東京 北の丸公園 2012-07-27
*川本三郎『荷風と東京 「断腸亭日乗」私註』を読む(29)
「二十一 探墓の興 - 墓地を歩く」(その1)
荷風は「墓地探見」を愛した。
敬慕する亡き文人の墓を探ね歩き、その墓を掃う。探墓癖、展墓趣味である。
昭和10年1月2日
「行くところ無き身の春や墓詣」という句も作っている。
大正11年9月2日
尾崎紅葉の墓を訪ねる。
「曇りて風涼し。午後青山墓地を歩み紅葉山人の墓を展す。墓石の傍に三尺ばかりなる見影石の圓柱あり。死なば秋露のひぬ間ぞおもしろきといふ山人が辞世の句を刻したり」
紅葉については、「日乗」大正6年12月31日に、いま一度ゆっくりと味わいたい本として、森鴎外「即興詩人」、泉鏡花「照葉狂言」、成島柳北「柳橋新誌」、一葉全集などとともに、紅葉「三人妻」を挙げて敬意を表している。
大正11年9月15日
紅葉に続いて、鶴屋南北の墓を訪れる。
「松莚小山内の二子と車を與にして深川萬年町心行寺に赴き、鶴屋南北の墓を掃ふ。明治座出勤の俳優作者皆参集す」
市川左團次が南北の「謎帯一寸徳兵衛」を上演することになったのを受けての墓参。
大正11年9月17日
「午後雑司ケ谷墓地を歩み小泉八雲の墓を掃ふ」
大正12年8月19日
「午後谷中瑞輪寺に赴き、枕山の基を展す。天龍寺とは墓地裏合せなれば、毅堂先生の室佐藤氏の墓を掃ひ、更に天王寺墓地に至り鷲津先生及外祖母の墓を拝し、日暮家に帰る」
同年8月24日
「午後三田聖阪上薬王寺に赴き、枕山の父大沼竹渓及大沼氏累代の葛を展す。墓誌を写しゐる中驟雨濺来る」
大正13年2月11日
「電車にて牛込横寺町二十三番地長源寺に至り、館柳灣(タチリユウワン)の墓を展す」
昭和2年4月8日
「天気澄晴、風少しく冷なり、午後谷中三崎町瑞輪寺に赴き幕府侍医杉本樗園の墓を掃ひ其墓誌銘を写す、杉本氏の塋域には樗園の男及び孫の墓もあり、いづれも碑陰に墓誌を刻したれば悉く写し取らむと思ひしが、日既に傾きしかば他日を期して、同寺墓地の南隅に立ちたる大沼枕山の墓を拝して去りぬ」
昭和10年5月21日
「余丁町なる我が旧邸の門前を過ぎたれば富久町のばつれ(ママ)披(?)抜弁大の前なる専福寺を訪ふ」
「この寺には月岡芳年の墓あることを知りゐたれば、折好く井戸のほとりに物洗ひゐたる寺男に案内させて香華を手向けたり」
この日の日記には、月岡芳年の墓のスケッチが添えられている。
一日、展墓だけのために費やすときもある。
昭和12年2月18日
春の日が穏やかだった。午後から、写真機を持って、小石川白山に出かけ、蓮久寺に亡友井上唖々の墓を掃い、そのあと団子坂上に出て亡き鴎外の旧邸を撮影、足を谷中墓地へと延ばし、上田敏の墓を拝し、鷲津家の墓に詣で、さらに瑞輪寺の大沼枕山の墓に香花を供えている。
3日後の2月21日(日曜日)
快晴に恵まれ、午後、近くの笄町(コウガイチョウ)にある長谷寺の墓地を散歩。偶然”明治一代女”花井お梅の墓があることを知り香花を供える。さらに広尾に足を延ばし、光林寺にあるヒュースケンの墓を掃ふ。
昭和16年3月13日
