2013年5月6日月曜日

1768年(明和5年)5月~8月 フランス、コルシカ島買収・併合。 ジェームス・クックの第一回航海 【モーツアルト12歳】

鎌倉 妙本寺 2013-05-03
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1768年(明和5年)
5月
・5月~6月、モーツアルト、ウィーンでK.47 四声のための宗教曲「聖霊来たり給え」(ハ長調)作曲。
聖霊降臨祭の典礼に奉献するためと「孤児院ミサ」習作のためとの2説ある。約2年前の奉献歌K.34と比べて格段に進歩。
この頃、K.46b (50) ジングシュピール「バスティアンとバスティエンヌ」(序曲と16曲)を作っていたらしい。ニッセンの記述によると、医師アントン・メスメルの依頼で。ただし作曲時期や動機は不明。 台本はジャン・ジャック・ルソーの「村の占師」や、そのパロディー化したファヴァール・アルニーの「バスティアンとバスティエンヌの恋」。
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5月11日
・この日付けレオポルトの手紙。イタリア旅行計画を語る。
「私はザルツブルクでのお勤めを果たしてはいないのですから……頂戴するに値しないものを、なにか正々堂々と面目を失わずにどうして頂けましょうか。これこそ、逆に、私がイタリア旅行の許可を得るのをたやすくしてくれるものなのです。この旅行は、あらゆる事情をじっくりと考えてみるなら、今はもう延ばすことはできないものですし、またそのために、私は皇帝御自身から、フィレンツェや帝国直轄の諸国ならびにナポリに対するあらゆるご助力を頂戴しているのです。それともまた、私はザルツブルクに座して空しい希望のうちによりよい成功をこがれて嘆き、ヴォルフガングが大きくなるがままにまかせ、私も子供たちもおとこへん嬲(なぶ)りものにさせ、私が旅をするのが妨げとなるような歳になってしまい、ヴォルフガングも自分が立てた手柄が人々の耳目を欹(そばだ)たせることがなくなる歳にまで成長してしまってもよいものなのでしょうか?」(5月11日付)
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5月15日
・フランス、コルシカ島を200万フランでジェノヴァ共和国から買収、フランスに併合。
パスカーレ・パオリを指導者として反抗。ナポレオン・ボナパルト父シャルル・マリー・ボナパルト(カルロ・ブオナパルテ)も。
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5月27日
・洪水のため池尻村支配の武庫川堤が切れ、尼崎市域の村々に被害が出た。
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6月
・北米、リバティー号拿捕事件。ボストンの商船を当局が拿捕。
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6月1日
・人形浄瑠璃「傾城阿波鳴門」、前年10月以来中絶していた大坂の竹本座で上演。
江戸初期の代表的越訴者、阿波の十朗兵衛に題材をとった。
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6月2日
・幕府領福井藩預所丹生郡鮎川浦で、百姓と同浦「猟師そり子共」が対立。
この日、3人が江戸の勘定奉行所へ「駈込」訴を行う。
9月5日、幕府は「そり子」の言い分を相当認める内容で裁許(「家譜」)。
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6月7日
・幕府が葵紋の使用を許可した大名へ、菩提所以外の寺社へ葵紋付きの調度類を寄付することを禁じる。
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6月8日
・フランス、サド候爵、アルクイユ事件の為コンシェルジュリー牢獄に投獄。
11日、ピエール・アンシーズ牢獄に移される。
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6月9日
・琉球で地震。王城の石垣が崩れる。慶良間島で津波により民家9軒と田園などに被害がでる。
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6月14日
・尼崎藩、旱魃に際し、大井西川筋の井子東長洲・中長洲・金楽寺3ヶ村の百姓約300人が出て潮江村地内の堰を残らず切り落とす。
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6月19日
・幕府、長崎での竜脳国産を命じ、輸入品と国産品をともに扱う竜脳座を新設、江戸・大坂・京都に3か所の取り次ぎ所を定める。

「次は竜脳座、これは明和五(一七六八)年の六月に長崎にこれを置いてあらたに竜脳を製せしむるによって、これを舶来の品と同じく使用せしむる事とし、その座の印を付けて、広く販売せしめた。天明二〔一七八二〕年に至ってこの竜脳座は廃せられ、舶来の竜脳を商人が入札払にして、その売買はすべて明和五年以前と同じく自由にせられた。これ恐らくシナの竜脳と同じ物が製造が出来なかったためかも知れぬ。」(辻善之助『田沼時代』)
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6月24日
・フランス、ラザール・オッシュ(共和派の将軍)、職業兵士の子としてモントルイユで誕生。
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6月24日
・フランス、ルイ15世王妃マリー・レクチンスカ、没(1703~)。
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6月26日
・仙台藩、領内の銭の払底を理由に10万貫の鋳銭を願い、幕府が許可する。
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7月
・7月~8月、モーツアルト、ジングシュピール「バスティアンとバスティエンヌ」の第11曲アリア「いとしい人のきれいな頬を」の歌詞を変え、ピアノ伴奏にして歌曲「ダフネよ、汝がバラ色の頬 イ長調」(K.46c(52))作曲。
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7月20日
・フランツ・アントン・シューベルト、誕生。
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7月22日
・士風の廃頽。
「翌年明和五(一七六八)年の七月二十二日小普請組荒川八三郎が追放せられた。これは新吉原の遊女町が焼けた跡を見に行くというので、友達と一緒に出掛けて行った。そうして先手組の下役人の泥坊巡視の態に偽って往来の者を咎めたりした。浅草の田町へ出て来て、そこの番小屋に立寄って今度本物の先手組の者に見智められた時に、言逃れようとして色々偽を言ったのが露われたのである。これは近頃もよく新聞に在る偽巡査の類であるが、それを堂々たる旗下の軍人がやったのである。」(辻善之助『田沼時代』)
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7月27日
・フランス、シャルロット・コルデー・ダルモン、ノルマンディ地方カーンに誕生。
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7月28日
・この日と翌29日、陸奥で2回の地震。家屋・塀などに被害。
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8月
・佐渡で蜂起。6万余、奉行殺害。新発田・高岡・長岡・村松・村上諸藩兵により鎮圧

