『桜伝奇』 日本人の心と桜の老巨木めぐり 牧野和春
第2章 根尾谷淡墨桜(ねおだにうすずみざくら 岐阜県本巣郡) (その2)
3 薄墨・菊花石・天皇
山梨県の「山高神代桜」に次ぐ巨桜
「根尾谷の淡墨桜」は、根元の周囲十一・五メートル、胸高幹囲八・三メートル、樹高二三メートル、枝は四本の太い枝がひろがり、東西三二メートル、南北二九メートルという巨大な桜である。
主幹にみる、たくさんの大きな瘤(こぶ)が、この巨桜が尋常のものでないことを察知させる。
樹齢一千年以上、といわれるが、地元では千数百年と呼ぶ。
種類はエドヒガンで、山梨県の「山高神代桜」に次ぐ巨桜である。大正十一年、「根尾谷淡墨桜」の名称で国の天然記念物に指定された。
もう一つ伝承
この淡墨桜に、もう一つ伝承がある。根尾左京亮なる人の祖先が奈良時代の初めに、この地に居を構え、以来、その子孫が小城を築いて根尾城と呼んだ。
この桜は先祖の墓地に、奈良朝の昔、植えられたものという。
ところが、桜の根元からいつの時代のものかたくさんの人骨がでて、戦乱に敗れた兵たちの墓標として植栽されたものではあるまいかとの見方もある。
それを詮索するのも目的によりけりで、ここで私にとっての要は、この巨桜が根尾の人々の心にどのように映じ、いかなる像を結んできたのか。
その心的源泉をたどればよいのである。
淡墨色
この桜は四月中旬頃、可憐な、白っぽい花をつける。そして盛りをすぎる頃、花の色が淡い墨色を呈するところから淡墨桜と名づけられたという。"
エドヒガン
わが国の桜の花の美しさは世界に誇るに価いするものであることは誰しも認めるところだろう。
同時に、その種類も多く、豊かである。
桜といえば「山桜」をまっさきに連想するけれども、南北に長く、また山岳や火山の多い日本列島の地理的環境からはヤマザクラ、オオシマザクラ、オオヤマザクラ、エドヒガンなどの野生種、およびそれらの変種、また栽培化されたおびただしい園芸品種など合わせると三百種から四百種にもなる。
根尾の淡墨桜はエドヒガン(江戸彼岸)である。またの名をアズマヒガン(東彼岸)とも呼ばれた。彼岸の頃に咲き、東国で目についたからであろう。
分布は「本州、四国、九州に広く分布し、通常低山帯に多いが、本州北部では海岸近くまでみられ、九州では中央山地にのみ自生する。
近似のものを含めると、朝鮮、台湾、中国にも分布している」(日本花の会『サクラの品種に関する調査研究報告』一九八二年刊、八貢)。
北海道や沖縄には分布しないし、その一方、よく朝鮮、台湾にも分布するとの記述があるが、正確にいえば右により誤りである。
墨染(すみぞめ)と淡墨(うすずみ)
解説によれば、特色は、つぼ形の萼筒、花柱基部、小花柄、葉柄等には斜上する毛が多く、葉縁には低く細かい重鋸歯があり、葉脈数が多いこと、などである。それで思い浮かべるのは、
深草の野辺の桜し心あらは ことしばかりはすみぞめに咲け (八三二)
という、例の『古今和歌集』(巻第十六)哀傷歌の一首である。
宇多天皇の御宇寛平三年(八九一)正月、太政大臣藤原基経死す。これを山城国宇治郡深里の里に葬った。このとき、太政大臣家の家司、上野岑雄(かみつけのみねお)が、その悲しみにたえず詠んだのがこの歌だというのである。
そして、その年の春、ほんとうに深草の桜が墨染に咲いたという。
墨染という意味は僧侶の衣の色であり、また喪服の色でもある。
山田孝雄は名著『櫻史』(講談社学術文庫、一九九〇年刊、六九頁)に、このエピソードを紹介、「この墨染の桜といふものの伝説にしたがへば、まさしく今年より一千三十年の古より伝はれるものなり。今もこの墨染の桜と伝ふるもの稀に世に存す。わが郷里富山市稲荷町にも亦一の老樹あり。これも深草の里より後醍醐天皇の御宇頃に伝へしものといへり」(旧かな)と、説得力ある記述を遺している。
