2024年9月26日木曜日

大杉栄とその時代年表(265) 1899(明治32)年7月 〈「萬朝報」入社までの堺利彦の閲歴③〉 浪華文学会設立され、堺利彦はこれに加わる 小学校教師を辞め『大阪毎日新聞』(2ヶ月) 『新浪華』入社  

 

西村天囚(1925)

大杉栄とその時代年表(264) 1899(明治32)年7月 〈「萬朝報」入社までの堺利彦の閲歴②〉 英学塾の同人社 共立学校 第一高等中学校 退学 養家から離縁 家督相続 天王寺高等小学校の英語教員 煩悶と東京への憧れ より続く

1899(明治32)年

7月 

〈「萬朝報」入社までの堺利彦の閲歴③〉

1892(明治25)年、浪華文学会設立。堺利彦はこれに加わる

大阪時代の堺に大きな影響を与えたのは『大阪朝日新聞』の西村天囚である。天囚は、新聞記者で小説家、漢文学者でもあった。堺も愛読した東海散士『佳人之奇遇』は、天囚が一部を代作したと噂されていた。

浪華文学会の人々との交流

「浪華文学会」は天囚を中心に設立された文士の団体で、文芸誌『なにはがた』(のち『浪花文学』、さらに『浪花潟』と改題)が発行されるようになる。堺は、兄乙槌と共に浪華文学会に参加した。浪華文学会は『大阪朝日新聞』の記者が中心になっていたこともあり、朝日新聞社の共同経営者の上野理一が、雑誌発行の資金を援助していたという。『なにはがた』は菊判の小冊子で、編集人は堺の兄本吉乙槌だった。発行所は図書出版会社で発行は月1回。毎号5、6篇の創作と、紀行、評論などが掲載されていた。

発足2年目の4月時点の浪華文学会会員名簿には、発行人も含めて44人の名前がある。堺利彦(枯川)、西村時彦(天囚)、巌谷季雄(漣)、渡辺勝(霞亭)、武田穎(仰天子)、村上信(茅渟浦浪六)、野崎城雄(左文)、関二郎(如来)などの名前も見える。

最も有名なのは、のちに少年文学の第一人者となる巌谷漣(小波)だろう。硯友社同人として活躍していた彼は、当時は『京都日出新聞』文芸部主任として京都に赴任していた。

渡辺霞亭は天囚と同じく『大阪朝日新聞』の社員で、当時の関西の小説界では一、二を争う流行作家だった。

武田仰天子も、渡辺霞亭と共に関西文壇の重鎮として活躍している。

『報知新聞』の校正係だった村上浪六は、江戸時代の任侠の人物を描いた処女作『三日月』で一躍文壇の寵児となった。浪六は同紙を辞して故郷の堺市に戻り、『大阪朝日新聞』に迎えられていた。

野崎左文は馬場孤蝶のいとこに当たり、幕末から戯作者として活躍した仮名垣魯文(本名・野崎文蔵)の門下だった。『私の見た明治文壇』の著者としても知られている。

関如来はのちに『読売新聞』に入社し、美術評論家になる(関の娘は「日本のうたごえ運動」を広めたソプラノ歌手の関鑑子で、当時「梟が鶯を生んだ」といわれた、と堺は書いている)。

堺の兄本吉欠伸はこの時期、頭角を現し始めていた新進作家だった。

しばらくして須藤南翠(本名・光暉)も『大阪朝日新聞』に招かれて東京から移ってきた。須藤南翠は明治10年代に政治小説や『新粧之佳人』などで文名を上げ、文壇の大家と認められていたが、当時は時代後れとみなされ、浪華文学会の若い文士は、寄ってたかってこの老文士をいじめたという。

須藤南翠の少しあとに、やはり東京から『大阪朝日新聞』に移ってきたのが、堀柴山である。堀紫山は『読売新聞』に入って名文家として知られるようになり、「煙亭紫山人」の筆名で小説を書いた。1890年には、人気作家の尾崎紅葉と共同生活をしていたこともある。紫山は1863(文久3)年生まれで堺より7歳年上だったが、二人は非常に気が合った。紫山は1896年初めに東京に戻って『読売新聞』に復帰するが、この浪華文学会での出会いがきっかけで、堺は1896年に紫山の妹の美知子と結婚することになる。この美知子の妹が、のちに大杉栄の内縁の妻になる堀保子である。

堺はさらに浪華文学会の関係で久津見蕨村(本名・息忠)、加藤眠柳(本名・米司)、上司小剣などとも知り合っている。いずれも新聞記者で文筆家だが、その後も彼らとの交友は続いた。上司小剣はこのグループの最年少だったので、とくに堺と親しくしていたようだ。

西村天囚ほ浪華文学会の後進たちに勉学を励まし、自宅で心理学の輪講会を開くこともあった。英語教員である堺は、洋書を読んでいる会員たちと話をすることが多かったのだろう。この会で、彼はディケンズやサッカレーの原著をはじめ、ゾラの小説の英訳本などを借りて読んでいる。のちに、堺はゾラの小説の翻訳をいくつも手がけているが、ゾラを読んだのはこのときが初めてだった。

こうして、浪華文学会に参加した堺は、教員の仕事以上に小説や随筆の執筆に力を注いでいた。

堺は『なにはがた』1892年3月号では「橙園」という筆名を使っているが、同年4月号からは(翌年2月、『浪花文学』と改題)、「堺枯川」「かれ川」「枯川漁史」「水無庵主」の筆名で小説や雑録を執筆している。