「次に明和五(一七六八)年の八月、佐渡の村人が乱を起した。この事は佐渡に関する書物、また越後の大名諸家の記録、幕府の日記等にも何らの所見がないことであって、僅かに京都の公家衆の日記に見えているのみである。即ち野々宮定晴卿の日記に見えていることである。佐渡の農民が、苛政に苦んで、遂に徒党を組んで、その島廻りの旗本細井百助および佐渡奉行青山七郎左衛門を焚殺し、夏目藤四郎は因になった。徒党の総勢六万余と称した。その事が越後の方からして幕府の方へ通信に及んだので、江戸から諸大名へ加勢を仰付けて、新発田の溝口信濃守、高田の榊原式部大輔、長岡城主牧野駿河守、村松の堀丹後守、村上の内藤紀伊守らが命を承(う)けて、討伐の兵を向けた。『定晴卿記』に見えていることは、ただそれだけの事で、委曲は未だ明かでないのであるが、先ずそれで鎮撫したものと見える。これが他の各方面の記録に見えぬのは、頗る怪しむ可きことであるけれども、定晴卿の記す所は、その名前なども極く確かであって、未だこれを疑う可きだけの理由がない。幕府方の物にこの事の伝わらぬのはたまたまその材料が欠けていることだろうと思う」(辻善之助『田沼時代』)
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8月6日
・フランス、ジャン・パプティスト・ベシェール(後、ナポレオンの元帥)、ロート県プライサックで誕生。父は外科医。
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8月26日
・クック船長第1回航海(1768~71)。
ジェームス・クック、金星の太陽面通過調査の為の調査隊に選ばれ初の太平洋航海に出帆。この日、プリマスを出港。
エンデバー号船長として調査隊を率いタヒチ着、1769年6月3日、金星観測に成功。後、ニュージーランド、オーストラリア東岸、ニューギニア南岸などを探検。
1769年のニュージーランド探検では沿岸を測量して正確な地図を作成し、オーストラリア東岸を発見。
ボタニ-湾シドニー付近で1770年4月28日「ニュー・サウス・ウェールズ」と名付けてイギリスの領有を宣言。また、クック諸島を発見。
西回りに世界周航して1771年7月12日帰国。

この年2月、イングランド王立協会は国王ジョージ3世に南太平洋探検を請願し承認される。名目は金星の日面通過の観測であったが、真の目的は、南方大陸 (テラ・アウストラリス)を求めて南太平洋を探索することであった。
指揮官には、ニューファンドランド島とラブラドールにおける測量で業績を上げたジェームズ・クックが推薦され、5月25日、クックは海軍大尉に昇進した。クックは海軍の階級としてはキャプテン(海軍大佐)ではなかったが、船の指揮官としてキャプテンと呼ばれた。

主要な乗員には、イギリスの博物学者ジョゼフ・バンクス、フィンランドのヘルマン・スペーリング、スウェーデンのダニエル・ソランダー、天体観測の責任者であったイギリスの天文学者チャールズ・グリーンらが挙げられる。

1768年8月8日、プリマスを出航、マデリア諸島を経て、アフリカ西岸沿いを進み、大西洋を横断して南アメリカに向かい、同年11月3日にリオデジャネイロに到着。更に、ホーン岬を回って南太平洋に入り、タヒチに到着、金星の日面通過観測のために3ヶ月間停泊。

次に、南半球探索のため、タヒチからニュージーランドへ向かい、マオリの妨害を受けながらも、6ヶ月間海岸線を測量。

ニュージーランドからは西方へオーストラリア沿岸に向い、1770年4月19日、オーストラリア大陸を発見。
4月29日、現在カーネルとして知られる地点でオーストラリア大陸に最初の上陸。この入り江には多くのエイが見られたので、クックはこの入り江をアカエイ湾と命名したが、後に植物学者湾と改められ、更に、植物学者ジョゼフ・バンクス、ダニエル・ソランダー、ヘルマン・スペーリングによって採集された多くの固有種にちなんで、ボタニー湾 (植物学湾)と呼ばれるようになる。

クックはオーストラリア沿岸を4ヶ月に亘り測量したが、]1770年6月10日夜11時前、エンデバー号は、グレートバリアリーフの珊瑚礁(現在のエンデバー礁)珊瑚礁に衝突し座礁した

その後、船が波によって動かされ礁から離れたが、そのために船の傷は大きくなり、浸水。ポンプで浸水を汲み出したり、フォーザリング(槙皮と羊毛を古い帆布に塗り付けて、帆布を船の下に引き込み水圧で帆布が傷を塞ぐ)により、辛うじて北方に向けて航海を続け、6月13日、後にエンデバー川と命名した川に辿り着く。強風のため6月17日まで砂州に近づけなかったが、ここでエンデバー号を陸に揚げ船倉を修理した。

8月3日、修繕と風待ち後に出発。
11月9日、バタヴィアに到着。その後、いくつかの港に寄港した後、1771年7月11日に帰還。
出港時の乗員94名中36名がその他の病気や事故で落命していた。

1772年にクックは海軍大佐 (正式にはポスト・キャプテン) に昇任し、レゾルーション号を率いて更に2度の航海を行ない、南極から北極まで航行し、最後に1779年ハワイ諸島への帰路、ハワイ先住民との間の誤解によって、4人の部下とともに落命。
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