2012年6月13日水曜日

天慶3年(940)8月 藤原純友ら蜂起、伊予・讃岐・阿波を制圧。

東京 江戸城(皇居)2012-06-07
*
天慶3年(940)
5月15日
・征東大将軍藤原忠文は、都に帰還し節刀を返上(『貞信公記』『日本紀略』、『北山抄』巻4)。
*
5月19日
・藤原忠文は、征西大将軍に任じられる(『日本紀略』)。
将門の乱鎮圧の軍功者の多くは、純友の乱鎮圧に転用された。
*
6月6日
・平貞盛の兵士などが純友の乱鎮圧の為の出陣の準備をした(『日本紀略』)。
*
6月18日
・山陽道追捕使小野好古に対して、「凶賊藤文元」ら「純友の暴悪士卒」を追捕する官符が出された(『貞信公記』)。
だが忠平は、苦境に立ち動揺する純友を反逆勢力から脱落させようとする切り崩し策をとり、尚も純友を名指ししていない。
純友も妥協の道を模索していた。
*
*
8月18日
・純友ら、船団をもって伊予・讃岐国に攻め込む。
純友は、反乱軍首領としての立場を鮮明にした

8月、政府軍と反乱軍は正面から激突。
追捕山陽遣使好古は備前・備中・備後を制圧し、讃岐に逃れた文元を追って渡海した。文元は讃岐を制圧していた三辰勢と合流したが、政府軍の攻撃を受けて窮地に立たされる。
追いつめられた文元・三辰は伊予の純友に救援を求める。

18日、純友は400余艘の兵船を動員して讃岐に入り、政府軍を撃破して兵船を焼き払い、讃岐を占領する。

これまで沈黙し、政治決着の道を模索していた純友は、ここにいたって公然と反乱軍の首領としての立場を鮮明にした。
そして、それぞれ独自の行動をしていた伊予の純友、側前の文元、讃岐の三辰は、ここに初めて一個の反乱勢力として結集し、伊予・讃岐・阿波を制圧した。

純友は瀬戸内地域の承平勲功者・反受領勢力にとって、指導者たることを期待された英雄であった。
純友の英雄的資質は、承平南海賊平定の勲功と、摂関家庶流という貴種性によるものであり、それは将門の資質と共通している。
*
8月26日
・伊予・讃岐・阿波等諸国から相次いで飛駅便が到来し、政府は讃岐国における政府軍の敗北を知った。
伊予守淑人が初めて純友反逆を報じ、ついに純友弁護の立場を放棄した。
*
8月27日
・追捕山陽道使好古の敗北、純友の伊予・讃岐・阿波制圧という事態に、政府は鎮圧への決意を新たにした。
27日、政府は追捕山陽道使好古に南海道使の兼帯を命じ、京上ルートの要所に警固使を配置し、翌28日、飛駅勅符で諸国に兵士動員を命じた。
*
*
10月
・純友ら、安芸・周防国の軍を破る。

態勢を立て直した政府軍は讃岐で反乱軍を破り、純友勢は三辰ら讃岐勢を残して讃岐を退去し、10月下旬に安芸・周防方面を襲撃。
*
*
11月
・上旬、純友ら、周防国鋳銭司(じゆせんし、銭を鋳造する政府の役所)を襲撃。
*
11月5日
・相模掾兼押領使であった橘遠保、伊予警固使に任命される(『師守記』、『本朝世紀』天慶3年11月5日条)。
*
11月16日
藤原秀郷は下野守に(『日本紀略』)、貞盛は右馬助(うめのすけ)に任命される。
将門を追討した者に恩賞を約束した正月11日の太政官符の言葉どおり。

それ以外の軍功のある者数10人に対しても官職が与えられた(詳細は不詳)。
純友軍から征東軍に加わった藤原遠方(とおかた)が右兵衛権少尉、藤原成康(しげやす)が右馬権少允、常陸介藤原維幾の息子為憲が兵庫権少允に任じられた(『本朝世紀』天慶5年6月21日条)のも、この時と考えられる。
興世王を殺害した上総掾平公雅は安房守になったが(『本朝続文粋』巻6)、これもこの時と思われる。
*
11月29日
・将門密告の恩賞として従五位下となっていた源経基は、大宰少弐兼警固使に任じられる(『本朝世紀』11月29九日条)。「いまだ兵の道に練れず」(『将門記』)と評された源経基も、こうした戦いの中で、次第に合戦の技量を身につけていった。
*
12月
中旬
・純友ら、土佐国幡多(はた)郡に焼き討ちをかけた。
純友は、反乱軍の戦意維持と糧食・武器の確保のために国府・官倉の襲撃・略奪を続けざるを得ず、政府から妥協を引き出すためには(純友にとってはこのことが勝利を意味する)、より大規模な破壊活動を展開しなければならなかった。
*
*

0 件のコメント: