軒をめぐらすようになったという。
今日、園城寺が平家のために焼失した。金堂以下の堂舎や塔廟、それに大小乗の経巻や、顕密の聖教がほとんど灰となってしまったという。」。
*
*
*
*
さて、次は「宇津宮辻幕府跡」。
この年7月11日、政子が70歳で没します。
最高権力者は執権泰時ですが、将軍候補として京都の九条家から頼経(この年8歳)を迎えています。
*
12月13日
・三寅(頼経)、宇都宮辻子の新御所に移る(宇都宮御所)。
西侍所での御所の宿直警固は小侍所で行なうことになる(小侍所番役)。
但し、西侍所での宿直警固も復活し、遠江以下東国15ヶ国の御家人らに12ヶ月毎に交替して宿直させる(鎌倉番役又は鎌倉大番役)。
*
12月21日
・幕府、評定衆を定め、定番人を設置。
豪族的領主の代表的長老三浦・中条・後藤3名、大江・三善・二階堂・中原など貴族出身の文筆職員系統の者8名で成立(北条氏一門はなし)。
また、鎌倉大番の制を定める(「吾妻鏡」)。
*
12月29日
・三寅(8)、御所にて元服。頼経と名乗る。烏帽子親は執権泰時。
政子没により、早く三寅(頼経)を将軍につける必要があるため、元服も急ぐ。
*
*
*
*
最後に「若宮大路幕府跡」。
嘉禎2年(1236)、よく理由はわかりませんが幕府はこの地に移ります。ただ、距離もそんなに離れている訳ではありません。
「ここはおそらく第三代執権北条泰時の邸内の一画にすぎないだろう」(河野真知郎「中世都市 鎌倉」講談社学術文庫)といわれています。
*
*
8月4日
・将軍頼経、若宮大路の新幕府に移徒。
*
12月19日
・泰時、若宮御所北隣に自邸新造、移徙(「吾妻鏡」同日条)。
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まず「大蔵幕府跡」。
治承4年(1180)に頼朝がこの地に屋敷を築いてから嘉禄元年(1225)まで。
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この年、頼朝は富士川の合戦で平氏軍を破り、その後上洛せずに、佐竹氏を討ち12月に新邸に移ります。
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12月12日
・頼朝、上総権介廣常が宅より新宅(八幡宮東側の大倉郷に竣工、大倉御所)移転への儀式。
頼朝と御家人の支配関係確認儀式(京に対して鎌倉政権樹立宣言)。
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「和田の小太郎義盛最前に候す。加々美の次郎長清御駕の左方に候す。毛呂の冠者季光同右に在り。北條殿・同四郎主・足利の冠者義兼・山名の冠者義範・千葉の介常胤・同太郎胤正・同六郎大夫胤頼・籐九郎盛長・土肥の次郎實平・岡崎の四郎義實・工藤庄司景光・宇佐見の三郎助茂・土屋の三郎宗遠・佐々木の太郎定綱・同三郎盛綱以下供奉す。畠山の次郎重忠最末に候。
・・・今日、園城寺平家の為に焼失す。金堂以下堂舎・塔廟並びに大小乗経巻、顕密の聖教、大略以て灰燼と化すと。」(「吾妻鏡」同日条)。
この条は、足利義兼・山名義範の「吾妻鏡」初見記事。
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(現代語)
「十二日、庚寅。・・・亥の刻に前武衛(頼朝)が新造の御邸へ移られる儀式があった。
(大庭)景義を担当として去る十月に工事始めがあり、大倉郷に作られた。
定刻に(頼朝は)上総権介広常の宅を出発し、新邸に入った。(頼朝は)水干を着て、(石和の栗毛の)馬に乗った。
和田小太郎義盛が最前を行き、加々美次郎良活が(頼朝の)馬の左につき、毛呂冠者季光が同じく右についた。
北条殿(時政)、同(北条)四郎主(義時)、足利冠者義兼、山名冠者義範、千葉介常胤、同(千葉)太郎胤正、同(東)六郎大夫胤頼、(安達)藤九郎盛長、土肥次郎実平、岡崎四郎義美、工藤庄司景光、宇佐美三郎助茂、土屋三郎宗遠、佐々木太郎定綱、同(佐々木)三郎盛綱以下が付き従った。畠山次郎重忠が最末に従った。
・・・出仕した者は三百十一人という。また御家人たちも同じく居館を構えた。これより以降、東国の人々は皆頼朝の徳ある道を進むのを目にして、鎌倉の主として推戴することになった。
鎌倉は元々辺鄙なので、漁師や農民以外、居を定めようという者は少なかった。そのため今この時にあたって、巷の道をまっすぐにし、村里に名前をつけた。それだけでなく家屋が立ち並び、門扉が軒をめぐらすようになったという。
今日、園城寺が平家のために焼失した。金堂以下の堂舎や塔廟、それに大小乗の経巻や、顕密の聖教がほとんど灰となってしまったという。」。
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さて、次は「宇津宮辻幕府跡」。
この年7月11日、政子が70歳で没します。
最高権力者は執権泰時ですが、将軍候補として京都の九条家から頼経(この年8歳)を迎えています。
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12月13日
・三寅(頼経)、宇都宮辻子の新御所に移る(宇都宮御所)。
西侍所での御所の宿直警固は小侍所で行なうことになる(小侍所番役)。
但し、西侍所での宿直警固も復活し、遠江以下東国15ヶ国の御家人らに12ヶ月毎に交替して宿直させる(鎌倉番役又は鎌倉大番役)。
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12月21日
・幕府、評定衆を定め、定番人を設置。
豪族的領主の代表的長老三浦・中条・後藤3名、大江・三善・二階堂・中原など貴族出身の文筆職員系統の者8名で成立(北条氏一門はなし)。
また、鎌倉大番の制を定める(「吾妻鏡」)。
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12月29日
・三寅(8)、御所にて元服。頼経と名乗る。烏帽子親は執権泰時。
政子没により、早く三寅(頼経)を将軍につける必要があるため、元服も急ぐ。
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最後に「若宮大路幕府跡」。
嘉禎2年(1236)、よく理由はわかりませんが幕府はこの地に移ります。ただ、距離もそんなに離れている訳ではありません。
「ここはおそらく第三代執権北条泰時の邸内の一画にすぎないだろう」(河野真知郎「中世都市 鎌倉」講談社学術文庫)といわれています。
