大杉栄とその時代年表(258) 1899(明治32)年1月26日~2月28日 梁啓超、柏原文太郎の許に身を寄せる 「国民教育授業料全廃ノ建議案」 与謝野晶子の短歌の新派和歌へ移行期 エミリオ・アギナルドの反乱 米比戦争開始 田河水泡・宮本百合子生まれる より続く
1899(明治32)年
3月
第1次大冶借款交渉、失敗。民間で応じるものがないため、政府資金を正金銀行を通じて出資することにするが、担保など条件が厳しく失敗。鉄鉱資源確保と列強の中国鉄鉱資源進出を阻止し、中国分割競争で優位を占めるべく国家資本の輸出を決意するが、他方では、外国資本を輸入しなければならないほど資本欠乏が現実。そのため、資本輸出により獲得する利権に過大な期待(過酷な条件)がでる。
3月
台湾総督府、台湾事業公債法(3500万円)を成立させ、2880円の予算・10ヶ年計画で鉄道建設着手。
最初は官設方針で線路調査まで実施。1896年4月高島鞆之助が拓殖務大臣となるや民設方針に転じ、安場保和男爵ら発起の台湾鉄道株式会社(資本金1500万円)に設立許可を下す。しかし、強力な特典にも拘らず、戦後第1次恐慌より株式募集が進まず、政府・皇室の株式引受交渉や外債交渉にも失敗し解散。この月の着手の工事は長谷川謹介技師長指揮下に大倉土木組・鹿島組・久米組・沢井組・吉田組・志岐組など有力請負業者が多数の台湾人を使って南北から開始し、1908(明治41)年完了。鉄道建設費を中心とする「特別事業費」は時には総督府全歳出の1/4を超えるが、台湾人の土地は無償収用。
この年、樟脳専売制施行。
領有直後から樟脳製造・取引を目指して渡航する者が多く、外商に混って奥地へ入り込み濫伐粗製を恣にした為、総督府は歳入増を狙い専売制を施行。但し、翌年の売捌一手請負を巡る競争入札は、大倉組・三井物産と英商サミュル・サミュル商会の争いとなり、大倉組棄権のため2番札の英商が落札し、外商排除は実現せず(巨額の保証金190万円入手を財政難の総督府が最重視した為)。なお、この台湾樟脳の取扱いを起点に発展し始めたのが神戸の鈴木商店であった。同店は儲台直後に台湾へ進出して樟脳取引で高利益をあげ、専売制施行後は樟脳油の再製下請を通じて巨利を博し、大里製糖所の建設へと進む。
3月
伊東巳代治、枢密院顧問官に就任。伊藤博文とは事前に相談せず。
3月
坪内逍遥(40)、文学博士の学位を授与。引き続き早稲田中学の修身教育に専念、実践倫理の研究に没頭。この頃神経衰弱甚だしく、不眠癖が募って生涯の痼疾となる。
3月
若山牧水(14)、第3学年修業。この春できたばかりの県立延岡中学(現在の延岡高校)に成績優秀で入学、寄宿舎生活を始める。詩歌を深く理解する山崎庚午太郎校長の影響を受ける。
3月2日
アイヌに対する「北海道旧土人保護法」が公布
3月2日
耕地整理法が成立
3月4日
著作権法が公布
3月4日
第1次フィリピン(シャーマン)委員会、フィリピン到着。
3月6日
バイエル社がアスピリンを商標登録
3月8日
グスタフ・マーラー、フランクフルトで「交響曲ニ長調」演奏。
3月9日
商法制定公布
3月13日
田中正造他12人の衆議院議員が被害地視察に来る。
農商務大臣、被害地検分に現地に来る(室田忠七の鉱毒事件日誌より)。"
3月13日
大杉栄(14)、新発田を去る三好愛吉校長を全校300余の生徒とともに見送る。この日以前、中町の料理屋で開かれた三好校長と深田藤次教頭の送別会に参加
3月14日
山東巡撫張汝梅、更迭。毓賢をが後任。張汝梅の義和拳公認路線を引継いだ毓賢の時代(99年3月~12月)に義和拳は飛躍的に発展。毓賢は就任するや、「民可用、団応撫、匪必剿」と宣言(拳民が身を守るのは許す、拡大も許す。但し、掠奪・捕縛は匪とみなし鎮圧する)。この場合、匪は官に対抗する場合で、教民と事を起す場合は良民である。
清朝の地方政治の最高責任者:総督(8人)、巡撫(13人)原則各省に1人。
山東省の場合、済南に山東巡撫、天津に直隷総督(直隷、山東、山西、河北4省統括)。
毓賢(いくけん):
1888年山東省曹州府知府代理。2年後、按察使・権布政使に出世。その間、山東・江蘇の大刀会を鎮圧。1898年、湖南に移るが、翌1899年、山東巡撫に任命。平原事件で義和拳を弾圧した蒋楷・袁世敦を罷免し、義和団を公認して民間の団練とする。この結果、管内の義和団の活動を保護奨励することとなり、米公使の圧力により12月に巡撫を罷免される。1900年、山西巡撫となり外国人宣教士数十名を殺害し管内の教民を弾圧。朝廷が各国に宣戦した際に義和団を召集(「東南互保」を唱え傍観した張之洞・劉坤一らと対照的)。講和後、連合軍から戦犯に指名され、新彊に流罪にされる途中蘭州で処刑。
