2012年10月2日火曜日

1757年(宝暦7)9月 田村元雄(平賀源内の師)、湯島で薬品会を催す 【モーツアルト1歳】

東京 北の丸公園
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1757年(宝暦7)
7月8日
・秋田藩,藩発行の銀札の運用に行き詰まり、運用を巡る藩内の争いが表面化したため、銀札通用を停止。
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7月23日
・イタリア(ナポリ生まれ)の作曲家ジュゼッペ・ドメニコ・スカルラッティ(71)、マドリッドで没
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7月26
・讃岐で大洪水。堤防数10ヶ所が崩れ死者多数。出雲、土佐でも洪水。死者多数。
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7月26日
・7年戦争。 西からはフランス軍が侵攻を開始し、英カンバーランド公ウィリアム・オーガスタスが防衛するハノーヴァーは、この日、ハステンベックの戦いで敗れ9月8日に休戦協定(クロスターセヴン協定)を結ぶ。プロイセンは苦境に立たされた。
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8月
・河口の新田開発についての租税銀横領により勘定奉行・大坂町奉行らを処分。
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・北米、フレンチ・インディアン戦争。フランス軍、ウイリアム・ヘンリー砦を奪取。
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・ルソー、デピネ夫人のラ・シュヴレット城館礼拝堂献堂式のためにモテット「エッチェ・セーデス・ヒック・トナンティス」作曲。演奏は9月15日。
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8月20日
・但馬出石で洪水。14,000石が浸水。
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8月25日
・前句付の点者・柄井川柳、浅草新堀端(現台東区蔵前4丁目)の竜宝寺門前で最初の万句合(まんくあわせ)を興行。
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8月30日
・プロイセン軍、グロス・イェーゲルスドルフでロシア軍に敗北。
ロシア軍は、東プロイセンを占領しケーニヒスベルクを占領したがメーメルに引き返し司令官は解任された。
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9月
・勝山藩、「漆実・多葉粉・菜種牙人(すあい)之定」を出す。
他所仲買商人が勝山町で産物を売買するのは原則として自由、但し、漆実は100匁につき1匁、煙草は同2分、菜種も同額を口銭として徴収とする。尚、漆実だけは売人からも1匁の口銭を取ることになっている。
3町商人108人連名で中止を求める。
勝山町商人の多くが仲買も兼ね、資金の豊富な他所商人には到底勝てず、町方衰微となるという理由。
この結果は不明(恐らく撤回されたものと思われる)。
煙草・菜種は特に勝山辺在方の特産として名声を得つつある産物で、藩はこの利益に着目。
大野・福井・丸岡・今立郡粟田部などの商人、更に19世紀に入る頃からは近江商人なども入り込み、農村の商品産物を巡る勝山町商人と他所商人との関係はますます複雑になってくる。
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9月5日
・7月に続き、讃岐で再び大洪水。高松城が大破
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9月6日
・フランス、ラ・ファイエット候爵(後、将軍)、誕生。
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9月7日
・幕府、神田佐久間町の測量所(天文台)を廃止。
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9月7日
田村元雄(平賀源内の師)、湯島で薬品会(やくひんえ、物産会)を催す。
薬品会は、平賀源内の提唱・田村藍水の主催でこの年に江戸で始まった動植鉱物展示会。
好評を博して、早くも同10年には大坂で、11年には京都でも開かれる。
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9月7日
・7年戦争。モイスの戦い、オーストリア軍の勝利
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9月8日
・7年戦争。ハノーヴァー防衛に派遣された英カンバーランド公、クロスターセヴン協定でフランス軍に降伏。
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9月28日
・大槻玄沢誕生。
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10月
・オーストリア軍、ベルリン占領
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10月5日
・フランス、シャルル・ド・ラメット(三頭派政治家、5男)、パリで誕生。
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10月19日
・フランス王太子ルイ・フェルディナンドと王太子妃マリー・ジョゼフとの間にアルトワ伯爵シャルル・フィリップ、誕生(後のシャルル10世)。
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10月21日
・フランス、シャルル・ピエール・フランソワ・ オージュロー(後、ナポレオンの元帥)、パリ市フォブール・サン=マルソーで誕生。煉瓦工と果物露店商を営むドイツ系の貧しい家庭。
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10月26日
・郡上一揆。一揆参加者(立者)を巡り八幡城下で暴動。
入牢中の八幡町新町の町人立者太平治の釈放を求め暴動。気良村(明宝村)の甚助と寒水村(明宝村)の由蔵が活躍。
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10月30日
・オスマン朝、ムスタファ3世、スルタン即位
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11月5日
・7年戦争、ロスバハの戦い。
コリンの戦いでオーストリア軍に大敗北のフリードリヒ大王率いるプロイセン軍、西からフランス軍が侵攻開始し苦境に陥るが、ライプチヒ西方ロスバハでフランス・ドイツ諸侯連合軍と戦い、勝利。
ヴォルテールは「百年戦争中の数々の敗北も、これほど屈辱的では無かった」と嘆く。

フリードリヒ大王指揮するプロイセン軍約2万2千と、ザクセン・ヒルトブルクハウゼン公子ヨーゼフおよびスービーズ公シャルル・ド・ロアン指揮するオーストリア、ザクセン公国、フランス連合軍約5万5千の戦い。
連合軍はプロイセン軍を側面攻撃するため縦隊で機動するが、プロイセン軍の監視がそれに気付き、大王は即座に自軍を進軍させ、ザイドリッツ将軍率いるプロイセン軍の重騎兵が連合軍の縦隊先頭に奇襲攻撃を敢行、行軍中の連合軍は大混乱に陥る。
その後、プロイセン歩兵横隊が総攻撃を行い、高地からの十字砲火によりプロイセン軍は更に混乱。
スービーズ公は歩兵に何度も銃剣突撃を敢行させるが、プロイセン軍の圧倒的な火力により悉く失敗し、また後続部隊の行動が阻害される。
連合軍の殆どの部隊は隊列を組むことも出来ずに壊走、戦いはプロイセン軍の劇的な勝利に終わる。
この戦闘の勝利によりフリードリヒ大王の名声は上がり、戦争に消極的なイギリスもプロイセンへの財政援助を決定
一方、フランス人で大王の友人ヴォルテールは「百年戦争中の数々の敗北も、これほど屈辱的では無かった」と嘆く。
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11月15日
・フランス、ジャック・ルネ・エベール(サンキュロット主義者)、アランソンの金細工師の親方の息子として誕生。
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11月22日
・7年戦争。ブレスラウの戦い、オーストリア軍の勝利。
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