大杉栄とその時代年表(260) 1899(明治32)年4月1日~30日 島崎藤村、小諸義塾に赴任、フユと結婚 足尾銅山鉱毒被害民の請願、貴族院で議決され内閣総理大臣に送付される 大杉栄、名古屋陸軍地方幼年学校を受験・合格 横山源之助『日本之下層社会』教文館 より続く
1899(明治32)年
5月1日
神拳、莅平県張官屯で「天主教に罰を与え神拳を祝う」芝居敢行(4日間)。近隣大刀会員1千が集合。莅平県知県も視察(好意的中立、山東巡撫毓賢の時代)。神拳は盛んになり県の全村に道場ができ、近県にも拡大始まる、
5月
この月 子規の体調悪化。「兎に角五月は厄月に候」
虚子もまた入院。「ホトトギス」最大の危機。
「五月はもっとも美しい季節である。しかしその五月を子規は厄月とみなしている。
二度めの喀血を見たのは十年前、明治二十二年五月九日夜であった。日清戦争従軍の帰途、船上で大量の血を吐いたのは明治二十八年五月十七日。以後彼は「病床六尺」の人となった。
明治三十二年の五月も五日から急に熱が高まった。腰の病みがひどい。三十九度を超える高熱が一日に二度出る。「昼夜焦熱地獄ニ在り」と子規は「牡丹句録」に書いた。発汗して疲労がはなはだしい。なのに眠れない。
五月十日朝、浣腸したあと少し眠った。五月十一日からは発熱は日に一度となったが、尻にあらたに生じた腫れものがひどく痛む。郷里の後見人大原恒徳宛の手紙に、「毎日繃帯のとりかへにハ大声あげて泣申候」「一切の食物ハやめにして牛乳と果物ばかりに御坐候」としるした。
五月二十日、食欲はようやく戻った。しかし尻の腫れものが崩れている。脊髄カリエスの膿を、従来の腰部の穴だけでは排出しきれず、あらたな排膿孔が生じたのである。
寝返りが打てない。当然、寝床の上にすわることもかなわない。
座して原稿を書き、庭の草花を眺める。来客と対話する。それができぬなら死んだもおなじだ。子規はわが身を深く悲しんだ。
だが、しばらくのちにやや軽快した。立てたままの左膝の部分だけをくりぬいた机に短い時間なら向かうことができるようになって子規を喜ばせた・・・・・」(関川夏央、前掲書)
「小生病気は先月二十日頃臀(しり)に新らしさ穴を生じ、夫が為臥褥(ぐわじよく)の処(ところ)、本月五日頃より発熱乱調、昼夜の焦熱地獄には閉口いたし候。十日過ぎより稍々(やや)順当に向ひ、臀の痛みもすこし減じ、熱も夕刻一回のぼる事に相極り候故、稍々落付き申候。然し今に身かへり困難にて、ドチラ向いて寝ても何処かの痛みに障り、兎角眠りを防ぎ居り候。熱は全く無きかと思へは倏(たちま)ち四十度に上ることもあり、不定申候。・・・・・
「つくつくと考へ候へば、今度の病程望みなきはあらず候。生死の事は知らず、すわれるといふ望、殆ど絶申(たえまうし)候。すわれぬ程ならば、死んだも同じことに候。否徒に苦痛をなめんよりは、死んだ方が余程ましに候。こればかりは毎日屈託致候。
「折節生憎虚子も病気にて山竜堂病院へ入院致候。腸胃カタルの急性にて衰弱甚しく、傍人(ばうにん)は非常に気遣申候処、昨今少し快方の由兎に角五月は厄月に候。」(おそらく5月31日に執筆・一部代筆・6月1日付在京都石井祐治宛)
5月
大杉栄(14)、幼年学校に入学するため北蒲原尋常中学校を退学。
5月
ハワイ、オーラア砂糖耕地会社設立。開墾には日本人請負師岩崎次郎吉が雇われる。通訳(日本人労働者と会社との意思疎通)坂巻銃三郎。半年後、オーラアの労働者は1829(内、日本人1268、中国人132、ハワイ人429)となる。
5月4日
~ 5日 足尾銅山予防工事、山村植林の現地視察を行う(室田忠七の鉱毒事件日誌より)。
5月4日
笹川良一、誕生。
5月5日
鉄幹(26)、河野鉄南宛て「荊妻 妊娠、まことに驚くのほか これなく候」と手紙。鉄幹は妊娠の妻を置いて、京都嵯峨・天龍寺で40日間(6月中旬)の座禅を組む。
5月7日
袁世凱、山東義和団鎮圧を命じられる
5月9日
フィリピン、革命政府マビニ内閣更迭、パテルノ内閣による和平交渉にはいるが失敗。
5月14日
雲竜寺事務所で、今後の方針について相談する(室田忠七の鉱毒事件日誌より)。
5月14日
宮城県白石町で大火。4300戸焼失。
5月15日
朝鮮、京仁鉄道(資)設立(資本金72万5千円、社長渋沢栄一、'02/12/30.京釜鉄道に合併)。
5月16日
大山巌元帥、陸軍参謀総長となる。川上操六(52)病没後の後任。参謀次長は田村怡与造(山梨出身)。前年、川上がドイツから呼戻す。教育総監野津道貫元帥は反対するが、大山が説得。田村は明治36年10月病没。
5月17日
