2009年9月27日日曜日

京都 新町通りを歩く(追1) 杉本家住宅 京都学園大学京町屋キャンパス 川崎家住宅 三井越後屋京都本店庭園

「新町通りを歩く」(1)(9)の追加編です。
室町通り辺にも寄り道しながら・・・。
今回は「町屋」編。
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杉本家住宅
(新町綾小路西入ル北側)
寛保3年(1743)、「奈良屋」として烏丸四条下ルに呉服商を創業、
明和4年(1767)、現在地 に移る。
京呉服を仕入れ、関東で販売する他国店持京商人として繁栄。
3代~7代目は、西本願寺の直門徒として本山の勘定役職を勤める。
現主屋は、棟札によれば明治3年(1870)4月23日に上棟。
町家としては市内最大規模。
主屋の北寄り、鍵型に並ぶ大蔵・隅蔵・中蔵は建築年代は不明だが、
元治の大火 には焼け残ったと伝えられる。
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京都学園大学京町屋キャンパス
(新町錦上ル)
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川崎家住宅
(新町六角上ル東側)
寛政・享和に典薬に昇 進した荻野元凱がこの地で医院を開業、
明治時代までその子孫の教育所として使用される。
大正15年、室町随一の豪商4代目井上利助氏が モダンな洋間を加え新築、
川崎家の本宅兼迎賓館として使用されていた。
設計者武田五一はフランク・ロイド・ライトの建築を参考に設計、
旧帝国ホテルと同じ外壁の石灰岩とタイルが貼られている。
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内部は参観可能です(有料)。
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三井越後屋京都本店庭園
(室町二条上ル)
三井高利が開いた越後屋跡地。
三越の前身。
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内部は参観可能と聞いていましたが、
二度訪れましたが、がっちり門が閉まっていました。
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室町御池北西角の埋蔵文化財発掘調査地
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フェンスの開いた部分から見たところ。
もっとオープンにして欲しい。
学者の秘かな愉しみではないハズ・・・。
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「★京都インデックス」をご参照下さい。
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「★歴史的建造物インデックス」をご参照下さい。
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京都 三条通りを歩く(3) 旧不動貯金銀行京都支店 家邊徳時計店ビル 旧京都大毎会館

京都のレトロな街、三条通りを烏丸通り辺りから東へ歩いています。
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旧不動貯金銀行京都支店(大正5年頃)
(三条通富小路西入)
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家邊徳時計店ビル(明治23年)
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旧京都大毎会館(昭和3年)
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下の写真の右側には感じのいいオープンカフェがあります。
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「★京都インデックス」 「★歴史的建造物インデックス」 をご参照下さい。
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天文15(1546)年1月~6月 信長元服、那古野城を譲られる。 河越夜戦(氏康の武蔵支配確立)。 [信長13歳]

天文15(1546)年 [信長13歳]
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この年
織田信長(13)、元服。吉法師から織田三郎信長名乗る。これを契機に那古野城を譲られた可能性高い。「信長公記」には「長(おとな)」として林秀貞(通勝)・平手政秀・青山与三右衛門・内藤勝介4人が添えられたとある(但し、青山・内藤は「公記」の誤り)。
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或時、備後守(信秀)、国中那古野へこさせられ、丈夫に御要害仰付けられ、嫡男織田吉法師殿(信長)に、一おとな林新五郎(秀貞)・二長(オトナ)平手中務丞(政秀)・三長青山与三右衛門・四長内藤勝介、是等を相添へ、御台所賄の事平手中務、御不弁限りなく、天王坊と申す寺へ御登山なされ、那古野の城吉法師殿へ御譲り侯て、熱田の並古渡と云ふ所新城拵(コシラエ)、備後守御居城なり」(「信長公記」巻首)
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□谷口克広「信長軍の司令官」(中公新書)の説明
那古野城譲渡の時期(「或時」):
天文13年(1544)11月、連歌師谷宗牧は京都から江戸への旅の途中、尾張で織田信秀に会うが、この時、信秀はまだ那古野城に居城している。また、宗牧は那古野の平手政秀邸で連歌会を開いている。
