2013年5月4日土曜日

1768年(明和5年)3月~4月 明和5年越前一揆(明和蓑虫騒動、越前における最大規模の一揆) 【モーツアルト12歳】

横浜山手 2013-04-29
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1768年(明和5年)
3月
・上田秋成、「雨月物語」を完成。大坂。
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3月18日
・イングランド、作家ローレンス・スターン(55)、没。
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3月18日
・ザルツブルク大司教、モーツアルト父レオポルトに給与差止め訓令。
度重なる旅行、休暇の申請、加えて今回のウィーン滞在延長申請があり、この措置となった。
「私自身なにも知りませんでしたし、また、こんなことは予想だにしていませんでした。ただ、大司教猊下はご主君なのです。しかも猊下はなにか節約なさろうというごもっともな理由をお持ちです」(3月30日付)。
実際、4月~12月のレオボルトの俸給は支給されていない。
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3月21日
・フランス、数学者、物理学者フーリエ、誕生。
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3月25日
・明和5年越前一揆(明和蓑虫騒動、越前における最大規模の一揆)。
福井藩領の農民、御用金賦課(藩主の帰国費用に充てる1万5500両)に反対し福井城下に乱入。

原因には、年貢過重、災害、米価、御用金賦課、藩札不安などの問題が絡む。
年貢は宝暦11年以来の定免制継続、災害は3年に藩江戸屋敷・城下三橋町地方から出火して2676軒が類焼した火災、米価は藩の明里蔵米7千俵が三国へ川下げとなったことや御用達商人美濃屋が大野辺から米5千俵を買い入れ他国販売したとの噂などによる騰貴不安で、それまで米1俵銀24、5匁が31、2匁に上がる(「国事叢記」)。
御用金はこの年(5年)2月、藩主帰国費用と称し1万5500両の賦課が江戸から伝えられ、これが直接の引き金となる。

3月21日、福井城下に不穏な動き。
22日、町組頭新屋兵左衛門支配下の町人100余が困窮を訴えて安養寺に集まり、後、兵左衛門及び町組頭丸屋九左衛門方へ救米願に行く。
昼時、町組頭二文字屋惣左衛門と久々津又右衛門組下の町人200余が大橋下に集まり、惣左衛門・又右衛門方へ同様に救米を求める。
町組頭赤尾助右衛門組下の町人達も同じ行動に出る(「家譜」)。

城下至る所で町組頭に救米要求する騒ぎが起こり、次の日も続く。
24、25日には「古ミの(蓑)・破レ笠」姿に、4、5尺程の竹杖を持つ在方百姓たちが加わり、「ひたるいひたるい、賄くれ」と叫びながら、藩御用達で札所元締美濃屋や極印屋等へ食事を強要し、古鍬・古鋤などの農具を質にとってくれと迫る。

25日には極印屋・美濃屋が打毀され、26日には牢が破られ、28日には家老酒井外記の門前にまで現れ、中老嶋田清左衛門・目付太田三郎兵衛・侍格水野三右衛門を「打砕」けと罵る。
この日打毀された大工頭藤間又三郎は藩の給人で升を管轄しており、同じく大工頭寺木十右衛門宅を壊す噂も飛ぶ(「国事叢記」)。

29日には越前各地から百姓が押し寄せ、特権的商人宅等を打毀し、藩役人を激しく批判。
更に、作食米願や定免制反対、升の不正など、藩へ20余項目の要求をつきつける。
騒動は地方へも波及し、在方でも打毀しが起こる。

城下の騒ぎが鎮まるのは4月1日、同5日の坂井郡吉崎を最後にようやく沈静化。
城下で9日間、在方を入れると13日間、騒動は続く。
期間・打毀し規模で越前では前代未聞の激しい民衆行動。
「片聾記」では、26日2千、27日3千、28日6~7千、29日2万が福井町へ押し寄せる。
城下以外にも松岡・丹生郡入村・今立郡小黒町村で打毀し、府中・金津でも「狼藉」があったという。
今立郡五箇地方でも騒動(別項で記述)。

一揆の事前準備。
25日の極印屋・美濃屋打毀しでは、拍子木の合図で一斉に進退し、盗み・酒の飲み過ぎもなく、打毀し後は15、6人が火の元を点検し引き揚げ(「国事叢記」)。
百姓一揆としての規律、参加者の多さなどから推して、この一揆が事前準備と指導組織なしにはできない行動であったことは確かである。

一揆の要求。
29日、藩の高知衆が乗り出して東西本願寺掛所へ集め、鎮まるよう説得を行ったこの日、百姓側要求が出される。
この時、用水、村方先納、役人尻なし頼母子、運上、蔵升、作食、定免、綿・麻直納などが列挙されるが、その後にも加えられたらしく、5月12日の藩の回答は多くの項目にわたる。
一揆の大きな原因の一つは御用金であるが、これは26日に藩が中止を決めたため上っていない。

