2024年9月9日月曜日

大杉栄とその時代年表(248) 1898(明治31)年9月1日~4日 子規、東京版「ホトトギス」発刊準備で多忙 永井荷風、広津柳浪に入門 農商務省、工場法案公表 尾崎文相に対する共和演説攻撃のキャンペーン

 

広津柳浪

大杉栄とその時代年表(247) 1898(明治31)年8月4日~31日 第6回臨時衆議院議員選挙(憲政党は絶対多数を獲得) フィリピンのスペイン軍降伏(米軍、単独でマニラ占領) 共和演説事件(文相尾崎行雄への攻撃) 「ほとゝぎす發行處を東京へ遷す事」 より続く

1898(明治31)年

9月

漱石の友人、菅虎雄が第一高等学校教授に栄転。

9月

子規、東京版「ホトトギス」発刊準備で多忙となる。


「明治三十一年九月の子規は忙しい。

東京版「ホトトギス」刊行は十月十日と決めた。松山版をすべて第一巻とし、東京版は第二巻一号からはじめる。

九月はじめ、子規は秋田に帰った石井露月と富山の地方紙に職を得た佐藤紅緑に手紙を書く。いずれも随筆原稿の注文である。大阪の俳人グループにも書く。こちらは大阪の「日本派」の活動についての原稿依頼で、いずれも締切は九月二十日とした。

表紙と口絵は下村牛伴に頼んだ。口絵はもう一枚、中村不折に描いてもらうことにした。不折には新聞広告の図案も頼んだ。

子規は新雑誌には、俳句ばかりではない、大いに散文を入れるつもりだ。美文、漢語まじりの雅文という古い文章ではなく、客観描写を旨とする「写生文」の牙城としたいのだ。

東京版「ホトトギス」は「日本派」の機関誌という役割のほかに、子規の「野心」を実践する場としての意味がある。子規自身はそう考えて疑わない。「ホトトギス」は「時鳥」であり「子規」である。自身そのものが誌名なのだから意気は高い。

だが虚子を立てなくてはならない。創刊資金三百円を郷里の長兄から借り出したのは虚子だという事情のほか、子規は虚子の、熱中と虚脱の振幅大きな気質に不安を抱きながら、信頼は深い。いずれにしろ病床にある子規は、実務の大半を虚子に依存することになる。実務のうちには印刷所や書店との交渉など、商人的な仕事も含まれる。それは元来、子規の苦手とする分野だ。果たして虚子は、どこまでやり通してくれるか。」(関川夏央、前掲書)

9月

永井荷風(19)、 「簾の月」という作品を携え、広津柳浪に入門


「そもわが文士としての生涯は明治三十一年わが二十歳の秋、簾(すだれ)の月と題せし未定の草稿一篇を携へ、牛込矢来町なる広津柳浪先生の門を叩きし日より始まりしものと云ふべし。われその頃外国語学校支那語科の第二年生たりしが一ツ橋なる校舎に赴く日とてはまれにして毎日飽かず諸処方々の芝居寄席を見歩きたまさか家に在れば小説俳句漢詩狂歌の戯に耽り両親の嘆きも物の数とはせざりけり。かくて作る所の小説四五篇にも及ぶほどに専門の小説家につきて教を乞ひたき念漸く押へがたくなりければ遂に何人の紹介をも俟たず一日突然広津先生の寓居を尋ねその門生たらん事を請ひぬ。先生が矢来町にありし事を知りしは予め電話にて春陽堂に問合せたるによってなり。

余は其頃最も熱心なる柳浪先生の崇拝者なりき。今戸心中、黒蜥蜴、河内屋、亀さん等の諸作は余の愛読して措く能はざりしものにして余は当時紅葉眉山露伴諸家の雅俗文よりも遙に柳浪先生が対話体の小説を好みしなり。」(『書かでもの記』)


この年、旅行記『上海紀行』を発表(現存する荷風の処女作とされる)。

この年から習作を雑誌に発表。

9月1日

農商務省、工場法案公表。全国取引所に諮問。

23日、「労働組合期成会」、修正意見提出。

10月24日、農商高等会議で工場法案修正可決。議会不提出となる。

同法案の提出理由:

①工場工業勃興に伴い、その設備の不完全は人命を危うくし近隣社会に重大な傷害を与えるので、政府が統一した方針でこれを監督する必要がある、

②工業主と職工との関係において、従来の「親睦協和恰も家族師弟たるが如き情誼」が衰退し「階級的差等間隙」が現われてきて、「雇者被雇者の規律頗る紊乱し、雇者は被雇者の転々移動するのに苦しみ、被雇者は亦往々にして雇者の圧抑に屈従するの悲境に沈淪する者あり、誘拐争奪の弊既に起り、教唆強要の風漸く行はれむとす」る状況にあり、「大体の法規を設けて二者の関係を律し、一面以て工業者の為に其事業経営の確実整正を図り、一面以て労力の強健風儀の保持を企つる」ことが工業発展のため必要。

工場法案の内容:

