2024年9月12日木曜日

大杉栄とその時代年表(251) 1898(明治31)年10月1日~10日 「仏敵板垣」排撃運動 漱石、五高生徒らの俳句結社「紫溟吟社」主宰者となる(寺田寅彦、渋川玄耳ら) ホトトギス』第2巻第1号 子規『小園の記』      

 

紫溟吟社の起り

大杉栄とその時代年表(250) 1898(明治31)年9月21日~28日 西太后の反変法クーデタ(戊戌政変) 変法派6名処刑、康有為ら日本亡命(百日維新) 足尾鉱毒被害民の第3次押出し より続く

1898(明治31)年

10月

朝鮮、官民共同会開催

10月

内村鑑三、「万朝報」再入社。

10月

石川舜台の意見書に呼応して「大日本仏教青年会」が「監獄教誨師問題に就て世の公論に訴ふ」を発表。「内務大臣不当の処置」を非難するなど、仏教側から「仏敵板垣」排撃運動が展開される。

板垣内相は本願寺法主に上京を求め、石川を僧侶の政治関与を禁止した本願寺の宗規によって処分することを求め、大隈首相も法主に石川の処分を求める書翰を発す。

本願寺側は石川処分の審査会を設置した上で、処分に該当する事実なしという結論を出して、政府の要求をつっぱねる。

10月

漱石、乞われて五高生徒らの俳句結社「紫溟吟社(しめいぎんしや)」の主宰者となる。

結社には五高最上級生となった寺田寅彦が寅日子(とらひこ)の俳名で参加。また、この時、熊本で軍法官をつとめ、のちに朝日に入社した漱石と、東京朝日新聞社会部長として再会する玄耳渋川柳次郎は翌明治32年に紫溟吟社に参加する。

10月1日

森鴎外(36)、近衛師団軍医部長兼軍医学校長となる。

10月1日

東京、特別市から一般市になる

10月1日

足尾銅山鉱業停止東京事務所に詰めていた栃木県足利郡(旧梁田郡)久野村在住の室田忠七の鉱毒事件日誌より


農商務省に大臣の面会を求めていったが、大臣病気のため出省せず。少人数で大臣宅へ行くようにとの指示がある。しかし結局は官邸で全員が農商務大臣と面会する。農商務大臣は、次のように被害地民に対して理解あることを述べた

「皆様ノ話シニ就テハ我レモ又内務大臣モ過日洪水ノトキ非常ニ心配シ、銅山ニハ技手ヲ派遣シ夫々鉱毒ノ流失セシメザル様注意シ居ル。又被害地へハ技手ヲ派出夫レ々皆調査シテ居ル故ニ、本省ニテモ夫レ々此ノ件ニ付調査シテ居ルワケデ(ア)ル。諸君ガ斯ク多数上京スルニハ余程困難スルニ相違ナク、実ニ憫然ノ次第デアル。故ニ此ノ際、諸君ノ願意ノ内取ルベキ者ハ採用シ、用ヒラレザル者ハ用ヒズト言フ方ガ諸君ノタメ利益デアルカラ、現政府モ尽セル限リハ尽スツモリテアル故ニ、諸君モ順序ヲ誤ルべ可ラズ。諸君ガ順序ヲ誤ラズシテ地方長官ノ手続ヲ経テ惣代丈ニテ事情ヲ具申シタラバ、諸君ノ主旨モ貫徹スルニアロウ。若シ順序ヲ蹄ミテ而シテ諸君ノ願意ガ徹底セザルトキハ、本大臣職ヲ退テモ速ニ採用スベシ。本大臣ハ勿論、内務大臣モ採用スルデアロウ。若シ諸君ガ順序ヲ蹄ミテ願意ガ徹底セザルトキ、本大臣ガ職ヲ退テ諸君ニ謝スベシ。若シ又諸君ノ願意スルトシテモ、国会ノ協参ヲ経ナケレバナラヌ故ニ、諸君モ宣シク議員ヲ運動スベシト言フ」

10月3日

義和拳リーダ趙三多、冠県蒋家荘で決起集会。北上して邱県に至るが、清の駐屯軍の攻撃をうけ南下。威県でも正規軍居攻撃され大損害をうける。

27日、山東省に入り、冠県臨清の西・留善固に至る。

11月1日、戦いに利有らずと判断し、ここで隊伍500を解散。

10月4日

子規、京都の天田愚庵に柿をねだる手紙を出す。

7日、大阪朝日新聞社の京都支局に勤めていた寒川鼠骨が、愚庵に托された柿を携えて夜行列車で出発。翌土曜日朝に東京へ着いて子規庵を訪れ、枝ごとの柿で子規を大いに喜ばせた。