福井藩の一揆対応は受身一方。
家老宅が打毀されないよう防備し、一揆勢が城内へ入り込まないよう城門へ先手頭以下を配置し、弓・鉄砲等をもって固めるが、積極的な武力鎮圧は行わず。
一揆側も藩との正面対決を避け、武力衝突は起こらず。
他の越前諸藩が積極的に対応した形跡もない。

このため一般の町人・百姓の処罰者はなし。
「一国之さわ(騒)き候得共御とか(咎)め人ハ無之」といわれる。

一方、藩政担当者は厳しく処分。
4月16日、藩主重富は江戸で家老酒井外記を「急度慎」、寺社奉行・目付・郡奉行・大工頭を「急度遠慮」とするなど仮処置を行い、帰国後7月1日に改めて関係役人を処分。
民政関係役人の殆どを罷免・交代。酒井外記は罷免、直接鎮圧責任を負う目付太田三郎兵衛は知行の内150石召上げの上「遠慮」。
民衆の怨磋の的を処分することで、一揆再発防止を狙う(藩はこのような処置をとらない限り百姓町人の怒りは静まらないと判断)。

7月13日、打毀し対象の御用達商人の処分。
極印屋庄左衛門・美濃屋喜左衛門は急度慎みの上家名変更と町裏屋への所替え、新屋三郎右衛門へは5人扶持の内2人扶持取上、見谷屋助右衛門には3人扶持取上、御用達御免とする。
この4人は宝暦11年に御用達・札所元締に任じられ、新規扶持米、加増を受けており、藩財政に関わりを持つ。
その為、比較的庶民の批判が少ない新屋はそのまま御用達を勤めさせ、安永4年(1775)2月、美濃屋・極印屋も御用達に復活。

一揆後の藩の財政・民政策は大きく変更。
5月29日に「明和五子」と焼印した新しい升を製作、以後これを通用させる。
財政策は根本的な見直しが必要となった。

農政面では、まず明和6年4月27日、今年より見取免とすると確認。
10月には宝暦11年迄の見取免の扱い方を「去免」として、年貢率や下行米額を全てこの時点に戻し、これを基準として今年の作柄にあわせて年貢を決定するとした。
また、同年6月に「町在〆(しま)り」を目的に大庄屋制を設けた。
宝暦11年に組頭制を廃止していたのを復活し、大庄屋と改称して設置した。人数は少なくして計18人とし、多くはかつての組頭から任命した。
明和7年閏6月には代官の人数も7人から14人に戻し、手代も元どおりとした(「家譜」)。
すべてを宝暦11年の農政改革以前の体制に戻した。
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3月27日
・尼崎藩、生島井組内で生島4ヶ村が常松村へ毎年渡している米は井親としての井料ではなく急水知らせ料であると裁定し、5ヶ村は請書を提出(生島井組の井親争論)。
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4月
・明和5年越前一揆の波及。今立郡五箇地方の運上金。
3月26日、五箇近くの粟田部村の者が福井へ作食願に出、翌日、定友村の者が生業の紙の販売不振を言い立て同じく作食願に出る。
28日には不老・大滝・新在家・岩本4ヶ村から400余が出て行く。
4月、粟田部・岩本村辺に一揆押し寄せるとの噂、2日に今立郡赤坂村方面から寄せて来るとか、不老村辺から岩本で潰すとかいう話。
結局何事もなく過ぎる。
4月21日(8日とも)、紙運上金のことで、大滝村を除く4ヶ村の者が1軒1人ずつ大滝社大鳥居の下に寄り合い、翌日4ヶ村として藩へ運上廃止願書を提出。
5月14日、藩は4ヶ村に対し運上は考慮する、詳しくは藩主が帰国の上、と申渡す。
これに反発する者があり、17日に若殿誕生祝いに事寄せ、村中で福井へ押しかけようとの配符が廻る。
24日には粟田部村2軒を27日に壊すという廻文。
7月11日、藩は、正式に判元制を廃止し「身運上」(夫々が紙漉きで稼いだ分から6分の運上金を出す)とする回答。他に、4村へ救米を6年間計600俵与えることとなる。大滝村も願い出れば同じ扱いを受けることが確認される。
約70年間続いた運上金が撤回される。
しかし、この制度は安永3年廃止され、再び元の判元制に戻される。
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・幕府、水戸藩に対し、領内の不作・災害を理由に、年に1万貫ずつ3年間の鉄銭の鋳造を許可。*
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4月6日
・吉原の大火。一般居住地域での仮宅営業が許可。雰囲気が変って大人気となる。
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4月20日
・ヴェネツィア、画家のアントニオ・カナレット(71)、没。
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4月28日
・幕府、銅の代わりに真鍮を素材とする四文銭(しもんせん)を鋳造し、通用について触れを出す。
総額1億5,742万5,362枚。

四文銭色はうこん(鬱金)でよけれどもかはいや後はなみの一文

というような狂歌がすぐに出た。
四文銭の値うちは、これまで通用していた一文銭とあまり変わらなかった。
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