南京戦中(昭和12年11月~12月)、日本国内で何が進行していたのか(一言で云えば、思想、教育、政治、娯楽などあらゆる面での「総動員(体制)化」の進行)、当時の新聞記事によって見てゆく。
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前回まではテーマを絞って関連する記事をピックアップしてきたが、いよいよ終盤にあたりテーマから漏れたものを集めてご紹介。よって今回はテーマは散漫。
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①昭和12(1937)年11月5日 木下尚江、没す。
「読売新聞」6日付
「往年の思想界に巨歩を印した木下尚江翁は胃癌で病臥中五日午後四時四十分滝野川区・・・の自宅で令息正造氏、
相馬愛蔵氏、
島田三郎氏未亡人ら親友知己多数に看まもられつゝ永眠した、享年六十九、葬儀、告別式等は故人の遺言により一切廃止、七日午後二時自宅出棺、日暮里火葬場で茶毘に付することゝなった
明 治二年松本市に生れ東京専門学校法科を卒業、一時松本市で弁護士を開業したが後島田三郎氏の経営する東京毎日新聞の主筆となり明治卅四年には田中正造翁を 助けて足尾鉱毒問題に奔走遂に鉱毒予防令を発布となり被害地の人々は今なは徳として氏の病篤しと聞くや新米の初穂を送って慰めたといふ、
東京毎日 記者としてはその筆鋒星亨を仆したと言はれそれを悔み政論の筆を絶ち著述に専心「火の柱」「良人の告白」「霊か肉か」等思想文学の著書の多数を公にし、安 部磯雄氏、石川三四郎氏等と最初の無産政党社会党を組織、幸徳秋水、堺利彦らと平民新聞を発行した、間もなくキリスト教社会主義を標榜し「新紀元社」を組 織したが「静座」の岡田虎二郎氏に師事、師の逝くやその後継者として今日に至った、
辞世には「何一つもたで行くこそ故郷の無為の国への土産なるらし」とあり、遺児正造君には
「一故の良民たれ」といふ平凡にして平凡ならざる言葉を遺してゐる」
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晩年は沈黙を続けたが、出獄後の川上肇を廻覧書簡で励まし、鶴見俊輔も「戦争中私は木下尚江を頼りにして生きた」という。
1935年10月8日、白柳秀湖に
「日露戦争カラ丸三十年ダ、全地ハ戦争ノ膿デ脹レテ居ル、弱虫ハ何ガ何デモ非戦論ダ」と書き送る。
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②昭和12(1937)年11月6日 イタリア、日独防共協定に参加。
「東京日日」7日付。
(見出し)
「日独協定に伊国参加 昨日ローマで議定書に調印 三国の強力聯携を世界に誇示」。
(記事)
「帝 国政府は共産インターナショナルが採りつゝある手段は現存国家の機構を破壊、暴圧しその内政干渉は国家の安寧、社会の福祉を危殆ならしむるのみならずひい ては世界平和の全般に一大脅威を与ふるものなることを確信し共産主義破壊に対する防衛のため昨年十一月ドイツとの間にいはゆる日独防共協定及び同付属議定 書(正式には共産インターナショナルに対する協定及び同付属議定書)を締結し、その中において締約両国は共産インターナショナルの活動に対し、「相互に通 報し緊密なる協力により必要なる防衛措置を講じ日独と同様に共産主義の脅威を受くる第三国の本協定参加を共同に勧誘すべきこと」を明確にし東亜においては 日本、欧州においてはドイツの両大国が東西よりソ連の共産インターナショナルを包囲する鉄壁の連繋陣営を完成した
しかるにその後におけるコミンテ ルンの活動は益々猛威を振ひ或はスペイン内乱における或はソ支不可侵条約におけるソ連の積極的態勢となって現れ、日独両国はその陣営の強化完璧を痛感して ゐたところ恰もイタリーにおいても防共に関する国内的陣営の強化に数歩を進めて国際的協力による陣営の一大展開の必要を認めてゐたのでこゝに日独及び伊は 意気投合し従ってイタリーの日独防共協定参加に関する交渉は今春以来ローマにおいて前駐伊大使杉村陽太郎氏駐伊ドイツ大使ハツセル氏およびチアノ伊外相と の間に進められその間駐伊帝国大使は杉村氏から堀田正昭氏に更迭、またイタリー側の防共協定締結に関する方式につき日独側と意見の一致を見ざる点等もあ り、一時停頓状態に陥ったこともあつたがその後ムッソリーニ伊首相のドイツ訪問によるヒットラー独総統との会見は本交渉をして著しく進捗せしめ、前駐独大 使武者小路子、駐英ドイツ大使リッベントロップ氏、ノイラート独外相等の努力もあり、遂に十月下旬三国は大局的見地に立つて完全に意見の一致を見、イタ リーは前記日独防共協定に新に参加するの形式をとって交渉は成立した・・・」
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③昭和12(1937)年11月9日 満洲移住協会、「満洲開拓少年義勇軍十ケ年計画」立案。
「東京日日」9日付。
(見出し)