彼はそのまま句会に参加し、翌日京都に帰ったが、のちにこのことが問題となって大阪朝日を辞めざるを得なくなった。そのときたまたま京都旅行中であった陸羯南に相談すると、同情した羯南は鼠骨を「日本」に入社させることにした。

10月7日

室田忠七の鉱毒事件日誌より

足利郡役所に出頭し郡長に面会して、「農商務・内務両大臣ガ地方庁ヲ経由セザレバ如何ナル事情アリトモ面会セザルトノコトニ付、郡長ヨリ知事ニ向テ被害地人民ノ窮困ノ事情具申シ被下タシトノ件」を述べる。郡長は、県庁に行く時一緒に行くことを約束した。

10月10日

高浜虚子を発行名義人とし、明治30年1月松山で発刊された『ホトトギス』の後継誌、『ホトトギス』第2巻第1号を発刊。定価9銭、60頁。


「「ほととぎす」は経営困難におちいっており、虚子が長兄池内政忠から借りた三百円で譲り受けたのである。「ホトゝギス」一号は千部刷ったが、意外にもたちまち売り切れて五百部再版した。虚子から最初協力を求められたとき「世の中へ立て雑誌でも出さうといふやうな一部俗的の事になると、貴兄は未だ小生に及ばぬ所がある」といっていた病床の子規も、狂喜して手紙の封筒に、「天気はよくなる雑誌は出来る快々」と書きつけた。」(江藤淳『漱石とその時代2』)


子規『小園の記』(青空文庫)

「この号に子規は『古池の句の弁』『小園の記』『土達磨を毀(こぼ)つ辞』『俳諧無門関』『朝顔句合』(傍点引用者)のほかに、新体詩や和歌も発表した。およそ言葉による表現ジャンルの全てを、実践している。なかでも『小園の記』は、新しい散文の試みである。

『小園の記』を「子規の写生的随筆」と位置づける木村幸雄氏は、図入りで書かれたこの文章について、「図は「小園の図」と題され、園内のあちこちに植えられている草木の位置が、それらを詠んだ俳句を記入して示されている。文章は写生文である。眼前の小園の実景を写生的に描いている。それが、途中で想像の世界を描く文章に発展し、飛躍するところがある。そこが読んでいて面白いところであり、子規の随筆の文章の特色が発揮されている」(『子規の随筆-写生と想像』、『国文学解釈と観賞』二〇〇一・一二)と述べている。「小園の図」という図と、「我に二十坪の小園あり」と始まる『小園の記』という文を相互に関わらせてみると、空間的言語表象としての図があるからこそ、文の側の時間的構造を明確に辿(たど)る可能性が出て来ることがわかる。

(略)

『小園の記』は、「我に二十坪の小園あり。園は家の南にありて上野の杉を垣の外に控へたり」と始まる。まず「始めてこゝに移りし頃は僅に竹薮を開きたる跡とおぼしく草も木も無き裸の庭」だったことが想い起こされ、「小園」の来歴が語り始められていく。・・・・・とある。

・・・・・「小園」の来歴の始まりは、「一年軍に従ひて全州に渡りしが其帰途病を得て」という、一八九五(明治二八)年の従軍の記憶と、結核の病の急激な悪化の記憶とが重ねられていることがわかる。

(略)

・・・・・日清戦争への従軍から、結核を悪化させて帰還した、九死に一生を得た子規が強く反応したのは、「白菊の一もと」であった。

子規の思いは「白菊」の「花」に凝縮されている。


ありふれたる此花、狭くるしき此庭が斯く迄人を感せしめんとは曾(かつ)て思ひよらざりき。


生死の境をさまよった子規が、奇跡的に東京に「帰り着きし時」の〈今、此所〉において迎えてくれたのが、「ねぢくれて咲き乱れたる」「白菊」の「花」だったのた。・・・・・

(略)

『小園の記』における時間には、「図」の現在時だけでなく、「帰り着きし時」を始まりとする「此より後」の、一八九五年の一〇月から九八年の一〇月に至る、丸三年間の時間の持続が組み込まれてもいる。・・・・・

(略)

『小園の記』は、起点としての一八九五年秋から出発して「つぐの年」と、翌九六年の「春」の出来事に言及していく。

暖かいある日「余」は、「萩の刈株」の新芽を見つめている。その「勢」を見つめながら、この春の日からは未来である「秋」に咲くはずの萩の花の色を「余」は想像する。想像が可能になるのは、前年の秋に萩の花を見た記憶が存在しているからだ。・・・・・