この事から、天文13年末時点では那古野城はまだ吉法師(信長)には譲渡されていないと推測できる。
「信長公記」では、信長の元服は13歳の時(天文15年)とされており、「推測にすぎないが、この元服を契機として那古野城を譲られたのかもしれない」(谷口さん著書)。
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林・平手・青山・内藤4家老について:
①「一おとな林新五郎(秀貞)」(筆頭家老林):
「通勝」として知られているが、「新五郎秀貞」(のち「佐渡守秀貞」)が正しい。春日井郡西春(愛知県西春日井郡西春町)辺りに勢力を持つ。分家から利家を出す前田家は林の与力の一つ。のち林は、信長に反抗するが赦され、引き続き家老の職を保つ。
②「二長平手中務丞(政秀)」:
裕福な国人、有力者。信長が家督を継いだ翌年、切腹。
③「三長青山与三右衛門」:
天文13年9月22日、信秀の稲葉山城を攻撃の際の戦死者のうちに、信秀の弟信康、熱田大官司千秋季光、「青山与三右衛門」の名がある。
④「四長内藤勝介」:赤塚の戦いの時の「御さき手(先手)あしがる衆」の中にその名が見えるだけで、家老としては疑わしい。
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・フランソワ1世、ピエール・レスコーにルーヴルの改装工事を委ねる。
フランソワ1世時代に招聘した芸術家:
レオナルド・ダ・ヴィンチ(1519年アンボワーズ城で没)。アンドレア・デル・サルト。プリマティッチョ(イタリアの建築家・装飾家、1532年王室建築総監)。ロッソ。ベンヴェヌート・チェルリーニ。フィリベール・ド・ロルム(枢機卿デュ・ベレイがローマから招聘した建築)。ジャン・グージョン(彫刻家、作品「罪なき人々の泉」)。
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・この頃、ミシェル・セルヴェ、「キリスト教復位」の草稿をカルヴァンに送り、批判を求める。
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1月18日
・ペルー内乱。
植民者ゴンサロ・ピサロ、エクアドルのキトー(アニャキート)でペルー初代副王ブラスコ・ヌーニェス・ベラを破る。反乱軍に味方するエンコミエンダ所有者達が、パナマ~チリに至る南アメリカ大陸西側支配権を掌握。
スペイン人エンコメンデロ達はゴンサロ・ピサロをペルー総督に選び、ゴンサロは2年余に亘り、アンデス~西側地方の実質的支配者として君臨。
しかし、ゴンサロは行政的手腕に欠け、専制的かつ残忍、反対する者達を容赦なく処刑したため人心は離れてゆく。
彼は、フランシスコ・ピサロの異母弟、1531年ピサロに誘われて新世界ペルーに来る。1541年8月26日、兄フランシコがペルーのリマでアルマグロの残党に暗殺されたため、兄の築いた新大陸での財産を引き継ぐ。
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2月7日
・山科言継、烏丸光康、幕府右筆松田孫三郎らと「野遊び」に出向く(「言継卿記」同日条)。17日、東寺観智・妙観両院灌頂会に出かける(「同」2月17日条)。
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2月13日
・カルヴァンのギョーム・ファレル宛書簡。
「もしセルヴェにしてジュネーヴに潜入すれば、断じて生きてこの地を去らせまい。」
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2月18日
・マルティン・ルター(63)、故郷のアイスレーベンで没。
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2月28日
・黒滝城の戦い。
上杉家家臣黒田秀忠、再び黒滝城に篭り反乱。長尾景虎(17、謙信)、越後守護上杉定実の命令により黒滝城に出陣。3月24日、秀忠以下一族をことごとく切腹させる。これを契機に景虎を越後守護代にしようとする運動が起こる。
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3月
・スコットランド、枢機卿ビートンが、新教指導者ウィシュアートを逮捕・焚刑。
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3月14日
・武田晴信、村上義清の戸石城を攻め信濃上野原で戦うが敗れる。
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3月15日
・山科言継、親王(後の正親町天皇)の供奉をして鞍馬に巡拝。他の公卿とともに歩行で通す。先に貴船社に参詣し、僧正ヶ谷の難所を越して鞍馬寺入り。折しも全山桜の真っ盛り。
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3月25日
・北条氏康、武蔵河越城の北条綱成救援に向け小田原城を進発。
月末、武蔵三ツ木に布陣(日付は4/1とも)。北条氏康は上杉・足利連合軍に使者を送り、嘆願(謀略)。連合軍は、氏康の嘆願を拒否。
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4月20日
'・河越夜戦
武蔵河越城の北条綱成救援に向かった北条氏康8千、山内上杉憲政・扇谷上杉朝定・古河公方足利晴氏連合軍8万5千に夜襲をかけ撃破。
扇谷上杉朝定(22)、戦死。扇谷上杉家は滅亡。山内上杉憲政も小野因幡守・倉賀野三河守行政(倉賀野為広父)・難波田弾正等の勇将を多数失い、上野平井城へ逃げ帰る。晴氏は古河に奔る。上杉家麾下の諸将が北条氏に走るようになる。
