2013年5月1日水曜日

ナオミ・クライン『ショック・ドクトリン』を読む(70) 「第7章 新しいショック博士-独裁政権に取って代わった経済戦争-」(その2)

横浜 山手洋館 バラ園 2013-04-29
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ナオミ・クライン『ショック・ドクトリン』を読む(70) 
「第7章 新しいショック博士-独裁政権に取って代わった経済戦争-」(その2)

サックスはバンセルにショック療法を提案
 サックスはバンセルに、ボリビアをハイパーインフレ危機から救う方法は突発的なショック療法しかない、と助言した。
そして石油価格の一〇倍引き上げ、一連の価格統制撤廃、予算削減を提案。
ボリビア・アメリカ商工会議所で行なった講演では、再びハイパーインフレは一日で鎮静化できると明言し、「聴衆はこれを聞いて驚嘆し、喜んだ」と報告している。
サックスはフリードマン同様、突然の政策導入による刺激を加えれば、「経済は社会主義、大規模な腐敗、中央計画経済などといった袋小路から正常な市場経済へと方向修正することができる」と信じて疑わなかった。

対立候補パス・エステンソロの政策:社会主義でもなく新自由主義でもない
 サックスがこの大胆な約束をしたとき、ボリビアの大統領選の行方はまだ定まっていなかった。
かつての独裁者ウーゴ・バンセルは自分の勝利を確信していたが、ライバル候補のビクトル・パス・エステンソロもまだ敗北を認めてはいなかった。
選挙戦中、パス・エステンソロは具体的なインフレ対策をほとんど提示しなかったが、彼にはそれまでに三回、選挙で大統領に当選した経験があり(一九六四年の第三次政権は軍事クーデターで倒れた)、開発主義的な立場から、大規模スズ鉱山の国有化や先住民農民への土地の分配、普通選挙法の導入などの改革を行なってきた。
アルゼンチンのフアン・ペロン同様、パス・エステンソロの政治的立場は複雑で一定せず、権力の座を維持するためや政権復帰するためには突然旗幟を変更することもしばしばだった。
七七歳の高齢で出馬した一九八五年の選挙戦ではかつての「民族革命」路線に回帰し、財政政策については明言しなかった。
彼は社会主義者ではなかったが、シカゴ学派の新自由主義者でもなかった - と、少なくともボリビア国民は信じていた。

密室交渉とアメリカ帰りのビジネスマン”ゴニ”
 選挙の最終決定は議会に委ねられ、各政党と上下両院の間で利害をかけた密室交渉や駆け引きが行なわれた。
そこで重要な役割を演じたのが、アメリカ帰りの裕福などジネスマン、ゴンサロ・サンチェス・デ・ロサーダ(愛称”ゴニ”)だった。
長年アメリカで生活した彼は英語訛りのスペイン語を話し、ボリビア第二の(やがて第一になる)鉱山コムスルの所有者だった。
若い頃シカゴ大学で学んだ彼は、経済学専攻ではなかったがフリードマンの理論に強い影響を受け、当時ボリビアではほとんど国有化されていた鉱山部門にも、その理論が導入されれば膨大な利益をもたらすと見込んでいた。
サックスがバンセル陣営にショック療法による政策を提示したとき、ゴニは大きく心を動かされた。

パス・エステンソロの大統領就任とゴニの緊急経済チームリーダ就任
 大統領選をめぐる裏工作の詳細は明らかにされていないが、結果は明らかだった。
一九八五年八日六日にボリビア大統領に就任したのはパス・エステンソロだった。
その四日後、彼はゴニを急進的な経済再建に取り組むための極秘の超党派緊急経済チームのリーダーに指名。
ゴニ率いるこのチームはサックスのショック療法を出発点にして、さらに過激な提案を行なうことになる。
それはパス・エステンソロ自身が数十年前に築き上げた、国家を中心とする経済モデルを根こそぎ解体させるものだった。
この時点でサックスはハーバードに戻っていたが、「ADN(バンセルの所属する民族民主行動党)が、われわれの経済安定化計画を新大統領とそのチームに提案したことを聞いて大変嬉しかった」とふり返っている。

極秘だった経済チームの活動
 パス・エステンソロの所属政党である民族革命運動党は、彼が密室交渉を行なっていたことをまったく知らず、緊急経済チームのメンバーである財務大臣と企画大臣を除いた新閣僚にも、このチームの存在は知らされていなかった。

パス・エステンソロ大統領の180度政策転換:アメリカの援助が約束された?
 極秘チームは一七日間連続で大統領官邸の居間で会議を開いた。
二〇〇五年に行なわれたインタビューで、当時企画相だったギジェルモ・ベドレガルは「われわれは細心の注意を払い、隠れるようにしてそこに閉じこもった」と、会議の詳細について語った。
ここで話し合われたのは、民主主義国では前例のない徹底した国家経済の改革をいかにして行なうかだった。
それには可能な限り迅速かつ突発的に政策を実行することだと、パス・エステンソロ大統領は確信していた。
そうすれば戦闘的なことで悪名高いボリビアの労働組合や農民組織は不意をつかれ、対応策を練る機会を逸するはずだ、と。
ゴニの回想によれば、パス・エステンソロは「「やるのなら今すぐやらなければならない。私はもう二度と大統領にはならないのだから」とくり返し言った」という。
なぜパス・エステンソロが大統領就任後、政策を一八〇度転換したのか。
バンセルのショック療法計画を採用することと交換に大統領の座を手に入れたのか、あるいは心底からの思想転向だったのか、本人は二〇〇一年に死去するまで語ることはなかった。
当時の駐ボリビア米大使エドウィン・コアは、あらゆる政党の代表者と会見し、もしショック療法を取り入れればアメリカからの援助を受けられると明言したという。

