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寛弘6(1009)1月3日 『紫式部日記』消息文にみる平安時代の美人の標準、清少納言への厳しい批判

東京 北の丸公園 2012-11-02
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寛弘6(1009)
1月3日
・『紫式部日記』消息文にみる美人の標準
『紫式部日記』寛弘6年正月3日条で、紫式部が、同僚の女房たちの紹介、後宮生活に対する感想、斎院(さいいん)選子(せんし)内親王の女房や、和泉式部・赤染衛門などについて記し、その末に清少納言についての痛烈な批評を下している。
『紫式部日記』のこの随想的な部分は、消息文と称せられる。

初めに、同僚の女房たちの、主に容姿について書いてある。
紫式部自身も断っているように、美点のみを挙げて欠点には触れていないが、12人ほどを批評してあるのを見ると、凡そ、美人の標準というものがわかる。

特に目立つのは髪の長さ。
髪が長いことが当時の美人の絶対条件であった。
ここでも髪の長さに言及する場合が最も多く、身長を1尺も越すのが何人もいる。

その他の条件では、ふっくらとして少し肥り気味ぐらいの方が好まれたようである。
色は白いに越したことはないが、それも艶があって光るようなのがよいらしい。
清らかな感じが大切にされるが、美人の標準は健康的である。

目尻はちょっと下がり目くらいが良いようで、つり上がったのはいただけないらしい。
『枕草子』に、藤原行成の言葉として、「女はたとえ目がつりあがり、眉が太く、鼻がひろがっていようとも、口もとが愛らしく、あごの下から頸筋がふっくりして、声もよい人ならば好もしい。とはいっても、あまり顔の造作が悪いのも困るが」
というのがある。
行成は正直で通った男だから、彼の本音であろう。おかげで彼は顎のとがった女に目の敵にされたとある。

次に名ある女房たちの心ばえ、才能などに筆が及ぶ。
第一に出るのが斎院の中将。
斎院は村上天皇皇女の選子内親王で、風情ある女房を集めて一つのサロンを形成していた。
紫式部はこの斎院のサロンと彰子のそれとを比較して、対抗意識を燃やしているようである。
彼女の観察では、斎院の方が多少華やかで、彰子の方はうわついたことを嫌い、少し遠慮がちな気分であったらしい。

「あだになりぬる人」
次に、和泉式部・赤染衛門という名だたる連中が出る。
共にベタ誉めではないがその作歌を賞讃している。

そしてその次が清少納言。
この批評は実に手厳しい。

「清少納言こそ、高慢な顔をしてまったくたいへんな女です。あれほど利口ぶって、いろいろ漢学の才をひけらかしていますけれども、よく見れば、まだまだとても不十分なことも多く見受けられます。こういうふうに、なにかにつけて人と違ったところを現わそうとばかりしている人は、そのうちにかならずポロを出し、行く末はろくでもないことになるもので、むやみに風流ぶる人は、別になんということもないところにも、むりやり情趣を持ちこみ、いちいち風情を見つけようとしてジタバタしているうちに、自然と感心できない浮わついた風に染まってしまうのでしょう。そのあだになりぬる人(軽薄才子になってしまった人)の終末が、どうしてよいはずがありましょうか」

これは、紫式部の随一の激語。
彼女はだいたいが慎み深く、控え目で、生来の学才も聡明さも、成長してからはなるべく人前には出さず、彰子に白氏文集の一部を進講した時もこっそりと人に知られぬようにしたという。
才智を振りまわした清少納言に対して、真の学力からすれば式部の見るに堪えないところであったか。
それにしても、
「そのあだになりぬる人のはて、いかでかはよく侍らむ」
とは、よくも言ったものである。

『古事談』にみる清少納言の末路
清少納言が没落してから、殿上人が多数車に乗って彼女の家の前を通った時、家がすっかり壊れているのを見て、
「やれやれ、清少納言もひどいことになったものだなあ」
と言った。
ところが、ちょうど縁に立っていた彼女はこの声を聞いて、簾をかき上げると鬼のような尼姿をつき出し、
「駿馬の骨を買わないの」
と言いすてたという。

駿馬の骨の故事。
燕の国王が、なんとか賢者を集めたいと、郭隗に相談すると、郭隗は、
「昔、名馬を求めに使いを出した王がありました。ところがその使いが、大金を出して馬の骨を買って来たので、王が怒ると、使いは、死んだ馬の骨でさえ大金を出して買うとなれば、いちいち探しまわらずとも、黙っていても名馬が集まって来ます、と答えました。はたしてしばらくのあいだに天下の名馬が三頭も手に入ったということです。王さまも賢者を集めたいとおっしゃるならば、ひとつまずこのわたくし、郭隗をうんと厚遇してください。そうすれば、賢人はどんな遠くからでも集まってまいりましょう」
と答えた。
「まず隗よりはじめよ」である。
燕王は、そこで郭隗のために壮麗な殿を築き、師として厚遇したところ、天下の賢者が集まって燕の国は栄えたという話。

この話で見ると、清少納言はやはりかなり落ちぶれて、尼になったらしいが、持前の勝気はそれでも衰えなかったようである。
彼女は決して美人ではなかったらしく、尼になってからも男の僧と間違えられた話も伝わっている。鬼のような尼姿とあるのも、いかにも本当らしい、うらさびしい挿話である。

清少納言は、長保3年(1001)頃、宮廷を離れた。
紫式部はその数年後に宮仕えに上がっている。
だからこの二大女流作家は、宮廷で顔を合わせたことはなかった。

しかし、清少納言の逸話は殿上人や公卿の間にも、女房たちに語りつがれていたであろうし、清少納言の枕草子も彼女が宮廷を去ってから手を加えて完成したのだろうといわれているから、式部が清少納言の書いたものを見る機会も多かったろうと思われる。
紫式部がこれほどはっきりと清少納言の末路を記しているのを見ると、寛弘6、7年頃には、清少納言の零落は決定的なものであったのだろう。
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