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8月4日
・将軍頼経、若宮大路の新幕府に移徒。
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12月19日
・泰時、若宮御所北隣に自邸新造、移徙(「吾妻鏡」同日条)。
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2009年5月27日水曜日
鎌倉のいしぶみ 義経への刺客・土佐坊昌俊邸址 堀河夜討(義経襲撃)
*
鎌倉のいしぶみ「土佐坊昌俊邸址」
碑には、
「堀河館に義経を夜襲し利あらずして死せし者 是土佐坊昌俊なり 東鑑文治元年十月の条に 此の追討の事人々に多く以て辞退の気あるの処 昌俊進んで領状申すの間 殊に御感を蒙る 巳に進発の期に及んで御前に参り 老母並に嬰児等下野の国に有り憐憫を加えしめ給ふべきの由之を申す云々 とあり 其の一度去って又還らざる悲壮の覚悟を以て門出なしけん此の壮士が邸は 即ち此の地に在りたるなり」
とあります。
*
土佐坊昌俊(とさのぼう しょうしゅん):
ひととなりは諸説ありよく分かりませんが、出家しているようですが、武士として頼朝に仕える御家人です。義経の刺客を志願し果てます。
*
寿永4年(1185)9月2日
・頼朝、勝長寿院供養の導師の布施などの調達のため梶原景季・義勝房成尋を使節として上洛させる。
景季には、義経亭に赴き、行家の在所を調べ誅戮するよう触れ、義経の「形勢」を窺うよう命じる。また、流人時忠・時実父子の速やかな配流を朝廷に言上させる。
*
「梶原源太左衛門の尉景季・義勝房成尋等、使節として上洛するなり。・・・次いで御使と称し、伊豫の守義経の亭に行き向かい、備前の前司行家の在所を尋ね窺い、その身を誅戮すべきの由を相触れて、彼の形勢を見るべきの旨、景季に仰せ含めらると。・・・」(「吾妻鏡」同日条)。
*
10月6日
・梶原景季、鎌倉に帰り、義経の状況を報告。頼朝、義経を誅すべき事を謀る。
景季は、義経亭に「御使」として面会を申し入れたが、「違例」(病気)として拒否され、一両日して再度赴き面会した。
憔悴の様子、行家追討の話を持ち出すと、行家は普通の人ではないので、家人を派遣しても降伏は難しい、早く病気を治して計略を巡らせたいので、これを伝えてくれとのことと報告。
頼朝は、義経が行家に同意して虚病を称しているのは明かで、これで謀反は露見したと云う。景季も仮病に同意する。
*
「一両日を相隔てまた参らしむの時、脇足に懸かりながら相逢われる。その躰誠に以て憔悴、灸数箇所に有り。・・・てえれば、二品(頼朝)仰せて曰く、行家に同意するの間、虚病を構うの條、すでに以て露顕すと。景時これを承り、申して云く、初日参るの時面拝を遂げず。一両日を隔てるの後見参有り。これを以て事情を案ずるに、一日食さず一夜眠らずんば、その身必ず悴ゆ。灸は何箇所と雖も、一瞬の程にこれを加うべし。況や日数を歴るに於いてをや。然れば一両日中、然る如きの事を相構えらるるか。同心の用意これ有らんか。御疑胎に及ぶべからずと。」(「吾妻鏡」同日条)。
*
10月9日
・頼朝、義経追討を議し、義経暗殺のため土佐坊昌俊を刺客として京へ派遣が決まる。
多くの御家人が辞退するなか、昌俊のみが諒承し、頼朝は要望に応じて下野の中泉庄(栃木市)を与える。
*
「伊豫の守義経を誅すべきの事、日来群議を凝らさる。而るに今土佐房昌俊を遣わさる。この追討の事、人々多く以て辞退の気有るの処、昌俊進んで領状を申すの間、殊に御感の仰せを蒙る。すでに進発の期に及び、御前に参り、老母並びに嬰児等下野の国に在り。憐愍を加えしめ御うべきの由これを申す。二品殊に諾し仰せらる。仍って下野の国中泉庄を賜うと。昌俊八十三騎の軍勢を相具す。三上の彌六家季(昌俊弟)、錦織の三郎・門眞の太郎・藍澤の二郎以下と。行程九箇日たるべきの由定めらると。」(「吾妻鏡」同日条)。
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頼朝は、「行程九箇日たるべき」と厳命(最速であれば3日の行程)。
頼朝側に刺客派遣を察知されるのを前提とする、挑発目的にある(仕掛けられた罠)。
*
10月17日
・堀川夜討。
土佐坊昌俊、水尾谷十郎以下60余率い義経の六条室町亭を襲撃。
義経は佐藤忠信らと闘い、行家も駆けつけ防戦、退散させる。
26日、義経、鞍馬山奥に逃亡の昌俊と郎党3人を捕縛、六条河原で斬首。
義経、遂に頼朝への反抗を決意。
昌俊派遣の目的は、義経を挙兵させることで、頼朝にとって暗殺の失敗・成功は問題ではない。
*
「去る十一日、義経奏聞して云く、行家すでに頼朝に反きをはんぬ。制止を加うと雖も叶うべからず。この為如何てえり。仰せに云く、相構えて制止を加うべしてえり。
同十三日、また申して云く、行家が謀叛制止を加うと雖も、敢えて承引せず。仍って義経同意しをはんぬ。
・・・その後無音。去る夜重ねて申して云く、猶行家に同意しをはんぬ。子細は先度言上す。今に於いては、頼朝を追討すべきの由、宣旨を賜わんと欲す。もし勅許無くんば、身の暇を給い鎮西に向かうべしと。その気色を見るに、主上・法皇已下、臣下上官、皆悉く相率い下向すべきの趣なり。すでにこれ殊勝の大事なり。
・・・亥の刻、人走り来たり告げて云く、
・・・頼朝郎従の中、小玉党(武蔵国住人)三十余騎、中人の告げを以て義経の家に寄せ攻む(院の御所近辺なり)。殆ど勝ちに乗らんと欲するの間、行家この事を聞き馳せ向かい、件の小玉党を追い散らしをはんぬ。」(「玉葉」同日条)。
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比企能員一族の悲劇(2) 3.能員の活躍 清水義高残党討伐 平氏追討 宗盛訊問
3.能員活躍の足跡1(寿永3、4年)
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寿永3年(1184)5月1日
・頼朝、和田義盛・比企能員に対し、足利義兼(源姓足利氏)・小笠原長清と、相模・伊豆・駿河・安房・上総の御家人と共に、義仲嫡男義高の残党が甲斐・信濃に隠れ、謀反を企てているとして、10日に甲斐に発向するよう命じる(「吾妻鏡」同日条)。
*
この年4月21日、木曽義仲の嫡子志水義高(12)、鎌倉を出奔するが、
26日、頼朝家臣堀親家の郎党に捕われ、武蔵入間河原で斬られる。義高は、義仲没後は「その意趣もつとも度(はか)りがたし」(「吾妻鏡」21日条)との理由。