*ボリビア国民は二〇年間、このショック療法プログラムの策定プロセスについて何も知らされなかった。草案作成から二〇年後の二〇〇五年八月、ボリビア人ジャーナリストのスーザン・ベラスコ・ボルティーヨが緊急経済チームのメンバーにインタビューを行ない、数人がこの秘密作戦について語った。ここでの記述は主としてこのときの取材に基づいている。

乗り遅れた新自由主義革命に追いつくためのショック療法 
 一七日後、ベドレガル企画相は教科書どおりのショック療法プログラムの草案を手にする。
そこには食料補助金の廃止、ほとんどすべての価格統制の撤廃、石油価格の三〇〇%引き上げなどが盛り込まれていた。
すでに極貧の状態にあるボリビアで生活費がこれまでよりずっと高騰するにもかかわらず、もともと低い公務員の給与は一年間据え置かれた。
また財政支出は大幅に削減、貿易を自由化して輸入を無制限に認め、国営企業には民営化への準備段階として規模縮小が要求された。
七〇年代に南米南部地域を席捲した新自由主義革命の波に乗り遅れたボリビアは、今まさに失われた時を取り戻そうとしていた。

秘密にされたままの法律草案
 新しい法律草案ができ上がっても、緊急経済チームのメンバーはそれを議員に見せなかった。
彼らは、国際通貨基金(IMF)のボリビア代表に会いに行き、自分たちがやろうとしていることを伝えた。
その反応は励ましと脅しの入り混じったものだった。
「これはまさにIMFの職員全員が夢見てきたことだ。でも、もしうまくいかなかった場合、外交特権のある私はすぐに飛行機で国外に逃げ出しますがね」

ヒロシマを攻撃したパイロットのように・・・
 チームのメンバーは全員ボリビア人だから当然逃げ出すことなどできない。
数人のメンバーは民衆がどんな反応をするか、戦々恐々としていた。
「きっとわれわれを殺しにくる」と、最年少のメンバーであるフェルナンド・プラドが言った。
草案の主たる起草者であるベドレガルは、自分たちを戦闘機のパイロットになぞらえ、こう気合を入れた。
「ヒロシマを攻撃したパイロットを見習おうじゃないか。彼は原子爆弾を落としたとき、自分が何をしているのかわかっていなかったが、キノコ雲を見て「おっと、ごめんよ!」と言ったそうだ。われわれもそれと同じことをすればいい - この政策を実行に移してから「おっと、ごめん!」と言えばいいのさ」

政策変更は軍隊の奇襲攻撃のように行なわれるべきだ
 政策変更は軍隊の奇襲攻撃のように行なわれるべきだというのは、経済的ショック療法を行なう際にくり返し持ち出される考えだ。
一九九六年に出版され、二〇〇三年のイラク侵攻作戦の基礎となった米軍の軍事戦略書『衝撃と恐怖-迅速な支配を達成するために』には、次のように書かれている。
侵攻軍は「周囲の状況を掌握し、事態に対する敵の知覚や理解を麻痺させ、あるいはそれに過度の負担をかけることによって、敵が抵抗する能力を奪う」べきであると。
経済的なショックも原理は同じである。
人間は段階的な変化 - まず医療保険プログラムの削減、次には貿易協定というように - には反応できるが、あらゆる領域で何十種類もの改革が一度に行なわれれば徒労感に見舞われ、無抵抗になる。

「衝撃と恐怖」作戦の経済版
 国民にそうした無力感を起こさせるため、緊急チームのメンバーは急進的な改革を同時に、しかも新政権発足から一〇〇日以内に実施するよう要請した。
また、税法や価格法といった個別の法律をいくつも作るのではなく、すべての改革をひとつにまとめ、政令二一〇六〇号として発表した。
この同の経済生活のあらゆる側面にわたる二二〇の法律から成るこの政令は、かつてシカゴ・ボーイズがピノチェトのクーデターのために用意した経済プログラム”レンガ”にひけをとらないほど野心的で、広範囲にわたるものだった。
起草者によれば、このプログラムにはいっさい修正の余地はなく、丸ごと受け入れるか拒否するかのどちらかしかなかった。
言い換えれば、「衝撃と恐怖」作戦の経済版だった。

何も知らされない新閣僚
 完成したプログラムは五部作成され、パス・エステンソロ大統領、ゴニ、財務大臣がそれぞれ一部ずつ手にした。
残りの二部の行き先は、多くの国民がこの改革を戦争行為に等しいとみなすことを、大統領とそのチームがいかに確信していたかを物語っている。
一部は陸軍の貴任者に、もう一部は警察署長に渡された。
しかし新内閣の閣僚たちはいまだに何も知らされず、大統領がかつて鉱山を国有化し、土地を再分配したのと同じ人物だという誤った思い込みを抱き続けていた。
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