淡墨桜が墨染の桜と同じだとはいわぬ。
それについては次にふれるが、源顕兼(みなもとのあきかね)の説話集『古事談』(一二一二年頃)中の『南殿桜橘樹事(なでんおうきつじゆのこと)』に、南殿の桜はもとは梅であったのを、承和年中(八三四-八四八)に枯れ、仁明天皇が改めて植えられたが、天徳四年(九六〇)内裏の焼亡の時、焼けてしまった。
よって内裏を造ったとき、重明(しげあきら)親王の家桜を移し植えた。
この木はもと吉野の桜木であった、との経緯からみられるように、「左近の桜」は宮中に登場する。それを象徴するかのように平安文化の花開くなかで、糸桜(シダレザクラ)、八重桜などはすでにこの時代にあったし、園芸品種化の兆しは大いに拍車をかけたとみてよいのではないか。
墨染の桜も、そうしたあらわれの一つと理解したい。"
墨染と淡墨は別品種
さて、品種としてみると、淡墨桜、墨染桜は同じなのか。違っているのか。
宝暦八年(一七五八)の松岡恕庵『桜品』には「薄墨桜」が載っている。文政年間(一八一八-一八二九)白河楽翁が浴恩園(築地)に集めた名桜、二二四種を描いた『はなのかゞみ』(全二巻)中にも「薄墨桜」あり。
天保年間(一八三〇--一八四三)、久保桜顛が青山長者ヶ丸の邸内に集めた品種『長者ヶ丸桜譜』中にも「薄墨桜」あり。
ところが明治三七年(一九〇四)、高木孫右衛門の『桜花集』には「墨染」「薄墨」とあり、明治四三年(一九一〇)、河島銀蔵の『桜品』にも「墨染」「薄墨」とでてくる。
つまり、別の品種である。
この点につき三好学は『桜』(冨山房、昭和十三年刊、四四二-四四四頁)で「墨染」は「花時葉伸びず、花大きく花梗短し」とあり、「薄墨」は「墨染に似たるも、花梗に毛あること、花弁の稍々楔形を呈することにより区別せらる。墨染、薄墨は共に昔時より知られ、嫩葉線色、花白色にして里桜の他の品種の赤芽・紅花なるに対し暗き色観を有するにより各々其名を得たり」と、明解に、その特徴及び由来を解説している。"
「花筐」と越前国味真野の桜
ここまでくれは、淡墨桜をめぐる心的風景も、やっと見えてくる思いがする。
室町時代に入ると、足利義満のもと、世阿弥が脚光を浴びる。
能楽の演目で「泰山府君」「桜川」「西行桜」「熊野(ゆや)」「忠度(ただのり)」「墨染桜」「志賀」「吉野天人」「田村」「鞍馬天狗」「雲林院」などに桜が登場する。
能の上でも桜は大いにもてはやされたわけだ。
こうしたなかで例の「花筐」は広く知られたであろう。
淡墨桜は、野生種として山野にあったエドヒガンが変種としてそうなったのか、それとも誰かが都よりたずさえ、植えたものなのか、そこは分らぬ。
分らぬけれども、たぶん継体天皇継承秘話を扱った「花筐」が引き金となって、天皇ゆかりの地(まずは越前、味真野)に咲く桜にお手植えの伝承が脚色されたのではあるまいか。
根尾の方は残念ながら史実的に追求するかぎり、継体天皇に結びつく話がはじめに発生するについては根拠は薄い。
むしろ、越前での話が山を越えて伝播し、定着した可能性が高いとみる。
越前と美濃の関係
興味深く考えられるのは、越前、近江、美濃、殊に揖斐川上流域との相互の人文的関係である。
「根尾」は、語源でいえば「丹生(にゆう)」であろう。
越前側では、いま越前町、織田町などを含むあたり、「丹生郡」である。丹生が古代人の殊に祭祀上、重要な鉱物であったことは改めていうまでもない。
