東京 江戸城(皇居)東御苑
*ナオミ・クライン『ショック・ドクトリン』を読む(46)
「第3章 ショック状態に投げ込まれた国々 - 流血の反革命」(その4)
公共支出削減、民営化、規制撤廃に突き進むピノチェトとデ・カストロ
反対派を一掃すると、ピノチェトとデ・カストロは福祉国家の要素をことごとく剥ぎ取り、正真正銘の資本主義ユートピアに到達するための作業に着手した。
一九七五年、二人は公共支出を一気に二七%削減、その後も削減を続け、一九八〇年にはアジェンデ政権下の半分にまで公費を切り詰めた。
もっとも大きく削減されたのは医療と教育の分野で、自由市場経済を賛美する『エコノミスト』紙でさえ、「自傷行為のオンパレード」と書いたほどだ。
デ・カストロは五〇〇近くの国有企業および銀行を民営化したが、ほとんどただ同然で売り渡したものも少なくなかった。
目的は、それらの企業を一日も早く経済秩序の正当な位置に収めることにあった。
国内企業にも容赦することなく、さらに多くの貿易障壁を取り除いた。その結果、一九七三年から八三年までの間に工業分野で一七万七〇〇〇の職が失われた。
八〇年代半ばには製造業が経済に占める割合は、第二次世界大戦中のレベルにまで落ち込んだ。
そして、深刻な不況
「ショック療法」という言葉は、まさにフリードマンのやろうとしたことを的確に表現していた。
ピノチェトは急激な収縮によって経済に刺激を与えれば、健全な状態に戻すことができるという未検証の理論に基づき、故意に自国を深刻な不況に追いやった。
そのロジックは、一九四〇年代から五〇年代にかけて精神科医たちが電気ショック療法(ECT)を大量に使い始めたときのそれと発くほど類似している。
彼らは意図的にけいれんの大発作を起こすことで、患者の脳をまるで手品のように回復させられると確信していたのだ。
政治家が国民の信頼を失っている国においては
経済的なショック療法の論理は、ひとつにはインフレに拍車をかけるのに人々の「予測」が大きな役割を果たすことを重視している。
インフレを抑えるには、ただ単に金融政策を変更するだけでなく、消費者や雇用主、労働者の行動を変えることが必要である。
急激で衝撃的な政策変更には、すばやく人々の予測を変えるという効果があり、一般の人々はそれによってゲームのルールが大きく変わった ー つまり、もはや価格は上がり続けないし、給料も上がり続けないということを知る。
この仮説によれば、インフレが続くという予測をすばやく抑え込めば抑え押さえ込むほど、痛みを伴う不況と高失業率の期間は短くてすむという。
しかし、とりわけ政治家が国民の信頼を失っている国においては、大規模で決然とした政策によって衝撃を与えることでしか、国民に厳しい教訓を「教え込む」力はないというのである。
「意図的に引き起こされた不況という、ストレンジラブ博士さながらの世界」
景気後退や不況を意図的に引き起こすというのは、大量の貧困者を発生させる冷酷無比な考えだ。
それまでどんな政治指導者もこの仮説を実際に試そうとしなかった理由は、ここにある。
『ビジネスウィーク』誌が「意図的に引き起こされた不況という、ストレンジラブ博士〔S・キューブリック監督『博士の異常な愛情』に登場する核戦争に執着する科学者〕さながらの世界」と表現したものに、いったい誰が責任を持つというのだろうか?