これを知った大姫は、実父頼朝が許婚を殺害したことを嘆き、病の床に。回復することなく、建久8年(1197)、没。
また、御台所(政子)は、義高を討った堀親家の郎党の処刑を命じる。
*
(参考)
大姫関係:
http://mokuou.blogspot.com/2009/02/blog-post_1978.html
清水義高関係:
http://mokuou.blogspot.com/2009/04/blog-post_4500.html
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同年8月8日
・源範頼を総大将とした平氏追討軍1千余、鎌倉を進発。
従う武将は、北条義時・武田有義・千葉常胤・三浦義澄・比企能員・和田義盛・天野遠景・佐々木盛綱・結城朝光・足利義兼ら。
*
同27日、入洛。(この頃、義経は無断任官のこともあり、追討軍には加えられていない)
9月1日、九州に向けて京を出発。
*
11月
・この月初、範頼の追討軍は長門に入る。しかし、兵站ルートは延び、平氏勢力圏に近ずくほど補給は困難となる。
山陽道は前年からの飢饉のため、追討軍は食糧不足の危機に陥る。
また、平行盛が備後児島に上陸し、追討軍は彦島に拠る知盛と備後の行盛に挟撃される形となる。
範頼は、佐々木盛綱・渋谷重国5千を後戻りさせるが、本隊は長門から動けず。
*
翌寿永4年(1185)年1月1日
・範頼はようやく赤間関到着。しかし、渡海しようとするが、船・兵糧なくこれを諦め、豊後に渡ることを考え周防に戻る。
*
同12日
・豊前宇佐八幡宮司一族の臼杵惟隆・緒方惟栄兄弟が、範頼の味方となり、範頼は、彼らに兵船の用意を命じる。
26日
兵船82艘が源氏側に提供され(周防の宇佐那木遠隆は食料を提供)、範頼以下39人の大将が豊後に渡る(「吾妻鏡」)。
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「惟隆・惟栄等、参州の命を含み、八十二艘の兵船を献ず。また周防の国の住人宇佐郡の木上七遠隆兵粮米を献ず。これに依って参州纜を解き、豊後の国に渡ると。同時に進み渡るの輩 ・・・比企の籐内朝宗 同籐四郎能員 ・・・」(「吾妻鏡」26日条)。
*
2月1日
・葦屋浦の合戦。
範頼軍、平家軍(原田種直)を葦屋浦で迎撃、勝利し、豊後(平家軍の背後に)に上陸。近隣制圧へ。別府温泉北方の鶴見郷古殿に本拠を構築。豊後橘頭砦。
*
一方、この月16日
・義経(27)が、平家追討院宣を得て、更に正式の頼朝の命により150騎で摂津の渡辺に到着。この時、義経と梶原景時との「逆櫓論争」。
*
2月19日の屋島の合戦、3月24日の壇ノ浦の合戦(義経の勝利)に繋がってゆく。
*
この間、九州の範頼は兵糧不足などで苦境に陥る。
3月9日
・範頼の書状、鎌倉に到着。
豊後に渡ったが兵糧が得られないこと、義経が九州に入る噂があるが、義経が四国を沙汰し、範頼が九州を沙汰すると記す。
*
11日
・頼朝は、九州にいる範頼や比企能員らに激励の手紙を送る。
「参州の御返報を遣わさる。・・・また関東より差し遣わさる所の御家人等、皆悉く憐愍せらるべし。就中、千葉の介常胤老骨を顧みず、旅泊に堪忍するの條殊に神妙なり。傍輩に抜んで賞翫せらるべきものか。凡そ常胤が大功に於いては、生涯更に報謝を尽くすべからざるの由と。また北條の小四郎殿並びに・・・比企の籐内朝宗・同籐四郎能員、以上十二人の中に、慇懃の御書を遣わさる。」(「吾妻鏡」同日条)。
*
4月11日
・義朝の霊を弔う南御堂(勝長寿院)の立柱の日、義経から壇ノ浦合戦の源氏勝利の報が頼朝に届く。
翌日、戦後処理を評議。範頼は九州に留まり没官領などを調査・措置、義経には捕虜を連れての上洛を命じる。
*
「平氏滅亡の後、西海に於いて沙汰有るべき條々、今日群議を経らると。参河の守は暫く九州に住し、没官領以下の事これを尋ね沙汰せしむべし。廷尉は生虜等を相具し、上洛すべきの由定めらると。即ち雑色時澤・重長等、飛脚として鎮西に赴くと。」(「吾妻鏡」同12日条)。
*
6月7日
・源頼朝、鎌倉に護送された平宗盛を簾中より眺め、比企能員を介して言葉をかける。
宗盛はただ助命と出家の意図を述べるだけで、並居る武士達の嘲笑を浴びる。「源平盛衰記」「平家物語」では、自決を暗示するが宗盛はその素振すら見せずと云う。
*
宗盛らを鎌倉に護送してきたのは義経であるが、義経は鎌倉入りを禁止される。
5月24日、義経は、腰越より書を大江広元に送り弁疏する(「腰越状」)。
*
この年末
11月29日
・文治の勅許。
兵を率いて入洛した北条時政の朝廷との折衝(頼朝追討院宣に対する責任追及と引替に)により、義経行家追捕のため諸国に守護・地頭の設置権と兵糧徴収権を朝廷に認めさせる。
「日本国総地頭」「日本国総追捕使」の地位獲得。
既に支配下にある東海・東山・北陸道を除く畿内5ヶ国をはじめ西国4道に、謀叛人跡の没収地の荘郷地頭を指揮する国地頭、荘郷惣追捕使の指揮権を掌握する国惣追捕使設置を認めさせる。
*
更に
12月6日
・頼朝、大江広元とらと協議して、廟堂粛清・朝廷政治改革案(「天下草創の時」)の院奏を作成。
*
同17日
・朝廷、頼朝の要請に応じ、義経の謀反に同意した輩(大蔵卿兼備後権守高階泰経、右馬頭高階経仲、侍従藤原能成(義経の同母弟)、越前守高階隆経、少内記中原信康)を解官。頼朝は追討宣旨の責任を追求することで、義経追討を名目に大幅な権限を朝廷に認めさせる。
18日、義経と懇意の高階泰経・経仲、藤原能成が解官される。
29日、17日に解官した高階泰経を伊豆に、刑部卿藤原頼経を解官の上安房に配流。更に、参議讃岐守平親宗、蔵人頭右大弁藤原光雅、左馬権頭平業忠、左大史小槻隆職、兵庫頭藤原章綱、左衛門少尉平知康・藤原信盛・中原信貞8名、解官。小槻隆職・中原信康は後白河院の近臣。
*
同28日
・親鎌倉派の九条兼実(37)、頼朝の要請により内覧の宣下を受ける。
*
to be continued
*
寿永3年(1184)5月1日
・頼朝、和田義盛・比企能員に対し、足利義兼(源姓足利氏)・小笠原長清と、相模・伊豆・駿河・安房・上総の御家人と共に、義仲嫡男義高の残党が甲斐・信濃に隠れ、謀反を企てているとして、10日に甲斐に発向するよう命じる(「吾妻鏡」同日条)。
*
この年4月21日、木曽義仲の嫡子志水義高(12)、鎌倉を出奔するが、
26日、頼朝家臣堀親家の郎党に捕われ、武蔵入間河原で斬られる。義高は、義仲没後は「その意趣もつとも度(はか)りがたし」(「吾妻鏡」21日条)との理由。