北条氏康の武蔵支配確立。日本三大夜戦の1つ。
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滝山城主大石定久(三男・氏照が養子)、天神山城主藤田邦房(四男・氏邦が婿養子)、松山城主上田朝直、忍城主成田長泰、深谷城主上杉憲賢らが北条氏康に帰属。翌16(1547)年1月18日岩付城太田資正も北条氏に下る。資正の子氏資に娘・長林院を嫁がせる。
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5月
・スコットランド、新教指導者ウィシュアート処刑の報復として、セントアンドリューズのピートン大司教、殺害。新教徒はセントアンドリューズ城に篭城。アンガス伯(新教徒)は実効策打てず。
セント・アンドリュース城には、後にスコットランドの新教会「長老教会」を創設する改革者ジョン・ノックス等も駆け付け、プロテスタント拠点として本格的説法開始。女王メアリーはフランスに援軍を求める。
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5月3日
・武田晴信5千、佐久出陣。6日、前山城着。9日、佐久郡内山城(大井貞隆の子貞清)包囲。19日、開城。大井貞清、野沢へ逃げる。7月18日、晴信、部将上原伊賀守昌辰(のちの小山田備中守)を内山城代とし、佐久郡から西上野口への通路を確保
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6月6日
・シュマルカルデン同盟戦争。
神聖ローマ皇帝カール5世、シュマルカルデン同盟プロテスタント諸侯を相手に戦争開始。
シュマルカルデン同盟:ルター派、ドイツ 中部~北部の諸侯・都市、兵力7万 。
ザクセン選定候とヘッセン方伯が指揮権を等分、新教徒軍は統一が保てず右往左往。7月、皇帝カール5世、ドナウ河畔の前哨戦。
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6月16日
・武田晴信(26)、三条西実澄・四辻季遠を積翠寺に迎え、連歌会を催す。ついで両卿を介して信濃で禁裏御領1万疋(100貫文)禄献納の約束をする。
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2009年9月23日水曜日

神田(1) 神田川に沿って万世橋、昌平橋、聖橋、お茶ノ水橋、水道橋を歩く。

万世橋から神田川を遡って飯田橋まで歩きましたので、その様子をご紹介。
(実際は小石川後楽園まで歩きましたが、橋の写真は水道橋までしかありません)
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神田川は人工的に開削された川です。
聖橋とお茶ノ水橋辺りはお茶ノ水台地の頂点をなし、江戸城構築前にはこの台地の西側に「平川」という川が、小石川・後楽園方面から日本橋方面に流れていた。その頃は、大手町辺りまでが日比谷入江という湾をなしており、平川はそこに注いでいた。
江戸城平川門の名はその名残でしょうか。
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平川は、大雨が降ると氾濫し、江戸城本丸前は洪水になる。
この洪水対策のため、平川の飯田橋~堀留橋間を埋め立て、飯田橋~浅草橋間を開き、平川を隅田川に注ぐようにする大工事が始まる(現在、日本橋川は、飯田橋~水道橋間、小石川橋で神田川と繋がっているが、これは明治以降の工事)。
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神田川開削工事の結果、大手町辺りは洪水から解放され、またお茶の水の台地を掘削した大量の土砂で日比谷入江を埋め立て、日本橋、大手町、日比谷辺りの土地が造成される。
工事は、元和6年(1620)頃には完成したという。
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更に、お茶ノ水台地は、江戸の北から連なる本郷台地の南端にあたり、江戸城の喉元近くにまで張り出しており、ここに深く神田川を開削する事は、江戸城の北の防備を固める外堀構築と同じ役割を果たす事にもなる。
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万世橋
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万世橋からJR鉄橋(コンクリート橋)を見る
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万世橋から昌平橋方面を見る
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明治43年5月27日除幕式の広瀬中佐像
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大正に入って、邪魔者扱いされ須田町交差点に移設
(しかし、昭和に入るとこれまで以上に「軍神」はもてはやされる)
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昌平橋から万世橋を見る
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昌平橋から聖橋を見る
(台地であることがよくわかる)
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聖橋から昌平橋方面を見る
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聖橋からお茶の水橋方面を見る
