2024年9月13日金曜日

大杉栄とその時代年表(252) 1898(明治31)年10月11日~21日 漱石、欠勤延長(鏡子の悪阻が酷いため) 日本美術院開院式 社会主義研究会結成 梁啓超、日本へ亡命 

 

梁啓超

大杉栄とその時代年表(251) 1898(明治31)年10月1日~10日 「仏敵板垣」排撃運動 漱石、五高生徒らの俳句結社「紫溟吟社」主宰者となる(寺田寅彦、渋川玄耳ら) ホトトギス』第2巻第1号 子規『小園の記』 より続く

1898(明治31)年

10月11日

清、栄禄を欽差大臣として北洋四軍統率させ、軍権の集中を図る。2ヶ月後、北洋五軍を武衛軍と改称。列強に備える。

10月12日

漱石、教頭の狩野亨吉に欠勤延長届を提出。妻、鏡子の悪阻が酷いため。悪阻は11月頃まで続き、やがて平静に復する徴候を見せ始める。

10月12日

栃木県知事、鉱毒被害を視察し被害民の案内により堤防を見る(室田忠七の鉱毒事件日誌より)。

10月14日

大杉栄(13)の妹秋(あき、四女)が生まれる。

10月15日

日本美術院、開院式

岡倉天心が東京美術学校を辞職した際、行動を共にした美術家達(橋本雅邦、六角紫水、横山大観、下村観山、寺崎広業、小堀鞆音、菱田春草、西郷孤月)が結成。7月1日、創設趣旨を発表。

10月16日

この日付け漱石の子規宛て手紙に添えられた漱石の句稿。


病妻の閨に灯ともし暮るゝ秋

病むからに行燈の華の夜を長み

病癒えず蹲る夜の野分かな


10月16日

雲竜寺事務所で「被害民救済願・自治破壊ニ付救済願・堤防増築願ノ件ニ付県知事参考書類ヲ出スコト」を決議する(室田忠七の鉱毒事件日誌より)。

10月18日

清、両江総督劉坤一(変法運動鎮圧の保守派)、「沿江・沿海の各省に、団練を実行させたい」と上奏(康有為と同じ発想)。

11月16日、西太后、民を訓練すれば「緩急の際の恃みとなすに足る」と述べる。

10月18日

社会主義研究会結成。キリスト教徒とアメリカ留学経験者を中心とする研究会。村井知至・安部磯雄・片山潜・幸徳秋水(11月20日第2回会合より参加)・河上清。同日「六合雑誌」に連載記事。

明治33年、非社会主義者が退会し「社会主義協会」結成。第2インター第5回大会に村井知至派遣決定。

10月19日

久野村鉱毒事務所で「鉱毒地免租継年期願ノ件」で協議する(室田忠七の鉱毒事件日誌より)。

10月20日

フィリピン、グレゴリオ・アグリパイ神父、フィリピン独立革命軍従軍司教総代理に任命。

10月21日

西太后の軍事クーデター「戊戌政変」で清国を追われた梁啓超、日本へ亡命。広島経由で東京へ到着すると、その晩は北京の日本大使館から付き添ってきた平山周に伴われて、麹町区平河町4丁目の旅館三橋旅館(三橋常吉経営)に宿泊。

翌22日、牛込区早稲田鶴巻町40番地の高橋琢也方へ移り、手紙を書くことに没頭する。

まず、伊藤博文に感謝の意を表するのと同時に、光緒帝を救ってくれるよう嘆願して面会を求めた。だが伊藤から返事はなかった。他の政治家たちにも面会を申し込んだが、誰からも反応はなかった。

ようやく外務大臣大隈重信の代理人志賀重昂と再会できることになり、梁啓超は徹夜で「光緒帝救出作戦計画」を作成して持参した。

10月26、27日、梁啓超は志賀と筆談で懇談した。志賀は梁啓超の熱意に打たれ、同情の念を示した。だが、退職間際の志賀には権限もなく、期待した日本政府の支援には繋がらなかった。日本政府は形ばかりの機会を設けて話を聞いてやり、それでお茶を濁した

日本の新聞で「性急な改革が今般の禍を招いたのだ」との改革派に対する批判記事が掲載されると、梁啓超は品川弥二郎子爵に丁重な手紙を書き送り、日本の世論に対する違和感を切々と訴えた。

手紙の末尾には、

「(梁)啓超は敬愛する(吉田)松陰、東行(高杉晋作)両先生にあやかり、いま名を吉田晋と改めました。現住所は牛込区鶴巻町四十番地です。もしお手紙を賜りますれば願ってもない喜びに存じます」と書いた。

日本に来た中国知識人の多くが日本名を名乗っていたのは、この時代の特徴的な現象である。


梁啓超;

1873年、広東省新会県に生まれる。幼時から神童と呼ばれ、17歳で科挙試験の郷試に合格して「挙人」の称号を得る。18歳で康有為に師事して一番弟子となり、清朝の政治改革運動に従う。

1898年夏、光緒帝(27歳)が康有為の提言を容れ、日本の明治維新に倣って政治改革「戊戌変法」を実施したが、守旧派の既得権益に触れて怒りを買い、西太后の画策した軍事クーデター「戊戌政変」により潰される。光緒帝は幽閉され、改革派は逮捕・処刑されたが、康有為は逃げ延びた。梁啓超も北京の日本大使館へ駆け込み、折から清国訪問中だった伊藤博文に助けられて日本へ亡命した。

天津で戦艦「大島」に匿われ、失意のどん底にいた梁啓超を見るに見かねた艦長が、東海散士『佳人之奇遇』を手渡した。世界7ヶ国の歴史を説いて日本国の危機を訴えたこの政治小説に、梁啓超は夢中になり中国語に翻訳した。

その後、梁啓超は14年間、日本で亡命生活を過ごすが、貪欲な情熱で「日本学」や近代科学を吸収していった。雑誌『清議報』を創刊。東京大同中華学校、横浜大同学校(現在の横浜山手中華学校)、神戸中華同文学校の開校に携わる。


日本への亡命の船中で詠んだ漢詩。


鳴呼 済艱乏才兮 儒冠容容

佞頭不斬兮 侠剣無功

君恩友仇両未報 死於賊手母乃非英雄

割慈忍涙出国門 掉頭不顧吾其東


ああ、艱難を救うには才が乏しく、儒学の冠をかぶる者は易きに追随する。

頭をへつらい斬らず、侠士の剣は効なし。

君子の恩も友の仇もふたつとも報いるをならず。賊の手により死す者はすなわち英雄ならんか。

慈を割き涙を忍んで国門を出る。頭をふるって顧みず、われは東へ行かん。


吁瑳乎

男児三十無奇功 誓把区区七尺還天公

不幸則為僧月照 幸則為南洲翁

不然高山蒲生象山松陰之間占一席

守此松筠渉厳冬 坐待春回 終当有東風


ああ、

男子三十にして功もなし。誓ってつまらぬ私が身を天に還さん。

不幸ならば僧の月照となり、幸いならば西郷南洲となろう。

さもなければ高山(彦九郎)、蒲生(君平)、(佐久間)象山、(吉田)松陰の間に一席を占めよう。

松竹の常緑を守りて厳冬を渡り、座して春の巡るのを待ち、いつの日にか東の風に当らん。


つづく

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