これを知った大姫は、実父頼朝が許婚を殺害したことを嘆き、病の床に。回復することなく、建久8年(1197)、没。
また、御台所(政子)は、義高を討った堀親家の郎党の処刑を命じる。
*
(参考)
大姫関係:
http://mokuou.blogspot.com/2009/02/blog-post_1978.html
清水義高関係:
http://mokuou.blogspot.com/2009/04/blog-post_4500.html
*
同年8月8日
・源範頼を総大将とした平氏追討軍1千余、鎌倉を進発。
従う武将は、北条義時・武田有義・千葉常胤・三浦義澄・比企能員・和田義盛・天野遠景・佐々木盛綱・結城朝光・足利義兼ら。
*
同27日、入洛。(この頃、義経は無断任官のこともあり、追討軍には加えられていない)
9月1日、九州に向けて京を出発。
*
11月
・この月初、範頼の追討軍は長門に入る。しかし、兵站ルートは延び、平氏勢力圏に近ずくほど補給は困難となる。
山陽道は前年からの飢饉のため、追討軍は食糧不足の危機に陥る。
また、平行盛が備後児島に上陸し、追討軍は彦島に拠る知盛と備後の行盛に挟撃される形となる。
範頼は、佐々木盛綱・渋谷重国5千を後戻りさせるが、本隊は長門から動けず。
*
翌寿永4年(1185)年1月1日
・範頼はようやく赤間関到着。しかし、渡海しようとするが、船・兵糧なくこれを諦め、豊後に渡ることを考え周防に戻る。
*
同12日
・豊前宇佐八幡宮司一族の臼杵惟隆・緒方惟栄兄弟が、範頼の味方となり、範頼は、彼らに兵船の用意を命じる。
26日
兵船82艘が源氏側に提供され(周防の宇佐那木遠隆は食料を提供)、範頼以下39人の大将が豊後に渡る(「吾妻鏡」)。
*
「惟隆・惟栄等、参州の命を含み、八十二艘の兵船を献ず。また周防の国の住人宇佐郡の木上七遠隆兵粮米を献ず。これに依って参州纜を解き、豊後の国に渡ると。同時に進み渡るの輩 ・・・比企の籐内朝宗 同籐四郎能員 ・・・」(「吾妻鏡」26日条)。
*
2月1日
・葦屋浦の合戦。
範頼軍、平家軍(原田種直)を葦屋浦で迎撃、勝利し、豊後(平家軍の背後に)に上陸。近隣制圧へ。別府温泉北方の鶴見郷古殿に本拠を構築。豊後橘頭砦。
*
一方、この月16日
・義経(27)が、平家追討院宣を得て、更に正式の頼朝の命により150騎で摂津の渡辺に到着。この時、義経と梶原景時との「逆櫓論争」。
*
2月19日の屋島の合戦、3月24日の壇ノ浦の合戦(義経の勝利)に繋がってゆく。
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この間、九州の範頼は兵糧不足などで苦境に陥る。
3月9日
・範頼の書状、鎌倉に到着。
豊後に渡ったが兵糧が得られないこと、義経が九州に入る噂があるが、義経が四国を沙汰し、範頼が九州を沙汰すると記す。
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11日
・頼朝は、九州にいる範頼や比企能員らに激励の手紙を送る。
「参州の御返報を遣わさる。・・・また関東より差し遣わさる所の御家人等、皆悉く憐愍せらるべし。就中、千葉の介常胤老骨を顧みず、旅泊に堪忍するの條殊に神妙なり。傍輩に抜んで賞翫せらるべきものか。凡そ常胤が大功に於いては、生涯更に報謝を尽くすべからざるの由と。また北條の小四郎殿並びに・・・比企の籐内朝宗・同籐四郎能員、以上十二人の中に、慇懃の御書を遣わさる。」(「吾妻鏡」同日条)。
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4月11日
・義朝の霊を弔う南御堂(勝長寿院)の立柱の日、義経から壇ノ浦合戦の源氏勝利の報が頼朝に届く。
翌日、戦後処理を評議。範頼は九州に留まり没官領などを調査・措置、義経には捕虜を連れての上洛を命じる。
*
「平氏滅亡の後、西海に於いて沙汰有るべき條々、今日群議を経らると。参河の守は暫く九州に住し、没官領以下の事これを尋ね沙汰せしむべし。廷尉は生虜等を相具し、上洛すべきの由定めらると。即ち雑色時澤・重長等、飛脚として鎮西に赴くと。」(「吾妻鏡」同12日条)。
*
6月7日
・源頼朝、鎌倉に護送された平宗盛を簾中より眺め、比企能員を介して言葉をかける。
宗盛はただ助命と出家の意図を述べるだけで、並居る武士達の嘲笑を浴びる。「源平盛衰記」「平家物語」では、自決を暗示するが宗盛はその素振すら見せずと云う。
*
宗盛らを鎌倉に護送してきたのは義経であるが、義経は鎌倉入りを禁止される。
5月24日、義経は、腰越より書を大江広元に送り弁疏する(「腰越状」)。
*
この年末
11月29日
・文治の勅許。
兵を率いて入洛した北条時政の朝廷との折衝(頼朝追討院宣に対する責任追及と引替に)により、義経行家追捕のため諸国に守護・地頭の設置権と兵糧徴収権を朝廷に認めさせる。
「日本国総地頭」「日本国総追捕使」の地位獲得。
既に支配下にある東海・東山・北陸道を除く畿内5ヶ国をはじめ西国4道に、謀叛人跡の没収地の荘郷地頭を指揮する国地頭、荘郷惣追捕使の指揮権を掌握する国惣追捕使設置を認めさせる。
*
更に
12月6日
・頼朝、大江広元とらと協議して、廟堂粛清・朝廷政治改革案(「天下草創の時」)の院奏を作成。
*
同17日
・朝廷、頼朝の要請に応じ、義経の謀反に同意した輩(大蔵卿兼備後権守高階泰経、右馬頭高階経仲、侍従藤原能成(義経の同母弟)、越前守高階隆経、少内記中原信康)を解官。頼朝は追討宣旨の責任を追求することで、義経追討を名目に大幅な権限を朝廷に認めさせる。
18日、義経と懇意の高階泰経・経仲、藤原能成が解官される。
29日、17日に解官した高階泰経を伊豆に、刑部卿藤原頼経を解官の上安房に配流。更に、参議讃岐守平親宗、蔵人頭右大弁藤原光雅、左馬権頭平業忠、左大史小槻隆職、兵庫頭藤原章綱、左衛門少尉平知康・藤原信盛・中原信貞8名、解官。小槻隆職・中原信康は後白河院の近臣。
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同28日
・親鎌倉派の九条兼実(37)、頼朝の要請により内覧の宣下を受ける。
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to be continued
2009年5月26日火曜日
鎌倉 杉本寺
杉本寺。
案内パンフレットのタイトルは「鎌倉最古仏地」とあります。
*
「当山は天平六年(七三四)の春、光明皇后の御願により大臣藤原房前と僧行基(行基菩薩)に命じ堂宇建立し行基自ら刻むところの十一面観世音を安置された。
