大杉栄とその時代年表(263) 1899(明治32)年7月1日 幸徳秋水と師岡千代子の結婚 堺利彦(29)、「萬潮報」入社 〈「萬朝報」入社までの堺利彦の閲歴⓵〉 豊津中学を首席卒業 第一回目の上京 より続く
〈「萬朝報」入社までの堺利彦の閲歴②〉
一回目の東京生活(中学入学のための予備校 英学塾の同人社 共立学校)
東京には、養父の弟で陸軍中佐の馬場素彦がいた。その娘で6、7歳のお力という少女が、彼の将来の妻になるはずで、養父母はその少女を連れて福岡に戻った。馬場は利彦からは叔父であり、未来の舅だったが、あまり親しみはもてなかったという。馬場家では利彦は、家族と共に飲食する機会さえ与えられなかった。将来、国会議員になりたいという利彦の希望を聞くと、軍人の馬場は露骨にいやな顔をした。
第一高等中学校に入るためには予備校で学ぶのがふつうだった。利彦は最初、中村正直(敬宇)が小石川区小石川江戸川町17番地(現・文京区水道1丁目)に創立した英学塾の同人社に入学し、牛込区牛込箪笥町(現・新宿区箪笥町)に下宿する。
利彦はここで初めて西洋人に英会話を教えてもらい、うれしくてたまらなかった。塾には豊津出身の先輩も数人いた。
その年の夏、利彦は第一高等中学校の入学試験を受けて失敗したが、同郷者で合格したのは、彼より年上の一人だけだった。東京で生活した最初の半年間に、利彦は下宿を3、4回変わったが、いずれも神楽坂の近所だった。初めて寄席を聴いたのも、初めてアンパンを買ったのも、初めて蕎麦屋に入ったのも、初めて牛鍋屋に入ったのも、みな神楽坂近辺だった。
次兄の乙槌は慶応義塾に入っていたので、利彦はときどき会いに行ったが、養家の事情で、まもなく乙槌は豊津に呼び戻される。
その秋、利彦は同人社から神田淡路町の共立学校に移っている。当時、高等中学校を受験する生徒のための二大予備校とされたのが、共立学校と神田錦町にあった東京英語学校(現・日本学園)だった。
のちに堺と親しくなる英文学者の馬場孤蝶(本名・勝弥、思想家の馬場辰猪の弟)は、同じときに共立学校で学んでいたが、お互いに記憶がないという。馬場孤蝶は1942年刊行の『明治の東京』で、英文学者の平田禿木(本名・喜一郎)、哲学者の桑木厳巽(げんよく)、美術史学者の滝精一、国際法学者の立(たち)作太郎が同級にいて、作家の島崎藤村(本名・春樹)も一時学んでいた、と述べている。さらに、「明治二十年ごろの試験成績表のなかでは、中村利彦(福島)といふ名を見出すであらう。これは堺利彦君の前名で、福島は福岡の誤りである」と付け加えている。
1887(明治20)年夏、第一高等中学校に合格
第一高等中学は高等商業学校(旧制専門学校で「高商」と呼ばれた)と向かい合っていて、この二校が明治の少年たちに最も人気のある登竜門だった。第一高等中学はその前年まで「大学予備門」と呼ばれ、日本にたった一つしかない「東京大学」へ進むための学校だった。漱石は入学したのは大学予備門のときで、卒業するときは第一高等中学と改称していた。漱石はそこから帝国大学に入学している。
利彦は第一高等中学合格という目標を達したことで、それまで維持していた緊張感を失ってしまった。
9月、学校が始まり、利彦は寄宿舎に入る。当時の高等中学は予科三年と本科二年で、予科は尋常中学の課程をくり返すにすぎず、英語以外に珍しい科目はなく、とくに尊敬できる教師もいなかった。しばらくすると、利彦にとって学校はまったく面白くない場所になってしまった。その代わり、彼は悪友たちに感化されていく。同郷の友人2人はすでに吉原遊廓で遊ぶことを覚え、利彦は彼らに誘い込まれ、その三人組の一人となって遊廓で遊び始める。
1888(明治21)年春、18歳、
悪友3人で『英学雑誌』を試みた。目的は遊ぶための金儲けで、利彦が編集を担当し、あとの二人が金策をした。市内の雑誌店に並べたというが、この雑誌は2号か3号で終わり、わずかに売れた分は飲んでしまい、残ったのは負債だけだった。
夏休み
許されて帰郷をした。このとき両親は豊津から小倉に移って、長兄の平太郎と同居していた。小倉の家に行くと、当時、『福岡日日新聞』に小説を書いていた乙槌もやってきた。利彦は東京でつくった借金返済のため、金を集めなければならなかったが、養子の身では実家にも養家にも頼みにくい。結局、わずかな金しかつくれずに東京に戻り、ヤケ気味になってさらに遊んでいる。
その年末
利彦は、実母が心をこめてつくった博多帯も羽織も袷もことごとく質屋に入れ、寒空に夏服を身にまとい、破れ靴をはいて、吉原の廓内をさまよい歩いた。
