東京 北の丸公園
*ナオミ・クライン『ショック・ドクトリン』を読む(47)
「第3章 ショック状態に投げ込まれた国々 - 流血の反革命」(その5)
チリの奇跡という神話
チリはフリードマン主義が有効であることの証である
三〇年の年月を経た今日もなお、自由市場経済の信奉者たちはチリをフリードマン主義が有効であることの証であるとして祭り上げている。
二〇〇六年一二月、その前月に死亡したフリードマンの後を追うようにピノチェトが死去すると、『ニューヨーク・タイムズ』紙は彼を「破綻した経済をラテンアメリカでもっとも繁栄する経済へと転換した」と称賛し、『ワシントン・ポスト』紙の論説はピノチェトが、「自由主義経済政策の導入によってチリに経済的奇跡をもたらした」と書いた。
だが「チリの育跡」の背後にある事実は激しい議論の的になっている。
シカゴ学派の理論に厳密に従っていたにもかかわらず、チリ経済は破綻
ピノチェトは一七年間権力の座にあったが、その間に彼は何回も政治的に方向転換している。
チリが着実な経済的成長を遂げ、それが奇跡的成功の証であるとして取り上げられるようになったのは八〇年代半ば - すなわちシカゴ・ボーイズがショック療法を実施してから丸一〇年、ピノチェトが大幅な方向転換を余儀なくされてからも、かなりの年月が経ってからだった。
これは一九八二年、シカゴ学派の理論に厳密に従っていたにもかかわらず、チリ経済が破綻したことによる。
対外債務は拡大、ふたたび超インフレに直面し、失業率はアジェンデ政権下の一〇倍にあたる三〇%にも達した。
主要な原因はピラニア、すなわちエンロン型の金融機関がシカゴ・ボーイズの政策によってあらゆる規制から自由になり、借入金で国の資産を買いあさった結果、債務が一四〇億ドルにまで膨れ上がったことにある。
アジェンデと同じ経済政策に転換
状況はあまりに不安定だったため、ピノチェトはアジェンデがやったこととまったく同じことを実施せざるをえなかった。
企業を次々と国営化したのだ。
破綻に直面し、セルヒオ・デ・カストロをはじめ政府の要職に就いていたシカゴ・ボーイズのほとんど全員が職を失った。
「ピラニア」の重要ポストに就いていた他の何人かのシカゴ大学留学組は詐欺容疑で取り調べを受け、科学的中立性という、それまで入念に作り上げられてきたシカゴ・ボーイズの見せかけのアイデンティティの中核をなす部分はあっけなく崩れ去った。
八〇年代初頭にチリが完全な経済的崩壊を免れた原因はただひとつ、ピノチェトがコデルコを民営化しなかったことにある。コデルコはアジェンデによって国営化された銅の鉱山会社で、同社一社だけでチリの輸出全体のじつに八五%を占めていた。金融バブルがはじけても、チリの国庫には着実な収入源があったのだ。
ピノチェトとシカゴ・ボーイズが作り上げたのは、完全な自由主義国家ではなくコーポラティズム国家だった
チリが、改革に熱狂する人々が主張したような「純粋な」自由市場の実験室ではなかったのは明らかである。
少数のエリート集団がきわめて短期間に金持ちから大金持ちになったというのが実態であり、そこには負債と公的資金による巨額の補助(その後は救済)によって資金を得るという、きわめて収益の高い公式があった。
「奇跡」の背後にある誇大宣伝や売らんかな主義を取り去ってみれば、ピノチェトとシカゴ・ボーイズに支配されたチリとは自由市場を呼び物にした資本主義国家ではなく、コーポラティズム国家だった。
コーポラティズム(コーポラティビズムとも言う)は、もともとイタリアのムッソリーニ政権を指す用語で、政府、企業、労働組合の三つの権力組織が同盟を組み、ナショナリズムの名において秩序を維持するために協調する警察国家をモデルにしている。
ピノチェト政権下でチリが世界に先駆けて発展させたのは、まさにこのコーポラティズムだった。
警察国家と大企業が相互に助け合い、力を合わせて第三の権力部門である労働者を相手に総力戦を展開し、国富における両者のシェアを劇的に増大させたのだ。
2007年でもチリは世界でももっとも貧富の差の激しい国の一つ
この戦い(無理もないことだが、富裕層と中間・貧困層との戦いだと見ているチリ人もすくなくない)こそ、チリの経済的「奇跡」の実態にはかならない。
経済が安定し急速な成長を遂げていた。
一九八八年には、四五%の国民が貧困ライン以下の生活を強いられていたのに対し、上位一〇%の富裕層の収入は八三%も増大していた。
二〇〇七年現在でも、チリは世界でももっとも貧富の差の激しい国の一つである。
国連の平等に関する統計でも、チリは世界一二三ヵ国中一一六番目と、下から八番目に不平等な国にランクされている。
これがシカゴ学派の経済学者にとっての「奇跡」の意味だとすれば、ショック療法が経済を一気に健全な状態に戻す方法だというのは、そもそも的外れだったと言うべきだろう。
その目的はまさに結果が示すとおり、富裕層をさらに富ませる一方、中間層に衝撃を与えてその大部分を壊滅させることにあったのかもしれない。
富の集中化は偶然の結果ではなく、必然である
アジェンデ政権の元国防相オルランド・レテリエルはそう見ていた。
ピノチェト政権下で一年間獄中生活を送ったあと、レテリエルは強力な国際的ロビー活動のおかげでチリ国外に逃れることができた。
一九七六年、国外から急激に貧困化する祖国を眺めながら、レテリエルはこう書いている。
「この三年間に、数十億ドルが賃金労働者のポケットから盗まれて資本家や地主のポケットに入れられた。(中略)富の集中化は偶然の結果ではなく、必然である。それは軍事政権が世界に思わせようとしているような、困難な状況に伴う取るに足りない結果ではなく、社会計画の基盤であり、経済的マイナスではなく一時的な政治的成功なのだ」
同じパターンが、ロシア、南アフリカ、アルゼンチンに至るさまざまな国でくり返される
当時のレテリエルには、シカゴ学派に支配されたチリが、グローバル経済の将来の姿を垣間見せるものであることなど知る由もなかった。
だがその後、これと同じパターンがロシアから南アフリカ、アルゼンチンに至るさまざまな国でくり返されることになったのだ。
都市では猛烈な投機と不明朗な会計操作によって法外な利益と熱狂的な大量消費のバブルが拡大し、その周りを過去の開発の産物である廃墟となった工場や朽ちたインフラストラクチャーが取り囲む。
人口のおよそ半数は経済活動からまったく排除され、腐敗と縁故主義がはびこる。
中小の国営企業は激減し、公から私へと富が移動する一方で、膨大な私的負債が公のものとなってのしかかる。
チリでは、富のバブルの外側にいる人間にとって、「奇跡」はまるで大恐慌のように映ったが、密閉された狭い世界の内側では、きわめて短期間に利益を上げることができた。
このためショック療法式の「改革」によってやすやすと蓄財することは、それ以降、金融市場にとって麻薬のような魅力を持つようになった。
金融界がチリの実験の持つ明らかな矛盾に対して、自由放任の基本前提を見直そうという姿勢を示さなかった理由もここにある。
それどころか、金融界は麻薬中毒患者さながらの態度を取った - 次のヤクはどこにあるか、と。
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