「くもりて風なし。来客を避けんとて午後門を出でしがさし當り行くべきところも無ければ、ふと思出づるがまゝ三田台町の済(?)海寺を尋ね見たり。維新前仏蘭西公使の駐在せし寺なればなり。魚籃坂上の道を左に曲りたる右側に在り。石塀に石の門あり。堂字は新しさものにて門墻と同じく一顧の値もなけれど、墓地より裏手の崖には老樹欝蒼として茂りたるに、眼下には三田八幡かと思はるる朱塗の神社より、高輪の町を望み、猶品川湾をも眺め得るなり。墓地には久松松平家累世の墓石多く立ちたり。来路を歩むに妙庄山榮王寺の門前に来りたれば墓地に入りて大沼竹渓の墓を掃ひて香花を手向けたり。本堂の階前に一株の垂糸梅(シダレウメ)今を盛りと花咲きたり。魚籃坂を下り久しく行きて見ざりし物徂徠の墓を豊岡町の島松寺に尋ねたり」
随筆「礫川徜祥記」(大正13年)
「何事にも倦果てたりしわが身の、猶折節にいさゝかの興を催すことあるは、町中の寺を過る折からふと思出でゝ、其庭に入り、古墳の苔を掃って、見ざりし世の人を憶ふ時なり」
「雨の夜のさびしさに書を讀みて、書中の人を思ひ、風静なる日其墳墓をたづねて更に其為人を憶ふ。此心何事にも喩へがたし」
文人の墓への関心は、荷風のなかに早くからある。
パリに遊学したときにはモーパッサンやゾラの墓を訪ねている。
明治41年、パリから、友人西村渚山に宛てた手紙。
「モーパッサンの墓は、書生町からは程遠からぬ巴里の南端、モンパルナツスの墓地にある。二三日前に参詣した。又其の記念碑は、巴里の貴族、富豪町の公園モンソーの池のほとりにある」
「巴里見物で一番趣味のあるのは墓地の散歩だ。モンマルトルの墓地に行った時には、其の邊のカツフエーで出合った女郎が、親切に案内して来れて、『椿姫』の墓に共々参詣した奇談を演じたよ。『椿姫』の墓と同じ墓地内には、其の著者なるヂューマフィースの墓があるし、ゾラのもあり、又ハイネのもある。ドーデとゴンクールの墓は西部の墓地(ラ、シヱーズの墓地)にあるのだ」
パリでの文人の墓への墓参は、「ふらんす物語」のなかの「墓詣」に結実する。
「賑ふ巴里の都にも、西東、北南の、淋しき四隅には、黒き杉の木繁りて冷たき石連りし死の国あり。この国は、世の常のさまとは異りて、富貴権門の人よりも、画伯詩人が名の前に、百花爛漫として、厳冬猶ほ陽春の色を絶さず」
「華やかな都市の表通りよりも、人の姿のほとんど見えない墓地の静けさを愛する。荷風の廃滅趣味は、すでにパリ時代にあらわれている。」(川本)
「こゝ (ラシェエズの墓地)に、我はミュツセが墳墓の石に、『親しき友よ。われ死なば、柳を植ゑよ。わが墓に。』と云ふ名高き其の詩を彫み、一本の柳をさへ植ゑたるを見て、フランスの国民が一代の詩人を愛する事の如何に深さかを思ひて泣きたり」
随筆「霊廟」(明治44年)
徳川家の墓所増上寺に心惹かれる。
「自分は次第に激しく、自分の生きつゝある時代に対して絶望と憤怒とを感ずるに従って、ますます深く松の木蔭に声もなく居眠っている過去の殿堂を崇拝せねばならぬ」
寺の墓所こそ、文明ではなく文化という良き過去が静かに眠っている場所なのである。
随筆「仮寝の夢」(昭和21年)
同じく過去が眠る場所でも神社にはほとんど興味を示さない。
「わたくしは仏寺の庭や墓地に対するほど神社の境内については興味を感じてゐない。神社は何やらわたくしには縁もゆかりもない処のやうな気がする。いづこの寺の門内にもよく在る地蔵尊を始め、迷信の可笑味を思ひ出させる淫祠も、又文人風の禅味を覚えさせる風致も、共に神社の境内には見られない故でもあらう」
神社には墓地という過去追墓の場所がなかったからではないだろうか。
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