東京 江戸城(皇居)東御苑
*ナオミ・クライン『ショック・ドクトリン』を読む(45)
「第3章 ショック状態に投げ込まれた国々
- 流血の反革命」(その3)
クーデタを支持した製造業者の倒産:全国製造業者協会会長オルランド・サエンスの反撥
この一年半の間に、チリのビジネスエリートのなかには極端な資本主義というシカゴ・ボーイズの冒険にうんざりしている者も少なくなかった。
恩恵を被っていたのは外国企業と、投機で大儲けしていた「ピラニア」と呼ばれる投資家の小集団ぐらいのもので、クーデターを強く支持した製造業者は倒産の憂き目に遭っていた。
そもそもシカゴ・ボーイズをクーデター計画に加わらせた人物である全国製造業者協会会長のオルランド・サエンスは、この実験の結果を「われわれの経済史における最悪の失敗のひとつ」だと言い切った。
チリの製造業者はアジェンデ政権の採用した社会主義路線は望まなかったものの、管理経済そのものは歓迎していた。
「チリを席捲する経済的混乱をこれ以上続けることはできない」とサエンスは言う。
「現在、仕事にすらありつけない人々のまさに目の前で危険きわまりない投機的活動に使われている膨大な金融資産を、生産的な投資に振り向ける必要がある」
1975年3月、ミルトン・フリードマンとアーノルド・ハーバーガーがチリに乗り込む
自分たちが支持する政策が重大な危機に直面するに及び、シカゴ・ボーイズと「ピラニア」(両者は重なり合う部分がきわめて大きかった)は、今こそ大物に助けを求めるべきときだと考えた。
一九七五年三月、ミルトン・フリードマンとアーノルド・ハーバーガーは大手銀行の招きでサンティアゴへ赴いた。
軍事政権が牛耳る新聞はフリードマンを新秩序の導師として、さながらロックスターのようにもてはやした。
その発言は逐一大きく報道され、経済学の講演は全国放送で放映された。
そして誰よりも重要な聞き手に恵まれた。
ピノチェト将軍との私的な会談が行なわれたのだ。
フリードマンはもっと市場を自由化せよ、ショック療法が必要と言い続ける
滞在期間を通じて、フリードマンはたったひとつのことを言い続けた ー 軍事政権は順調なスタートを切ったが、まだまだ市場を自由化する必要がある、と。講演でもインタビューでも、彼はかつて公の場で現実世界の経済危機を指すのに使われたことのない言葉を使った。
フリードマンは「ショック療法」が必要だと述べ、それこそが「唯一の薬です。絶対に間違いありません。それ以外にはありえない。それ以外の長期的解決法は存在しないのです」と強調した。
チリ人記者が、当時のニクソン米人統領でさえ自由市場が暴走しないよう規制をかけていると指摘すると、フリードマンはこう言い放った。「そんなものは私は認めません。規制など断じてかけるべきではない。私自身の国であってもチリであっても、政府による経済的介入には反対です」
フリードマン「漸進的なやり方ではだめなのです」
ピノチェトとの会談のあと、フリードマンはその印象を私的な文章にしたため、数十年後に執筆した回顧録に収めている。
それによれば、将軍は「ショック療法という考え方について賛同の意を示したが、一時的に失業が増大する可能性については心痛をあらわにした」。
この時点でピノチェトはすでにサッカー場での虐殺の首謀者として世界にその名を知られており、その人間がショック療法に伴う人的代償に「心痛」を覚えるということに、フリードマンはいささか戸惑ったかもしれない。
だが彼はそんなことはおくびにも出さず、その後書き送った書簡で、将軍の「きわめて賢明な」決断を称賛し、財政支出をさらに「全般にわたって(中略)半年以内に二五%」削減し、同時に「完全な自由貿易」の達成に向けて一連の企業重視政策を採用するよう促した。
フリードマンの予測によれば、公共部門で何十万人という失業者が出ても、彼らはすぐに、「民間市場を妨害している障害が可能な限り多く」取り除かれれば、近々活況を呈する民間部門で新たな職を見つけられるというのだ。
フリードマンはピノチェトに、自分の助言に従えば必ず「経済の奇跡」という手柄を立てられると請け合った。「インフレは数カ月以内に収まる」し、一方の失業問題も同じく「短期聞(何カ月という単位)で終息し、その後は急速に回復する」と。
とにかくすばやく、決断力をもって行動することだ、とフリードマンは言い、「ショック」という言葉を三回使ってその重要性を強調した。
「漸進的なやり方ではだめなのです」
「文句を言う実業家がいたら、さっさと「地獄」に行かせてやれ。そんなやつらを守ってやるつもりはない」
ピノチェトは考えを変えた。
チリの最高指導者はフリードマンへの返信で、彼に対して「衷心より最高の敬意」を表明したうえで、「「計画」は現在十分な形で適用されつつあります」と断言している。
フリードマンの訪問直後、ピノチェトは経済大臣を更迭してセルヒオ・デ・カストロを後任に指名、のちに彼は財務大臣に昇格する。
デ・カストロは仲間のシカゴ・ボーイズたちを多数起用し、そのうちの一人を中央銀行頭取に指名した。
大量解雇や工場閉鎖に反対したオルランド・サエンスは製造業者協会会長の座から降ろされ、ショック療法に抵抗のない人物が後任の座に就いた。
「文句を言う実業家がいたら、さっさと「地獄」に行かせてやれ。そんなやつらを守ってやるつもりはない」と新しい会長は、言明した。
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