白山火山帯に面する山脈の峯々は、特に中世以来、さまざまの人々が行き交う隠れたる山中の幹線でもあった。
現代風に言えば徒歩中心の江戸期以前において、尾根伝いの道は一種、バイパスの役割を演じたはずである。
それを考えると、柳田国男の『山の人生』の世界や、今は伝説化されたサンカ、あるいはまさに伝説化の途上にあるともいえるマタギの世界も想像されてくる。
木地師研究の池田勇次氏(岐阜県郡上郡美並村)など、私の照会に「白山火山帯ですから各鉱山が国境地帯にあり、古代より鉱山があり、木地師が入山し、修験者が往来し、また鉱山師にもなるといった中世の時代が十分に想像される」と回答してこられた。
池田氏の所見によると、具体的には福井県今立町からだと、むしろ大野市を回って真名川ダム、雲川ダムを経て能郷白山のある温見(ぬくみ)峠を越えて、そのまま根尾村に至るルート(現在の国道一五七号線)である。
幕末の元治元年(一八六四)三月、筑波山に挙兵した水戸藩、天狗党(首領は家老武田耕雲斎)総勢八百人が、厳寒十二月、苦難のなか美濃より越前に越えた。越した場所は温見峠に近い蝿帽子峠であるが、基本的にはまさにこの道であったのだ。
もう一つは今立町の奥の池田町(福井県)より冠山(一二五七メートル)を越え、岐阜県側に降りる。私見であるが、全く、わが意を得たりの感がする。この道は途中、左手に道筋をとって谷に降りればそこは根尾谷となる。大回りしても藤橋村(岐阜県)で、近江からくる別の道に合流する。これは現在の国道四一七号線。越前と美濃を結ぶ大動脈であって、それが落ち合うところが根尾谷ということになる。
さらに一つ重要なルートがある。
それは近江、美濃を結ぶ線であって、通常は伊吹山(一三七七メートル)山麓、関ヶ原を通って大垣に至るのであるが、先述の如く、隠れたる山の道となる近江、木之本町より八草峠を越えて美濃側に入る。これは坂内村、藤橋村を通って岐阜に至る現在の国道三〇三号線である。
しかも、この広大な美濃側山地を下りきったところにあるのが、西国三十三カ所巡り最後の札所、第三十三番谷汲(谷汲山華厳寺)である ー という構図は、私にいわしむれば絶妙というほかはない。「谷汲」は根尾谷のまさに出口に位置しているからである。
このような地理的風景を脳裏に描いてみると、美濃の〝根尾〞、いや〝丹生〞の谷には古代よりさまざまの職業人が尾根伝いに、あるいは峠越しに上り下りし、特に中世に入ってからは修験者や木地師、鉱山師など(といっても本来はその場と時とで何にでも早変わりしたかも知れぬ怪しげな者も含めて)さまざまの職能集団が群れあったにちがいない。
根尾谷における淡墨桜に、継体天皇お手植えという、いわば最高位の格式を与えた伝承も、これらの人々によって越前での話をベースに創作されたのかも知れぬ。"
根尾谷の菊花石
それでは根尾谷と、天皇とを結びつける「記号」は何であるのか。
それが、根尾谷特産、しかも国の特別記念物「根尾谷の菊花石」ではあるまいか。
現在の私は石にも興味を持ち、北海道産「神居古潭(カムイコタン)石」など、書斎に置いて鑑賞しているが、考えてみると確かに菊花石が世人にもてはやされる理由は分るような気がしている。つまり、なんといっても、人はあの「菊の紋」に魅せられてしまうのだと。
菊花石は暗緑色または暗褐色の生地のなかに、白色または淡灰色の菊花もようが入っているところから名づけられたものだ。
これが全国的に有名になったのは戦後である。根尾谷の中でも樽見から右手に分れた根尾東谷川の源流あたりから産出する。
つまり、淡墨桜と方角は、川をはさんで向かい合っているのだ。
