1899(明治32)年
4月
中国、山東の反キリスト教暴動激化。
4月
朱紅灯、郎荘の神拳リーダ郎宣清に呼ばれ、長清県より黄河を渡り斉河県郎荘に移る。郎宣清は荏平県五里荘の神拳リーダ劉太清に連絡し三者で協定。①小朱子を朱紅灯に改名、②朱紅灯を神拳の「総頭取」とする、③荏平県五里荘を本拠とする、④反教会闘争敢行(教会勢力が村民の利害を侵害)。
朱紅灯:
1864年頃、長清県孔官荘生まれ。母が再婚し大李荘の伯父のもとに身を寄せる。32歳の頃より神拳を学ぶ。大李荘外でも拳法を教えるようになり、長清県内の神拳指導者と知合う。朱紅灯の神拳は、自然災害・社会不安に陥った農村の伝統的儒教的復興運動の連帯の鍵となる。
4月
島崎藤村、小諸義塾に英語・国語の教師として赴任。フユ(明治女学校卒業生)と結婚。
4月
マックス・ウェーバー、全ドイツ協会から脱退。
4月1日
雲竜寺事務所で、今後の方針について協議(室田忠七の鉱毒事件日誌より)。
4月3日
浪華青年文学界神戸支部同好者大会、開催。鉄幹から周防徳山発の祝電が届く。
4月3日
2月18日に横浜港を出港した日本人790人が「佐倉丸」でペルー・アンコン港(カヤオ港)に上陸(「ペルー日本友好の日」)。
4月4日
東京外国語学校、開校。
4月4日
フィリピン、シャーマン委員会、自治政府構想を発表。
4月5日
広沢虎造、誕生。
4月6日
漱石の漢詩「客中逢春寄子規」が『日本』に掲載される。
4月10日
伊藤博文、長野市の演説で、「以後10月にかけて、政党組織準備の為、関西・九州など各地を遊説する」と述べる。
4月11日
「鉱毒被害激甚地人民救助ノ請願書」提出のため、足利郡役所に出頭する。郡長は岡登堰の件で大間々に出張のため不在(室田忠七の鉱毒事件日誌より)。
この日の日記によると、被害民の請願が貴族院で採択すべきものと議決され、貴族院議長から内閣総理大臣に送付されている。帝国議会への請願活動の結果である。
○足尾銅山鉱毒被害ニ関スルノ件
群馬県山田郡毛里田村江原民吉他18名から提出。要求内容は、町村自治体破壊の救治、被害地免訴年限の継続、被害民公権の存続(明治32年3月6日付)。
○足尾銅山鉱毒ニ関スル件
栃木県下都賀郡谷中村茂呂近助他8名から提出。要求内容は、憲法の保護、被害土地回復、河身浚渫、堤防改築新設、衛生調査・救助・町村費補助(明治32年12月付)。
○鉱毒被害地町村救治ノ件
群馬県邑楽郡大島村磯幸次郎他342名から提出。要求内容は、被害町村に対する適当の法律を制定し、人民の権利を保ち、町村員への国庫補助による町村自治機関の整備(明治32年12月付)。
○足尾鉱山鉱毒ニ関スルノ件
栃木県足利郡久野村稲村与市他141名から提出。要求内容は、特別保護法の設置による自治体の保護(明治32年1月付)。
○鉱毒被害地堤塘増築ノ件
埼玉県北埼玉郡川辺村井田兵吉他1458名が提出。要求内容は、渡良瀬川堤防の増築(明治32年2月付)。
○鉱毒被害地町村自治体救治ノ件
埼玉県北埼玉郡川辺村井田兵吉他1458名が提出。要求内容は、被害地住民の救済(明治32年2月付)。
○足尾銅山鉱毒被害地人民救護ノ件
栃木県安蘇郡植野村谷元八他4名が提出。要求内容は、被害地住民の救護。"
4月12日
布施辰治(20)、宮城県蛇田村から上京。故郷の医師安倍辰五郎の弟が下宿する素人下宿に荷物を下ろして、宮城県出身憲政本党代議士首藤隆三を訪ねるが冷たくされる。京橋滝山町の東京朝日新聞の直属配達員となる。1ヶ月後、故郷の親戚からの援助の条件のおため、東京専門学校(後の早大)受験、合格。勉学目的変更のため気が入らず1ヶ月で中退。資金援助も途絶える。
4月16日
大杉栄(14)、この日から新発田の陸軍衛戍病院で名古屋陸軍地方幼年学校を受験。科目は、読書、作文、算術、地理、歴史、理科、図画。結果、合格。
4月18日
日本、ベルヌ条約(著作権に関する基本条約)に加盟。
4月18日
足利人郡役所で、郡長に「被害激甚地ノ窮民救助願書」の提出について陳情する(室田忠七の鉱毒事件日誌より)。
4月19日
ゴーギャン(51)、息子のエミール誕生。
4月20日
漱石『英国の文人と新聞雑誌』(「ホトトギス」2巻7号)。
「子規の依頼は「材料はむつかしくてもやさしくても専門的でも普通的でも何でもよろしく候」というものであったが、漱石が投稿した文章は、イギリスの一七世紀後半から説き起こし、三十人を超える具体的な表現者について、「スペクテートー」をはじめとする代表的な雑誌や新聞との関わりで論じている。活字メディアとしてのジャーナリズムと文学の密接不可分な関係を、一八世紀から一九世紀にかけての大英帝国の政治状況との関わりにおいて明らかにした論文になっている。漱石はこの論文で、子規が雑誌『ホトトギス』で実践していることが、「文人」としての最も正統な道筋であることを読者に提示しようとしたのである。
漱石がこの論文の結論として述べている「段々発達して有ゆる種類の文学が新聞雑誌の厄介になると云ふ時代になった。是に連れて文学者と新聞雑誌との関係が漸(ようや)く密切に成つて来て現今では文学者で新聞か雑誌に関係を持たないものはない様になつた」という議論は、新聞『日本』における執筆活動から出発し、雑誌『ホトトギス』に多様なジャンルの表現を発表している正岡子規その人の存在形態そのものであった。
子規の実践している生き方こそが、近代の世界的な標準における「文学者」の在り方であることを、漱石は一八世紀から一九世紀の大英帝国の文学史をとおして、『ホトトギス』の読者に提示しようとした。そして『ホトトギス』という雑誌の誌上での言葉のやり取りが、速く離れている漱石と子規を出会わせてもいたのである。」(小森陽一『子規と漱石 友情が育んだ写実の近代』(集英社新書))
4月29日
米、デューク・エリントン誕生
4月30日
清、山東巡撫毓賢の上奏文。教民の暴虐によって村民は事件を起こす。主教は些細な事件でも賠償金を要求し、大きな事件では脅迫・内政干渉を行う。
4月30日
川上音二郎一座19人、渡米、神戸発。
4月30日
横山源之助『日本之下層社会』教文館から発刊
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