2012年10月25日木曜日

1761年(宝暦11)2月~12月 モーツアルト(5歳)の最初の作曲 上田騒動 買米の実施 【モーツアルト5歳】

東京 江戸城(皇居)東御苑
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1761年(宝暦11)
3月
・奥州から松前にかけて大風。商船70余隻が破損。
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4月
福井藩での農政刷新
4月、組頭制(大庄屋)廃止。
「組頭共私曲有之、不宜取扱之趣百姓共内願も有之」と、百姓の訴えをうけての中止(「家譜」)。
5月、代官制度改正(経費削減)。
代官を14人から7人に減らし、1人に2領を管轄させ、下代も56人から42人に減員(同前)。
6月、郡奉行などが執務する「在方役所」を新設(同前)。
郡奉行は在方の行政・司法・警察を一手に所管する役人で、同奉行の拝領屋敷が役宅を兼ねていた。
在方役所の設置で、3人の郡奉行は山奉行・用水奉行とともに「役所江毎日相詰役筋之儀」を処理することになり、百姓に対する統制強化が図られる。
組頭制への百姓の不満を除くとともに、年貢の安定的確保と村方の一元的支配を行うことで事態乗り切りを図る。
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4月26日
・東照宮祠官で国学者の吉見幸和(89)没。
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6月3日
・幕府、江戸の外に菩提所がある旗本らに対し、一生に一度は詣でるよう通達。
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6月8日
・イギリス、フランス領ベル・イルを奪う
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6月12日
・インド、マラーター宰相バーラージー・バージーラーウ、没。
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6月12日
・第9代将軍(であった)徳川家重、没。
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7月1日
・酒井抱一、誕生。絵師
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7月6日
・医師・本草学者の野呂元丈(69)、没。
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7月26日
・幕府、通用貨幣の文字金銀や古金銀が質物に使われているとして、その行為を禁じる。
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8月
・ルソー 『社会契約論』の原稿、完成。
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8月6日
・パリ高等法院、イエズス会追放の判決を下す。
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8月15日
・山東京伝、誕生。浮世絵師・戯作者
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8月15日
・フランス・スペイン・ナポリ、「家門協定」(フォンテーヌブロー条約)締結。7年戦争での対イギリス防衛の結束確認。フランスは条約締結のためルイジアナをスペインに譲渡。
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8月16日
・津山藩、地方目付職を創設して旧大庄屋らを任命し、やがて大庄屋の呼称を復活。
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8月20日
・のちに立志物語のモデルとなる沼田の塩原太助が、江戸へ出て薪炭山口屋に奉公する。
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9月
・手島堵庵、町人への心学教育を本格的に始める。
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9月1日
・モーツアルト(5)、ザルツブルク大学講堂で上演されたラテン語の学校劇「ハンガリー王ジギスムンドゥス」(ザルツブルク宮廷楽団楽長エーバーリン作)に踊り手として出演。3日にも。

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月末
・ルソー、 「言語起源論」を出版検閲局長官マルゼルブに託す。「エミール」もこの頃、完成。
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10月
・秋田藩、植林する木々の将来の買入れ価格を定め、森林の育成をはかる。
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・幕府、対馬藩主宗氏の10万両拝借願いに対し、この年3万両、朝鮮通信使来国時に5万両を貸与することを決める。
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10月5日
・イギリス、国務大臣ピット(大ピット)、辞任。
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10月26日
・武蔵の大師河原村の池上幸豊が製糖を始める。
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12月
・熊本藩の島巳兮が藩命により養蚕技術習得のため近江へ出発する。
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12月10日
・幕府が、秋田藩へ領内産出の銅1,500貫を輸出用として毎年長崎へ送るよう命じる。
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12月10日
・モーツアルト(5)、クラヴィーアで即興的に小曲を作り、これを聴いた父はその場でそれらの曲を「ナンネルルの楽譜帳」の空いたページに書き込む。

それらの小曲の第1曲、第2局前半は音程表の裏に書かれ、そのページの左端に「五歳の最初の三カ月のうちに書かれたヴォルフガンゲルルの作品」と記される。
第2枚目(第3ページ)には第2曲終りの4小節、第3曲が書かれ、第3曲には「ヴォルフガンゴ・モーツァルト氏、一七六一年十二月十一日」と記されている。
2枚目裏(第4ページ)には「メヌエット」が写されており、「ヴォルファンゴ・モーツァルト氏のメヌエット、一七六一年十二月十六日」とある。
最初の2曲は61年の前半、あとの2曲は暮に作曲。
①「アンダンテ ハ長調』(K.1a)、
②「アレグロ ハ長調」(K.1b)、
③「アレグロ ヘ長調」(K1c)、
④「メヌエット へ長調』(K1d)。