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お茶ノ水橋から聖橋を見る
(この辺りはカメラを携えた人が多い)
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お茶ノ水橋~水道橋の間。
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水道橋
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水道橋からお茶の水方面を見る
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次回以降、神田辺りのまち歩きをします。

南京戦中の日本(8) 昭和12(1937)年11、12月 木下尚江、没。 イタリア、日独防共協定に参加。 満洲移住協会、「満洲開拓少年義勇軍十ケ年計画」立案。 ブラジル、ヴァルガス大統領が独裁体制を確立。 「対支武器援助」の「大陰謀」報道。 イタリア、国際連盟脱退。 頭山満ら、新党結成を訴える声明 

南京戦中(昭和12年11月~12月)、日本国内で何が進行していたのか(一言で云えば、思想、教育、政治、娯楽などあらゆる面での「総動員(体制)化」の進行)、当時の新聞記事によって見てゆく。
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前回まではテーマを絞って関連する記事をピックアップしてきたが、いよいよ終盤にあたりテーマから漏れたものを集めてご紹介。よって今回はテーマは散漫。
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①昭和12(1937)年11月5日 木下尚江、没す
「読売新聞」6日付
「往年の思想界に巨歩を印した木下尚江翁は胃癌で病臥中五日午後四時四十分滝野川区・・・の自宅で令息正造氏、相馬愛蔵氏、島田三郎氏未亡人ら親友知己多数に看まもられつゝ永眠した、享年六十九、葬儀、告別式等は故人の遺言により一切廃止、七日午後二時自宅出棺、日暮里火葬場で茶毘に付することゝなった
明 治二年松本市に生れ東京専門学校法科を卒業、一時松本市で弁護士を開業したが後島田三郎氏の経営する東京毎日新聞の主筆となり明治卅四年には田中正造翁を 助けて足尾鉱毒問題に奔走遂に鉱毒予防令を発布となり被害地の人々は今なは徳として氏の病篤しと聞くや新米の初穂を送って慰めたといふ、
東京毎日 記者としてはその筆鋒星亨を仆したと言はれそれを悔み政論の筆を絶ち著述に専心「火の柱」「良人の告白」「霊か肉か」等思想文学の著書の多数を公にし、安 部磯雄氏、石川三四郎氏等と最初の無産政党社会党を組織、幸徳秋水、堺利彦らと平民新聞を発行した、間もなくキリスト教社会主義を標榜し「新紀元社」を組 織したが「静座」の岡田虎二郎氏に師事、師の逝くやその後継者として今日に至った、
辞世には「何一つもたで行くこそ故郷の無為の国への土産なるらし」とあり、遺児正造君には「一故の良民たれ」といふ平凡にして平凡ならざる言葉を遺してゐる」
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晩年は沈黙を続けたが、出獄後の川上肇を廻覧書簡で励まし、鶴見俊輔も「戦争中私は木下尚江を頼りにして生きた」という。
1935年10月8日、白柳秀湖に「日露戦争カラ丸三十年ダ、全地ハ戦争ノ膿デ脹レテ居ル、弱虫ハ何ガ何デモ非戦論ダ」と書き送る。
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②昭和12(1937)年11月6日 イタリア、日独防共協定に参加
「東京日日」7日付。
(見出し)
「日独協定に伊国参加 昨日ローマで議定書に調印 三国の強力聯携を世界に誇示」。
(記事)
「帝 国政府は共産インターナショナルが採りつゝある手段は現存国家の機構を破壊、暴圧しその内政干渉は国家の安寧、社会の福祉を危殆ならしむるのみならずひい ては世界平和の全般に一大脅威を与ふるものなることを確信し共産主義破壊に対する防衛のため昨年十一月ドイツとの間にいはゆる日独防共協定及び同付属議定 書(正式には共産インターナショナルに対する協定及び同付属議定書)を締結し、その中において締約両国は共産インターナショナルの活動に対し、「相互に通 報し緊密なる協力により必要なる防衛措置を講じ日独と同様に共産主義の脅威を受くる第三国の本協定参加を共同に勧誘すべきこと」を明確にし東亜においては 日本、欧州においてはドイツの両大国が東西よりソ連の共産インターナショナルを包囲する鉄壁の連繋陣営を完成した
しかるにその後におけるコミンテ ルンの活動は益々猛威を振ひ或はスペイン内乱における或はソ支不可侵条約におけるソ連の積極的態勢となって現れ、日独両国はその陣営の強化完璧を痛感して ゐたところ恰もイタリーにおいても防共に関する国内的陣営の強化に数歩を進めて国際的協力による陣営の一大展開の必要を認めてゐたのでこゝに日独及び伊は 意気投合し従ってイタリーの日独防共協定参加に関する交渉は今春以来ローマにおいて前駐伊大使杉村陽太郎氏駐伊ドイツ大使ハツセル氏およびチアノ伊外相と の間に進められその間駐伊帝国大使は杉村氏から堀田正昭氏に更迭、またイタリー側の防共協定締結に関する方式につき日独側と意見の一致を見ざる点等もあ り、一時停頓状態に陥ったこともあつたがその後ムッソリーニ伊首相のドイツ訪問によるヒットラー独総統との会見は本交渉をして著しく進捗せしめ、前駐独大 使武者小路子、駐英ドイツ大使リッベントロップ氏、ノイラート独外相等の努力もあり、遂に十月下旬三国は大局的見地に立つて完全に意見の一致を見、イタ リーは前記日独防共協定に新に参加するの形式をとって交渉は成立した・・・」
