2013年5月1日水曜日

牧野和春『桜伝奇』を読む(4) 第2章 根尾谷淡墨桜(ねおだにうすずみざくら 岐阜県本巣郡) (その1)

桜伝奇 日本人の心と桜の老巨木めぐり 牧野和春
第2章 根尾谷淡墨桜(ねおだにうすずみざくら 岐阜県本巣郡) (その1)
1 齢一千年を越えてなお

継体天皇お手植えの伝承
・・・
この桜は岐阜県根尾谷にある樹齢一千数百年ともいわれる老木で、昔から継体天皇お手植えの伝承のある、近在に知られた名木である。
この桜が全国的に知られるようになったのは昭和五〇年代後半からであろう。

再生の努力の積み重ね
・・・昭和二三年(一九四八)頃のこと。
文部省(当時)から調査のため現地にきた専門家も三年以内に枯れるだろう、といったという。
桜を惜しむ人々の声は急にひろがった。
当時、老木の回生について名手といわれていた人がいた。岐阜市で歯科を開業する前田利行医師である。
氏は人々の願いをかなえようと回生の手立てを考えた。
根元を掘り返してみたところ驚いたことに大きな根は殆ど枯死している。しかもシロアリの巣になっていた。そこで、最初に着手したことは枯れた根を切り、同時に無数のシロアリを徹底駆除することであった。
その結果を待って、残った健康と思われる根に、若いヤマザクラの根を根継ぎしてやったのである。土壌は新しいのに入れ替え、もちろん肥料も施した。
この作業が翌、昭和二四年三月十日から四月五日まで続けられた。根継ぎの数、なんと二三八本。

こうして淡墨桜は奇跡的に活力をとりもどしたのである。

ところが、次に昭和三四年(一九五九)、まだ記憶に残る人も多い伊勢湾台風にやられた。この風害のため樹勢はおとろえる。
しかし、植物というものは動物以上に一見、もう駄目かと思うくらい弱っていても、残る微小の生命力を支えにゆっくりと回復してみせる離れ業もやってみせるのである。
この老樹も、地元の人々が見守るなか約十年かけて昭和四四年(一九六九)頃、不思議に回復したのであった。

美濃国の地理的・歴史的位置
・・・、「大化改新」(六四五)の偉業を成し遂げた天智天皇の最晩年、近江の郡より難を避けて吉野の奥に隠れ棲んだのが、のちの天武天皇、当時の大海人皇子であった。
しかも、大海人皇子は、天智天皇没後、大友皇子擁立の近江朝に追い詰められる形で、当時にあっての東国、美濃に脱出して挙兵。ついに近江を征服し、天武朝を確立したのであった。
つまり、壬申の乱の決定的行動は美濃に開始され、大海人皇子とともに決起した中心人物は村国連男依(むらくにのむらじおより)、身毛君広(むけのきみひろ)らで、右二人とも美濃出身の舎人、しかも動員された美濃の軍勢三千人である。

美濃は天下を狙う人間にとって、決定的な歴史的舞台を、このあと二回あたえた。
織田信長の活躍の舞台は美濃が中心であった。
関ケ原はいわずも「天下分け目」の戦いであった。

つまり、美濃国にしても、飛騨国にしても、隠れ棲むにまことふさわしい国であり、しかも、歴史をたどるとき、美濃の方は歴史転換の決定的場面におどりでてくるのである。
つまりは美濃がわが日本列島勢力図の東西を分つ地勢的接点となっているからであり、地勢的接点であるということはそのまま地質構造上の特質をも意味しているだろう。

2 継体天皇ゆかりの桜

伝承、それは民衆の情念の世界の投影
・・・
建前上、主役は、伝承の主人公であることにはなっているが、それはコインの「表」の話で、「裏」の話は、語られざる民衆の情念の世界の投影であることを意味しているだろう。
逆説的だが、そうであるからこそ、それは伝承という形で、人の胸のうちに共感として響き合い、歴史的時間をいまに生きのびてきているといえるのである。

ナゾ多きキーワード:「継体天皇」
かく解釈するとき、「継体天皇」をいかなるキイ・ワードに置くかは興味をそそられるところだ。

『日本書紀』(巻第十七)によれば、「継体天皇」は「男大迹天皇(をほどのすめらみこと)」とある。武烈天皇の後を受けて六世紀前半在位の第二六代天皇だ。
書紀の伝えるところでは、父は彦主人(ひこうし)王。
近江国高嶋郡三尾の別業(滋賀県高島郡安曇川町三尾里付近)に、三国坂戸井(福井県坂井郡三国町)から振媛(ふりひめ、垂仁天皇の七世孫)を妃として迎え、誕生したのが継体という。
彦主人王の死後、振媛は越前に戻り、継体を養育。
武烈が崩じて、その継嗣がなかったため、仲哀天皇五世孫、倭彦(やまとひこ)王(丹波国桑田郡にいた。現在の京都府北桑田郡京北町、美山町、亀岡市の一帯)を擁立せんとしたが王は怖れて逃げた。
そこで越前より継体が迎えられ、河内の樟葉(くすは)宮(大阪府枚方市楠葉)に即位した。

ところが、その後、継体は山背の筒城宮、弟国宮などを転々、なんと即位二〇年目(七年目の説あり)にやっと大和、磐余(いわれ)玉穂宮(奈良県桜井市池之内付近)に都したというのである。