次に、仁寿元年(八五一)に僧円仁(慈覚大師)当山に参籠して十一面観世音を刻み安置し、また寛和二年(九八五)僧源心(恵心僧都)が花山法皇の命により十一面観世音を刻み安置し、併て坂東第一番の札所と定め、法皇自ら御順礼有り、夫れより今日に至るまで貴賎の順礼絶えず。時に文治五年十一月二十三日の夜、隣屋より火災起り、類焼の際、本尊三体自ら庭内の大杉の下に火をさけられたので、それより杉の木の観音と今日迄呼ばれたと「吾妻鏡」は伝えている。
其の後、建久二年九月十八日に源頼朝公御堂再興せられ、・・・(略)・・・」
*
鎌倉には珍しい天台宗のお寺です。
*
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「★鎌倉インデックス」をご参照下さい。
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「寺社巡りインデックス」をご参照下さい。
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案内パンフレットのタイトルは「鎌倉最古仏地」とあります。
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「当山は天平六年(七三四)の春、光明皇后の御願により大臣藤原房前と僧行基(行基菩薩)に命じ堂宇建立し行基自ら刻むところの十一面観世音を安置された。
次に、仁寿元年(八五一)に僧円仁(慈覚大師)当山に参籠して十一面観世音を刻み安置し、また寛和二年(九八五)僧源心(恵心僧都)が花山法皇の命により十一面観世音を刻み安置し、併て坂東第一番の札所と定め、法皇自ら御順礼有り、夫れより今日に至るまで貴賎の順礼絶えず。時に文治五年十一月二十三日の夜、隣屋より火災起り、類焼の際、本尊三体自ら庭内の大杉の下に火をさけられたので、それより杉の木の観音と今日迄呼ばれたと「吾妻鏡」は伝えている。
其の後、建久二年九月十八日に源頼朝公御堂再興せられ、・・・(略)・・・」
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鎌倉には珍しい天台宗のお寺です。
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「★鎌倉インデックス」をご参照下さい。
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「寺社巡りインデックス」をご参照下さい。
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2009年5月25日月曜日
横浜 旧生糸検査所 旧富士銀行横浜支店
1月に横浜の「歴史的建造物」が並ぶ街並みを散歩して、その時の写真を一部UPしましたが、残りのものはイマイチうまく撮れなかったので、そのままになってました。
先週、気懸りなところを再度廻ってきましたので、ご紹介。
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http://mokuou.blogspot.com/2009/01/blog-post_28.html
http://mokuou.blogspot.com/2009/02/blog-post_11.html
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「歴史的建造物インデックス」をご参照下さい。
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先週、気懸りなところを再度廻ってきましたので、ご紹介。
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http://mokuou.blogspot.com/2009/01/blog-post_28.html
http://mokuou.blogspot.com/2009/02/blog-post_11.html
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旧生糸検査所(横浜第二合同庁舎)
震災復興期の横浜を代表する建物
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旧生糸検査所(横浜第二合同庁舎)
震災復興期の横浜を代表する建物
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「歴史的建造物インデックス」をご参照下さい。
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源三位入道頼政 2.「平家物語」にいう挙兵動機
「我が身三位して、丹波の五箇庄・若狭の東宮河を知行して、さておはすべかりし人の、由なき謀叛起いて、宮をも失ひ参らせ、我が身も子孫も、亡びぬるこそうたてけれ。」(「平家物語」)。
*
前年に清盛の推薦(兼実「玉葉」は清盛の憐憫の情によると評価しているが)により三位に進み、出家して入道となり、知行国も持ち、しかも齢77歳にして、何故に挙兵したのか。しかも、一族は滅び、後白河の子まで死に至らしめる結果となってしまった。
*
この年、頼政は77歳と極めて高齢。
ちなみに、清盛63歳、後白河上皇54歳、俊成62歳、兼実32歳、慈円26歳、定家19歳。
*
「平家物語」巻4「競(キオウ)」で、頼政の平氏への鬱憤の燃え上がる様が描かれる。
*
(概要)
頼政の子の仲綱が持っていた名馬を平宗盛が強引に寄こせと云う。
仲綱はこれを拒絶するが、宗盛は執拗にこれを要求。
父頼政は、それほどに欲しがるのならば惜しむべきでないと諭し、仲綱はやむを得ず馬を宗盛に渡す。
宗盛は名馬に感心するが、引渡しを惜しんだ仲綱を憎み、馬に「仲綱」の焼印を押し、この「仲綱」を引き出し鞭で打ち、馬を仲綱に擬して侮辱する。
これを聞いて頼政の平氏への積年の鬱憤が爆発した、と頼政挙兵を説明する。
*
①
「抑(ソモソモ)此の源三位入道頼政は、年来日来(トシゴロヒゴロ)もあればこそありけめ、今年如何なる心にて、謀叛をば起されけるぞと云ふに、平家の次男宗盛卿の、不思議の事をのみし給ひけるによってなり。されば人の世にあればとて、すゞろに云ふまじき事を云ひ、すまじき事をするは、よくよく思慮あるべき事なり。
