1899(明治32)年
この年、維新號、神田に開店
明治32年、神田区今川小路(現、神保町3丁目)に開店した維新號は、最初は名前もない小さな店だった。留学生が足しげく通って中国食材や雑貨品を買ううちに、求められて簡易食堂も兼ねるようになった。ピータン、塩卵、焼き飯、肉入り麺、豆腐料理、豚肉野菜炒めなど、ごく簡単な料理を出すだけだったが、下宿先で油物を口にできない留学生たちは喜び、評判になって繁盛した。
「『維新號』という屋号も、実は留学生がつけたものです」と言う(維新號の3代目経営者鄭東耀氏)。
開店当時、留学生たちは店に集まって中国料理を食べながら、祖国の未来について話し合った。日本が明治維新で近代化を成し遂げたように、祖国の未来もそうであってほしいと願い、我が家同然のこの店に『維新號』と名づけた。
維新號に集まる留学生たちの話題は時代とともに変化した。創業初期の明治時代にはもっぱら清朝打倒運動に花が咲いた。大正半ば以降は、日本の中国侵攻と留学生に対する思想統制が厳しさを増すに連れて、反日運動や反帝国主義運動について議論沸騰することが多くなった。
大正中期には、中華料理は日本人にも親しまれるようになり、神田には「維新號」のほかにも「中華第一楼」「会芳楼」「漢陽楼」など中華料理店が十数軒に増え、日本人が経営する日比谷の「陶々亭」「山水楼」、虎ノ門の「晩翠軒」、茅場町の「偕楽園」などは、中国人コックを雇って大規模に営業した。
こうして神田には、大正時代以降、一説には140軒もの大小さまざまな中国料理店ができた。その頃の中華第一楼は神田区神保町のすずらん通りにあり、現在では中央区銀座に移転している。漢陽楼は神田区猿楽町から小川町に移転し、今日も営業している。
1月
永井荷風(20)、落語家6代目朝寝坊むらくの弟子となり、三遊亭夢之助の名で席亭に出入りする。
「わたくしは朝寝坊むらくといふ噺家の弟子になって一年あまり、毎夜市中諸処の寄席に通つてゐた事があった。その年正月の下半月(しもはんつき)、師匠の取席(とりせき)になったのは、深川高橋の近くにあった、常磐町の常磐亭であった」
寄席の仕事を終えた夜ふけ、若い女の三味線弾きと二人で帰る場面が出てくる。若い男女のことであるから、「身を摺り寄せながら」歩くうちには、「手を握る」だの 「顔が接近して互の頬がすれ合ふやうになる」といったこともあり、あげくの果ては 「二人の間に忽ち人情本の場面が其のまゝ演じ出され」たという(随筆『雪の日』、昭和19年)。
荷風は昭和7年4月11日つけの日記にもこのときのことを書き記している。
「酔ひて心の乱るゝま、路傍の小屋に女を引入れ戯れし事あり。女は年の頃十七八にて橘屋橘之助といひし浮れ節寄席芸人の弟子なりき」と。この時、荷風は満52歳。30年前の雪の日の記憶は「忘れがたきところ」と言っている。日記にも書き、随筆にも記したということは、荷風の頭の中ではかなり生々しい記憶だった。
1月
吉沢義則・八杉貞利ら「若菜会」創立。
1月
ゴーギャン(51)、タヒチ、パペーテの事業局の仕事をやめ、愛人パウラとともにプナアウイアに戻る。
1月
アンリ・マチス(30)、フヌイユで息子ジャンが誕生。ヴォラールからロダンの胸像「ロシュフォール像」、ゴーギャン「少年の肖像」、セザンヌ「3人の俗人の浴女」、ゴッホの素描を購入。
1月1日
「労働世界」に社会主義欄、片山と高野の対立
1月1日
漱石、同僚の奥太一郎とともに宇佐、耶馬渓から日田・吉井・追分への6日間の旅行に出発。
