2012年7月28日土曜日

応和3年(963)8月 応和の宗論 空也の金字の大般若経1部600巻の書写が終る

東京 北の丸公園 2012-07-26
*
応和3年(963)
2月
・この月、皇太子憲平親王(14歳)は紫宸殿で元服式をあげた。
その夜、かねてから選ばれていた故朱雀天皇の皇女三品昌子(しようし)内親王が妃にたてられた。母は保明(やすあきら)親王(醍醐の皇太子、923年に没)の女。
村上が、皇太子の正妃に近親の内親王を選んだところに、どうにか親政を通してきた天皇の意向が示されている。次代のために、藤原氏を第一とせず、内親王に重点をおいた。
皇后安子、実頼・師尹、故師輔の息伊尹・兼通らは、おそちくこの措置を歓迎しなかったであろう。
*
4月
斎院禊祭料を別納させる。
賀茂祭・御禊(ごけい)の斎院の料物を調庸など諸国から直納させ、受領功過定に禊祭料勘文が提出され審議の対象となった。
10世紀後半、きらびやかな賀茂祭や御禊行列が行なわれるのは、上卿の実資などの努力もあったが、こうした財政上の裏付けがあって可能になった。
また11世紀初頭までに、大炊寮・修理職・穀倉院などでも料物が納入され、功過定で審査されるようになった。
*
8月21日
応和の宗論(しゆうろん)が行われる。
この頃、宮中で追善供養として盛んになった法華八講でも、法華経についての論義が行なわれた。
この日、清涼殿において法華経8巻に開巻・結巻を加えた10巻を、朝夕2座5日間に分けて講ずる法華十講を行なった。
この時、天台と南都の僧各10が選抜され、入れ替わり導師(経典を解釈する)と問者になって十番の論義を行なった。
この 宗論で、2日夕座、3日朝座と5日夕座とに大活躍したのが、のちに天台座主となる良源である。
この宗論は、良源が根回しして、法相宗が諸宗の長者であることを不満として諸宗の深浅を決しようと開催に至った。勝敗はつかなかったようだが、論義の場を僧侶の側も利用している。
*
8月23日
・この月、空也の金字の大般若経1部600巻の書写が完了
そして8月23日、空也は、鴨河東岸の洪水で荒らされた川原で、それの供養会を行なった。
人々は貴賤を問わず参集し、列席した僧は600人に及び、八坂寺浄蔵(じようぞう、三善清行の息)も姿を見せた。
朝廷はこの日のために銭10貫文を与えた。
左大臣実頼以下の当代一流の貴神をはじめ、天下諸人の結縁(けちえん)する者が多かった。
昼は経(大般若経)を講じ、夜に入ると万灯を点じて衆人の罪を懺悔し、洪水と疫病、飢えに斃れた幾万の亡魂を弔った。
*
*


0 件のコメント: