1899(明治32)年
7月
村山知至、雑誌「社会主義」創刊。
7月
幸徳秋水と師岡千代子の結婚式。芝浦・竹芝館。
千代子:父は宇和島藩士師岡正胤(京都等持院の足利尊氏の木像の首を切り落とす事件の首謀者の1人で7年間信州に幽閉)。
7月
津田梅子、帰国
7月
メキシコ、ノラ州のヤキ族、再び反乱。鎮圧したラモン・コラル知事は残党をユカタン半島のプランテーションへ奴隷として売り飛ばす(一説に95年)。
7月1日
室田忠七の鉱毒事件日誌より
(7月1日以降、被害民の請願内容は、渡良瀬川全面改修を前面に出していく。それは、国による測量が終わり改修計画案が策定されたとの認識に基づいている)
7月1日 内務省に出頭し、衛生局長に面会して鉱毒被害について述べた後、土木局に対し「河身全面ノ改修工事」を申し込むよう陳情する。
7月3日 内務省に出頭し、地方局長に面会して「村税欠額国庫補助願書却下」について質す。大蔵省に出頭し次官に面接して、「堤防増築工事ノ予算ヲ本年度ノ予算組込セラレタキ旨陳情」する。
7月4日 農商務省に出頭し、「堤防河身復旧工事ノ予算ヲ本年分ニ組込マレタキ旨陳情」する。
7月5日 内務・大蔵・農商務省に損害表を配布する。
7月1日
堺利彦(29)、「万潮報」入社。文学欄を担当、月給50円。毛利家編纂所で「維新回天史」編集を終えて。
〈「萬朝報」入社までの堺利彦の閲歴〉
「萬朝報」入社までの堺利彦の閲歴を、黒岩比佐子『パンとペン 社会主義者・堺利彦と「売文社」の闘い』をベースに辿ってみる。
明治3年11月25日 豊前国仲津郡松坂に生れる
堺利彦は貧乏士族の子であった。堺家は15石4人扶持という小土の家柄で、父の得司は御書院番、御鷹匠、検見役を経て、最後に御小姓組を命じられていた。
「堺利彦は明治三年十一月廿五日に生れ、明治十九年(十七歳)の春まで、福岡県豊前国京都(みやこ)郡豊津で育ち、その間に『郷党の秀才』として、小学校、中学校を卒業し、数え17歳のとき『笈(きゆう)を負うて』東京に遊学した。(中略)然し豊前国豊津! それが彼に取って、日本国中で只つた一つの、如何なる物にも代へがたい懐かしの故郷である。」(堺利彦『堺利彦伝』)
堺の生誕地は、厳密には豊津ではなく、両親が疎開していた豊前国仲津郡松坂(現・福岡県京都郡みやこ町犀川大坂)だった。堺は「故郷の七日」で、「小倉藩が長州に攻められた時、小倉藩は戦ひ利あらず、其城を焼いて退却した。それで新政府の位置がまだ確定せぬ間、藩士の面々は領内の諸方に散在して、暫く仮の宿処を求めた。僕の一家は仲津郡松坂村と云ふ処の或農家の座敷を借りて居た。僕は其の座敷で生れた」と述べている。
1871(明治4)年の廃藩置県により、藩主小笠原忠忱は東京に住むことになり、豊津の町づくりは未完のまま止まってしまう。豊津県は一時小倉県になるが、1867年に福岡県に併合され、その半分は大分県に組み入れられた。約2千人の豊津士族は、旧領地の小倉に戻ることもできず、山中に置き去りにされた。
藩士としての15石4人扶持の禄は、士族の公債証書に替えられたとき、金額は700円、7歩の利付きでも利子は年50円足らずだったという。
父得司は畑仕事に熱中し、山で山菜や茸を採り、川では魚を獲り、味噌も醤油も自家製し、自給自足に近い生活をしていた。当時、堺家は月5円でなんとか飢えずに暮らせたというが、それでも公債証書の利子だけでは年に10円以上が不足する。
利彦が生まれたとき、父得司は44歳、母コトは40歳だった。得司の先妻が長男の平太郎を残してて亡くなった後に、志津野家から後添えに来たのがコトで、乙槌(おとつち)と利彦の2人を生んだ。
父得司はあまり学問はなかったが、俳譜には熱心で、碁と生け花も好んだという。堺は父からこの三つの趣味を自然に受け継いだ。母のコトは浄瑠璃や草双紙や軍談などに通じていて、和歌も詠んだ。堺は、父の俳句と母の和歌の両方から感化されたという。