3月14日
子規、 前年3月以来の歌会再開、以後定期的に開催する。7月からは、結果は新聞「日本」に発表。歌人香取秀真(ほつま)、岡麓(3月14日は欠席)らが出席。俳句とは別の子規の門人グループが形成される。
3月15日
中国、総署(外務省)、「地方官接待教士事宜五条」公布。主教を総督・巡撫使と同格、副司教は布政使・按察使と同格、司教は知府・知県・知州と同格と規定。
3月16日
府県郡制の改革(憲政党=旧自由派の要求項目)、施行。
府県会・郡会の複選制を制限付きで直接選挙に変更し、郡会定数のうち3分の1を大地主が占める制度を廃止するもので、憲政党が地方議会に入れる余地を作った。地方の名士を政治に加え、地方自治を促すかつての山縣の考えを放棄するやり方だが、地租増徴法案を通すことをを優先した。一方、猟官を警戒し官選の知事・郡長の権力を拡大し地方支配を強化したが、これも地方自治の後退につながった。
3月18日
犬養木堂(43)、横浜で康有為門下の徐勤らが設立した大同学校の開校式に、大隈重信・尾崎行雄らと共に出席。犬養木堂は名誉校長に推される。宮崎滔天(28)列席。 横浜山手中華学園の起源。前年1898年2月設立。
3月20日
与謝野鉄幹(26)、堺を訪問。
23日、与謝野晶子(21)、乳母同伴で大阪市東区大川町の宿に鉄幹を訪問か。
3月20日
この日付け子規の漱石宛て手紙。
近況報告と出稿依頼。「ほととぎすは可なりに売れる由」と報告。
拝啓 大ニ御無沙汰ニ打過候内ニはや大分暖く相成候。家庭の快楽多き者は音信稀なりといふ原則は小生昔より自らこしらえてためし候処、大概はづれ不申。然るに家庭の快楽なき小生がかく御無沙汰に過ぐるは寒気のためと『ほとゝぎす』のためとに有之候。年始以来は全く寒気に悩され終日臥褥(がじよく)する事少からず時には発熱などあり全体に身体疲労致候ため『ほとゝぎす』の原稿思ふやうに書けず。もし四頁以上の原稿を書くとなるといつでも徹夜致し、そして後で閉口致すやうな次第に有之候。小生は前より夜なべの方なれども身体の衰弱するほど愈々(いよいよ)昼は出来ず夜も宵の口は余り面白からず十一、二時の頃よりやうやう思想活潑に相成候。徹夜の翌日ハ何も出来ず不愉快極り候。翌夜寝て其又の日は又原稿のために徹夜せざる可らざるやうに相成、月末より月始にかけては実に必死の体に候。しかし最早大分暖く相成かつ近来ハ発熱一向に無之少々くつろぎ申候。二、三日前神田まで出かけ候。今年の初旅に候。生憎虚子留守にて(妻君小児をつれて芝居にでも行きしかと察す)飄亭宅ニ到り蒲焼をくひ申候。
その節、蒲焼の歴史を考へ見るに、貴兄らと神田川にてぱくつきし以来の事と覚え候。うまさは御推察可被下候。
雑 報
虚子の子ハ今日が初めての誕生日也。初雛の景況ハ『ほととぎす』にて御覧の通也。至つて性の書き子にて一向泣き不申候。
碧梧桐ハ『大平新聞』第三面の主筆と聞え申候。
(略)
近来拙宅俳句会の顔ハ全く新しく相成候。早稲田から来る人二人あり。欠席なし。
極堂は市会議員に相成候。
請 願
『ほとゝぎす』へ何でも一つお書き被下まじくや。此頃ハ紙数少しく増加せし故六頁や七頁位はまとめて出せるやうに可致、何でも一つ御願ひ申候。材料はむつかしくてもやさしくても、専門的でも普遍的でも何でもよろしく候。
(略)
「ホトゝギス」第2号は1,200部刷って、200部ほどの返本があった。第3号は1,000部に減らしたが、今度は少し刷り足りなかった。いずれにせよこれは予想外の成功で、出資者兼発行人の虚子はまがりなりにも雑誌で家族の生活を支えることができた。
3月21日
英仏協定しスーダン・ファショダの危機回避。
3月24日
外務省、韓国馬山浦・郡山浦・城津浦の開港及び平壌の開市は5月5日より実施と告示。
3月28日
文官任用令改正。文官分限令(文官の身分と職務の保障強化)、公布。専門官僚制の徹底。
文官任用令改正内容:
①政党員の官界(官僚)進出を防止する為に自由任用を制限、
②藩閥色を薄すめ、東大法学部出身の官僚を政党と対立する力に育てる、
③特別任用以外の勅任官(天皇の勅命による任命)は、文官高等試験合格者である奏任官(大臣・地方官が天皇に奏推して任命する高等官の下位)より任命。
憲政党にとっては不利な改革であったが、地主らの反対を押し切って地租増徴に賛成した彼らはまだまだ山縣内閣から見返りを受け取る必要があり、しばらく政府との連携は続いた。
3月29日
イギリスとロシアの間、中国での鉄道敷設権に関する協定。
3月30日
大杉栄(14)、北蒲原尋常中学校第2年次を終了。成績は96人中54番。
つづく
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