「満州開拓の若き戦士 少年義勇軍 まづ明年は五万人を移住 各所に訓練所を設置」。
(記事)
「拓務省管下の満洲移住協会ではかねて満洲国三江省饒河に百名の青少年を送って青少年移民の成果を試験してゐたがその成績頗る良好なのに鑑みこゝに満洲開拓少年義勇軍十ケ年計画を樹てまづその第一ケ年計画として明年五万人の青少年を満洲の広野に送ることになった、
こ の少年義勇軍十ケ年計画は五十万人の青少年移住を目的とし最近新設された満洲国拓殖公社と共同して満洲未開拓地各所に青年学校の延長ともいふべき開拓訓練 所を設けて民族協和の精神のもとに農地共同経営に当らしめ産業開発の若き戦士を養成することを主眼としてゐるが義勇軍参加資格は高等小学校を卒業し徴兵検 査以前の者であることを必要とし、その指導者は拓務省と移住協会で選定された農事方面の技術者か農事の実際を指導し警備の方を予備将校が担任することゝ なってゐる
団長には満洲事変後最初の武装移民の団長であり弥栄村の建設者として知られた山崎芳雄氏が明年度第一次少年義勇団長に躍せられてゐる、
す でにその先遣隊として長野、山形、宮城の三県農村子弟を主とする三百名が去る八月末、九月未の二回にわたって満洲龍江省徽江県伊拉哈に派遣されてをり、 こゝに徽江開拓訓練所が新設された五族協和の指導精神のもとに満洲建設の第一歩に力強い歩みを進めてゐるが明年度第一次義勇軍もこの徽江訓練所に収容され ることになつてゐる、右につき満洲移住協会では語る
青少年の満洲移住はずつと前から当協会で力を入れてゐましたが試験の結果いよいよ可能現実の見 透しもつき十ケ年計画のもとに大々的に来年から行ふことになったわけです、
露西亜のコルホーズともまたドイツの労働奉仕団とも違って精神訓練をモットーに 満洲開発に当る若き青年を養成することが主題となってゐます」
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③昭和12(1937)年11月10日 ブラジル、ヴァルガス大統領が独裁体制を確立。
「国民夕刊」12日付け。
(見出し)
「伯国にクーデター 突如、新憲法を発布 〝組合国家″確立 大統領に独裁権賦輿」。
(記事)
「かねて防共に勉めてゐたブラジル政府は現行憲法の適用範囲では其の目的遂行不可能と看倣され改正案の檯頭してゐる折柄、十日早朝ゴメス陸相は軍隊を動かし目下非常議会開催の上下両院を包囲、現行憲法廃棄並びに議会の即時解散を迫り、其の目的を遂行し一弾も放たずクーデターに成功、愈よ組合主義による成体を樹立することになつた今回のクーデターの中心人物法相プラも捕縛されたと伝へられる」
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(見出し)
「共産党嫌ひの両立役者」。
(記事)
「【リオデジャネーロ十日発同盟】ブラジルの独裁官となったケツリオ・ヴアルガス氏は一八八二年リオ・グランデ・ド・ルール州に生れ一九〇七-八年ボルト・アレグレ地方判事を振り出しに一九三〇年十月革命を起し大統領ペレイア・ド・スーザ氏及び次期大統領に決定してゐたジユリオ・プレステス博士を逐ひ出し臨時大統領に就任、一九三四年七月憲法制定議会によつて正式に大統領に占拠(ママ、選挙)され今日に至った、
旧憲法によれば大統領は任期四ヶ年で重任出来ないことゝなつて居りヴアルガス氏の任期は明年五月を以て終了するので一月には大統領改選が行はれる予定となってゐる、
従って今回の新憲法発布は大統領改選を前にヴアルガス氏の留任を確保する為に行はれたもにとは見られるが、消息通は之と同時にコーヒー問題の解決及び共産主義運動の弾圧強化を目的としたものと解してゐる、
カポンス法相は一九三〇年の革命当時ファッショ的「カーキー襯衣」運動を起して一躍有名となつた人物でヴアルガス氏とは密接な関係あり両氏とも大の共産党嫌ひだからブラジルの共産党弾圧は今後一層峻烈となるべく
一部では早くもブラジルの防共協定参加が噂されてゐる、但し今直ちに参加するとは予想されてゐない」
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④昭和12(1937)年11月29日 「対支武器援助」の「大陰謀」との報道。
「東京日日」29日付。
(見出し)「九国会議の裏面に大陰謀進行 英米主役で仏白ソ加担 尨大な対支武器援助 借金一億磅、長期抵抗を支持 支那側・買国的担保提供」。
(記事)
「ブラッセル会議の終了と共に自分(城戸特派員)も廿七日パリへ帰つたが会議は一応終末を告げたけれども、その後を継いで英、米、仏、白、ソヴイエトの五国と支那代表との間に驚くべき協議が進められつゝある、
支那代表顧維鈞、郭泰禍の暗躍目覚しく前記五ヶ国の残留代表と個別的会談を遂げつゝあり、廿二日午前顧維鈞代表は英、米代表(米国は恐らくデヴイス氏、英国はマクドナルド自治領相)と極秘会見した事実がある、
その席にて
