東京 江戸城(皇居)東御苑 2012-05-31
*天慶2年(939)
12月21日
・この日(21日)、藤原純友は武装集団を率いて伊予を出て備前に向う(『貞信公記』『本朝世紀』)。
「今日、伊予国解状(げじよう)を進む。前掾藤原純友(中略)而るに近来相い驚く事有り。随兵等を率いて、巨海(こかい)に出でんと欲す。郡内騒ぎ、人民驚く。紀淑入朝臣、制止を加うと雖も、承引せず。早く純友を召し上げられ、国郡の騒ぎを鎮めよと云々。件の純友を召すべき官符等に内外印を請い、摂津・丹波・但馬・播磨・備前・備中・備後国等に下す。」(『本朝世紀』)
純友は、突然、伊予守紀淑人の制止を振り切って兵を率いて出海した。
純友は突然謀反を決意した。
同日、政府は、備前国で受領藤原子高(さねたか)と藤原文元の対立があることから、純友が瀬戸内海東部に現れることを予知して山陽道東部諸国に召喚官符を下した。
使者には、純友を説得し召喚に応じさせるため甥の明方が加えられた。
純友が武装集団を率いて伊予を出て備前に向かったとき、国内の人民は驚き騒いだ。
海賊の無血投降の立役者、純友の名声は伊予国内に鳴り響いていた。
伊予守紀淑人(きのよしひと)は純友の伊予出奔を思いとどまらせようと説得し、純友が反乱を起こした後もなおしばらくの間、純友を弁護し続けている。
淑人は純友を信頼し、伊予国内の治安維持を委任していた。
純友が淑人の説得を振り切って出撃したことは、彼が受領から自立した勢力を形成していたことを示している。
純友のこのような地位は、坂東における将門や秀郷の地位と酷似しており、備前の藤原文元(ふみもと)らもそれぞれの土着国内で、純友と同じような立場にあったと思われる。
広大な公田を請作する彼らは、各地に私宅を構えて負名経営を行い、港湾に船舶を所有して海運にも携わり、船所(ふなしよ、国衛の船舶管理部局)にも関与したであろう。
彼ら承平勲功者たちは、政府が勲功申請を握りつぶしたことに不満を懐いていた。
国内では、海賊平定の武名を誇示して検田や納税に抵抗することもあったであろう。
彼ら土着承平勲功者問題が、瀬戸内海地域において国内支配の新たな不安定要素として浮上していた。
純友召喚官符が備前・播磨に届くや、備前介藤原子高と播磨介島田惟幹は、純友が自分たちを襲おうとしていることを知り、妻子を連れて京を目指して逃走。
純友とは何の関係もない京の連夜の火災を純友の仕業だと密告しようとする。
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12月22日
・信濃国から「将門坂東占領」の第一報が飛駅便によって届く(『日本紀略』)。
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12月26日
・藤原文元(ふみもと)ら、摂津国須岐駅で備前介藤原子高を襲撃(藤原純友の乱はじまる)。
この日(26日)、藤原文元(ふみもと)らが摂津国で逃亡した備前介藤原子高(さねたか)を捕まえて耳を切り鼻を削ぎ、息子を殺し妻を連れ去るというリンチ事件が起き、播磨介島田惟幹(これもと)を監禁してしまった(『貞信公記』『本朝世紀』『日本紀略」「扶桑略記』『純友追討記』)。
このむごたらしいリンチは怨恨による報復と考えられ、この報復の残虐さこそが、それまで子高が受領として文元ら負名たちに何をしてきたかを語っている。
おそらく子高は文元らの反抗に対し、子弟郎等集団を使って厳しい弾圧を行ったのである。隣国播磨でも文元に呼応した三善文公が介島田惟幹(しまだのこれもと)に反抗していた。文元と子高の関係は、常陸国における玄明(はるあき)と維幾(これちか)の関係に似ている。
子高や惟幹の厳しい圧迫に堪え切れなくなった文元や文公は、玄明が将門に援助を求めたように、かつての盟友純友に助けを求めた。
そこで、純友は淑人の説得を振り切り、武装集団を率いて海に出る。目指すは備前・播磨。子高と惟幹を懲罰するためであった。
純友は甥の明方を介して、政府に次のような要求を突き付けたと思われる。
