2012年7月24日火曜日

天徳2年(958)~天徳3年(959) 女御従三位安子、皇后に冊立。更に親王を産んで、父師輔の権勢、実頼を凌ぐ。

東京 江戸城(皇居)東御苑 2012-07-18
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天徳2年(958)
この年
・1人の狂女が待賢門の前で死人の頭をとってこれを食らった。
その後、この女は、しばしば諸門の傍らに臥せっている病者がまだ息をしているのに食いにかかった。世間ではこの狂女を女鬼として怖れたという。
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3月
・乾元大宝を鋳造する(和同開珎から始まる皇朝十二銭の最後)。
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4月
・この月、強盗が右獄(うごく)を破って仲間の囚人9人を奪還したが、そのうち1人は獄門のまえ殺され、間もなく脱獄囚は摂津国で捕らえられた。
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10月
・この月、女御従三位安子は皇后に冊立された。
宮中での式の際、中納言右大将師尹(師輔の同母の弟)は、立后の宣命を読んである間に「忽然として気上り、列に就く」ことができなくなった。
その翌日、天皇は師尹の女芳子(ほうし)を女御にとりたてた。

また、5ヶ月後、安子は天皇の第五皇子守平親王を産む。
師輔の官位は、8歳年上の左大臣実頼にやや劣っていたが、娘安子が産んだ皇子が皇太子であり、その生母(安子)が村上の皇后になったことにより、彼の勢威は実頼を凌いでいた。
安子は、次代における外戚の地位を右大臣師輔に保証した。
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天徳3年(959)
この年
・「人民の頸腫れ、世に福来病と号す」という奇病が都に流行した。おたふく風邪のことであろう。
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3月
・この月、いくつもの闘乱事件が起る。
①感神院(祇園社の別称。基経が観慶寺感神院を建立)と清水寺(坂上田村麻呂の創建)との争い、
②賭弓の間に生じた左・右兵衛の乱闘
③修理職の辺で、京中巡検の弾正と飛驛(飛騨の誤りであろう。飛騨工なら修理職と関係がある)との間に闘乱。
不和がすぐに武器をもっての闘乱に発展するところに、承平・天慶の乱後に成立した村上朝の時代の社会的特徴が現われている。
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8月
・この月、清涼殿で詩合(しあわせ)。
『西宮記』『天徳三年八月十六日闘詩行事略記』に詳細な記録がある。
天徳時代の詩賦は王朝風に遊戯化し、詩合は華美な典礼としての様式を整えていた。
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9月
・皇后安子に近侍する女房たちが歌合を計画。
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