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③昭和12(1937)年11月9日 満洲移住協会、「満洲開拓少年義勇軍十ケ年計画」立案
「東京日日」9日付。
(見出し)
「満州開拓の若き戦士 少年義勇軍 まづ明年は五万人を移住 各所に訓練所を設置」。
(記事)
「拓務省管下の満洲移住協会ではかねて満洲国三江省饒河に百名の青少年を送って青少年移民の成果を試験してゐたがその成績頗る良好なのに鑑みこゝに満洲開拓少年義勇軍十ケ年計画を樹てまづその第一ケ年計画として明年五万人の青少年を満洲の広野に送ることになった、
こ の少年義勇軍十ケ年計画は五十万人の青少年移住を目的とし最近新設された満洲国拓殖公社と共同して満洲未開拓地各所に青年学校の延長ともいふべき開拓訓練 所を設けて民族協和の精神のもとに農地共同経営に当らしめ産業開発の若き戦士を養成することを主眼としてゐるが義勇軍参加資格は高等小学校を卒業し徴兵検 査以前の者であることを必要とし、その指導者は拓務省と移住協会で選定された農事方面の技術者か農事の実際を指導し警備の方を予備将校が担任することゝ なってゐる
団長には満洲事変後最初の武装移民の団長であり弥栄村の建設者として知られた山崎芳雄氏が明年度第一次少年義勇団長に躍せられてゐる、
す でにその先遣隊として長野、山形、宮城の三県農村子弟を主とする三百名が去る八月末、九月未の二回にわたって満洲龍江省徽江県伊拉哈に派遣されてをり、 こゝに徽江開拓訓練所が新設された五族協和の指導精神のもとに満洲建設の第一歩に力強い歩みを進めてゐるが明年度第一次義勇軍もこの徽江訓練所に収容され ることになつてゐる、右につき満洲移住協会では語る
青少年の満洲移住はずつと前から当協会で力を入れてゐましたが試験の結果いよいよ可能現実の見 透しもつき十ケ年計画のもとに大々的に来年から行ふことになったわけです、
露西亜のコルホーズともまたドイツの労働奉仕団とも違って精神訓練をモットーに 満洲開発に当る若き青年を養成することが主題となってゐます」
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③昭和12(1937)年11月10日 ブラジル、ヴァルガス大統領が独裁体制を確立
「国民夕刊」12日付け。
(見出し)
「伯国にクーデター 突如、新憲法を発布 〝組合国家″確立 大統領に独裁権賦輿」。
(記事)
「かねて防共に勉めてゐたブラジル政府は現行憲法の適用範囲では其の目的遂行不可能と看倣され改正案の檯頭してゐる折柄、十日早朝ゴメス陸相は軍隊を動かし目下非常議会開催の上下両院を包囲、現行憲法廃棄並びに議会の即時解散を迫り、其の目的を遂行し一弾も放たずクーデターに成功、愈よ組合主義による成体を樹立することになつた今回のクーデターの中心人物法相プラも捕縛されたと伝へられる」
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(見出し)
「共産党嫌ひの両立役者」。
(記事)
「【リオデジャネーロ十日発同盟】ブラジルの独裁官となったケツリオ・ヴアルガス氏は一八八二年リオ・グランデ・ド・ルール州に生れ一九〇七-八年ボルト・アレグレ地方判事を振り出しに一九三〇年十月革命を起し大統領ペレイア・ド・スーザ氏及び次期大統領に決定してゐたジユリオ・プレステス博士を逐ひ出し臨時大統領に就任、一九三四年七月憲法制定議会によつて正式に大統領に占拠(ママ、選挙)され今日に至った、
旧憲法によれば大統領は任期四ヶ年で重任出来ないことゝなつて居りヴアルガス氏の任期は明年五月を以て終了するので一月には大統領改選が行はれる予定となってゐる、
従って今回の新憲法発布は大統領改選を前にヴアルガス氏の留任を確保する為に行はれたもにとは見られるが、消息通は之と同時にコーヒー問題の解決及び共産主義運動の弾圧強化を目的としたものと解してゐる、
カポンス法相は一九三〇年の革命当時ファッショ的「カーキー襯衣」運動を起して一躍有名となつた人物でヴアルガス氏とは密接な関係あり両氏とも大の共産党嫌ひだからブラジルの共産党弾圧は今後一層峻烈となるべく一部では早くもブラジルの防共協定参加が噂されてゐる、但し今直ちに参加するとは予想されてゐない」
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④昭和12(1937)年11月29日 「対支武器援助」の「大陰謀」との報道
「東京日日」29日付。
(見出し)「九国会議の裏面に大陰謀進行 英米主役で仏白ソ加担 尨大な対支武器援助 借金一億磅、長期抵抗を支持 支那側・買国的担保提供」。
(記事)
「ブラッセル会議の終了と共に自分(城戸特派員)も廿七日パリへ帰つたが会議は一応終末を告げたけれども、その後を継いで英、米、仏、白、ソヴイエトの五国と支那代表との間に驚くべき協議が進められつゝある、
支那代表顧維鈞、郭泰禍の暗躍目覚しく前記五ヶ国の残留代表と個別的会談を遂げつゝあり、廿二日午前顧維鈞代表は英、米代表(米国は恐らくデヴイス氏、英国はマクドナルド自治領相)と極秘会見した事実がある、
その席にて顧維鈞は涙を流して英、米の長期抵抗援助を懇望し『若しこのまゝ列国の積極的対支援助なき場合、支那は滅亡か日本に屈伏するよりほかなし、然る時は東洋における列国の権益は空に帰すべし、支那は列国の身代りとなって悪と苦闘しつゝある』旨を反復説明したに対し英、米代表は至極同感なる旨を表明し九国会議の大勢よりすれば必ずしも支那の主張通らず、故に支那に同情ある列国と個別協議するが最善の方法なりとのサゼツシヨンを与へ何分の努力をなすべきを約した
その結果、英、米を主とする英、米、仏、ソ、白の秘密共同討論の形において英、米代表は飽くまで、支那の対日抵抗を支持することを内約した、