たとへば、其の頃三位入道の嫡子伊豆守仲綱の許に、九重に聞えたる名馬あり。鹿毛(カゲ)なる馬の双(ナラビ)なき逸物、乗り・走り・心むけ、世にあるべしとも覚えず。名をば木の下とぞ云はれける。宗盛卿使者を立てて、
「聞こえ候ふ名馬を賜はつて、見候はばや」
と宣(ノタマ)ひ遺されたりければ、伊豆守の返事には、
「さる馬を持つて候ひしを、此の程余りに乗り疲らかして候ふ程に、暫く労らせんが為に、田舎へ遺して候」
と申されければ、
「さらんには力及ばず」
とて、其の後は沙汰なかりけるが、多く並み居たりける平家の侍ども、
「あつぱれ其の馬は一昨日も候ひし」
「昨日も見えて候」
「今朝も庭乗(ニハノリ)し候ひつる」
など、口々に申しければ、
「さては惜しむごさんなれ。憎し。乞へ」
とて、侍して馳せさせ、文などして、一時が中に五六度・七八度など乞はれければ、三位入道、これを聞き、伊豆守に向つて宣ひけるは、
「たとひ金を以て丸めたる馬なりとも、それ程人の乞はうずるに、惜むべき様やある。其の馬速かに六波羅へ遣せ」
とこそ宣ひけれ。伊豆守力及ばず、一首の歌を書き副へて、六波羅へ遣さる。
恋しくば来ても見よかし身に添ふるかげをば如何放ちやるべき」
*
(現代語)
「これまで頼政は、波風立てず無難に過ごしてきたから、何事もなく暮らしてこられたのに、今年になって一体どんな心境の変化でこのような謀反を思い立ったのかというと、清盛の次男の右大将宗盛が、やってはならない非常識なことをした為に起こったことである。
人は、世に時めき栄えているからといって、言ってはならないことを言ったり、やってはならないことをしたりすることは、よくよく思慮を巡らさねばならないことである。」
*
その頃、源頼政の嫡子伊豆守仲綱のもとに、都中に評判のみごとな駿馬(「九重」)が飼われていた。並みが鹿毛というので、「木の下蔭」をもじって「木の下」と名付けられていた。
この噂を伝え聞いた宗盛が、「評判の高い名馬を借りて、見たい」と、使者を寄越す(平家一門の宗盛の「見せてほしい」という要求は、「その馬を寄越せ」というのも同然のこと)。
そこで仲綱は、「そういう馬をもっておりましたが、余り乗りまわし過ぎて、疲労させてしまったので、暫く骨休めの為に、田舎の方にやってあります」と腕曲にこれを断る。
*
そうであるなら仕方ないと、宗盛は諦め、その後は音沙汰もなかったが、平家の侍たちが、その馬は、一昨日まではおりました、昨日もおりました、今朝も庭で調教しておりました、と不審の言辞を述べる。
宗盛は、さては、惜しんでいるな、憎らしい、是が非でも貰い受けよ、と憤慨し、侍を遣り、また書面でも馬を寄越せと申し入れる。
これを聞いた頼政は、息子に、たとえ黄金で作った馬でも、それほど人が欲しがるものを惜しむことはない、即刻、馬を六波羅へ呉れてやれ、と諭す。
仲綱は仕方なく、一首の歌を添えて、馬を六波羅へ引き渡す。「それほど恋しいなら、こちらへきてご覧になるがよい。私の身に添って離れることのない影のような鹿毛を、どうしてたやすく手放すことができましょうか」という意味を込める。
*
馬は武士にとってかけがえのない重要なもので、それを権勢をかさに奪う宗盛の行為は、言語道断で理不尽な暴挙である。
*
②
「宗盛卿、先づ歌の返事をばし給はで、
「あっぱれ馬や、馬はまことによい馬でありけり。されども、余りに惜しみつるが憎さに、主(ヌシ)が名のりを金焼(カナヤキ)にせよ」
とて、仲綱と云ふ金焼をして、厩(ウマヤ)にこそ立てられけれ。
客人(マラウド)来て、
「聞こえ候ふ名馬を見候はばや」
と申しければ、
「其の仲綱めに鞍置け」
「引出せ」
「乗れ」
「打て」
「はれ」
なんどぞ宣(ノタマ)ひける。
伊豆守、此の由を伝へ聞き給ひて、
「身に代へて思ふ馬なれども、権威について取らるゝさへあるに、剰(アマツサ)へ天下の笑はれぐさとならんずる事こそ安からね」
と大に憤られければ、三位入道宣ひけるは、
「何でふ事のあるべきと思ひ慢(アナド)って、平家の人どもが、か様のしれ事をするにこそあんなれ。其の儀ならば、命生きても何にかはせん、便宜(ビンギ)を窺ふにこそあらめ」
と宣ヘども、私には思ひも立たれず、高倉宮を勧め申されけるとぞ、後には聞えし。」
*
(現代語)
宗盛は、なんと立派な馬が、本当に良い馬だ、と名馬に感嘆するが、それにしても持ち主が余りにもの惜しみしたのが憎いしいので、その主人の名の焼き印をせよ、と命じる。
やがて、客が来て、評判の名馬を見たい、と申し入れると、
宗盛は、「仲綱」に鞍を付けよ、曳き出せ、乗れ、鞭で打て、なぐりつけろ、などと命じる。
*
それを伝え聞いた仲綱は、我が身に代えてもと大切に思う馬であるのに、それを権威をかさに着て取り上げられただけでも口惜しいのに、更に世間のもの笑いの種にされるのは我慢がならぬ」と憤る。
*
頼政はそれを聞き、たいしたことはなかろうと慢心して、平家の者がこのような馬鹿げたことするのであろう、そうならば、生きていても何の甲斐があろうか。(謀反の)機会を狙って平家に思い知らせてやろう、と思い立つ。
そして、これを私的な企てとせず、(天下の大事とする為に)以仁王に働きかけたと、後に世間でとり沙汰された。
*
このくだりに引き続き、「平家物語」は、こうした宗盛の愚かな行動を耳にするにつけ、世間の人々は、宗盛の異母兄小松の内大臣重盛の行動を思い出すとして、重盛のエピソードを語る。
*
*
前年に清盛の推薦(兼実「玉葉」は清盛の憐憫の情によると評価しているが)により三位に進み、出家して入道となり、知行国も持ち、しかも齢77歳にして、何故に挙兵したのか。しかも、一族は滅び、後白河の子まで死に至らしめる結果となってしまった。
*
この年、頼政は77歳と極めて高齢。
ちなみに、清盛63歳、後白河上皇54歳、俊成62歳、兼実32歳、慈円26歳、定家19歳。
*
「平家物語」巻4「競(キオウ)」で、頼政の平氏への鬱憤の燃え上がる様が描かれる。
*
(概要)
頼政の子の仲綱が持っていた名馬を平宗盛が強引に寄こせと云う。
仲綱はこれを拒絶するが、宗盛は執拗にこれを要求。
父頼政は、それほどに欲しがるのならば惜しむべきでないと諭し、仲綱はやむを得ず馬を宗盛に渡す。
宗盛は名馬に感心するが、引渡しを惜しんだ仲綱を憎み、馬に「仲綱」の焼印を押し、この「仲綱」を引き出し鞭で打ち、馬を仲綱に擬して侮辱する。
これを聞いて頼政の平氏への積年の鬱憤が爆発した、と頼政挙兵を説明する。
*
①
「抑(ソモソモ)此の源三位入道頼政は、年来日来(トシゴロヒゴロ)もあればこそありけめ、今年如何なる心にて、謀叛をば起されけるぞと云ふに、平家の次男宗盛卿の、不思議の事をのみし給ひけるによってなり。されば人の世にあればとて、すゞろに云ふまじき事を云ひ、すまじき事をするは、よくよく思慮あるべき事なり。
