東京 江戸城(皇居)東御苑 2012-07-18
*川本三郎『荷風と東京 「断腸亭日乗」私註』を読む(28)
「二十 ランティ エ の経済生活」(その2)
大正14年1月15日
「午前兜町片岡といふ仲買の店を訪ひ、主人に面会して東京電燈会社の株百株ほどを買ふ。去年三菱銀行の貯金壱萬圓を越へたれば利殖のため株を買ふことになしたるなり」
昭和2年に自殺した芥川龍之介「或る旧友へ送る手記」で、「僕の遺産は百坪の土地と僕の家と僕の著作権と僕の貯金二千円のあるだけである」と書いている。
荷風の貯金額は芥川の五倍である。
大正14年8月26日
「兼て片岡商店に依頼し置きたる郵船会社旧株五十株買ふ」
昭和8年5月31日
「正午兜町片岡商店を訪ひ鐘紡株券壱百株を買ふ」
昭和9年1月18日
「午後兜町山二の店より電話あり。平価切下の噂ある為相場迫々騰高すべし。今の中に何か買置き給へと云ふ。日本麦酒会社新株百株を買ふ事とす」
昭和5年1月4日
「昨年より銀行取附騒ぎ起るべしとの風説頻なれば萬一を慮り朝の中京橋の第百銀行に赴き預金を引出して三菱銀行に移し入る」
用意がいい。
「荷風は胆に銘じているのである。蓄えがあれば他人に頼らずにすむ。老醜をさらさずにすむ。」(川本)
奥野信太郎
「荷風が金銭に細かかったことは、世上多くの人が知っているとおりである。かれは金銭が自分のもっとも忠実な使徒であることを、骨身に徹して知っていたからである。人間はときとして欺くことがあるが、金銭はけっして欺くことがないという信条をもっていた」(岩波書店『荷風全集』第20巻月報、昭和39年)
「荷風は、自分の単身者としての暮しを根底で支えているのは経済的安定にあることをよく知っていた。」(川本)
「戦中の荷風は堅く自分の生活のワクを守ることに依って、すなわちランティエの本分をつらぬくことに於て、よく荷風なりに抵抗の姿勢をとりつづけることができた」(石川淳「敗荷落日」)
戦後、経済的基盤が壊され、「ランティエ」の生活が成り立たなくなったとき、危機感を覚える。
昭和21年元旦
「今日まで余の生計は、会社の配當金にて安全なりしが今年よりは売文にて餬口の道を求めねばならぬやうになれるなり」
突如起った円本ブーム
「日乗」昭和2年3月30日
「春陽堂主人来訪、當代小説叢書刊行のことを談ず、近年予約叢書の刊行流行を極む、此頃電車内の廣告にも大衆文藝全集一冊千頁価一圓、紙質は善良などいへるを見るなり」。
平野謙『昭和文学史』(筑摩書房、昭和38年)
大正15年末から昭和2年はじめ、改造社山本実彦社長が『現代日本文学全集』全63巻の予約募集を開始。菊判で各巻500頁平均、三段組、ふつうの単行本が4冊入る分量で定価1円。出版常識を無視した破天荒の低価格で、業者仲間からは失敗すると冷笑された。しかし、予想をはるかに超える大ヒット企画になった。予約部数60万部という驚異的な記録。
この成功を見て他社も続々と追随。新潮社『世界文学全集』、春陽堂『明治大正文学全集』、平凡社『現代大衆文学全集』などの円本の予約募集が昭和2年から始まる。
文学はこのときから大衆社会のマスマーケットに組み入れられていった。
平野謙。円本ブームは出版社を大量宣伝、大量販売の時代に突入させた。
「新聞広告なども全ページ、六段二ページ通し、さらに見開き二ページというような大広告にまで膨張していった。そのほか全集の印絆纏を着た店員や宣伝旗をひるがえしてビラやポスターをまく自動車、広告塔やアドバルーン、さては飛行機上からのビラの撒布というような宣伝戦がくりひろげられた」
「無論、小説家を中心とする文芸講演会なども各地で開催され、自殺の決意をひめて心身ともに困憊していた芥川龍之介などもとおく北海道にまで動員されたのである」
”円本成金”が出ても不思議はない
谷崎潤一郎「私の貧乏物語」(昭和10年「中央公論」)
「改造社その他から円本が出て、私などには生れて始めてと云ふ巨額な金が這入り、所謂印税成金になったので、あの前後四五年と云ふものは殆ど生活の苦労を知らずに、極めて悠々たる月日を過した」