本国政府の意向なるか、または代表の単独意見なるかは明瞭でないけれども、この約束を与へたことは事実である、この結果、ブラッセルで(或は地点を変更するやも知れぬけれども)前記五国の対支援助の地下運動が行はるゝことになってゐる、
廿二日の会談においては英、米代表より『支那がなほ抵抗を続くるにおいては何を要するか具体的に提示されたい』との申出に対して顧維鈞は蒋介石、孔祥熈と打合せその結果日本に対し飽くまで抵抗を続け、支那が最期の勝利を得るためには英国五千万ポンド、米国二億五千万ドル、仏、白はその国の経済状況の許す範囲においての武器借款を許容されたしとて左の如き蒋介石の要望を伝へた
・・・(略)・・・
顧維鈞はこの尨大なる軍機弾薬の借款購入の必要を明瞭にし、最小限度これだけの供給あらば、支郡は最期の目的を達し得べしとし英、米の積極的援助を懇願した、
これに対し英、米代表はこれを満足せしむるため努力することを内諾せることが明瞭となった」。
*
⑤昭和12(1937)年12月11日 イタリア、国際連盟脱退
13日付「東京日日」
(見出し)
「″聯盟は今や戦争の温床″ ム首相堂々脱退を宣言す」
(記事)
「連盟脱退を決定すべきイタリー大評議会は十一日午後九時五十分(日本時間十二日午前五時五十分)開会直に脱退を正式決定しその旨スタラーチエ党書記長から発表、ついでムッソリーニ首相はヴェネチア宮のバルコニーに現れ昨年五月九日のエチオピア併合宣言当時の如く熱狂した大群衆を前に大要次の如く獅子吼した 
『吾人がこれ以上ジウネーヴに留ることは最早不可能となった、平和が語られて居るのではなくむしろ戦争を準備してゐるが如き顚落する殿堂を吾人は喜んで去るものである、また今回脱退したのは決して日独からの圧力によったものではない、わが日独の友は思慮深い一部にはデモクラシー諸国の脅威を説くものであるが吾人は別段それを意に分しない、吾人の陸海軍の威力はすでに二個の光嘩ある戦捷を得たではないか』
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(見出し)
「脱退正式通告」
(記事)
「【ローマ十一日発同盟】イタリー外相チアノ伯は十一日連盟事務総長ジヨセフ・アジノール氏あて電報をもってイタリーの連盟脱退を正式通達した、通告内容左の通り
 余はファシスト大評議会の決定に基き閣下に対しイタリー政府は一九三七年十二月十一日以降国際連盟から脱退する旨通告するの光栄を有す」
*
(見出し)
「伊太利帝国創設 次に来る巨弾宣言」
(記事)
「【ローマ十一日発同盟】 ムッソリーニ首相は連盟脱退を決行に続いて多年の宿志たるローマ帝国建設の第一歩たる「イタリー帝国」の創設を中外に宣言する意向と確聞する、
右宣言により従来「イタリー国王兼エチオピア皇帝」と称されたエマスエル三世陛下は正式に「イタリー皇帝」の称号を帯びられエチオピア併合承認問題は解消するものと見られる、
なほ一部の消息によればムッソリーニ首相はこれを機会に首相の椅子を愛婿外相チアノ伯に譲り単にデャーチエ(統領)と称し国政を総括するのではないかと伝へられる」
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⑥昭和12(1937)年12月16日 頭山満ら、新党結成を訴える声明
「国民新聞」16日付。
(見出し)
「一国一党へ 強力政党の新組織強調 頭山翁等三氏の飛檄」。
(記事)
「一時休止の形となってゐた新党樹立運動は時局の進展とともに今度は一国一党の提唱となって現れ政民両党の有志よりなる常盤会は去る九日会合を開き続いて来る十九日に更に会合を開くことになり、俄然政界は色めき立つに至ったが、この時政友会内にはこれに関連して解党論が起りその発展は極めて注目されるにこ至った、
而してこの一国一党論は近衛首相はじめ軍部側とも相当の諒解があると見られてゐるのであるが、最近頭山満、山本英輔大将、一條實孝公爵の三氏は連名をもって各方面に檄文を配布して強力政党の新組織を強調した、いまそ檄文の内容を示せば左の如し
全国民に告ぐ(大要)
・・・(略)・・・」。
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今回をもちまして「南京戦」は終了します。

2009年9月22日火曜日

横浜 山手洋館(2) 山手聖公会 山手234番館 エリスマン邸 ベーリックホール カトリック山手教会 

山下公園前の「ホテルニューグランド」、「ヘボン博士邸跡」、「フランス山」、「山手洋館(1)」、「外人墓地」からの繋がりです。ラベル「横浜」でこの連続を見て下さい。
今日は、山手通り沿いを石川町方面に向います。
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山手聖公会(創立1947年)
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山手234番館
(昭和2年)
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エリスマン邸
(大正15年)
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ベーリックホール
(昭和5年)
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カトリック山手教会
(昭和8年)
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山手通り
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「★歴史的建造物インデックス」をご参照下さい。
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「★横浜インデックス」をご参照下さい