長兄の平太郎は親戚を頼って東京に出て簿記法を学び、帰郷後は地元の銀行に勤務して、1883年頃に小倉の士族の娘と結婚した。堺は15歳年上の平太郎に対して、兄弟という親しみはそれほど深くなかったという。
堺が文学の道を志すことになったのは、両親以上に、1865(慶応元)年生まれの次兄乙槌から受けた影響が大きかったといえる。
乙槌は平太郎とは対照的に、代数や幾何は落第点ばかり取っていたが、作文が得意で、詩をつくり、歌を詠み、字も上手だった。堺にとって乙槌は崇拝すべき対象で、その影響で早くから創作に励むようになった。
乙槌は養蚕業を営んでいた本吉家の養子になり、英語を学ぶために福岡と長崎の学校に入学する。だが、どうしても東京に出たかった乙槌は、結婚した後で東京へ単身遊学する。乙槌は、その後、酒と女におぼれる放縦な生活を送り始める。
1882年、12歳、豊津中学校入学
豊津中学校の前身は藩校の育徳館で、当時は豊前唯一の中学校で、生徒のほぼ全員が士族の子弟だったという。
豊津中学校は、藩校だった育徳館時代に外国人教師を雇っていたほど開明的だったが、漢文の授業もあり、堺は『論語』『孟子』『文章規範』などを熱心に学んだ。
一方で、堺は中学で受けた英語の授業に感動している。何人かの教師に学んだが、最後に赴任してきたのは大学を卒業したばかりの松井元治郎という若い教師で、専門は化学だった。堺は彼から初めて本当の英語を学んだという。
堺は学内の才子の一人に数えられ、前途洋々たる少年だった。背が低く、体格が貧弱だった彼はよくいじめられたが、成績だけは負けない自信があった。軍人志願者は士官学校をめざしたが、体格が軍人向きではない堺は大学進学を志願していた。同期は10人足らずだったが、堺は首席で豊津中学を卒業する。
1882年12月9日、はじめての雑誌掲載
1882年12月9日、「風貌」が投稿雑誌『穎才新誌』第288号に採用される。初めての雑誌掲載。(成田龍一『初期社会主義研究』第2号)
『穎才新誌』は1877年創刊の投稿雑誌で、尾崎紅葉や山田美妙などが少年時代に投稿している。
「風説」は、漢文訓読体で書かれた500字余の短文で、「夫レ風ハ物二由テ寒暖芳臭ヲ分ツ 人ハ友ニ由テ賢愚善悪ヲ異ニス」といった文章である。
堺はこの文章で、目に見えず、色もにおいもない風を鮮やかに描写し、それを人間と対照させて、いつも無心で目立たないものの、機に臨んで力を発揮する〝風のような人物〞を高く評価している。堺の漢学的素養と文学的美意識が感じ取れる。
1885(明治18)年(15歳) 築城邪椎田村(現・福岡県築上郡築上町)の中村という家の養子となる。
1886(明治19)年春(16歳) 一回目の上京
中村利彦は、養父母、同年齢の少年2人とその他2人の同行者と共に豊津を出発。その「田舎者の一行」のなかの「貧弱なチビで、それが土色(もしくは煤色)の顔をして、手製のシャツを着て、まだ帽子といふ物をかぶる事も知らずにゐた」少年が彼だった。小さな汽船で神戸港に着いたとき、彼は生まれて初めて電気灯というものを見た。また、生まれて初めて汽車に乗って神戸から大阪に出た。京都見物ののち、大津から小蒸気船で琵琶湖を渡って伊勢に参宮し、四日市からは汽船で横浜に到着。京都見物と伊勢参宮が、地方に住む者にとっては定番中の定番ともいえる物見遊山コースで、東海道はまだ全通していなかった。
一行は横浜港で下船し、そこからは汽車に乗って新橋に到着した。
結局、彼の東京での生活は、1889年4月までの3年間にすぎなかった。学業を怠け、遊興におぼれ、学費を使い込み、学費未納で学校を除名され、中村家から養子縁組を解消される。
つづく
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