①備前・播磨での紛争の責任は子高・惟幹の苛政にあり、文元・文公は被害者である。
②そのような子高に対する文元のリンチは免責されるべき。
③棚上げされたままの承平南海賊の勲功申請を正当に審査し、しかるべき恩賞を給わるべき。純友はこの好機に、年来彼が不満としてきた承平南海賊の際の恩賞を獲得しようとした。
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12月26日
・摂津国須岐駅での純友蜂起の報も届き、東西同時蜂起に朝延は騒然となった。
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12月27日
・「下総国豊田都の武士らが平将門・武蔵権守興世王を奉じて謀反し、東国を占領した」という詳報が飛駅便によって届く。
「下総国豊田郡武夫、平将門并に武蔵権守従五位下興世王等を奉じて謀反し、東国を虜掠(りよりやく)す。」(『日本紀略』)。
『将門記』は、将門を中心に描くのに対し、『日本紀略』では、豊田郡の「武夫」(「モノノフ」か)が将門と興世王を奉じて謀反に及んだとし、主体を武夫においている。
一般的には、将門の個人的力量を重視しがちだが、広範囲の支持があった。藤原玄明が将門のもとに身を寄せる際には、「等」という複数形で示されており、坂東の富豪層の広範な結合があったことを示す。
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12月29日
・信濃国より「上野・下野国司が印鎰を奪われ護送されてきた」との第三報が、飛駅便によって届く。
将門が上野介藤原尚範・下野前司大中臣完行・新司藤原弘雅の館を取り囲んだ後、印鎰を奪い、彼らを信濃国へ追放したとの飛駅がもたらされた。「この事非常に出ず、騒動せざるはなし」(『本朝世紀』)となり、宮中は大騒動になった。
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12月29日
・摂政藤原忠平は急ぎ東西同時反乱に対する対策会議を開き、徹夜で議論を続け、勅や太政官符を下して、固関使(こげんし)を派遣すること、信濃国の兵士を徴発し境の内(碓氷坂より西)を守らせること、宮中および東国・西国の要害(交通の要所)に警固使を派遣することなどを命じた。
また、武蔵国から逃げ帰っていた武蔵守百済貞連(くだらのさだつら)も殿上に呼ばれ、戦乱が起こった理由を尋問されている(『貞信公記』『本朝世紀』『日本紀略』『吏部王記(りほうおうき)』12月29日条)。
固関使とは、天皇が亡くなったり、戦乱が起きた場合、三関(さんげん、古くは東海道の鈴鹿関、東山道の不破関、北陸道の愛発関)を閉め、畿内の勢力が関の外の豪族と結びつくのを防ぐ目的で派遣された使者のこと。
会議のさなか公卿の間では、将門は純友と共謀しているのではないかとささやかれた。
同日夜、忠平らは入京した武蔵守百済王貞連を殿上前に召し、反乱の状況を問いただした。
「前伊予掾藤原純友(中略)平将門と謀(はかりごと)を合わせ心を通わせ、この事(謀反)を行うに似る」(『本朝世紀』天慶2年12月29日条)とある。
室町時代に成立した『将門純友東西軍記』には、2人が比叡山に登って京を見下ろしながら、2人で反乱を起こして将門は天皇に、純友は関白になろうと誓い合ったと書かれている。また2人が共謀して天皇と関白の地位を狙ったことは『大鏡』にも出てくるの。
2人の共謀説は早くから流布していたようだが、それは東西同時反乱の恐怖のなかで公卿たちが生み出した妄想にすぎない。
だが、純友が、将門の蜂起を利用して、あるいはあてにして謀反を起こしたことまでは否定できない。純友が海に乗り出した時に、将門が坂東で蜂起したことを耳にしていた可能性はある。また、将門に追放された上野介藤原尚範は、純友の伯父にあたり、彼から将門に関する情報を得ていた可能性も考えられる。
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