北の丸公園 2013-05-02
*治安3年(1023)
1月10日
・平維衝の長男正輔、前年、平致経逮捕の際出動しが、この年、理由不明ながら検非違使を停任される(『小右記』治安3年正月10日条)
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6月
・道長は、この月にも法成寺に新造する長堂(薬師堂)の礎石を関白頼通以下に曳かせる。
「上達部の役相次ぐ。万灯会の後、旬日幾ばくならず。亦目を以て耳とす。多く愁嘆すと云々」と、公卿への負担が多いと非難されている。
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10月
・道長、高野山金剛峰寺に参詣。
自筆の金泥法華経1部と般若理趣経30巻を弘法大師御廟前で供養して、兜率天浄土への往生を祈る。
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11月7日
・常陸介平維衡、道長の命により鎮西に派遣される
この年10月12日、道長がかわいがっていた大宰権帥源経房が任地で没し、道長の家司的な存在でもあった筑前守平理義(まさよし)は「帥(そち)の納所(なつしよ、官物や年貢を納入する場所)等」を検封し、それを管理していた経房の妻にたいし、印鎰(いんやく、印と鍵)を引き渡すよう責め立てる事件が発生する。
この時、道長は理義を勘当するとともに、常陸介維衡を鎮西に派遣した(『小右記』11月7日条)。
源経房は道長室源明子の兄であり、道長の従兄弟にもあたる。
筑前守に対抗して帥の遺産を守り、後家を安全に京に迎え入れるためには老練な武力が必要と、の道長は判断した。
維衡にとっては容易い任務である。彼の武威に対抗しうる者はそんなに多くはいない。
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12月
・この月、薬師堂に諸仏を移した時、座主院源が衣を脱いで定朝に被(かず)け、道長以下諸卿も衣を脱いで与え山の如くになったという。
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・この月、丹波守藤原資業(すけなり)の京宅が群盗に焼き討ちされる。
家の者は失火と称したが、騎兵十余人による放火といわれた。
資業は当時任国にいたが、任期満了の時で、これが最後とばかり強引な徴収を敢行して人民の恨みを買ったようだ。
火災は、武装した群盗の放火だとも、手薄に乗じて深夜数人の者が密かに放火したのだとも噂されて、真相はつかめないが、守を怨んだ丹波国の連中の放火だという点では、人々の推測は一致していた。
家の者がこれを失火と取りつくろったのは、やはり丹波守の任期が終わって来年の除目にはつぎの官に移る時期でもあり、この際、任国の民に放火されて家を焼かれたなどということは、なるべく伏せておきたかったのであろう。
この話を伝え聞いた藤原実資は、国司の任期最後の年に、資業が任国から官物を苛酷に取り立てたため、恨みを買ったのだろうと考え、「抑(そもそ)も洛中、坂東に異ならず」と評した。
坂東は治安の悪い地域と認識されていたことが窺える。
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