顧維鈞は涙を流して英、米の長期抵抗援助を懇望し『若しこのまゝ列国の積極的対支援助なき場合、支那は滅亡か日本に屈伏するよりほかなし、然る時は東洋における列国の権益は空に帰すべし、支那は列国の身代りとなって悪と苦闘しつゝある』旨を反復説明したに対し英、米代表は至極同感なる旨を表明し九国会議の大勢よりすれば必ずしも支那の主張通らず、故に支那に同情ある列国と個別協議するが最善の方法なりとのサゼツシヨンを与へ何分の努力をなすべきを約した
その結果、英、米を主とする英、米、仏、ソ、白の秘密共同討論の形において英、米代表は飽くまで、支那の対日抵抗を支持することを内約した、
本国政府の意向なるか、または代表の単独意見なるかは明瞭でないけれども、この約束を与へたことは事実である、この結果、ブラッセルで(或は地点を変更するやも知れぬけれども)
前記五国の対支援助の地下運動が行はるゝことになってゐる、
廿二日の会談においては英、米代表より『支那がなほ抵抗を続くるにおいては何を要するか具体的に提示されたい』との申出に対して顧維鈞は蒋介石、孔祥熈と打合せその結果日本に対し飽くまで抵抗を続け、支那が最期の勝利を得るためには英国五千万ポンド、米国二億五千万ドル、仏、白はその国の経済状況の許す範囲においての武器借款を許容されたしとて左の如き蒋介石の要望を伝へた
・・・(略)・・・
顧維鈞はこの尨大なる軍機弾薬の借款購入の必要を明瞭にし、最小限度これだけの供給あらば、支郡は最期の目的を達し得べしとし英、米の積極的援助を懇願した、
これに対し英、米代表はこれを満足せしむるため努力することを内諾せることが明瞭となった」。
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⑤昭和12(1937)年12月11日 イタリア、国際連盟脱退。
13日付「東京日日」
(見出し)
「″聯盟は今や戦争の温床″ ム首相堂々脱退を宣言す」
(記事)
「連盟脱退を決定すべきイタリー大評議会は十一日午後九時五十分(日本時間十二日午前五時五十分)開会直に脱退を正式決定しその旨スタラーチエ党書記長から発表、ついでムッソリーニ首相はヴェネチア宮のバルコニーに現れ昨年五月九日のエチオピア併合宣言当時の如く熱狂した大群衆を前に大要次の如く獅子吼した
『吾人がこれ以上ジウネーヴに留ることは最早不可能となった、平和が語られて居るのではなくむしろ戦争を準備してゐるが如き顚落する殿堂を吾人は喜んで去るものである、また今回脱退したのは決して日独からの圧力によったものではない、わが日独の友は思慮深い一部にはデモクラシー諸国の脅威を説くものであるが吾人は別段それを意に分しない、吾人の陸海軍の威力はすでに二個の光嘩ある戦捷を得たではないか』
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(見出し)
「脱退正式通告」
(記事)
「【ローマ十一日発同盟】イタリー外相チアノ伯は十一日連盟事務総長ジヨセフ・アジノール氏あて電報をもってイタリーの連盟脱退を正式通達した、通告内容左の通り
余はファシスト大評議会の決定に基き閣下に対しイタリー政府は一九三七年十二月十一日以降国際連盟から脱退する旨通告するの光栄を有す」
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(見出し)
「伊太利帝国創設 次に来る巨弾宣言」
(記事)
「【ローマ十一日発同盟】 ムッソリーニ首相は連盟脱退を決行に続いて多年の宿志たるローマ帝国建設の第一歩たる「イタリー帝国」の創設を中外に宣言する意向と確聞する、
右宣言により従来「イタリー国王兼エチオピア皇帝」と称されたエマスエル三世陛下は正式に「イタリー皇帝」の称号を帯びられエチオピア併合承認問題は解消するものと見られる、
なほ一部の消息によればムッソリーニ首相はこれを機会に首相の椅子を愛婿外相チアノ伯に譲り単にデャーチエ(統領)と称し国政を総括するのではないかと伝へられる」
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⑥昭和12(1937)年12月16日 頭山満ら、新党結成を訴える声明。
「国民新聞」16日付。
(見出し)
「一国一党へ 強力政党の新組織強調 頭山翁等三氏の飛檄」。
(記事)
「一時休止の形となってゐた新党樹立運動は時局の進展とともに今度は一国一党の提唱となって現れ政民両党の有志よりなる常盤会は去る九日会合を開き続いて来る十九日に更に会合を開くことになり、俄然政界は色めき立つに至ったが、この時政友会内にはこれに関連して解党論が起りその発展は極めて注目されるにこ至った、
而してこの一国一党論は近衛首相はじめ軍部側とも相当の諒解があると見られてゐるのであるが、最近頭山満、山本英輔大将、一條實孝公爵の三氏は連名をもって各方面に檄文を配布して強力政党の新組織を強調した、いまそ檄文の内容を示せば左の如し
全国民に告ぐ(大要)
・・・(略)・・・」。
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今回をもちまして「南京戦」は終了します。