「日乗」昭和2年6月21日
「晴天、午下邦枝君来訪、偶然改造杜々長山本氏に逢ひたりとて全集本の事につきて語るところあり、山本は余に契約手附金として壱萬五千圓を支払ひ、周旋礼金として金五百圓を邦枝子に與ふべき旨言ひ居れば、枉(マ)げて承諾ありたしと云ふ、余邦枝子の言ふ処に従ふべき旨返答す、邦枝子直に自働車にて改造社に赴き、住友銀行小切手を持参せり」
当初、円本企画を苦々しく思っていたが、この日、ついに改造杜の円本に「荷風集」を入れることを同意。契約手附金として1万5千円という破格の小切手を手にして。さらに、春陽堂『明治大正文学全集』の「荷風集」出版にも同意。
昭和3年7月、小山内薫から、荷風が円本の出版に同意するとはと批判されるが、荷風のほうが分が悪い。世俗を超越した態度をとっている荷風が、改造杜『現代日本文学全集』、春陽堂『明治大正文学全集』、さらに改造社『新選名作集』と三つまでも円本という世俗的な企画に関わってしまった。
昭和3年1月25日
「午後三菱銀行に赴き、去秋改造社及び春陽堂の両書ひで肆より受取りたる一圓全集本印税金総額五萬圓ばかりになりたるを定期預金となす、實は旧臘より今春にかけて手堅き会社の株券を買はむと兼ねてより相知れる仲買にたのみ置きしが、思はしき株なき様子なりしを以て、定期預けとはなせしなり」
印税総額5万円は、大正13年の所得金額4千184円の約10倍。その巨額な印税で株を買おうとし、そのことを堂々と「日乗」に記述する。ここでも荷風は、落晩趣味の文士というより、合理的な実業家である。
昭和11年2月24日
自分が死んだときは葬式はいらない、墓石建立も無用など、いくつかの「終焉の時の事」を書き記すが、そのなかに、「余は三菱銀行本店に定期預金として金弐萬五千圓を所有せり。此金を以て著作全集を印刷し同好の上に配布したしと思ふなり」。
大正14年に1万円だった貯金が約10年後には、2万5千円と大幅に増えている。
円本のおかげである。
円本ブーム前
昭和元年12月29日
「金龍亭に往きて一酌す。鈴乃妓家年末の都合思はしからず、五百圓ほしき由申出たり。予曾て築地に在りし頃ならむには即座に用立てやるべきなれど、災後年々収入殆牛減の有様なれば何かと言ひまぎらし倉皇として逃れ帰りぬ」
震災後の混乱した社会のなかで、「ランティエ」としての不安、危機意識が生まれていたと考えられる。
その結果、円本への協力になる。
いまや荷風は大金持である。
この時期、女性関係が派手になったのも、”円本成金”になったことと無縁ではない。
昭和2年、愛妾関根歌を千円で身請け。
翌3年、関根歌に、富士見町の待合を買い取ってやる(「日乗」昭和19年1月18日、「思出せば昭和二年の秋なりけり一圓本全集にて意外の金を得たることありしかばその一部を割きて茶屋を出させやりしなり」とある)。
昭和2年9月28日
銀座のカフェー・タイガーの女給お久とトラブルをおこし、230円の〝慰籍料″を払う。
さらにのちの玉の井行き、浅草行きを考えるとき、荷風は、円本ブームによって、その行動範囲を広めたということができる。
昭和11年5月26日、27日
それまでは借地だった偏奇館の地所を1坪50円、総計5千円を20年で支払う契約を結んでいる。
昭和3年2月15日
「午後改造社春陽堂両書肆の店員来りて全集一圓本増刷各五百部の検印を請ふ、一圓本の売行今に至って猶衰へざるは意外といふべし、盖し讀書界の趣味いよいよ低落したるを知るべし」
「讀書界の趣味いよいよ低落したるを知るべし」は、荷風の自己批判、アイロニーが出ているのかもしれない。
ちなみに、円本ブームは、長続きせずまたたくまに消えていく。
小川菊松『出版興亡五十年』(誠文堂新光社、昭和28年)によれば、昭和8年には、あまりの乱発のためにブームは終り、神田の古本屋の店頭には三分の一以下の定価になった円本が積み上げられたという。
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