2024年9月14日土曜日

大杉栄とその時代年表(253) 1898(明治31)年10月21日~31日 尾崎行雄文相辞表提出 後任犬養毅を独断奉請 旧自由党が反発し憲政党解散決議(憲政党分裂)、閣僚辞任(大隈内閣崩壊) 康有為、日本亡命 朝鮮で万民共同会開催    

 

康有為

大杉栄とその時代年表(252) 1898(明治31)年10月11日~21日 漱石、欠勤延長(鏡子の悪阻が酷いため) 日本美術院開院式 社会主義研究会結成 梁啓超、日本へ亡命

より続く

1898(明治31)年

10月21日

内務大臣板垣退助は、単独で参内して天皇に対し尾崎文相を弾劾し、閣内において両立できないと上奏

翌22日、天皇は、侍従職幹事公爵岩倉具定を総理大臣大隈のもとに遣わし、天皇の内旨として、尾崎を辞任させるようにと伝える。岩倉は尾崎にもこれを伝える(板垣が尾崎とは両立できないと主張しているというのが理由)。

尾崎はこの日(22日)、大隈に辞表を提出、24日に辞表を奉呈ということになる。

天皇が大臣の罷免を指示するのは、憲法上の問題があり、宮中筋は悩んだが、結果的には大隈による尾崎辞職願の奏請と勅許という形で決着する。

10月23日

高野房太郎(30)、横浜・蔦座での対工場法案演説会で演説。

10月24日

尾崎行雄文相、共和演説事件(8月21日)に関して辞表提出。後任を巡り閣議は紛糾。

26日、大隈首相、独断で犬養毅を文相に奉請

尾崎の後任ポストを巡っては、旧自由党と旧進歩党が激しい争う。大隈は26日の閣議の後参内して、閣内不統一の責任を理由に自らの進退に関する天皇の「聖慮」を問い、天皇から辞職に及ばずとの言葉を得ると、尾崎が後任として推薦した旧進歩党の犬養毅を文相に奏請。

10月25日

趙三多の義和拳、冠県梨園屯で始めて「助清滅洋」スローガン掲げる。民衆運動ではなく体制擁護の愛国運動とする策略的スローガン。

10月25日

康有為、香港から宮崎滔天に伴われて日本へ亡命。この日(25日)、新橋駅へ到着した康有為を、梁啓超と清朝の若手官僚だった王照が迎える。

康有為も三橋旅館で数日宿泊した後、10月29日、牛込区市谷加賀町1丁目3番地の柏原文太郎が所有する貸家へ移り、梁啓超も合流した。

康有為と梁啓超は清国再生の提案書をまとめ、日本政府に提出したが、日本は清国政府から「犯罪者を保護している」との抗議を受け、最終的に康有為に国外退去を求めることになる。「光緒帝からの手紙」を持っているとして権威を振りかざす傲慢な康有為に手を焼いたこともある。しかし、梁啓超には「学術研究」という名目で日本滞在許可している。礼儀正しく物静かな梁啓超は、日本政府や日本人から好感を持たれた。

10月25日

岸田吟香(65)、横浜・羽衣座での横浜売薬業者による売薬増税不可の政談演説会で「貢納論」を演説。

10月27日

板垣内相、参内し、大隈への不信、犬養が文相になるなら、蔵相松田正久・逓相林有造と共に辞職すると奏した。

10月29日

憲政党分裂。板垣退助内相・松田正久蔵相・林有造逓信相ら旧自由党系の閣僚、辞表提出

同日、憲政党の旧自由派は、憲政党解散と新憲政党の結成を決議。

31日、大隈重信首相・大石正巳農商務相・犬養毅文相ら旧進歩党系の閣僚も辞表提出。大隈内閣崩壊。

29日、文相に犬養毅が決まったことを不満とする旧自由党は、星亨が中心となって自由党系の憲政党員だけを集めて党大会を開き、そこで「憲政党」解散を決議し、次いで新たに同名の「憲政党」を結成。

星亨はアメリカ駐在大使であったが、訓令を待たず勝手に帰国して、大隈首相が兼任していた外相のポストを要求したが、星を閣内に入れることに尾崎が強く反対して実現しなかった。尾崎は星の怨みを買い、星は倒閣を策したと言われるが、両派の猟官運動は、最初から激しく、両派争闘の火種となっていた。それが尾崎文相の後任問題で一挙に妥協の余地のない形で噴出し、党の分裂に至った。

旧進歩党系はこの解党決議を無効とし「憲政党」を名乗ったが、板垣内相名で、解党した「憲政党」を名乗ることの禁止通告を受けたので「憲政本党」と改称した。

この日、旧自由党系が憲政党解党を決議すると同時に、内相板垣退助・蔵相松田正久・逓相林有造は辞表を提出した。

辞表は大隈総理経由ではなく、直接宮中に提出された。ここに隈板内閣の性格が象徴的、かつ正確に現れている。この内閣は大隈総理にだけでなく、大隈・板垣二名に組閣が命じられるという変則内閣であった。板垣は自派の閣僚の辞表を取りまとめて直接天皇に提出し、天皇もまた総理を通さないそのその辞表を受け取った。

板垣の上表文に「偶々文部大臣尾崎行雄ノ国体ニ関スル言説、容忍ス可ラサルモノアリ。臣再三之ヲ重信ニ論議スル所アリ。重信断セス。終ニ辰慮ヲ悩マシ奉ルニ至ル」と述べて、共和演説を理由としている。

これに対して大隈総理は、改進党から後任大臣を任命して、あくまで内閣を維持しようとの方針で、直ちに参内して、「板垣らが辞職しても議会に多数を制しうる確信があるから三大臣の辞職はお許しになり、後任の選定は自分に命じられたいと言上したが、天皇は考えおくといわれただけであった」。

陸軍大臣桂太郎もまた、同参内して、天皇に、「願はくは退助の辞意を聴したまふことなかれ、総理大臣伯爵大隈重信、退助を斥くるも尚且議会に多数の賛同を得べLと公言すと雖も、其の実頼むに足らず,恐らくは其の結果容易ならざるものあらん」と奏上し、天皇も「直に其の奏上を善とし、太郎及び海軍大臣侯爵西郷従道に勅して退助を諭して留任せしめたまひ、又侍従職幹事公爵岩倉具定を退助の許に差遣して其の留任を勧告せしめたまふ」た(『明治天皇紀』)。

桂は大隈・板垣の提携を前提とした内閣の存続を望んでいるかに見えるが、実は逆に、内閣総辞職を確実ならしめるための策謀であった

翌30日、天皇は岩倉具定を遣わして、元老の黒田清隆・松方正義に善後の処置を諮問した(元老伊藤博文は清国旅行中、山県有朋は京都に在って留守)。天皇は、板垣留任、板垣免職の両様に分けて、対応策を尋ねた。

天皇は、自身が分析した状況を盛り込み、有り得る選択肢を具体的に列挙し、それぞれの問題点を指摘し、最良と思われる選択は何かと尋ねている。そこに示された状況判断はきわめて的確であった。天皇は、きわめて主体的に判断し、行動する有能な政治家であった。

同じく30日、隈板内閣成立当初から倒閣を期して西郷や桂と策応してその機会を窺い、尾崎の共和演説を機に「百方其の倒壊を策」していたという薩摩閥の黒田清隆が、「書を従道・太郎及び侍従職幹事公爵岩倉具定に致し、内閣の不統一を責め、重信の独り留まらんとするを以て、当初内閣組織の趣旨に背戻するものとし、其の存続の到底許すべからざることを言ひ、其の決心を促」した。それを承けて西郷従道が大隈を訪問して、「事既に此に至る、卿蓋んぞ速かに其の進退を決せざる、卿にして其の職を辞するに於ては、予も亦同じく其の職を辞すべし」と辞職を勧告した。自由党系と連絡のある桂と違って、西郷はそれまで閣僚として大隈に好意的であったから、大隈は、自由党と連絡のある桂は辞職しても、西郷は改造内閣に留まってくれるものと期待していたが、西郷から辞職を迫られ、自分も一緒に辞めると言われて、大隈はついに辞職を決意した。

翌31日、大隈は、自派の農商務・司法・文部各大臣の辞表を取りまとめて総辞職した。

のちに尾崎行雄が桂太郎から直接聞いたところによると、隈板内閣の成立当初、西郷は桂に語って、「この内閣は、ぢきに内輪喧嘩をはじめます。その時自由派はあなた(桂)に、進歩派は私(西郷)に援助を求めるでせうが、お互ひは何方にも荷担しないことにしませう。喧嘩の仲間に入っては不可ませんよ、と、例のやうに咲笑された」という。桂は自由党側について、閣内から倒閣策謀に深く関わったが、大隈内閣に最後のとどめを刺したのは、大隈側につくと期待されていた西郷であった。結果として、桂と西郷のみごとな役割分担であった。

西郷は大隈には一緒に辞めると言ったが、板垣派・大隈派の全閣僚が辞任した後、結局西郷と桂だけが大臣として留まることとなった。軍部の両大臣は憲政党員ではなく、直接天皇の信任を得て任命されたのだから、板垣派・大隈派の総辞職に付き合う必要はないと言う理由からであり、天皇も両大臣の留任を命じた。

10月29日

大隈重信内閣の辞職で、中根重一はまもなく貴族院書記官長を辞職する。後に終身官の行政裁判所評定官という地位を得る。

10月30日

朝鮮、独立協会、朴定陽内閣合意で漢城で万民共同会開催。1万人。主権守護を決議。採択された献議をもとに中枢院官制公布。議官50人中25人を独立協会より選出。

10月30日

鈴木諧子(67)、没。名古屋基督教会。


つづく


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