1898(明治31)年
12月6日
島崎藤村、詩集「夏草」。
12月7日
栄禄、武衛軍を編成、袁世凱の新建陸軍は武衛右軍として配属される
12月8日
地租増徴案・地価修正案、議会提出。憲政党(旧自由党系)が与党となり衆院通過。
星亨は、党内を説得するとともに、政府から譲歩も引き出す。
①増税率の低減。当初2分5厘⇒4分のところ、3分3厘とする。
②地租算定の基準となる地価の地方的不均衡の修正(とくに地価が不当に高く評価されている地方にこれを行う)。
③増徴に5年間期限を付す。
④従来地方負担とされてきた監獄費を国庫負担とし、地方負担の軽減を計る。
⑤議員歳費800円を2千円に増額。田中正造のみ歳費を辞退。
12月8日
久野村鉱毒事務所で足利郡役所と「村治上ニ就」て協議する(室田忠七の鉱毒事件日誌より)。
12月10日
「ホトトギス」第3号発行。1,000部を売り切る。
「「ホトトギス」は好調だ。
といっても、それはあくまで同人誌的文芸誌の範囲内でのことで、原稿料は出せないのである。しかし雑誌の売上げだけで編集専従者、つまり虚子の生活をきわどくであろうと支え得るかが「ホトトギス」の主題のひとつであり、「ホトトギス」永続の条件であった。
明治三十一年十一月発行の東京版第二号は千二百部印刷した。すると二百部余った。十二月十日発行の第三号は千部にした。今度は全部売り切ったうえに、少し足りなかった。虚子は「ホトトギス」の実力を、千部と見きわめた。
千部刷って九百部売る。それでも文芸誌としては望み得る最高の堅調さである。一部十銭で九十円の売上げ。紙、印刷、流通などの基本経費が一号あたり六十円として、三十円余る。その三十円が編集費であり、虚子の一家の生活を支える日常費となる。
十二月、第三号を発行し終えた虚子は、それまでの金銭の出入りを計算してみた。
第一号から第三号までの基本経費は合計で百八十円、第一号を増刷したから二百円と少しかかった。一方、編集費と日常費は、明治三十一年九月から十二月まで、あわせてやはり二百円ほどであった。十二月十日に第三号を発行し、年末までに済ませなくてはならない支払いを前に、虚子の手元の資金は底をついた。
(略)
明治三十一年の暮れをどう越すか。思案した末に、虚子はまず家賃十二円の家を引払った。碧梧桐はじめ子規門の青年たちにとやかくいわれた高い家賃の家から、おなじ神田の猿楽町内、四円五十銭の家に移った。印刷所は、新年号となる第四号からかえることにした。前の印刷所は料金の督促の仕方が気に入らず、そのうえ新しい方がいくらか安かったのである。知り合いから最大五十円は借り出せる。それでも年末にはいくらか足りなくなる。妻の身のまわりのものを買ってやりたい。子供にもせめて正月の晴れ着一枚は欲しい。」(関川夏央、前掲書)
12月11日
東海林太郎、誕生。
12月13日
パリ条約締結(米スペイン講和条約)
キューバ独立。勝利したアメリカはキューバ,プエルトリコ,フィリピン,マリアナを取る。
12月16日
中枢院では、朝鮮政府である義政府の役人を選出する案を出した独立協会の崔廷徳(チョェ・ジョンドク)によって投票が行なわれるが、選ばれた11人のうちに大逆罪人とされて日本に亡命している朴泳孝と、アメリカ国籍の徐載弼が含まれていた。朴泳孝の選出をめぐって、議長の李鍾建(イ・ジョンゴン)をはじめ守旧派の議員は投票を拒否。独立協会の内部でも論争になる。しかし、朴泳孝選出賛成派は議長の代理として尹始炳を推戴し、問題となった選出結果をそのまま断行。
これに対して高宗皇帝は、まず役人選出の案を出した崔廷徳と議長代理の尹始炳を解任し、罪人を選んだ議員を捜索して逮捕し、軍隊と行商人を動員して万民共同会の鎮圧に乗り出す。
そして、高宗皇帝はついに独立協会に解散命令を下すことになる。尹致昊、尹始炳、李承晩、崔廷徳など、多数の幹部は外国人の家に逃亡して、議会設立運動は失敗に終わる。
独立協会は翌1899年1月に解散され、独立新聞は同年の12月に廃刊されることになる。
12月17日
チェーホフ「かもめ」、モスクワ芸術座で上演
12月18日
上野の西郷隆盛像の除幕式。隆盛未亡人は「主人に似ていない」とつぶやく
12月19日
河田小竜(75)、没。土佐藩士、中浜万次郎取り調べを行う。
12月20日
地租増徴法案(2.5%→3.3%)を含む予算案、憲政党の賛成で衆議院を通過。5年間の限定実施。27日、貴族院通過、成立。見返りとして憲政党の要求の一つである府県郡制の改革は、明治32年(1899年)3月16日に施行。
12月21日
米、マッキンレー大統領,フィリピン全土に軍政布告.「友愛的同化」宣言発する.
12月22日
高野房太郎、横浜鉄工共営合資会社を開業、その専従となる。
12月23日
藤田たき、誕生。津田塾大学学長。
12月24日
第二回蕪村忌
鳴雪、五城、四方太、繞石、麗水、豊泉、世南、廉郎、虚子らが集まり、子規は露石から送られた天王寺蕪を使って風呂吹きでもてなす。
「蕪村忌の風呂吹くふや鴨の側」の「鴨」とは、虚子が持ってきた鴨で、『雲の日記』には22日に「虚子鴨を風呂敷に包みて持て来る。盥に浮かせて室内に置く」、24日には「蕪村忌小会、今日は鴨の機嫌殊によし」、28日には「朝、目ざめて聞けばね鴨逃げて隣の庭に行きたりとてののしる」とある。
鴨は、そのうち隣の陸羯南の家の庭にある池に放される。子規は、カモを背負って陸の家に持っていき、石の上に眠る鴨を見届けて帰る。鴨はそのうち死んでしまったという。
12月24日
ヘルマン・ハイエルマンス「ゲットー」、アムステルダム・オランダ劇場で初演。
12月25日
朝鮮政府、詔勅により独立協会解散命令、協会員逮捕。万民共同会も解散。
12月25日
フィリピン、砂糖プランテーション地帯の西ネグロスが独自の州政府樹立。
12月26日
キュリー夫妻、放射性元素ラジウム発見。
12月27日
浅沼稲次郎、誕生。
12月28日
酒造法改正、公布。30日、地租条例、改正公布。地租、2.5%から3.3%に増加。翌1899(明治2)年2月13日、改正所得税法、公布。27日、醤油税則改正を公布。
日清戦後の第2次増税。
12月29日
~30日 貴族院に「鉱毒事件ニ付附託セラレシ」26名の特別委員への訪問運動を行う(室田忠七の鉱毒事件日誌より)。
12月31日
この日の虚子
「十二月三十一日、夜更けても東京中心部に人出は絶えなかった。長兄の送金百円で印刷所の未払いを処理し、子供の晴れ着を買って、つつましい正月の準備を終えた虚子だが、大みそかの夜はなんとなく落着かなかった。十二時近く、最後に残った五円を手に神田の街へ出掛けた。
深夜でもあけていた勧工場へ入って買物をした。勧工場はデパートの前身である。
欲しいものがあったわけではない。とにかく消費したかった。夏以来つづいた雑誌実務の多忙がもたらした緊張感の反動であろう。雑多な商品で懐と袂をふくらませて帰宅した。まだ余っていた二円を妻にわたし、何でも買ってこい、といった。すでに明治三十二年一月一日になりかわっていたが、妻もおなじ気分で夜の街区へ出掛けて行った。」(関川夏央、前掲書)
つづく
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