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治承4(1180)年5月16日 以仁王の若宮、捕らわる。 宗盛、三井寺の王への強い支持を知る。

治承4(1180)年
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5月16日
・平頼盛、以仁王と八条院に仕える女房三位局との間の若宮・女宮を捕らえるため、八条院に派遣される。
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頼盛自身も八条院の女房と結婚し子供を儲けている。
八条院は抵抗するが、已む無く引渡し、宮(7)は頼盛に連れられ白河で出家
藤原定家は、これらの情報を外祖母の法性寺の屋敷で聞き、5月22日以降はここに住む。
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「・・・宮の御息の若宮八條院に御坐すの間、池中納言(頼盛)、入道相国の使いとして、精兵を率い八條御所に参り、若宮を取り奉り六波羅に帰る。」(「吾妻鏡」)。
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□「現代語訳吾妻鏡」。
「十六日、丁卯。晴。今朝、再び検非違使たちは以仁王の御所を取り囲んだ。天井を破り、板敷きをはがして捜したが見つけることはできなかった。
八条院の女房である三位局(高階盛章の娘)と以仁王との間の若宮が八条院にいたので、池中納言(平)頼盛が使者として精兵を率いて八条院の御所に参上し、若宮を六波羅に連れて帰る。
洛中は終日騒がしく、京外での乱暴は数えきれぬほどであったという。」
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○若宮:
以仁王が、伊予守高階盛章の娘で八条院の女房三位の局との間にもうけた王子。八条院の御所で養育されている。
その後、王子は、三井寺の円恵法親王(以仁王の兄弟)に預けられ、後に北陸に隠れ北陸宮と称する。寿永2年、後鳥羽天皇践祚に際し、源義仲はこの宮の践祚を主張する(「玉葉」寿永2年8月14日)。
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○頼盛(1131天承元~86文治2):
平忠盛の5男。母は修理大夫藤原宗兼の娘(池禅尼)。清盛の異母弟。常陸介・安芸守・三河守等を経て、中納言。六波羅の池殿に住んだため、池殿・池中納言と呼ばれる。妻は八条院大納言で、ともに八条院にも奉公。
頼盛の妻の母は八条院の乳母。また頼盛邸は八条院御所に近い。のちの平家一門の都落ちに際しても頼盛は一人京都に残り、後白河から「八条院辺ニ候ヘ」と命じられている。
頼盛は、のち、頼朝から厚遇をうける。
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「(十六日)隆職宿弥、三条宮配流ノ事ヲ注送ス。其ノ状カクノ如シ。
 源以光(本ノ御名以仁、忽ニ姓ヲ賜ヒ名ヲ改ムト云々)、
 宜シク遠流ニ処シ早ク畿外ニ追出セシムベシ。
 高倉宮配流ノ事、仰セ下サルル状カクノ如シ。
但シ官符ヲ作ラレズトイヘリ。配流ノ人官符ヲ作ラズ何ノ例ゾヤ。然レバ上卿ヲ仰セラルべカラザルナリ。
 始メ以光王土左国ニ配スべキ由宣下スト云々。而ルニ後改メ仰セラルルカ。只今奉行史申ス旨カクノ如シト云々。
 伝へ聞ク、高倉宮、去夜検非違使未ダソノ家ニ向ハザル以前、竊ニ逃ゲ去り三井寺ニ向フ。カノ寺ノ衆徒守護シ将ニ天台山ニ登セ奉ルベシ。両寺ノ大衆謀叛ヲ企ツベシト云々。
又件ノ宮ノ子若宮(八条院ニ候フ女房ノ腹ナリ。所生ノ時ヨリ女院養育セラレ、即チソノ宮中ニ祇候ス)、逐電ノ由ソノ聞ヘアリ。仍ツテ武士等カノ女院ノ御所ヲ打チ囲ミ、ソノ中ヲ捜シ求ム。コレヨリ先女院ノ御一身ニ於テハ、頼盛卿ノ家ニ出シ奉り(即チ件ノ卿ノ妻参上シ相具シ奉ル)了ンヌトイヘリ。即チ件ノ若宮、女院ニ求メ出シ還御卜云々。素ヨリ隠シ置カルル、太ダ以テ愚カナルカ。愚意コレヲ案ズルニ、ワガ国ノ安否只コノ時ニアルカ。伊勢大神宮、正八幡宮、春日大明神、定メテ神慮ノ御計ラヒアルカ。一身ニ於テハ、中心過無シ。憑ム所只仏神三宝ノミ。
後ニ聞ク。八条院他所ニ渡御、謬説ナリ。女院ヲ居ヱ奉りナガラ、頼盛父子参入シ、一所残ラズ捜シ求メシムト云々。」(「玉葉」)。
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「五月十六日。丁卯。九坎。
今朝伝へ聞ク。三条宮配流ノ事、日来(ヒゴロ)云々。夜前検非違使、軍兵ヲ相具シ、彼ノ第ヲ囲ム<源氏ノ姓ヲ賜ハル。其ノ名以光(モチミツ)卜云々>。
是ヨリ先、主人逃ゲ去ル<其ノ所ヲ知ラズ>。同宿ノ前斎宮<亮子内親王>又逃ゲ出デ給フ。漢王出ヅルニ、成皐縢公卜車ヲ共ニスルガ如キカ。
巷説ニ云フ。源氏園城寺ニ人ル。衆徒等鐘ヲ槌キ公ヲ催スト云々。平中納言、八条院ニ参ジ、御所ノ中ヲ捜検、彼ノ孫王ヲ申シ請フ。遅々タルニ依り、捜求ニ及ブト云々。良々(ヤヤ)久シクシテ、孫王遂ニ出デ給フ。重実(越中大夫卜称フ)、一人相随フ。但シ納言相具シ白川ニ向ヒ、宮出家卜云々。一昨日、法皇鳥羽ヨリ八条坊内鳥丸ニ渡リオハシマス。」(「明月記」)。
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5月16日
・八条宮円恵(エンエ)法親王(以仁王の兄弟)が、穏やかに事件を収めるべく、以仁王が三井寺にいること、三井寺から京に戻すように衆徒と交渉していることが宗盛に伝えられると、宮を引き取るべく平時忠(検非違使別当、時子の兄)の使者が派遣され、宗盛からは武士50騎が付けられるが、衆徒はこれを拒む。
宗盛は、この事を円恵に伝えると、大衆が俄に態度を変えて私の房を破壊した、と言い訳し、今においては我が力に及ばず、と申し送る。宗盛は、三井寺の王への強い支持を悟る