たとへば、其の頃三位入道の嫡子伊豆守仲綱の許に、九重に聞えたる名馬あり。鹿毛(カゲ)なる馬の双(ナラビ)なき逸物、乗り・走り・心むけ、世にあるべしとも覚えず。名をば木の下とぞ云はれける。宗盛卿使者を立てて、
「聞こえ候ふ名馬を賜はつて、見候はばや」
と宣(ノタマ)ひ遺されたりければ、伊豆守の返事には、
「さる馬を持つて候ひしを、此の程余りに乗り疲らかして候ふ程に、暫く労らせんが為に、田舎へ遺して候」
と申されければ、
「さらんには力及ばず」
とて、其の後は沙汰なかりけるが、多く並み居たりける平家の侍ども、
「あつぱれ其の馬は一昨日も候ひし」
「昨日も見えて候」
「今朝も庭乗(ニハノリ)し候ひつる」
など、口々に申しければ、
「さては惜しむごさんなれ。憎し。乞へ」
とて、侍して馳せさせ、文などして、一時が中に五六度・七八度など乞はれければ、三位入道、これを聞き、伊豆守に向つて宣ひけるは、
「たとひ金を以て丸めたる馬なりとも、それ程人の乞はうずるに、惜むべき様やある。其の馬速かに六波羅へ遣せ」
とこそ宣ひけれ。伊豆守力及ばず、一首の歌を書き副へて、六波羅へ遣さる。
恋しくば来ても見よかし身に添ふるかげをば如何放ちやるべき」
*
(現代語)
「これまで頼政は、波風立てず無難に過ごしてきたから、何事もなく暮らしてこられたのに、今年になって一体どんな心境の変化でこのような謀反を思い立ったのかというと、清盛の次男の右大将宗盛が、やってはならない非常識なことをした為に起こったことである。
人は、世に時めき栄えているからといって、言ってはならないことを言ったり、やってはならないことをしたりすることは、よくよく思慮を巡らさねばならないことである。」
*
その頃、源頼政の嫡子伊豆守仲綱のもとに、都中に評判のみごとな駿馬(「九重」)が飼われていた。並みが鹿毛というので、「木の下蔭」をもじって「木の下」と名付けられていた。
この噂を伝え聞いた宗盛が、「評判の高い名馬を借りて、見たい」と、使者を寄越す(平家一門の宗盛の「見せてほしい」という要求は、「その馬を寄越せ」というのも同然のこと)。
そこで仲綱は、「そういう馬をもっておりましたが、余り乗りまわし過ぎて、疲労させてしまったので、暫く骨休めの為に、田舎の方にやってあります」と腕曲にこれを断る。
*
そうであるなら仕方ないと、宗盛は諦め、その後は音沙汰もなかったが、平家の侍たちが、その馬は、一昨日まではおりました、昨日もおりました、今朝も庭で調教しておりました、と不審の言辞を述べる。
宗盛は、さては、惜しんでいるな、憎らしい、是が非でも貰い受けよ、と憤慨し、侍を遣り、また書面でも馬を寄越せと申し入れる。
これを聞いた頼政は、息子に、たとえ黄金で作った馬でも、それほど人が欲しがるものを惜しむことはない、即刻、馬を六波羅へ呉れてやれ、と諭す。
仲綱は仕方なく、一首の歌を添えて、馬を六波羅へ引き渡す。「それほど恋しいなら、こちらへきてご覧になるがよい。私の身に添って離れることのない影のような鹿毛を、どうしてたやすく手放すことができましょうか」という意味を込める。
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馬は武士にとってかけがえのない重要なもので、それを権勢をかさに奪う宗盛の行為は、言語道断で理不尽な暴挙である。
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②
「宗盛卿、先づ歌の返事をばし給はで、
「あっぱれ馬や、馬はまことによい馬でありけり。されども、余りに惜しみつるが憎さに、主(ヌシ)が名のりを金焼(カナヤキ)にせよ」
とて、仲綱と云ふ金焼をして、厩(ウマヤ)にこそ立てられけれ。
客人(マラウド)来て、
「聞こえ候ふ名馬を見候はばや」
と申しければ、
「其の仲綱めに鞍置け」
「引出せ」
「乗れ」
「打て」
「はれ」
なんどぞ宣(ノタマ)ひける。
伊豆守、此の由を伝へ聞き給ひて、
「身に代へて思ふ馬なれども、権威について取らるゝさへあるに、剰(アマツサ)へ天下の笑はれぐさとならんずる事こそ安からね」
と大に憤られければ、三位入道宣ひけるは、
「何でふ事のあるべきと思ひ慢(アナド)って、平家の人どもが、か様のしれ事をするにこそあんなれ。其の儀ならば、命生きても何にかはせん、便宜(ビンギ)を窺ふにこそあらめ」
と宣ヘども、私には思ひも立たれず、高倉宮を勧め申されけるとぞ、後には聞えし。」
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(現代語)
宗盛は、なんと立派な馬が、本当に良い馬だ、と名馬に感嘆するが、それにしても持ち主が余りにもの惜しみしたのが憎いしいので、その主人の名の焼き印をせよ、と命じる。
やがて、客が来て、評判の名馬を見たい、と申し入れると、
宗盛は、「仲綱」に鞍を付けよ、曳き出せ、乗れ、鞭で打て、なぐりつけろ、などと命じる。
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それを伝え聞いた仲綱は、我が身に代えてもと大切に思う馬であるのに、それを権威をかさに着て取り上げられただけでも口惜しいのに、更に世間のもの笑いの種にされるのは我慢がならぬ」と憤る。
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頼政はそれを聞き、たいしたことはなかろうと慢心して、平家の者がこのような馬鹿げたことするのであろう、そうならば、生きていても何の甲斐があろうか。(謀反の)機会を狙って平家に思い知らせてやろう、と思い立つ。
そして、これを私的な企てとせず、(天下の大事とする為に)以仁王に働きかけたと、後に世間でとり沙汰された。
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このくだりに引き続き、「平家物語」は、こうした宗盛の愚かな行動を耳にするにつけ、世間の人々は、宗盛の異母兄小松の内大臣重盛の行動を思い出すとして、重盛のエピソードを語る。
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2009年5月24日日曜日
1871(明治4)年4月6日 ヴェルサイユ軍、モン・ヴァレリアンから砲撃
磯見辰典「パリ・コミューン」(白水社)所収を借用