ひるまないピノチェト、フリードマン
だがピノチェトは、ひるまなかった。
フリードマンが指示したショック療法が実施された最初の年、チリ経済は一五%縮小し、アジェンデ政権下ではわずか三%だった失業率は、かつてチリが経験したことのない速さで二〇%にまで跳ね上がった。
「治療」のおかげで国全体がけいれんしているのはたしかだった。
そしてフリードマンの楽観的な予測に反して、失業危機は数ヵ月で収まるどころか何年も続いた。
フリードマンの言う病気の隠喩(メタファー)をすぐさま歓迎した軍事政権は悪びれることもなく、「この方法が選ばれたのは、これが病に直接対処する唯一の道だからだ」と説明した。
フリードマンもこれと同意見で、ある記者に「この政策の社会的コストは過剰ではないか」と聞かれると、「くだらない質問だ」と一蹴した。
また別の記者に対して、彼は「私の唯一の心配は、この政策が十分長い期間、十分な厳しさを持って実施されるかどうかだけです」と話している。
グンダー・フランク「アーノルド・ハーバーガーとミルトン・フリードマンへの公開書簡」
興味深いことに、ショック療法をもっとも厳しく批判したのは、かつてフリードマンの教えを受けたドイツ出身の経済学者アンドレ・グンダー・フランクだった。
五〇年代にシカゴ大学に留学した当時、チリの話をさんざん聞かされたグンダー・フランクは、一九五七年に経済学博士号取得後、開発主義の悲惨な失敗例だと教授たちが決めつけた国を自分の目で見に行くことにした。
チリが気に入った彼は、やがてチリ大学の教授となり、さらにはアジェンデ政権の経済顧問に就任し、アジェンデに深い敬意を抱くようになる。
自由市場経済を信奉するシカゴ学派の考え方から離れたシカゴ・ボーイズの一人として、グンダー・フランクはチリの経済改革に関してユニークな見方をしていた。
フリードマンがショック療法を指示してから一年後、グンダー・フランクは怒りに満ちた「アーノルド・ハーバーガーとミルトン・フリードマンへの公開書簡」を書き、そのなかでシカゴ大学で受けた教育を使い、「チリという患者があなた方の治療にどのように反応したかを検証」している。
軍事力と政治的恐怖という二つの要素
ピノチェトが「生活貸金」〔ある一定の生活水準を保つのに必要な賃金〕だと主張する金額でチリ人の家族が生活しようとした場合にどうなるかを計算したところ、グンダー・フランクは、貸金の約七四%がパンを買うだけに費やされ、牛乳や仕事に行くためのバス代などの「贅沢品」は我慢しなければならないことを突きとめた。
これに対し、アジェンデ政権下ではパン、牛乳、バス代を全部合わせても公務員の給料の一七%を占めるにすぎなかった。
軍事政権の最初の政策のひとつに学校での牛乳の配給停止があったため、子どもたちの多くは学校で牛乳を飲むこともできなかった。
その結果、授業中に失神する生徒が増え、学校にまったく来られなくなってしまう子どもも少なくなかった。
グンダー・フランクは、かつての同級生たちが次々に実行している残酷な経済政策と、ピノチェトがこの国に加えている暴行とが直結していることを見て取った。
フリードマンの処方はあまりにも冷酷なものであり、「軍事力と政治的恐怖という二つの要素をすべての根底に据えることなくそれらを強要し、実施する」ことなどとうてい不可能だと、幻滅したシカゴ・ボーイは書いている。
「所有者社会」〔政府に頼らず自分のことは自分でする社会〕
そんなことにはお構いなく、ピノチェトの経済チームはさらに実験的な領域、フリードマンの政策のもっとも前衛的な部分に踏み込む。
公立学校制度はバウチャーとチャーター・スクールに取って代わられ、医療費は利用のつどの現金払いとなり、幼稚園と墓地も民常化された。
なかでも急進的だったのは、社会保障制度の民営化である。
この政策の発案者であるホセ・ピニェーラは、フリードマンの『資本主義と自由』を読んでそのアイディアを思いついたと話す。
一般には、「所有者社会」〔政府に頼らず自分のことは自分でする社会〕を他国に先駆けて提唱したのはジョージ・W・プッシュ政権だとされているが、実際には「所有者国家」の考え方を最初に導入したのは、その三〇年前のピノチェト政権だったのだ。
「理論家にとっての実験室、チリ」(『ニューヨーク・タイムズ』紙)
チリは今や大胆にして新しい領域となり、それまで純粋に学問的な場でしか自由市場経済のメリットを議論できなかったその信奉者たちは、チリの動静に熱い視線を注いでいた。
「経済学の教科書には、世界はそのように機能するはずだと書いてあるが、それを実行に移した国がほかにどこにあるのか?」と、アメリカのビジネス誌『バロンズ』は驚きを持って書く。
「理論家にとっての実験室、チリ」との見出しのついた『ニューヨーク・タイムズ』紙の記事は、こう指摘する。
「確固たる見解を持つ有力な経済学者が、重症の経済に特定の処方箋を試す機会を与えられることはそう多くはない。しかも、クライアントが経済学者自身の国とは別の国であることはもっと珍しい」。
実験室を間近で見ようとチリまでやって来た人も少なくなかった。
その一人、フリードマンが師と崇めるフリードリヒ・ハイエクはピノチェト政権下のチリを数回にわたって訪れ、一九八一年には、自ら創設した反革命主義者のブレーン集団たるモンベルラン協会の地域会議をピニャ・デル・マール(かつてクーデターに向けた戦略が練られた都市)で開催した。
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ハリケーンに襲われたアメリカでも同じことが・・・
「バウチャーとチャーター・スクール」による公教育の崩壊
新自由主義の常套手法、決して「新しく」はない。
これは現金のバラマキではありません。バウチャーと言う新しい政策手法です。教育事業が切磋琢磨する状況になり盛んになります RT @wbjppp: 僕は「反橋下」ではないが、こういうバラマキ政策には反対。 RT @t_ishin 水谷氏へ。さらに大阪市では塾や習い事の助成として月1万
— 橋下徹さん (@t_ishin) 10月 22, 2012
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