山東・河北省拳会指導者集合(「正定」会議)。趙三多・閻書勤ら。河北省正定府大仏寺。同じ少林拳の流派と連絡を取る事を決定。趙の義和拳は山東省・河北省の大半をカバーすることとなる。また、義和拳を「神助義和拳」と改称。「洋」の集中する2ルートが定められる。①大連河沿いに天津を目指す、②石家荘~保定経由北京を目指す。
5月17日
雲竜寺事務所で、損害賠償について地方裁判所に出訴すること、吾妻村下羽田の1町歩を被害激甚地に指定すること、各村ごとに鉱業側と談判を行わないことを決定する(室田忠七の鉱毒事件日誌より)。
5月18日
第1回万国平和会議。ハーグ。ロシア皇帝ニコライ2世の提唱。
7月29日、会議は終了、ハーグ陸戦条約が締結される。"
5月19日
この日付け漱石の子規宛手紙。病状見舞い、寺田寅彦を紹介。
「本月分ほとゝぎすに大兄の御持病兎角よろしからぬやに記載有之御執筆もかなはぬ様相見候」
「子規の病状がよくないことを「ホトトギス」五月号紙上で知り、子規に療養専一に努めるように言い、俳句をやる学生に寺田寅彦という「俊勝の才子にて中々悟り早き少年」が、本年五高を卒業、上京するが指導をよろしく、と依頼している。また漢詩二編「古別離」「咏懐」を書き送っている。」(中村文雄『漱石と子規、漱石と修 - 大逆事件をめぐって -』(和泉書院))
5月21日
虚子、急性大腸カタルで入院。
「五月二十一日、しばらく食欲不振をかこっていた虚子だが、好物のキュウリもみを妻がつくったので、それを肴に酒を飲んだ。
食欲不振は、おそらく「ホトトギス」創刊以来の多忙と心労のゆえだろう。子規の門人たちの嫉妬まじりの虚子評がこたえた。そのうちには碧梧桐もいる。順調に推移する「ホトトギス」が部数を積み上げるに従って、風当たりは強まった。
(略)
屈託をかかえながら酒を飲みはじめて一時間、にわかに悪寒をもよおした虚子は、はげしく吐瀉した。それがひと晩に何十遍とある。
翌朝、親戚と友人が駆けつけ、駿河台の山龍堂病院に入院させたときには、本人はもうへとへとであった。医者は、急性大腸カタルだといった。
吐潟は入院後もおさまる気配がない。出血まで混る。やがて心臓が衰弱し、一時は生命までがあやぶまれる状態となった。いちおう回復のきざしが見えたのは十日ほどものちのことで、結局虚子はひと月も入院していた。」(関川夏央、前掲書)
5月22日
室田忠七の鉱毒事件日誌より
5月22日 農商務省に出頭し「足尾銅山鉱毒御処分要求」として次のことを陳情する。
「1.今ヨリ必ズ鉱毒ヲ汎濫放流セシメザルコト
1.渡良瀬川水源ニ関スル山林樹木ノ禁伐ヲ要求スルコト
1.河身破壊ヲ復旧シ両岸ノ崩落ヲ止シ河底ノ埋没ヲ防ギ、且ツ堤塘ヲ増築シ其ノ沿岸ノ毒土ヲ除却スルコト
1.従来ノ納租地ノ損害ニ対スル救助ヲ乞フコト
1.被害激甚地ノ流離転廃及貧苦毒食ヲ為ス場合ノ窮民ヲ救助スルコト
1.被害村々税欠額ノ補助ヲ乞ヒ普通小学及村務ヲ頽廃セシメサルコト
1.人命ヲ保護シ異例ノ死亡者ヲ増加セシメザルコト
右ノ各項ニ対シ処分之無キニ於テハ銅山ノ鉱業ヲ停止スベシ」
(鉱毒を氾濫、放流させないこと、渡良瀬川水源の樹木の禁伐、渡良瀬川の改築、堤防増築、沿岸に堆積した銅分の除去、損害補償、窮民救済など。これらの要求に対して何ら処分が行われない時は鉱山の鉱業停止を求める)
5月23日 内務省に出頭し大臣に面会を求めたが、不在のため面会できず。職員に陳情書を提出しょうとしたところ、「陳情書捧呈至シケレバ、内務省ニテハ惣テ書類ハ地方庁ヲ経由セザレバ受理セザルコトニ決定シケ(レ)バ受理セズ」との返答に、「内務省ノ非立憲的ノ動作ニ驚キ退省セリ」。大蔵省に出頭して陳情書を提出する。
(内務省は、地方庁を経由して請願書をあげてこなかった場合(つまり直接的な請願)は受理しないと決定したと聞いて、「内務省ノ非立憲的ノ動作ニ驚」いている)
5月24日 農商務省に出頭して、「処分ノ実行」を陳情する。
5月23日
川上一座、サンフランシスコ着。
25日、オッファーレル街カリフルニア座で公演。
5月24日
陸海軍大臣現役武官制確立(大、中将)
5月25日
子規、叔父の大原恒徳から芭蕉の手紙を送られる。その返事に「真物ニ無相違候、芭蕉の肉筆ハ生れて始めて見申候、これハ少しの間拝借仕度候。・・・・・寝返りハ今に困難」食欲は平常と報告。
5月25日
山陽鉄道、初めて食堂車を開業。
5月31日
漱石の長女筆子誕生。
長女出生
安々と海鼠(なまこ)の如き子を生めり
つづく
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