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■1871(明治4)年4月6日*
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・ヴェルサイユ軍、新たに強力な大砲を装備したモン・ヴァレリアンから、クールプヴォアに対し砲撃開始。
ヴェルサイユ軍は、進攻しクールプヴォア村占領。
6時間の戦闘後、国民衛兵は、マイヨー市門に据えた砲兵の掩護の下に、ヌイイ橋の大きなバリケードに拠って抵抗を続ける。
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・コミューンの死者の為の長い葬列。36の柩。幾十万の列席者。ドレクリューズの短かい演説。
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○[コミューン群像:シャルル・ドレクリューズ]
フランス大革命に参加したブルジョア豪族出身。高等教育をうける資金がなく事務員として働く。
1830年12月から革命運動に参加。
1848年革命にも参加。ヴァランシェンヌで共和制を宣言、ノール県臨時政府コミサールになる。
1848年11月パリで新聞『ラ・レヴォルシオン・デモクラティク・エ・ソシアル』を創刊、小ブルジョア的社会主義者、民主主義者の見解を表明。
革命活動の為に、禁錮刑をうけギアナに流刑。
1868年、共和主義的、民主主義的新聞『ル・レヴェイ』創刊。再び弾圧をうけ、1870年ベルギーに亡命。
第2帝政崩壊後パリに戻り、新聞発行を再開し、国防政府に反対する。
1870年10月31日、11月5日の蜂起に参加、第19区区長に選出。
共和連盟で重要な役割を演じ、1871年1月22日、コミューンを作るよう呼び掛ける。1月22日の民衆行動弾圧後、逮捕され、彼の新聞は閉鎖。
2月、国民議会にパリから代議士として選ばれ、議会で国防政府閣僚を裁判にかけるよう要求。
3月26日、パリ・コミューン議員として第19、11区から選ばれ(第11区代表を選ぶ)、国民議会代議士権を放棄。
3月29日から渉外委員部委員、4月4日から執行委員会委員、4月21日から軍事委員部委員。病気の為に、公安委員会設置投票には参加していないが、5月9日、公安委貝に選ばれ、5月10日陸軍省所属市民代表委員となる。
コミューン軍隊強化及び、「五月の一週間」の時期のバリケード闘争の組織に重要な役割を演じる。
5月22日のアピールでは、連盟兵に「革命戦争」を呼び掛ける。
5月25日、シャトー・ドー広場のバリケードで戦死。
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・午前10時、パリ第11区小委員会決定により、第137大隊の国民軍兵士、ラ・ロケット監獄からギロチンを持ち出し、プルヴァール・ヴォルテールで焼却。
「憎むべき堕落した政府」によって新しいギロチンが造られたことを知った彫刻家カバレッロの勧めに応じて、第9区小委員会は、フォリー・メリクール通りの仕事場の中にある「王政時代のいまわしい道具」を第137大隊国民兵によって押収させる。
ギロチンは市庁舎の前のヴォールテール像の下でばらばらにされて火をつけられる。
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・コミューン、4月10日をコミューン補欠選挙期日と決定。
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・コミューン、勤務拒否の国民軍兵士に対する措置の法令採択。
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・コミューン、マルセイユの革命運動指導のため代表4人の派遣決定。
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・コミューン、ドンプロフスキ将軍をパリ市総司令官(パリ防塞地区指揮官)に任命するというコミューン執行委員会の法令。
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・パリはただ自己のみを防衛しているとのヴェルサイユ政府の中傷に反駁して、各県に宛ててコミューン執行委員会のアピール。
「パリは自分たちのためというよりも、いま、諸君のためにたたかい、奮闘しているのである。諸君の努力がわれわれの努力と結合すれば、われわれは勝利するであろう。われわれは法と正義の代表者だからである」。
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・国民軍諸大隊の隊長選挙。
水兵と元兵士に対し国民軍大隊に入隊せよと呼び掛け。元政治犯の集会、彼らによる国民軍特別大隊編成の問題を討議。ペール・ラシェーズ基地で、4月3~5日の戦闘で倒れた国民軍兵士埋葬式。
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・ギュスターヴ・クールベ、「官報」に、パリ美術家達に対し、コミューンを支持し、その才能を捧げ、博物館を開き、展覧会の準備をしようと呼びかけるアピール発表。
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・ヴェルサイユ。
ティエール政府命により、歩兵2軍団・騎兵1軍団(9箇師団と若干の部隊からなる部隊)及び3箇師団その他の部隊からなる予備軍を編成。
ヴィノワ将軍更迭。マクマオン元帥(プロシアでの捕虜より帰還)、ヴェルサイユ軍総司令官に就任。
外相ジュール・ファーブル、正規軍兵力増強のため捕虜の大量送還をプロシア政府と交渉。ヴェルサイユ軍兵力5万千、コミューン連盟軍とほぼ同数。
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・マルクス、ヴィルヘルム・リープクネヒトに宛てて手紙。「どうもパリの人たちは負かされそうです」。
「これは彼らの罪ではなく、じつさいは度はずれた正直さからおこった罪なのです。中央委員会と、その後はコミューンも、怪物ティエールに、敵勢力を結集する時間をあたえたのです」。
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to be continued
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