2012年10月29日月曜日

川本三郎『荷風と東京 「断腸亭日乗」私註』を読む(43) 「二十六 「見る人」の写真道楽」(その1)

東京 北の丸公園 2012-10-26
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川本三郎『荷風と東京 「断腸亭日乗」私註』を読む(43)
 「二十六 「見る人」の写真道楽」(その1)

「荷風はカメラ好きだった。町歩きに際し、カメラを持ち、気に入った町の風景の写真を撮った。現像も自分でやった。小林清親の江戸趣味の絵を愛した荷風が、他方でカメラ好きというモダンな側面を持っていたのは面白い事実である。ここにも、「江戸」と「モダン都市東京」の両方を生きる荷風がいる。」(川本)

昭和11年11月16日
「此日薄晴。風なく暖なれば墨堤に赴き木母寺(*モクボジ)其他二三個所の風景を撮影し、堀切より四ツ木に出で、玉の井に少憩し、銀座に飯して家にかへる」

同年11月18日
「曇りて蒸暑し。午後三菱銀行に往き、それより電車にて今戸橋に至り山谷堀の景を撮影すること二三枚」

同年11月20日
「快晴雲翳なし。午後本所五ノ橋自性院に往き境内の景を撮影して後大島町の大通を歩む」

57歳。
「このときの荷風は、老人というより嬉々としてカメラという玩具で遊んでいる子どものようにも見える。」(川本)

昭和11年11月12日
「午後写眞機を携へ、小石川金剛寺阪上に至り余が生れたる家のあたりを撮影す」

昭和12年2月18日
「春風嫋々(ジヨウジヨウ)たり。近巷の園梅雪の如し。午後写眞機を提げ小石川白山に赴き、肴町蓮久寺に亡友唖唖子の墓を帚ひ、團子坂上に出で鴎外先生の旧邸を撮影す」

昭和12年6月11日
「天気快晴。昨の如し。三階物干場に出でゝ娼妓の写眞を撮影す。江戸町の適を見おろすに裏木戸近さあたりに女ども打ちつどひて猿廻しを看る。此光景も亦カメラにをさむ」

荷風が撮影した写真は、昭和10年刊小山書店版『すみだ川』、昭和10年刊私家版『冬の蝿』、昭和12年刊私家版『濹東綺譚』、昭和13年刊岩波書店版『おもかげ』におさめられている。
私家版『濹東綺譚』にわざわざ自分が撮影した玉の井の写真を挿入するところに、荷風の写真への愛着が感じられる。
『おもかげ』には、荒川放水路、清洲橋、深川万年橋、小名木川、堀切橋、西新井橋、亀戸六阿弥陀道などの写真が入っていて、濹東から荒川放水路にかけての風景を荷風がいかに愛したかが見てとれる。

荷風がカメラに興味を持つようになったのは大正改元前後。

昭和12年2月21日、麻布笄町(コウガイチョウ)の長谷寺に出かける日。
「午後笄町長谷寺の墓地を歩む。門内は本堂建直しの最中なり。古き渋塗の門に普陀山の額あり。大正三四年のころ写眞うつしに来りし時見しところに異ならず」

ここから大正3、4年にすでに荷風がカメラを持ち、町の風景を撮影していたことがわかる。
写真材料の輸入増大と国産化の進行によって写真熟が高まるのは1920年代、とりわけ関東大震災のあとだから、大正のはじめに荷風がカメラを持っていたということは流行の先端を行っている。

朔太郎の写真が「芸術写真」だったのに比べ、荷風の写真はより記録性の強い「写実写真」である。
写真を自己表現の手段として使うのではなく、あくまで町の風景を記録するための客観的手段として使っている。その点では荷風のほうが素朴である。
朔太郎が写真に「薄暮」「初冬」「廃園」といった抽象的題名をつけるのに対し、荷風は「深川長慶寺門」「山谷堀」「小名木川」「西新井橋」とあっさりと地名を付けるだけ。
朔太郎が強烈に自己主張しているのに対し、荷風の場合はあくまでも風景が主で自分は風景のうしろに退いている。
朔太郎が「幻視者」だったとすれば、荷風は「観察者」だったといえようか。

伊藤逸平『日本写真発達史』(朝日ソノラマ、昭和50年)によれば、「それまでは写真は営業写真家と特権階級のものとされていましたが、一九二〇年あたりからアマチュア写真家の数が全国的にふえてきました。それにつれて内外カメラの新型が次から次へと出はじめました」。

飯沢耕太郎『「芸術写真」とその時代』(筑摩書房、1986年)で、大正10年代になると、写真機を手にする新しいアマチュア層の範囲がずっと広がり、写真界全体が「アマチュアの時代」を迎えた、と書いている。第一次大戟後のマルク安によって今まで手の届かなかったドイツ製の高級カメラやレンズが相対的に安価になったこと、イーストマン・コダックを中心とするアメリカ、イギリス製品が大量に輸入されるようになったことが一因である。

1920年代から30年代(大正後期から昭和前期)にかけて写真熱が広がっていく。
このころの文学作品には写真好きがよくあらわれる。
川端康成「浅草紅團」の続篇「浅草祭」(昭和9年~10年)には、浅草のカジノ・フォーリーを描くくだりに、「写真道楽といえば、カジノの出世頭エノケンも、日に二つも三つも高価なカメラを買ったりするありさまだ」「ライカの最新型に数百金を投じる」とある。
「写真道楽」という言葉が時代を感じさせる。
寺田寅彦がカメラに凝り、東京の町によく撮影に出かけ、随筆「カメラを提げて」を書くのもこの頃(昭和六年)である。

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