第1曲(K1a)「クラヴィーアのためのアンダンテ ハ長調」は、息子の即興演奏を急いで書きとめたものらしく、かなり乱暴な筆跡で書かれている。10小節の小品、4分の3拍子で始まり、5小節目から4分の2拍子に変り、ヘ長調をかすめてハ長調で終る、ぎごちないものだが、それだけに、音楽の最初の芽生えを書きとめたものと考えてよいのではないか。

この父親が、ナンネルルの楽譜帖の余白に書きとめた息子の最初期の作品は、後に、所有者のナンネルルが切りとって他人に贈ってしまい行方不明になっていた。1954年になって存在が知られ、1956年のモーツァルト生誕200年の年に刊行。
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12月11日
上田騒動
信濃上田藩の農民、年貢減免などを要求して強訴、城下で打ち毀し。

12月11日、千曲川東岸の農民たちが諏訪部の河原に集合し、夜明けとともに上田城下になだれ込む。
参加した農民は、夫神村、田沢村、当郷村、村松郷、入奈良本村、下奈良本村(以上現・長野県小県郡青木村)、川西、諏訪部、別所、福田、舞田(以上現・上田市)、千曲川東岸の農民たちで、願いは、年貢の軽減、農民を人足として使用する事をやめる、検見を行う役人(郡奉行)の不正の取り締まりであった。
彼らが入城したとき藩主松平忠順は江戸に出府中で、家老岡部九郎兵衛が代わりに願いを聞いた。
岡部は、もし願いが聞き届けられなかった場合は、農民たちが見ている前で切腹する覚悟だと話したという。


翌日、農民たちは城下町で打ち毀しを行い、小牧村(現、上田市)の庄屋が役人と結託しているとして、庄屋の家を襲撃した。

翌宝暦12年1月9日、農民は上田城に呼び出され、家老岡部から、不正を行っていた郡奉行達を罷免したことと、たとえいかなる事情があっても、騒動や直訴は御定法(違法行為)なので、騒動の首謀者を発見し、取り調べると言い渡される。
その10日後、首謀者が夫神村の農民・清水半平と中沢浅之丞、庄屋の西戸太郎兵衛であることが判明。

宝暦13年3月2日に半平(60歳)と浅之丞(39歳)は死罪、太郎兵衛は永牢となった。
なお、太郎兵衛は20年後の天明3年(1783年)に出獄し、寛政2年(1790年)に84歳で没す。

百姓一揆が都市の闘争をひきだす。
「城下町人残らず一同」になって「町方願拾壱ヶ条」をもって町奉行門前へ押し寄せ、「拝借米」を要求(「上田騒動実記」)。
この一揆では、城下町人だけでなく、「御領分寺院方」「御領内大工ども」「御領分桶屋ども」「御領分穢多共」の訴願闘争をも引き起こす。

一揆の願書中に「庄屋役五年替りに役相勤申候様に仰付られ可被下候御事」という庄屋5年期要求を掲げ、一揆後、「村々小騒動所々指発り」(「上田騒動実記」)という状況になる。
一揆が村方騒動を引き出す。

改革政治の担当者である悪臣の身柄引渡し要求。
「検見に相廻り候役人、百姓に被下置候様奉願上候」(願書第18条)と、願書に掲げる。藩役人から「百姓の分として侍を貰ひ殺す作法を存候や、侍壱人の解死人百姓七人の御作法なり」と咎められた農民は、「御役人様には百姓と申者は、殊の外徳用の御座候物の様に思召され候問申請、御百姓のからき業を相勤させ、徳用の程を御知らせ申度奉存候」(「上田騒動実記」)と言い返す。
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12月16日
・この月、買米を実施
その資金として大阪の富商に初の御用金が賦課される。

このときにその命をうけたもの205人、金額合計は170万3千両。
12月16日に第1回、23日に第2回、翌正月5日に第3回、と前後3度に分けて命令が下されている。
第1回は、鴻池善右衛門・平野屋五兵衛・辰巳屋九左衛門・泉屋次郎右衛門・油屋彦三郎・加島屋久右衛門・三井八郎右衛門・布屋十三郎・鉄屋庄左衛門・鴻池松之助など10名の5万両ずつを最高として、その他2万5千両ずつ10名、1万5千両ずつ11名、1万両ずつ3名、5千両ずつ36名。第2回は、鍵屋半右衛門の2万両を最高とし、以下88名。第3回は米屋平右衛門の5万両を最高とし、以下45名。

第2、3回の最低は3千両であるが、その最低の3千両は、500石の武士の30年分以上の収入にあたっていた。
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12月19日
・広島の植木屋次郎右衛門、甘蕪栽培のため荒地の貸与を願い出る。
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12月29日
・琉球、尚王朝の代表的政治家の蔡温(さいおん、80)、没。
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12月30日
・幕府、大坂の両替屋が印金と名付けて延売買をし、また諸大名の蔵屋敷が所蔵米より過分の数値を書いた米切手を振り出しているため、これらを禁止する。
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