2012年10月31日水曜日

寛弘5年(1008)5月23日 法華三十講 「妙(たえ)なりや今日は五月の五日とて五つの巻にあへる御法も」(紫式部)

東京 江戸城(皇居)東御苑
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寛弘5年(1008)
1月
・藤原伊周を准大臣とする
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2月
・花山法皇、没
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2月
・尾張国の郡司・百姓が国守藤原中清のことを愁訴
左大臣道長は中清に直ちに任国に赴くよう命じ、今後訴えがあれば国司を処分するぞと戒めた。
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5月23日
・4月23日から始まった道長邸のこの年の法華三十講で、5月5日となった五巻の日の様子がが始まる。
『栄花物語』「はつはな」に描かれている。
「きたなげなき六位の衛府など、薪(たきぎ)こり、水など持たる、をかし。殿ばら、僧俗歩みつづきたるは、さまざまをかしうめでたう尊くなん見えける。苦空無我の声にてありける讃歎の声にて、遣水の音さへ流れ合ひて、よろづに御法(みほう)を説くと聞えなさる。法華経の説かれたまふ、あはれに涙とどめがたし。」

提婆品(だいばぼん)には、かつて国王として生まれた釈迦が、阿私仙(あしせん)に給仕する修行をしてついに得法することが記され、五巻の日の薪をかつぎ水を汲み運ぶ行事は、その給仕のさまを表すものである。
『御堂関白記』によれば、この日の行道に加わったのは僧俗計「百四十三人」で、土御門第の池の周りを巡った。
提婆品では、提婆達多(だつた)が仏に敵対したという阿私仙の過去を明かし、将来の成仏を説いていて、悪人成仏や女人往生に通じるのでとくに五巻が重んじられたのである。
この時の五巻の日に参加した紫式部は、
妙(たえ)なりや今日は五月(さつき)の五日とて五つの巻にあへる御法(みのり)も
(『紫式部集』日記歌)
との歌を詠んでいる。

法華経は、1部8巻28品からなる。
この8巻を朝夕2座を設けて4日間で講説するのを法華八講といい、追善供養の仏事として盛んに行なわれた。
また28品に開結(かいけつ)2経(無量義経(ぎきよう)と観普賢(かんふげん)経)を加えて、30座30日にわたり講説するのが法華三十講である。
永延2年(988)に性空(しようくう)上人が書写山円教寺で行なったのが早い例であるが、藤原道長が行なった三十講も早い例で、道長邸では5月に行ない、寛弘2年(1005)以降はほぼ毎年恒例の行事となった。
三十講も八講も巻五提婆品(だいばぼん)を講ずる「五巻の日」がもっとももり上がった。
寛弘5年の法華三十講は、4月23日から行なわれ、五巻の日は5月5日となった。
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7月
・この月、道長と治部卿源従英(俊賢)の書が入宋の天台僧寂照に送られる。
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9月
・道長、彰子の出産間近に土御門第で五壇法の祈願を行なう。
『紫式部日記』やそれによった『栄花物譜』「はつはな」に記されている。

「ほど近うならせたまふままに、御祈りども数をつくしたり。五大尊の御修法おこなはせたまふ(中略)。観音院の僧正(勝算)、二十人の伴僧とりどりにて御加持まゐりたまふ。」

ほかに心誉・清禅などが各明王にあたったと記している。
五壇法は、このように五人の僧が横に並び、五大明王を横に並べて五壇を設けて修法を行なった。

道長の法性寺五大堂は、五体とも丈六という大きな仏像であり、母屋は桁行5間ないしそれ以上の建築で各柱間に一体ずつ安置されていたと考えられ、天台密教法会の恒常的な空間として成立したとされる。
そしてこれ以降五大堂という建築様式が定着していった。
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