1889(明治22)年
2月11日の憲法が発布の日、その日も彼は悪友たちと牛鍋屋に繰り出し、酒を飲んで騒いでいる。
結局、月謝不納で学校から除名され、それを知った養家からは離縁される。馬場素彦に要求して得た帰郷の費用10円までもすぐに飲んでしまったという。
そんなときに、実家から長兄平太郎急病死去、すぐ帰れ、との電報が届く。なんとか旅費をかき集めて東京を出発したが、船酔いがひどく神戸で下船。下関に着いたときには、小倉までの小蒸気船の運賃が足りなくなったので、下関で一泊し、郵便を出して迎えの者をよこしてもらって、ようやく小倉の家に帰り着いた。利彦の懐にあったのは、尾崎紅葉『二人比丘尼色懺悔』一冊のみで、一文無しの状態で帰郷した。
1888(明治21)年5月
利彦は堺家に復籍して家督を相続する。平太郎の未亡人には実家に戻ってもらったが、彼はこのときから年老いた両親を扶養する義務を負う。
6月8日~16日 小説「悪魔」(『福岡日日新聞』連載)
兄乙槌は『福岡日日新聞』で文才を認められ、欠伸という号で同紙に小説を書いていたが、その後、大阪へ進出して『花かたみ』という小説雑誌を発行するようになっていた。
兄のような小説家になりたいと考えた堺は、早速、一篇の小説を書いて『福岡日日新聞』に送ってみた。小説のタイトルは「悪魔」、筆名は「石渓通人」で、6月8日から16日まで連載された。
1889年夏、大阪へ向かう。
乙槌の雑誌『花かたみ』は休刊していて、乙槌は仲間と一緒に下宿して文学修業をしていた。
初秋 天王寺高等小学校の英語教員に
ここで堺は天王寺高等小学校(現・大阪市立大江小学校)の英語教員になる。当時、大阪府知事の建野郷三が豊前出身だったため、多くの豊前人が大阪に来ていた。母コトのいとこ・志津野拙三や堺家の親戚筋も何人かいて、その一人が世話してくれた。このとき、小学校は尋常小学校と、その上に接続した高等小学校があり、どちらも修業年限は4年だった。天王寺小学校はこの尋常校と高等校を併置していた。
堺の月給は8円50銭で、その後、昇進して10円50銭になる。最初は不慣れな「英語の先生」だったが、次第に生徒にも認められ、英語だけでなく数学、歴史、作文なども教えるようになった。
初秋、天王寺東門外に古家を1円20銭で借り、両親を小倉から呼び寄せて同居した。
堺は教員時代に『源氏物語』『伊勢物語』『枕草子』などの古典文学を通読し、『古今和歌集』『新古今和歌集』『万葉集』などに目を通し、和歌や俳句の会に出て歌や句を作ることも覚えた。本居春庭の『詞八衢(ことばのやちまた)』などを読み、古文法にも習熟して、擬古文を書くことにも熱中している。さらに江戸時代の作品にのめりこみ、近松門左衛門、曲亭馬琴、式亭三馬、柳亭種彦なども読んだ。
また、「禿山(とくざん)枯川」の文字を見つけて雅号を「枯川」と決め、「枯川漁史」や枯れ川から転じて「水無庵主」の別号も使っている。
こうした日常を送りながら、堺は煩悶していた。政治家になろうとの夢が敗れ、安月給の小学校教員に成り下がった挫折感。失意をごまかすために酒を飲み、それに女遊びを伴う。東京から学生時代の友人たちが遊びに来ると、自分がいっそうみじめに感じられ、東京への憧れが募るばかり。
兄乙槌は『大阪日日新聞』という小さな新聞の記者になっていて、ときどき堺も雑文を載せてもらう機会を得た。新聞記者たちと一緒に飲むようになると、彼らの放縦な生活を自然に真似るようになった。当時の新聞記者は世間から「羽織ごろ」、すなわち羽織を着たごろつきと呼ばれたほど評判が悪かった。
借金だらけになった彼は、現実から逃避したい一心で誰にも行く先を告げず、高知県に住む学生時代の悪友を訪れ、そのまま一カ月近く滞在する。大阪に戻ってきたときには、死んだのではないか、と大騒ぎになっていたが、校長は堺のために、無断欠勤していた間の給料も受け取れるようにしてくれていた。結局、彼はまた小学校に戻った
放蕩生活のなかで、一つの真摯な恋があった。のちに日記「三十歳記」で「秀子」と書いている女性である。彼女の姓は浦橋、号は秋香で、和歌や俳句をよくしたという。彼女は彼の将来を信じてくれ、二人は結婚を約束をした。しかし、秀子の両親は、飲酒にふけり、借金に苦しんでいる男との結婚を許さなかった。手を触れ合ったこともない古風で堅苦しい恋だったが、秀子はばらくして病で亡くなった。
つづく
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