菊花石の存在そのものは当然、昔から地元の人々に知られていたはずだ。はじめてそれを岩の中から取り出し、驚嘆してみせたのは水銀の鉱脈探しの鉱山師であったのかも知れぬ。菊の紋様が浮かび出た石に、異様な驚きを覚え、そこに御門(みかど)につながるイメージを描いたのかも知れぬ。
更にいえば、菊の御紋に異常に執着するのは言うまでもなく木地師の集団である。
その残影はいまも美濃国の奥地にも認められる。彼等は自身を山の民と認め、生きる決め手であるロクロ挽の技法を第五五代文徳天皇の皇子・惟喬親王より教わったとして、親王を木地師の祖神とあがめる。
その御縁の地が近江の奥深い鈴鹿山脈の中、愛知川をのぼった君ヶ畑と蛭谷(滋賀県神崎郡永源寺町)である。
彼等はその血筋を惟喬親王随臣の末裔(例えは小椋姓など)と信じ、その由緒を、いわば天下御免の生活権の証として全国を渡り歩き、暮らしてきたのである。
かくて彼等は、惟喬親王に出自を求めることによって自らを誇り、それをバネとして精神的にも強く生き続けてきたのである。このような木地師達が菊花石を見たらどう感じたであろう。
それこそ自らの血脈につながる貴い石としてあがめたにちがいあるまい。
一方、西国巡礼であるが、大もとは花山院に始まるといわれる。
花山院の悲劇的生涯は『栄華物語』や『大鏡』にくわしい。
しかし、西国巡礼が実際に庶民の間にほんとうに盛んになったのは江戸時代のことらしい。
巡礼の一番から三十三番の順番なども、のちになって定まったという。
一番はもちろん紀州、那智山青岸渡寺(和歌山県那智勝浦町)である。和歌山、京都、大阪、兵庫などを巡り、近江に入る。第三十一番は長命寺〈鷺県近江八幡市)、第三十二番は観音正寺(同蒲生郡安土町)、そして打止めの三十三番が岐阜県揖斐郡谷汲村の華厳寺である。ところが、第三十一、三十二番はあとまわしにして第三十番の竹生島宝巌寺(滋賀県東浅井郡びわ村)から、いきなり伊吹山の麓を谷汲に直行する巡礼者もあったらしい。
とにかく三十三ヵ所巡りに美濃ではただ一ヵ所、谷汲が入っている。
それだけ根尾のあたりは都の空気に触れる接点にあったといえる。
継体という天皇と淡墨という桜と民衆の幻視
東国美濃は、大海人皇子が決起した「壬申の乱」に於いては奈良からみて辺境の地であった。
それから時代はくだり、奈良の都に接する越前、味真野あたり、継体天皇の伝承は生まれた。
天皇、それは辺境の地にあるものにとっては、”御門”と呼ばれる”雲上人”であると同時に”郡の花”、すなわち”文化”の象徴でもあったであろう。
文化はしばしば花にたとえられるならわしである。それは咲くものであり、また香るものであるからだ。
暗い谷間に咲く美事な桜の花。それは淡墨という雅びのイメージにほかならぬ。
そのイメージは遠く、奈良の都へまでも想像力をふくらませることにより継体天皇という史上、謎多き人物を、自分たちの暮らしの身近かにまで引き寄せることにより、”天皇”という”雲上人”さえも自らのもっとも親しみ深い存在に変換させてしまう。
つまり、公然と許されたる一種の価値の倒錯現象なのである。
民衆が見ようと試みて得た強烈なる”幻視”、それはそのまま”淡墨桜”の美学に結晶、かつ結合せられる。
やがて、ほどもなくこの世から散る桜の花は、だから、はかなき”薄住み”(淡墨)でもある。
それは、ほどなく都へあがられた継体天皇への哀惜の念となってほのかに情念をかきたてずにはおかぬ。
名残りの花は、かくて一編の美しき物語となって、時空を超えた存在となったのであろう。
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