「.....奥太一郎(前年四月、漱石の紹介で赴任する)と共に出発し、鳥栖・博多を経て、宇佐八幡宮に向う。小倉に泊る。
★一月二日(月)、宇佐停車場(現・柳ヶ浦駅。豊川線終点)で下車し、宇佐八幡宮まで(約四キロ)歩く。参詣して、約三キロの坂道を下って、四日市町に至り、一泊する。
★一月三日(火)、風の吹くなかを代官道を行き(推定)、曹洞宗羅漢寺(大分県下毛郡木耶馬渓町にあり、釈迦を初め、五百羅漢など七百の石像を安配してある)に参詣する。参詣寺の入口は笹の葉を結んで登る習慣になっている。雪降ってくる。巌頭の廊に、一丈余り(三メートル余り)の藁を積んで、その上に小僧が坐っている。風の吹くたびに崖下に落ちそうになる。危険ではないかと云うと、命は一つしかないので諦めていると答える。
★一月四日(水)、口ノ林(現・耶馬渓町平田)から、耶馬渓に向う。「谷深み杉を流すや冬の川」「石の山風に吹かれ裸なり」「目ともいはず口ともいはず吹雪哉」と詠む。柿坂を経て、守実温泉の河野謙吾(郵便局)方に泊る。
★一月五日(木)、守実温泉を出発、吹雪のなかを大石峠を越えて、日田(大分県)に向う。大石峠を降りる時、馬に蹴られて雪の中に倒れる。「吹きまくる雪の下なり日田の町」。日田町では、平野五岳(広瀬淡窓門下の奇才)を忍ぶ句を詠む。日田を過ぎて、筑後川の上流を下り、吉井(日田と久留米の中間、日田から西へ二十キロ、久留米から東へ二十五キロ)に至り、長崎屋(現在は酒場。吉井町天神町)に泊る。
★一月六日(金)、吉井を出発し、大将陣山(九百十メートル)、戸山(七百七メートル)の麓を通り、追分(現・久留米市山川町)を経て久留米市に至る。久留米市に一泊したか、または久留米停車場から熊本停車場に直行したとも想像される。」(荒正人、前掲書)
1月2日
~ 7日 貴族院議員と衆議院議員を訪問する。勝海舟宅には、参考のため被害地植物藁灰を持参して訪問する(室田忠七の鉱毒事件日誌より)。
1月2日
フィリピン、マビニ革命政府首相、外務大臣に任命される。
1月5日
子規『蕪村句集』輪講会を開催
1月7日
仏、作曲家プーランク、誕生
1月8日
子規、俳句会
1月9日
渋沢栄一・大倉喜八郎ら、衆議院議員選挙法改正期成同盟を結成。
1月10日
子規『明治三十一年の俳句界』『俳句新派の傾向』『夢』(『ホトトギス』)
「○先日徹夜をして翌晩は近頃にない安眠をした。其夜の夢にある岡の上に枝垂桜が一面に咲いてゐて其枝が動くと赤い花びらが粉雪の様に細かくなって降つて来る。其下で美人と袖ふれ合ふた夢を見た。病人の柄にもない艶な夢を見たものだ。」(『夢』)
1月12日
大杉栄(14)、講武館師範の坂本謹吾から賞状をもらう。
1月14日
東京天文台、写真撮影による観測を開始。
1月19日
勝海舟(77)、脳溢血で没。
1月19日
英、スーダン協定締結。エジプトと共同でスーダン統治
1月20日
子規、俳諧叢書第一編『俳諧大要』刊行(ホトトギス発行所)。3千部。
1月20日
高柳健二郎、誕生。日本のテレビの父。
1月21日
フィリピン独立派、マロロス憲法制定。フィリピン共和国(マロロス共和国)樹立。初代大統領アギナルド就任。この頃までに、ルソン島、ヴィサヤ諸島の大半は革命政府が掌握。
1月23日
英、オスマン帝国支配脱却求めるクウェート統治サバーフ朝首長ムバーラクの要請受けペルシャ湾諸国手中に。
つづく
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