東京 北の丸公園 2012-07-26
* 応和4年/康保元年(964)
・この頃、源高明「西宮記」が成立する。
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・この年、毎年一定額の不動穀貯蓄を命じる。
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・この頃、『池亭記』の作者慶滋保胤、空也の布教とその事業を支持して勧学会という小集団をつくった。
慶滋保胤は空也に敬慕の情を寄せた一人。本姓は賀茂(かも)氏。年少の頃に文章博士菅原文時を師として学び、文章をもって頭角を現した。官途について大内記になったが、厭世の情がつのり、隠遁を思うこと切実であった。
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4月29日
・皇后藤原安子(38)、選子(せんし)内親王を出産後間もなく主殿寮にて没。
村上天皇は、皇后没後は同母妹の登子(とうし、天皇の兄重明親王の妃、重明は957年に没)を宮中に入れ、登華殿を局としてこれを寵愛した。
天皇は安子の猛烈なヒステリーに悩まされたが、その死は彼にとって大きな傷手。
安子は天皇のそば近くにあって、常に彼を助けていた。
安子の子の冷泉・円融天皇の即位が九条流摂関家発展の元となり、やがて安子の甥道長を頂点とする全盛期へ至ることになる。
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7月10日
・康保に改元。
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康保2年(965)
4月
・右大臣藤原顕忠、没。
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康保3年(966)
・この年、藤原道長が誕生。
父藤原兼家(38歳、従四位下左京大夫)、母摂津守藤原中正(なかまさ)娘の3男。
母同兄姉に、道隆、道兼、超子(ちようし、冷泉天皇女御、三条天皇母)、詮子(せんし、円融天皇女御、一条天皇母)、異母兄に『蜻蛉日記』の作者である藤原倫寧(ともやす)娘を母とする道綱ら。
『大鏡』にある逸話:
兼家が息子たちを集め、従兄弟にあたる藤原公任(きんとう)を誉めて「わが息子たちは公任の影もふむことができそうもないな」と言ったところ、道長だけが「影ではなく、面をふんでやる」と言ったとある。
また、花山天皇が5月の雨の降る夜に、殿上の間で管弦の遊びを行い、その後肝試しを行うことになり、道隆は豊楽院、道兼は仁寿殿の塗籠(ぬりごめ)、道長は大極殿に行くことになった。道隆、道兼は途中で帰って来てしまったが、道長だけは大極殿に行き、高御座の南の柱下を削って証拠として持って帰って来たという。
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1月
・大納言源高明、右大臣となる。
村上天皇の信頼厚く、実頼との関係も良かった。源氏の最大のホープ。
しかし、故師輔の同母弟権大納言師尹・中納言師氏、長子の参議伊尹らはこの人事に不満。
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4月
・これ以後「新儀式」が成立する。
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8月
・良源が天台座主となる。
叡山中興の祖といわれる慈恵(じえ)大師良源
近江国浅井郡の生まれ。早い時期に比叡山に登って出家。
承平7年(937)興福寺維摩会で南都と北嶺の非公式の論義が行なわれ、そこで興福寺の義昭と対諭して名声をあげた。この緑で藤原忠平の知遇をえ、さらに師輔に認められ、師輔の娘安子の皇子誕生の祈祷を良源が行ない、摂関家の帰依をえた。
天暦3年(949)、横川に隠棲したが、天暦8年、師輔は横川に法華三昧堂を建立し、その長明灯の点火式に、伊尹とともに横川に登った。
「この三昧のカで一家が栄え、国王以下三公九卿が栄えるように。この願が叶えば火打石を三度打つ間に火がつくように」と誓って師輔が火を打つと一度で発火したという。
これがきっかけで、貴族の援助で山上に建物が次々と建てられるようになり、また師輔は自分の息子の尋禅を僧として良源の弟子とし、尋禅を通して荘園を寄進した。
康保元年(964)、内供奉十禅師(ないぐぶじゆぜんじ)となり、同3年、55歳にして第18代天台座主となる。
その直後に叡山は大火にあうが、焼失した東塔の復興をはじめ、西塔や横川も整備したのは、師輔の荘園など公家の経済力によるところが大きかった。
比叡山の貴族化と呼ばれる現象は良源によってもたらされた。
良源は応和の宗論で有名になったように学僧であり、論義にすぐれていた。
叡山では毎年6月4日の最澄の忌日中心に法華会、6月会(法華八講の一)が行なわれていたが、ここに広学竪義(こうがくりゆうぎ)1名をおくことを求め、康保3年末に朝廷から裁可された。広学は、天台教理を極めるために広く内外の典籍にわたって勉学することであり、竪義とは、その蘊蓄を傾けて設問に対して義を立てる役である。
良源の弟子には、四哲といわれる尋禅・源信・覚運・覚超という学僧が出て、良源が開いた横川は、源信はじめ弟子たちの本拠地となり、天台浄土教の聖地となった。
寛和元年(985)正月3日、74四歳で没。
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9月9日
・京、畿内の人民に賑給を行う。被害の大きいものには、当年の調庸を停止する。(『日本紀略』)
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