大杉栄とその時代年表(253) 1898(明治31)年10月21日~31日 尾崎行雄文相辞表提出 後任犬養毅を独断奉請 旧自由党が反発し憲政党解散決議(憲政党分裂)、閣僚辞任(大隈内閣崩壊) 康有為、日本亡命 朝鮮で万民共同会開催 より続く
1898(明治31)年
11月
「日本平民新聞」創刊。和歌山。「日本平民協会」設立。大阪。
11月
後藤宙外「政治小説に就いて」(「新小説」)11、12月
11月
漱石、山鹿方面へ修学旅行。
11月
下都賀郡赤麻村村長、谷中村助役、部屋村書記他6人、石尾銅山を視察。
報告書は、鉱業による予防工事を「予防工事旧来の経験に徴するも、将来、其の功を全うするや否や頗る疑問とする処なり。仮に功を奏するものとするも、数年来渡良瀬川床及び沿岸耕地に沈殿堆層せる処の毒土砂を除去するにあらざれば、到底被害は免れざるものと思料す」と述べた後、次のように根本的対策として毒土除去・土地回復とともに渡良瀬川河川改修を主張するのである。
「之れをして無害ならしめんには、堤防増築、河身改良及び毒土除去、土地は恢復進んでは利根の河身改良を施し、渡良瀬合流を潟せしめされば、吾人、豈、居住するを得んや。故に吾人の覚悟とするは飽迄此れを政府に請求して、其の実践を求むるは急務中の尤も急務とせざる可からざる処なり」
11月1日
義和拳リーダ趙三多、戦いに利有らずと判断し、留善固で隊伍500を解散。高弟10余を率い河北省武邑、晋州、正定、滄州で道場を開き、門弟を募集し拡大。一帯の「反清復明」を標榜する一団も趙三多の義和拳に呼応。
11月1日
隈板内閣の後継内閣の組織についての画策は桂が行うことになる。この日深夜、京都より帰着した山県有朋は直ちに桂を訪問。桂は憲政党(旧自由党)との提携によって議会を乗り切る目算のもとに山県内閣の成立を促す。
11月2日
「東亜同文会」設立。会長近衛篤麿(貴族院議長)・幹事陸羯南・池辺三山ら。日本・清国・韓国の提携、清国保全を期す。「東亜会」(進歩党系政治家・陸羯南の「日本」グループ・学生ら)と「同文会」(近衛篤麿グループ・大陸浪人グループ)が合併。
初期の会員:東海散士、福本日南、鳥居素川、徳富蘇峰、陸羯南、池辺三山、岸田吟香(日本の新聞記者の草分け)、三宅雪嶺(「日本」「日本人」の論客)、内藤湖南(「日本人」「大阪朝日」で活躍)、宮崎滔天、高田早苗(「読売」主筆、のち代議士、早稲田大学学長)、犬養毅、平岡浩太郎(玄洋社社員、憲政党)、神鞭知常、星亨、谷干城、小川平吉(弁護士、のち司法相・鉄道相)、花井卓蔵、大谷光瑞、押川方義、川島浪速など。
11月3日
姚文起は自分の村(留善固)で拡大した村民・拳民1千を率い闘争継続。冠県・威県の教会焼き打ち。後、清軍に追われ沙柳葉で逮捕され処刑。
11月3日
憲政党の旧進歩派、憲政本党を結成。
11月4日
朝鮮、旧守派による朴定陽内閣打倒。内閣は11月5日迄に独立協会から議員の半数25人の民選議員を選ぶよう通告されていた。独立協会幹部17人検挙(10日釈放)、皇国協会によるテロ。
11月4日
室田忠七の鉱毒事件日誌より
11月4日 「村税県税戸数割徴収猶予願ノ件、其他吾妻村新堤防改築ノ件ニ付、故障ヲ申シ立ツルコトニ決」する。
11月5日 雲竜寺事務所で「吾妻村・植野村・界村三ヶ村新堤防工事ノ件ニ付、久野・筑波・梁田・多々良・渡瀬・大島ハ新堤工事ニ故障ヲ言フ」。
11月8日 雲竜寺事務所で「再請願書中堤防増築ノ件ニ付」について協議する。
11月5日
清朝、近畿(首都近辺)、山東、河北、奉天に「興弁団練(民兵化)」の呼掛け。12月31日にも。
11月5日
元老会議、清国を視察中の伊藤博文の帰国を待たず、山県有朋に組閣を命令。
11月5日
宮沢賢治(2)妹トシ誕生。
11月6日
佐久間貞一(52)、没。大日本印刷を創業。
11月8日
第2次山県内閣成立。内相西郷従道・蔵相松方正義・陸相桂太郎・海相山本権兵衛・法相清浦奎吾・文相樺山資紀。非政党、超然内閣の復活。
11月10日
朝鮮、独立協会の幹部17 人釈放。
これを好機と判断した朴泳孝は、側近李圭完(イ・ギュワン)を帰国させ、独立協会会員の組織化に取り組む。
11月10日
子規『車上所見』(『ホトトギス』第2巻第2号)。
「病ひつのらばつのれ、得たばとて出らるゝ日の来るにもあらばこそ」と決意を固め、人力車を呼ぶ。この秋の日の三河島方面への外出の記録。
午前中に「日本」に掲載する天長節についての原稿を書き、昼から人力車で出かける。千住の煙突や谷中の天王寺塔などを眺める。雲は低くにあるが、晴れで、なだらかな関東平野の眺めは気持ちがよく「胸開き気伸ぶ」心持ちがする。
東京の稲刈り風景には、子規は違和感があった。故郷では田の水を抜いてから稲刈りをするが、東京では水抜きをしない。俥夫は新潟出身だったが、松山と同じく田の水抜きをするという。新潟では、11月になると雪が降り始めるという。
三河島あたりではイナゴがたくさん飛んでいる。子規は、4年前の散策を思い出す。まだ体が自由だった頃、日清戦争の従軍記者として出かける前のことだった。
諏訪神社の茶店で休み、子規は寒さに震え、家へ向かう。
「我車のひゞきに、野川の水のちらちらと動くは目高の群の驚きて逃ぐるなり。あないとほし。目高を見るはわが野遊びのめあての一つなるを、なべての人は目高ありとも知らで過ぐめり。世に愛でられぬを思ふにつけていよいよいとほしさぞまさるなる。
「三年の月日を寝飽きたるわが褥も車に痛みたる腰を据うるに綿のさはりこよなくうれし。世にかひなき身よ。」
「明治三十一年十一月初旬、おそらく十一月二日であった。秋晴れの日の午後一時すぎ、雇った人力車が根岸の家の門前にきた。子規は車夫に背負われて車上の人となった。
郊外見物に出掛けるのである。その感想を「ホトトギス」の随筆に書こうというのだ。それは、この年七回目の外出であった。
音無川に沿って三河島方向へ向かった。右手に千住の煙突が四、五本見えた。みな黒い煙を誇らしげに吐いている。公害が問題となるのは七十年ほどのちのことで、この時期のそれは、日清日露戦間期の工業化の頼もしい象徴であった。左手は谷中から飛鳥山へとつづく岡、その真ん中あたりに谷中天王寺の五重塔がそびえ立つ。雲はその木立の上、地平線に長くたなびいている。のどかだ。
田の稲はなかば刈られていた。刈った稲は、田のほとりに立てた竹組や、わざわざ植え育てた榛(はん)の木にわたした丸太に掛けて干すのだが、松山ではそうではなかった。稲の実る頃には水を落として田の表面を乾かし、そこで地干しにするのだ。
そういえば、と子規が思い出したのは漱石のことであった。
十年余り前、漱石と連れ立って彼の実家近く、早稲田田圃と呼ばれるあたりを歩いていたときであった。漱石が、この草は何? と若い苗を指して子規に尋ねた。妙な問いにいぶかしみつつ、稲だよ、米になるんだよ、と答えたら漱石は、米は田になるものか、と心から驚いたふうだった。漱石は悪ふざけをする男ではない。東京人とはそういうものなのか。恐るべき頭脳の持主である漱石なのに、信じられぬほど世智にうといところがあった。熊本にある漱石は、今頃どうしているか。
実の残った柿の木がある。もったいない、と子規は思う。だが、遊ぶ子供らが興味をしめさぬところを見ると、渋柿かも知れぬ。
このあたりをよく歩いたのは、明治二十七年であった。一世一代の仕事とさえ思われた「小日本」があっけなく廃刊となり、失意のさなかにあった自分は、新聞紙上の日清の戦報を読むにつけ、従軍記者として大陸へ渡りたい欲望をつのらせた。しかし健康に自信を持てず、願いはかないそうもなかった。そんな焦操と前途への不安を打ち消したくて、歩きつつ句をつくっていた。目に映るあらゆる事物を写生的俳句にしようとしていたのだ。
「うたた思ひ乱るるに堪へず」、別の道へ折れるよう車夫に命じた。と、向こうから女の子がやってきた。手拭いを頭にかぶり、左手には大きな竹籠、右手には鮒を入れた小桶を持っている。十歳くらいであろうか。
眼円くすずしく、頬ふくやかに口しまりて、いと気高きさまはよの常の鄙(ひな)育ちの児とも見えず、殊に其さかしささへ眼の色に現れてなつかしさ限り無し。足にして立たぼ、彼童の後につきてひねもす魚捕るわざの伽にもなりなんと思ふ。(「車上所見」)」(関川夏央、前掲書)
子規『雲』(『ホトトギス』第2巻第2号)。
「春雲は絮(わた)の如く、夏雲は岩の如く、秋雲は砂の如く、冬雲は鉛の如く、晨雲(あさぐも)は流るるが如く、午雲(ひるぐも)は湧くが如く、暮雲は焼くが如し。」
子規『山』(『ホトトギス』第2巻第2号)。
「一生の思ひ出に、今一度山の細道、朽葉の露を踏んで静かに辿らましかばいかに嬉しからまし。」
漱石、評論「不言之言」(『ホトトギス』2巻2号)。続編は12月に発表。
この頃、五高生中心の俳句結社「紫溟吟社」興り、漱石は指導的役割を果たす。
つづく
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