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宗盛は福原の清盛に事態を報告し、その意向を尋ねた後、三井寺の僧綱(ソウゴウ)10人を六波羅に呼び出す。これに応じたのは7人で、これらに対し改めて宮を引き渡すように衆徒と交渉させる。
次に、山門(延暦寺)には、座主明雲を召して、山僧に対して王に同意せぬよう制するよう命じる(「山槐記」)。
また藤原邦綱の報告によると、以仁王は叡山の無動寺に引き籠ったという。同寺の検校覚快法親王(鳥羽院皇子)は、寺の僧侶から王に与力せぬ旨の請文を出させる(「玉葉」)。
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「伝聞、昨日巳の刻ばかりに、八條宮(圓基法親王これなり)、使者を以て宗盛・時忠等の卿に示すと。高倉宮の御座す所、三井寺、平等院なり。
・・・時忠卿、彼の御迎えの為人を進す。また宗盛卿武士五十騎ばかりを彼の使に着け副えこれを遣わす。即ち八條宮下法師原三人これを相具す。秉燭に首途す。子の刻彼の寺に到る。但し寺中に入らず、小関外に群集す。先ず以て下法師達御迎えに参るの状を證示す。
即ち帰り来たりて云く、今日日没以前、大衆三十人ばかりを相率い、京の御所に渡御しをはんぬ。早く帰らるべしと。仍って別当並びに武士等、八條宮に参り、先ずこの由を申す。
・・・この状を聞き、事の次第を宗盛・時忠等の卿に示す。その後重ねて沙汰の趣を聞かず。」(「吾妻鏡」)。
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「(十七日)伝へ聞ク、昨日巳ノ刻許り、八条宮(円恵法親王コレナリ)、使者ヲ以テ宗盛時忠等ノ卿ニ示スト云々。
高倉宮オハシマス所、三井寺、平等院ナリ。京ヲ出デラルベキ由、沙汰スル所ナリ云々トイヘリ。
コレニ因り時忠卿、カノ御迎へノタメ人ヲ進ラス(内匠助某、実名尋ヌベシ)。
又宗盛卿武士五十騎許リカノ使ニ着キ副ヒコレヲ遣ハス。即チ八条宮ノ下法師原三人コレニ相具ス。秉燭首途、子ノ刻カノ寺ニ到ル。但シ寺中ニ入ラズ。小関外ニ群集シ、先ヅ以テ下法師達御迎へニ参ル状ヲ示シ証ス。
即チ帰り釆タリテ云ハク、今日日没以前、大衆三十人許り相率ヰ、京ノ御所ニ渡御シ畢ンヌ。早ク帰ラルベシト云々。仍ツテ別当使並ニ武士等、八条宮ニ参り、先ヅコノ由ヲ申ス。宮答へラレテ云ハク、出洛セラルベキ由、衆徒相議シ申ス所ナリ。而ルニ忽チニ思ヒ変ジ、己二凶徒ワガ房ヲ切り了ンヌ。ソノ事隠レナシ。今ニ於テハ、カノ及ブベキ所ニアラズ。上ヨリ法ニ任ヒ沙汰アルベシト云々。
コノ状ヲ聞キ、事ノ次第ヲ宗盛時忠等ノ卿ニ示ス。ソノ後重ネテ沙汰ノ趣聞カズ。大略武士ノ卑陋、言フニ足ラザル事カ。凡ソ昨日ノ朝、カノ宮逐電ノ由、福原ニ聞エ進ラセ了ンヌ。ソノ使京ニ帰ルベシ。ソノ後毎事沙汰アルペシト云々。
使者ヲ以テ邦綱卿ノ許ニ遣ハス。昨今所労ニ依り今ニ院ニ参ラズ。ソノ恐レヲ謝センタメナリ。ソノ次ニ示シ送りテ云ハク、高倉宮ノ登山、無動寺ニ引籠ラルベキ由風聞ス。仍ツテカノ山ニ申サレ、七宮(覚快)ヲ検校ノ処、与力スべカラザル由、件ノ寺ノ住侶等、請文ヲ進ラセ了ンヌ。仍ツテ七宮ノ辺殊ナル恐レアルベカラズト云々。
武者云ハク、諸国ニ散在スル源氏ノ末胤等、多ク以テ高倉宮ノ方人トナリ、又近江国武勇ノ輩、同ジク以テコレニ与ミスト云々。凡ソコノ間巷説縦横真偽知り難シ。」(「玉葉」)。
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2009年9月21日月曜日

鎌倉 若宮大路を行く(2) カトリック雪ノ下教会 湯浅物産館 三河屋本店 鉄の井 鎌倉聖ミカエル教会聖堂   

若宮大路を八幡さんを起点として南下しています。
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左側(東側)にある「カトリック雪ノ下教会」。
この教会は戦後できたものらしい。
教会の背後には「宇津宮辻子幕府」跡があるが、
宇津宮辻子はこの教会の南側の小道にあたるという。
「辻子(ヅシ)」は小道の意味。
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次に、大路の右側(西側)を見てみる。
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「湯浅物産館」(明治30年創業)
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「三河屋本店」(明治33年創業)
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次に、左側(西側)を一つ奥の道(小町通り)に入ってみる。
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「鉄の井」
(小町通りと横大路の交差点にある)
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「鎌倉聖ミカエル教会聖堂」(昭和8年)
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賑わう小町通り
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もう一度、若宮大路の段葛に戻る。
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今や懐かしい「松竹大船撮影所」
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段葛の南端
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