朝鮮南部における政治情勢の急変(任那四県の百済への割譲など)、筑紫の磐井の乱などが起ったのも継体の時代だ。

継体天皇を応神五世孫とする伝承はかねてから疑わしいとされていたが、越前・近江を地盤とする地方豪族としての継体が、武烈崩後、大和政権の混乱を衝いて、実力により王位を継承したとみる見解もあることは知られているところ。
さらに安閑、宣化二帝、欽明帝の問題もからめて、いってみれば、わが国、歴代天皇のなかでも継体天皇は謎の人物の一人なのである。

越前国と継体天皇
そこで、越前であるが、日本海に面し、古くより大陸からの文化を直接に吸収してきた地方でもある。広くは「越国(こしのくに)」であり、大化改新以後、都に近い方から越前、越中、越後の三国に分けられた。越前では大化改新により今の武生市に国府が置かれた。

継体天皇の面影は越前国にないのであろうか。
福井市は福井県(越前、若狭両国)の県都であるが、その福井市中心部、足羽山(あすわやま)公園に福井平野を見降ろすようにして巨大な石像が立っている。”越の大王”即ち、継体天皇である。この足羽山、大小三〇余基の古墳群が昭和二九年に発掘されている。

世阿弥の「花筺」と越前国味真野
すると、世阿弥の能「花筺(はながたみ)」がすぐに思い浮かぶ。
「花筺」では、若き日の継体天皇は「大迹部皇子(おおあとべのおうじ)」と呼ばれ、越前国味真野に住んでおられた。そこへ武烈天皇、崩じられ、急に継体天皇としてあとを継がれることになり、あわただしく奈良の都へ出発される。
皇子には日頃、寵愛の照日(てるひ)の前がいたが、照日に別れを告げるいとまもない上洛であった。皇子は照日の前に、きっと都に迎えよう、との手紙と愛用の「花筺」を形見として贈り届けられた。

天皇は大和国玉穂(奈良県磯城(しき)郡安倍付近といわれるが不詳)にて宮造りに着手される。便りを待つ照日の前は片時も皇子のことが忘れられず悶々として月日を送るが、ついに皇子を慕うあまり奈良の都へのぼる。
折しも天皇の行列と行きあい、狂女と間違えられて官人達に退けられるが、天皇の命により、彼女は「花筺」を抱え狂おしく舞う。
そして、その「花筺」が証拠となって照日の前はめでたく宮中に上り、安閑天皇の母となられた、という物語で、世阿弥の狂女物として知られる。

さて、能にででてくる「味真野」であるが、現在の武生市東部地域を指す。
武生市は現在、人口約七万の小都市であるが、かつては越前国の国府が置かれた政治、文化の中心地であった。市の東方約七キロの味真野地区が「花筐」の舞台とされる。
同市池泉町には味真野神社があり、境内には「花筐」の記念碑が建っている。ついでながら武生は平安の昔、父、藤原為時とともに若かりし日の紫式部が滞在した土地でもある。

今立町琴弾山の「薄墨桜」と継体天皇
武生に隣接するのが今立郡今立町で、俗にいう丹南平野(武生、鯖江、今立一帯)の中心地である。「国中の要石」と呼ばれる場所もある。
その今立町にあるのが標高二百数十メートルの琴弾山(ことびきやま)を中心とする「花筐公園」である。
桜の名所でもあるが、その頂上近く、なんと樹齢六百年の「薄墨桜」(根尾は「淡墨桜」と書く)の巨木があって、昭和四五年、福井県の天然記念物に指定された。
正式には「栗田部の薄墨サクラ」と呼ぶ。樹高十八メートル、根元の周囲五・三メートル、目通りの周囲四メートルのしかも種類はエドヒガン。花はうすい紅色とされる。

伝承では、継体天皇がこの地におられたころ、いつもこの桜を愛され、都へ上られたとき、手紙にこの桜の枝をそえて愛妃照姫に贈られた。継体天皇が形見に残されたので、「カタミの桜」とも呼ぶようになった。
しかし、天皇が都へ上られて以来、寵愛が薄くなったので花の色はあせ、いつの頃からか「薄墨桜」と呼ぶようになったという。
ついでながら麓には安閑、宣化両天皇(継体天皇の御子)が産湯をつかったとされる「皇子が池」もある。

「大滝神社のゼンマイザクラ」
桜では大滝神社(同町大滝)山林内に「大滝神社のゼンマイザクラ」と呼ぶ巨木がもう一本ある。
根元の周囲八・一メートル、目通りの周囲四・六三メートル、樹高二三メートル、枝張りは東西十九メートル、南北二一メートルでかなりの巨木である。
ゼンマイのでる頃、この桜が咲くので「ゼンマイザクラ」と呼ぶようになった、といわれ、昭和三九年、福井県天然記念物に指定された。
しかし、こちらの方はヤマザクラであって、継体天皇ゆかりの伝承はない
たぶんヤマザクラの花と自然暦、農耕のサインとしての意味で、地元の人々に重宝されてきたのではあるまいか。

和紙の原料は楮(こうぞ)、雁皮(がんぴ)、三椏(みつまた)であるが、楮を原料とする越前奉書は、その風格と強靭なところから全国に有名であり、福井藩は延宝三年(一六七五)、奉書紙の他国への移出を厳禁したほどである。
その越前奉書の本場がここ今立町の、不老(おいず)、大滝、岩本、新在家、定友の旧五箇村である。・・・
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(その2)につづく



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