1899(明治32)年
7月
〈「萬朝報」入社までの堺利彦の閲歴⑤終〉
1897年5月、『福岡日日新聞』退社、三度目の東京へ。
堺は最初から『福岡日日新聞』主筆の高橋光威とは折り合いが悪く、社員たちは残念がったが、入社1年後に退社することになる。
一方で、東京の乙槌から肺結核で先は長くない、との連絡が来る。乙槌は堺の上京を止めたが、堺は1897年5月に、東京へ向かう。
防長回天史編集所入社
征矢野に紹介された末松謙澄(豊前出身、伊藤博文の娘婿、ケンブリッジ大学のマスター・オブ・アーツの学位と日本の文学博士と法学博士の学位)より、『防長回天史』編集員の一人として雇われる。
末松は毛利公爵家の依頼で、『防長回天史』(維新前後の長州藩の歴史)を編集することになっていた。毛利家で以前から旧藩の歴史の編纂事業が行われ、材料の蒐集と整理も進んでいた。防長回天史編集所は芝区の白金猿町(現・港区白金台2丁目)にあり、所員たちはその近辺に住んで毎日通っていた。堺の「予の半生」には「東京とは云へ殆んど市中から隔絶して、二年の間、浮世離れた隠遁の生活を送つた」と書かれている。堺は身重の妻の美知子を連れて高輪に家を借り、下宿をしていた兄の乙槌も、引き取って面倒をみることにした。
1894(明治30)年8月10日、乙槌(32)没
10月、長男不二彦誕生
防長回天史編集所には総裁の末松謙澄のほか、古くからいる毛利家旧臣たちが5、6人と、末松が呼び集めた所員が6、7人いた。所員の首席格は山路愛山(本名・弥吉)、次席格の笹川臨風(本名・種郎)、斎藤清太郎、黒田甲子郎、末席に堺利彦という顔ぶれだった。毛利家旧臣は筆頭の中原邦平の他数人いたが、その一人で予備陸軍中尉の荒川銜(かん)次郎は、のちに堺が売文社で世話をする荒川義英の父親である。末松は旧長州藩の伊藤博文の娘婿だが、末松が招集した山路愛山は旧幕臣で、笹川臨風も斎藤清太郎も黒田甲子郎も堺利彦も全員が他藩人だった。
編集作業は、他藩人が主体となり、毛利家旧臣たちは顧問役、案内役となって、他藩人に説明しながら進んでいった。堺は「予の半生」で「此の二年間ほど気楽な時は無かつた」と述懐している。また、この編集作業を通じて、堺は維新史の知識を得ることもできた。
臨風は「堺君は我々呼んで愛妻居士と云つてゐた。社会主義などを唱へる人でなく、寧ろ家庭改良論者であつた」とも述べている。
堺は編集所の仕事で防長2州に出張し、吉田松陰の兄の杉民治の案内で松下村塾の旧跡などを訪ねている。この出張での見聞を、1897年12月6、13、20日の3回、『読売新聞』に「たもと草」と題して寄稿した。
このころ、堺は高輪から同じ芝区の白金今里町(現・港区白金台)に引っ越している。2棟ある大きな家なのに家賃は5円。裏手には浪華文学会時代からの友人の加藤眠柳が住んでいた。この家には美知子の妹の保子も同居するようになり、隣家には上司小剣が来て住み始めた。上司小剣が大阪から上京したいといってきたので、堺は堀紫山に頼んで彼を『読売新聞』に入れてもらった。堺の生活はにぎやかだった。編集所の給与は月30円から40円に上がり、生活に窮することもなかった。
1898年5月5日、「哀史梗概」(『レ・ミゼラブル』の翻訳、『福岡日日新聞』)
1899年5月、『防長回天史』編集解散が決まる(6月末に一部を除いてほぼ編集作業は終了)。
将来への展望
(「三十歳記」)によれば、3月16日、将来について考え、政治家、教育家、文学者のどれを選ぶべきかで悩む。尊敬していた内村鑑三の影響で、教育家ということも考えたが、学閥があるのは嫌な心地がし、教育文学者、道義文学者、宗教文学者のどれが望ましいか、と迷う。
1899年4月頃、妻の美知子が胃の病気で衰弱。8月、長男の不二彦も脳膜炎を起こして入院。
堺は田川大吉郎が主筆の『報知新聞』か、黒岩涙香が主宰する『萬朝報」のどちらかに入りたいと考えていた。この二紙が当時の東京の新聞では発行部数が多く、勢いがあった。
1899年4月9日、堺の日記にはじめて「幸徳」の名前が見える。「我は萬朝に入らんの望あり。久津見、幸徳の二人に相談中なり」と記している。
堺は久津見の家で、当時は『萬朝報』に籍を置いていた批評家・小説家斎藤緑雨(本名・賢)にも会っている。堺はその日の日記に「緑雨は病に衰へながら皮肉の言を吐くに苦心せり」と書いている。
福沢諭吉の女性論に共感
1899年4月9日の日記にも「時事新報の女子論を読む、至極よしと思ふ、予も今後此事につき研究し実行せんと欲す」と記している。
福沢諭吉は『時事新報』紙上に「女大学評論」と「新女大学」を順次掲載し、それをまとめた『女大学評論 新女大学』(1899年10月)を刊行している。福沢にとっては数十年前に考えていた内容だが、明治初期には誰も耳を傾けない状況だったので、時機が到来するのを待っていたという。その『女大学評論新女大学』を執筆している最中に福沢は脳溢血で倒れ、残りの部分は、病床での談話を筆記してもらって本にした。その後、脳溢血が再発して、福沢は1901年に逝去する。
同書は、結婚した男性が妾をもつことへの非難、女性が離婚でいかに不利な立場に置かれているかなど、(堺の)『家庭の新風味』の内容と重なる部分が多い。堺は『時事新報』に掲載されていたときから福沢の女性論に共感し、『家庭の新風味』のなかに生かしたと思われる。
1899年6月末、『防長回天史』編集事業終了。以後、数年間にわたって全12巻の書物として発行。
6月26日、毛利家当主から午餐会に招かれ、山路愛山、笹川臨風、斎藤清太郎らと共に、堺も小切手で1,000円を受け取っている。堺の日記には、その1,000円の使い道の内訳が細かく記されている。100円を借金返済に、100円を質からの受け出しに、親戚や病人のお見舞いなどで約100円を、妻美知子に衣服代として100円を渡した。堺は自分のために初めて懐中時計を買い、交際費にもいくらか使った。その他、友人や知人に頼まれて370円を貸すと、手元に残ったのは100数10円だけだったという。
『堺利彦伝』は、この朝報社への入社が決まった時点で終わっている。
『萬朝報』時代は、堺の言葉を借りれば、「士族出身の、半独学の、中流知識階級者としての君が、個人的の立身出世思想から中流階級本位の社会改良主義に移り、更にそれから一転して社会主義者になるまでの、四年間の過渡期」となるのだった。
つづく
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