最初の翻訳、1892年7月、ワシントン・アーヴィング「肥えた旦那」(『なにはがた』)

アーヴィングの『スケッチブック』は日本で早くから翻訳され、広く読まれていた。堺の少年時代の英語の教科書にも『スケッチブック』が載っていたが、当時、彼はこの作品からもっとも多くの感化を受けたという(『日本平民新聞』1908年3月5日付)。

「肥えた旦那」は、旅人宿に泊まった語り手の「我」が、二階の宿泊客に興味をもって観察するものの、声が聞こえるだけで顔を見る機会がない。ついに、出発するときに太った男の後ろ姿を目撃しただけだった、というストーリー。平易でユーモラスな文章には、後年の堺の作風が表れている。

1892年10月、「当世品定」(『なにはがた』)。

『源氏物語』の「雨夜の品定」では男性たちが好みの女性のタイプを話し合うが、「当世品定」では十八、九の結婚適齢期の娘が、夫候補の男性をきびしく品定めしている。結婚相手を選ぶのに大事なのは見た目か、性格か、財産か、将来性か。ヒロインは三人の候補者のなかで、夫にすべき人物を見定めようとする。

1892年11月25日 「隔塀(へいごし)物語」(『しがらみ草紙』)

隣の貸家に引っ越してきた謎の人物の正体を出入りする人々から想像するという話で、「状況証拠」によって人物像が二転三転する意外性。東京で活字になって印刷された最初の作品。

1893(明治26)年

『悪太郎』『継母根性 [附] 蝶くらぺ』(図書出版会社)、『はだか男』(文陽堂)を出版。

『継母根性』は、身分違いの家に後妻として入った女性の哀れさを描く。噂や中傷に追いつめられたヒロインは、自ら命を絶つことで継子をかばう。

1893年2月~「五軒長家」(『浪花文学』連載)、

「東の端」「二軒目」「三軒目」「四軒目」というように五軒長家に住む家族それぞれの物語。明治20年代の大阪の庶民の食事、衣服、家事など、日常生活がいきいきと描かれている。

1893(明治26)年2月、『大阪毎日新聞』記者となる。

兄乙槌を通じて新聞方面に知人が多くなり、彼らの影響で遊蕩に拍車がかかり、借金がかさんだため、両親と一緒に乙槌の家に転がりこむ。

そして、1893(明治26)年2月、小学校教員を辞めて『大阪毎日新聞』記者(月給15円)となるものの、2ヶ月で免職となる。

堺の回想によれば、「ある日編集局の裏の大便所に行った時、『今度来た堺と云ふ奴ほど生意気な奴は天下に無い』といふような落書のしてあるのを見つけた」とのことである(『近代思想』1914年7月号)

あっさりクビになったものの、文士としての「堺枯川」の名は大阪界隈では多少知られるようになり、原稿料で生活できそうだと考えた彼は、教員生活には戻らずに浪人することにした。

だが、それが遊蕩に拍車をかけることになる。原稿料は酒と遊びに消え、借金をせざるをえない。月末にはその支払いがたまり、食べる米もなくなる。母から涙ながらに、何度も短刀を取り出して自害しようとした、と告げられて堺はさすがに驚く。それでもなお悪癖を改めることはできなかった。

『新浪華』入社

そんな堺を見かねた西村天囚が、今度は『新浪華』という新聞に世話してくれた。社長は薮広光という熊本人である。

同じころ『大阪朝日新聞』主筆として東京から赴任してきたのが、元官報局長でのちに松方内閣の書記官長も務めた高橋健三だった。この高橋健三と東京で新聞『日本』を主宰する陸羯南(本名・実)が、当時の東西相呼応する日本主義、国粋主義の鼓吹者だったという。

『新浪華』もまた国粋主義の系統に属するもので、堺は高橋健三・西村天囚派の一人として、その政治的波動のなかに巻き込まれていく。

『新浪華』には10余の記者がいて、熊本の『九州日日新聞』主筆の山田珠一が主筆格として手伝いに来ていた。堺は小説も随筆も雑報も論文も書き、月給は15円だった。これは、山田珠一を除くと最高の額で、堺は家賃2円10銭の家を北野に借りて両親と女中の4人で住むようになる。

吉弘白眼との交流

この時期に堺は吉弘白眼(本名・茂義)と知り合う。吉弘白眼はどこの新聞にも属さず、新聞経営を夢想していた。堺と同じように貧乏で、「米を一升づゝ借りたり貸したり一枚の羽織を二人で着たりした」と堺はのちに回想している(『近代思想』1914年7月号)。

吉弘白眼はその後、『大阪日報』と『大阪日日新聞』社主を兼務し、関西の新聞界で幅を利かせるようになるが、「悪弘黒眼」の異名を得るほど評判が悪かった。阿部真之助(ジャーナリスト、のちに青野季吉らと共に日本エッセイスト・クラブを創立)は、吉弘が主宰する『大阪日報』について、「毎日々々個人のスキャンダルが、あることないこと、素破抜かれていない日とてはなかつた。金を出せ、ださなければこれだぞと、ピストルならぬ素破抜き記事をつきつけて、脅迫しているのである」と述べている(『老記者の想い出話』)。

そのため、堺が吉弘と親しくするのを不思議がる人もいたが、堺は気にするふうもなかった。二人の交友は続き、のちに吉弘は売文社に出資して堺を援助している


つづく

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