①50人以上の職工徒弟を使役する工場に適用、

②10歳未満の幼者の使役禁止(例外規定あり)、

③14歳未満の職工は1日10時間を超えて使役してはならない、

④職工には最低限1ヶ月2日の休日、1日1時間の休憩を与えなければならない、

⑤工業主は尋常小学校の教科を卒業していない14歳未満の職工に自己の資用で相当の教育を与える設備をつくる、等。

法案立案推進は、社会政策的立場にある官僚が行い、彼らは、各地の労働の実情に鑑み、劣惑な労働条件が労働力の濫費を生み国民の生命健康をむしばみ国力消耗に繋がること、劣悪な状態に追いつめられた労働者が紛擾を起こすこと、を特に憂慮し、一定の法的規制を行なうことが資本家・労働者双方の利益であると判断。労使関係が同盟罷工のような爆発状態に陥ることを予防するため、国家=総資本の立場から労使関係に介入。法制定に比較的熱心な金子堅太郎(前農商務大臣)が1898(明治31)年2月の労働組合期成会での演説で、「一揆がましいこと無く大勢を嘯聚して強迫するやうな事無くして人の徳義に訴へ人の慈善心に訴へ人の国家を思ふ観念に訴へて此労働問題を御所決なさらんことを希望する」と述べる。

労働組合期成会の「工場法案に対する意見書」。陳情委員を選び農商務省幹部や農工商高等会議委員に修正意見を伝え、対工場法案政談演説会を開き世論に訴える。

修正意見概要。①5人以上の職工徒弟を使役する工場に通用。②10歳未満の幼者使役の全面禁止。③14歳未満の職工は1日8時間を超えて使役してはならない。④職工には少なくとも毎日曜日及び1日1時間の休憩を与えなければならない。⑤尋常小学校の教科を卒業していない14歳未満の職工の教育を工業主の義務とし完全に履行させる。

9月1日

「井上博士の民主共和論の攻撃」(『京華日報』談話記事)

この記事は尾崎文相に対する共和演説攻撃のキャンペーンの一環である。

井上智次郎は、「過日は帝国教育会は、無学浅薄にして有害なる思想を包蔵し皇室国家を蔑如せる『非日本人』某を呼び来りて民主共和主義を唱道せしめ、今日の教育倫理の精神は亡国の主義となし仏国等の共和主義を唱道し、日本今日は民主共和の時代なり、筒人主義無国家主義にてやるべLとの演説を為きしむるが如き、最も注意すべく又攻撃すべきこと」だと述べる。

*「『非日本人』某を呼び来りて民主共和主義を唱道」

尾崎文相の「共和演説」の半月ほど前の明治31年8月6日、竹越与三郎が帝国教育会演説会に招かれておこなった「国民の気風」と題する演説。竹越は、31年1月12日~4月30日の西園寺文相の在任中に,大臣秘書官兼参事官を務め、西園寺文相の第二次教育勅語案の作成に関与していたが、西園寺とともに文部省を去っていた。

竹越の演説は、道徳教育批判とでも言うべきもので、当時の徳育のありかたを批判した上で、さらに竹越は、「世界列国の現時の有様を見れば五個の大潮が奔々として流て居る」として、夫々について述べている。

「五個」のうちの「第三」では以下のように述べられている。


今はデモクラシーの世なり、衆民政治の世なり。宮廷に受けの悪しかりし人すら、衆民の輿望を背に負ひて、国家の大政を料理するに至れり(*注、大隈・板垣による憲政党内閣のこと)。帝室はその昔し天孫人種の首領なりき。後に藤原氏といふ階級の首領となり、また足利氏といふ大政党の首領となりき。然るに維新に至りて日本全人民の首領とならせ給ひぬ。既に帝室は総日本の首領にまします。されば今は君の御馬前に討死するを教ふる時ならで、国家の城壁の前に契るる事を教へざる可らず。


〈文相尾崎の共和演説に対する一般世論の反応〉

①かつて尾崎が在籍していた旧改進党・進歩党系(慶応系)の『報知新聞』

もし尾崎の引例が不敬だというなら、「我歴史中に歴々実存する蘇我の入鹿、馬子、弓削道鏡、足利尊氏、等の好跡暴状等を思想し感慨するの極、若し今後此の如き者あったならばと想像することも能はざるべく候」と攻撃者を榔旅している。

②中立を標榜する福沢諭吉の『時事新報』

論旨からいって尾崎が共和制を主張したのでないことは明白で、「之を大不敬の言として咎むるは牽強付会」と断じ、攻撃者を強く批判している。

③陸掲南の『日本』(国民主義を標榜し、政治的には対外硬派と関係が深いが、反藩閥の立場をとり、しばしば発禁処分を受けている。政党的には自由党系でも改進党(進歩党)系でもなく、中立系の新聞)

(*尾崎の演説内容を- 引用者)何が故に我国体に逆るの言となす、何を以て不敬不吉となす・・・

吾人は尾崎に於て何の因縁を有せずと雖も、余りに業々しき彼党人等の偏執に向って実に黙するに忍びざるなり。不知や、かかる児戯の迂論を取り故らに揚言誇張するが如きは、偶々彼文相一人を苦しめんとして却って自から其国体を傷け耻を外人の間に曝すのみなるを・・・何によらず唯徒らに声の大を粧う『京華』子は、宛然鬼の首など得たらんが如く、事も大層に教育界の一怪事などと二号活字をならべ・・・車夫馬丁の口吻、其の故らに教育会を煽動し、現文部を損せんとするの野心、余り露骨に見え透きて寧ろ笑止の至り


9月1日

人気女義太夫の豊竹呂昇が日本橋宮松亭で演じ、評判となる

9月2日

英・エジプト連合軍、スーダン首都オブドゥルマンでスーダン・マフィー軍壊滅させる。

9月3日

旧自由党の板垣内務大臣、林有造逓信大臣、松田正久大蔵大臣が、尾崎の演説を「不問に付する時は閣臣は均しく之れが責任を負はざるべからず」として、大隈首相に「善後の手段を促」す。

9月4日

漱石、菅虎雄宛手紙に、「近頃は頓と俳句も作り不申」と伝える。


つづく


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