今迄病と寒気とに悩まされて弱り尽したる余は此時新たに生命を与へられたる小児の如く此より萩の芽と共に健全に育つべしと思へり。折ふし黄なる蝶の飛び来りて垣根に花をあさるを見てはそぞろ我が魂の自ら動き出でゝ共に花を尋ね香を探り物の芽にとまりてしばし羽を休むるかと思へば低き杉垣を越えて隣りの庭をうちめぐり再び舞ひもどりて松の梢にひらひら水鉢の上にひらひら一吹き風に吹きつれて高く吹かれながら向ふの屋根に隠れたる時我にもあらず惘然(もうぜん)として自失す。


若く生命力に満ちた「萩の芽」をながめ、それらと一体化して、現実の「病」と「寒気」から脱げ出し、「健全に育つべし」と思った「余」は、「花をあさる」「黄なる蝶」と一体化する。現実に見ている「萩の芽」は、三枚の複葉、想像している秋に咲くであろう萩の花は蝶の形をしている。現実と想像の間で、飛んできた蝶と一体化するのは、荘子の『胡蝶之夢』以来、夢と現実、我と物とが一体化する境地の、漢字文化圏の伝統における最もなじみ深い表象である。

(略)

『小園の記』は、次の文章で結ばれることになる。


薔薇、萩、芒、桔梗などをうちくれて余が小楽地の創造に力ありし隣の老嫗(ろうう)は其後移りて他にありしが今年秋風にさきだちてみまかりしとぞ聞えし。


この末尾の一文に至って、『小園の記』という「写生文的随筆」の、根幹にある思想が明らかになる。「萩」と「芒」を庭に植えてくれたのも、そして最初の「花」としての「薔薇」を植えてくれたのも「隣の老嫗」だったのだ。そのことに読者が気づいた瞬間、『小園の記』の文章のねらいがはっきりと見えてくる。この文章の最初に、過去時制の「き」を使用した「隣の老媼(ろうおう)の与へたる薔薇の苗さへ植ゑ添へて四五輪の花に吟興を鼓せらるゝことも多かりき」という文があったことを読者は想起する。

全ての「小園」をめぐる出来事に、「隣の老媼」の関わっていたことが、末尾になって明確になる。その「老媼」が亡くなった。この『小園の記』は、この「老媼」への追悼文になっているのだ。

いや、単なる追悼文ではない。「老媼」が「秋風にさきだちてみまかりし」ことをまだ知らなかった「野分」前後の「小園」での出来事を、彼女の死の知らせの「聞えし」後に『小国の記』として叙述していることを明示することで、「老媼」への深い哀悼を、文章の時間的構造による暗示的表現として子規は結実させているのだ。」(小森陽一『子規と漱石 友情が育んだ写実の近代』(集英社新書))

「・・・・・この号に子規は、獺祭書屋主人、俳狐通人、「ねずみ」などの筆名分を含め、俳句、句評、短文を合計九本も書いていた。

(略)

虚子はできあがった雑誌を使いの者に持たせて子規宅に届けさせた。子規は、「雑誌の出来一体わるくない」「天気はよくなる、雑誌は出来る、快々」としたためた返書を使いに託した。薄くはあったが、子規の目には満足すべき出来であった。自分のグループの雑誌を持つという宿願を、ついに果たしたのである。

印刷所から虚子の神田錦町の家に運びこまれた雑誌を、本屋がつぎつぎとりにきた。そうこうするうち二時間で千部が品切れとなった。何度目かの追加分をとりにきた本屋の小僧が、いっぱしの商売人らしい口調で、千部再版してもはけますよ、と虚子にいった。

たしかにそんな勢いであった。しかし慎重な虚子は、まだ書店には売れ残っている分があるはずだと考え、再版は五百部にとどめた。虚子の読みは妥当であった。

虚子が根岸の家へ行ったときには、子規は「ホトトギス」の何度目かを読んでいた。

「校正をもっとよくせないかんな」と子規はいった。「校正はむずかしいものさ。今度は私(あし)も手伝おうわい。二人で遣ろう」

(略)

虚子はその日、人力車を奮発して根岸へ走らせたのだが、帰路は例のごとくに徒歩であった。本郷の本屋の前を通りかかったとき、ひとりの書生が「ホトトギス」をとりあげてばらばらと眺め、そのあと意を決して買う場面をたまたま見た。虚子は自分の努力が報われたと思った。雑誌づくりの喜びを、虚子ははじめて味わった。」(関川夏央、前掲書)


つづく

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