明治32年(1899年)8月4日、日本麦酒株式会社(後のサッポロビール株式会社)が東京の銀座8丁目に「恵比壽ビヤホール」を開店。これが、日本で初めて「ビヤホール」の名称が使われたお店
1899(明治32)年
7月2日
子規庵で歌会
「(3月14日のあと)歌会は四月十八日にも持たれた。しかし、子規の病状が悪化した五月は休会となり、六月も休んだ。
七月二日の日曜日、ひさかたぶりに開かれた歌会が「根岸短歌会」の発端だといえるのは、子規がこの月から歌会記録・批評を「日本」に掲載するようになったからである。
そのときは七人がつどった。なかに碧梧桐の顔もあった。以後、毎月第一日曜日を例会の日とし、俳人を数人混えつつ催された。
午後一時にはじまる会は、ときに深夜十二時まで至ることがあったが、その間おおかたは、病床にあることさえ忘れているのではないかと思われるほど子規は元気で多弁であった、と門人のひとり赤木格堂は回想している。子規の短歌改革への情熱は、自身の作品においてもそのピークをなす明治三十三年へと疾走して行く。」(関川夏央、前掲書)
7月3日
子規、竹村鍛宛て書簡に「パインアップルとバナナを得て本望」と記す。
7月5日
国民協会解散、帝国党を結成、山県内閣支持を決議。
7月8日
堺利彦の妻美知子、胃腸の具合が悪化しこの日から子の不二彦と共に栃木県塩原の温泉で療養。結局、なかなか回復しないので、東京市の郊外に引っ越して家族3人で暮らすことする(8月12日転居)。
7月9日
活版工組合演説会。桑田熊蔵(社会政策学会)、労使協調主義を唱える。
この頃、労働組合期成会の運動は、創始者高野房太郎が労使協調を唱え、片山潜は機関誌「労働世界」に社会主義欄を設けて社会主義運動との結合を図り、指導方針をめぐる基本的対立が生ずる。
労働組合期成会の危機:鉄工組合(5400名)は共済制度により発展するが、疾病・死亡多く、財政難に陥る。赤字対策による支出減のため、組合費滞納者が増大、納入者が1000人に激減。活版工組合(2千余)は、資本家側(印刷営業組合)の了解のもと夜業賃銀2割増をうたい全国に支部ができる。しかし、資本家側組合の責任者を交代させ、賃上げ約束を破棄。組合員大量脱会のため、成立後半年で組合機能停止、自然消滅の道辿る。
7月10日
天皇、東京帝国大学の卒業式で成績優秀者に銀時計を授与。恩賜の銀時計の始り。
7月15日
軍機保護法・要塞地帯法公布
7月17日
改正条約実施。外国人内地雑居承認・治外法権撤廃。
7月17日
日本電気(通称NEC)が設立
7月20日
虚子、転地療養先の修善寺から帰京
7月21日
汽船「布引丸」、フィリピンの独立運動派への武器弾薬(日本陸軍払い下げ武器・弾薬)供給の為に航行中、上海沖で難破。
7月21日
ニューヨーク市で、1899年の新聞少年ストライキ始まる。同年8月2日終結。
リーダーのルイス・バラットのもとに5,000人の新聞少年が結集。ストライキ参加者は数日間ブルックリン橋でデモ行進。一般の人々も味方となり、ストライキが終わるまでどの新聞も買わないことにした。新聞社は少年たちの代わりに大人を雇おうとしたが、大人たちも子供の立場を理解し、少年たちに敵対するようなことはしたがらなかった。
バラットは、ストライキ参加者たちに「仲間たち、友人たちよ。時が来た。団結する時が来たのだ。たとえ困難であろうと私たちの意志を通さなければならない」と語った。
新聞社(『ワールド』紙、『ジャーナル』紙)は1束60セントから値下げしなかったが、売れ残りを買い戻すことで合意し、1899年8月2日にストライキは終結。
7月21日
米、ヘミングウェイ、誕生。イリノイ州シカゴ市住宅地オ−ク・パ−ク(当時はシカゴ市とは別個の行政都市)。父は医師クラレンス・エドモンド・ヘミングウェイ、第二子。
7月24日
「免租更生ニ付キ免租ノ辞令アリタリ」(室田忠七の鉱毒事件日誌より)
8月
軍事探偵石光真清陸軍大尉、参謀本部第部長田村怡与造大佐の命令で東京出発。ブラゴウェシチェンスク(シベリア鉄道「アムール線」基地)へ。ロシア軍人宅に住みこみシベリアの形勢をうかがう。「私費留学生菊池正三」として。
8月
高野盂矩事件。高野の後を追い辞職しその後弁護士になった戸口・加藤・竹内に加え、花井卓蔵・小川平吉ら弁護士22名が、原告高野盂矩の代理人となり当時の蔵相松方に対して俸給支払請求訴訟。
10月9日東京地裁は訴えを却下。
翌明治33年2月12日控訴院が控訴棄却。
同6月14日大審院も上告棄却。
8月
社会政策学会趣意書、放任主義と社会主義ともに排し、「現在の私有的経済組織を維持し、其範囲内に於で個人の活動と国家の権力とに依て階級の軋轢を防ぎ、社会の調和を期す」と述べる。社会政策学会内部で、社会主義を主張する片山潜と反対する金井らの対立が目立つ。
8月
漱石「小説エイルヰンの批評」(「ホトトギス」2巻11号)。
8月3日
田中正造、本郷順天堂病院の病床より鉱毒運動地元指導者大出喜平・野口春蔵に手紙(明治28年3月「異カタル」で70日間入院以来度々入院)。沿岸被害者による「公議体」(議会)を組織し、各自責任分担を提案。この前後、被害激甚地に小児死亡者が多いため非命死者調査を急ぐよう手紙。
8月4日
日本麦酒会社、京橋区にビアホールを開店。
8月4日
室田忠七の鉱毒事件日誌より
8月4日 (久野)村事務所で村行政について協議し、次の2件を決議する。
「鉱毒費賦課方免租積算額ニ課ス」
「高等科設置ノ件高等科ヲ置クコト」
8月5日
足利税務署に出頭し、久保田の新荒地免租について陳情する。"
8月5日
壺井栄、香川県小豆郡坂手村(現在の内海町坂手)に樽職人の岩井藤吉・妻アサの5女として誕生。
8月13日
米、アルフレド・ヒッチコック誕生
8月10日
与謝野鉄幹(26)、大阪時代の親友河野鉄南宛てに、浅野信子が出産したことを知らせる書簡(女児「ふき子」)。発信地が「東京下谷区金杉町上町五六 文学書院」。子供が没し、戸籍簿に「明治三十二年九月十七日午後拾弐(12)時東京市下谷区上野桜木町ニ於テ死亡」と登載。鉄幹は信子と別れる。
8月12日
堺利彦、荏原郡入新井村(現・大田区大森北)の藁葺きの農家に転居、妻美知子と長男不二彦も療養先の塩原から戻って同居した。
8月28日、不二彦が脳膜炎でひきつけを起こして人事不省に陥る。翌日、危篤状態になったが、もちこたえて入院した。不二彦はそのまま昏睡を続ける。回復の見込みがないまま日が過ぎて、入院費もままならず、やむなく退院してさせ、看護婦を雇って自宅看護に切り替える。彼は、原稿を書いては雑誌や新聞に売り、そのための費用を稼いだが、その甲斐もなく12月22日、不二彦は没する。僅か2年の命だった。
つづく
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