2013年7月16日火曜日

長元4年(1031)1月~3月 平忠常の乱により、坂東は荒廃 安房・上総・下総国が亡国となる(『小右記』)

竹橋から平川橋を望む 2013-07-12
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長元4年(1031)
この年
・良源の弟子覚超は、比叡山横川において円仁書写の法華経を弥勒の世に伝えようと、銅製の外簡一口を鋳してその堂内に埋納しようとした。
道長の長女上東門院彰子は、この事業を賛助し、自らも法華経1部8巻を書写して埋めた。
この時の覚超の「如法堂銅筒記」と「女院御願経文案」が伝わり、大正12年(1923)の発掘で金銅製経箱が出土した。
全体に優雅な宝相華唐草文を毛彫りし、蓋中央に籠字で妙法蓮華経の5字を彫り、藤原期の趣向を示し、上東門院の施人(せにゆう)品と考えられている。
横川には多くの理経がなされ、横川経塚ともいわれるが、法華経の埋納に主意があった。
現在その地には根本如法堂という木造多宝塔が再建されている。
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1月
・この月より長元の闘乱(平致経と平正輔の衝突)の証人調べが始まる。
『小右記』による顛末
正輔・致経より夫々8人の証人が進められたが、双方の証人とも「皆これ従者近親」ばかりで、証言に信憑性が欠けるとされ、拷訊(拷問による訊問)を加えることになる。
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・忠常追討使で甲斐守の源頼信は従四位下に加階される。忠常追討の早期実現を促す措置。
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2月
・長元の闘乱(平致経と平正輔の衝突)の証人調べ。
正輔側の証人中2人が神郡の神民であるため、拷問の手続で紛糾しはじめ、法家の官人と明法博士で見解が一致しなかった。
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2月13日
・内大臣春宮大夫の荘園の濫行に関する若狭国司某の解文、右大臣藤原実資に届く。
3月5日、関白藤原頼通、春宮大夫の荘人濫行につき官使派遣を指示。
10日、右大臣藤原実資、派遣者の人選を指示。(「小右記」)
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3月
・忠常の乱により、坂東は荒廃。
この月、忠常のために安房・上総・下総国が亡国となり(『小右記』)、同年6月には、相模国も「衰老殊に甚だし」という状態であった(源経頼『左経記』)。

乱平定後、「坂東諸国は追討使直方のとき衰亡した」「下総国は忠常追討のために人も物も徴発されて亡弊した」「相模国は久しく軍務を営み衰老すること殊に甚だしい」などといわれた。
上総国では、追討使直方らのため3年間、官物を残らず徴発され、延喜基準国図では2万2,980余町ある国内総田数が、この年には僅か18町余にまで減少していた。

この坂東諸国の疲弊は激しい戦闘によるものではなく、追討官符によって付与された兵糧米徴収権にかこつけた、追討使直方や郎等たちの収奪によってもたらされたのである。

直方ら追討軍一行の強引な兵糧米徴収に、住民たちは逃散し、在地武士らは反感を抱いていた。
坂東諸国の国人たちは、夷灊山に立て寵もる忠常をひそかに応援していた。
そしてこの荒廃した田畠の再開発を主導したのが坂東武士たちであり、彼らは1040年代に始まる後期王朝国家体制への転換過程で、坂東諸国の郡司・郷司に登用されて在地領主化していく。
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源頼清(頼信の次男、頼義の異母弟、かつては頼通のもとで侍所別当をつとめた)、安芸守に抜擢される。

■『中外抄』にある源頼信と関白藤原頼通に関する説話
頼信の長子頼義と次男頼清の関係、河内源氏の嫡流をめぐる動き
ある時、頼信は頼通に対し「子三人あり。太郎頼義をば武者に仕ひ御せ。頼清をば蔵人に成し給へ。三郎(字をとはの入道)は不用の者にて候ふ」と述べた。
この言葉通り、頼義は関白頼通のもとで前九年合戦を鎮圧する。

次男頼清は治安元年(1021)には頼通の侍所別当を勤仕して家司と称されていたから、この逸話はそれより前の可能性が高い。
武士として有能な頼義に対し、頼清は蔵人に相応しい、文官的な才能を有していたものと考えられる。
次男頼清は、兄頼義より早く受領に到達した。
彼の母の出自は不明だが、室の父は道長の側近として名高い権大納言藤原斉信(ただのぶ)で、高い家柄である。
頼清が、少なくとも摂関家関係者から、有能な人物として評価されていたことは疑いない。

さらに、彼は永承3年(1048)以前に陸奥守に就任、ついで肥後守に移ったことが『後拾遺和歌集』に収められた相模(頼光の後妻の連れ子、頼清とは義理のイトコ)の和歌から判明している。

一方、頼義が初めて受領になったのは長元9年の相模守であり、その後永承6年に、頼清の後塵を拝する形で陸奥守に就任した。

相次いで受領を歴任した頼清は、頼義を超える政治的地位を有しており、河内源氏の嫡流の座を獲得する可能性もあった。
彼の系統が河内源氏の中心になっていたら、摂津源氏と同様、京で摂関家の家政機関に奉仕する貴族的性格の強い武士となっていたかもしれない。

頼義・頼清間で、のちの義家・義綱、頼朝・義経のような兄弟相剋があったかどうかは不明。
ただ、頼義は頼清に官位で水をあけられていたが、最終的に頼義の系統が河内源氏嫡流を継承した。

その一因は、嘉保元年(1094)、頼清の息子仲宗が、その息子惟清による白河院呪詛事件に連座して失脚したことにある。
『吾妻鏡』正治元年(1199)8月19日条に、仲宗の妻が祗園女御として鳥羽院に召し上げられ、仲宗が配流されたという逸話がみられる。この記事は惟清が室を白河院に奪われたことの誤伝とされている(角田文衛氏)。
その後の頼清流は、惟清の弟で、やはり信濃に配流された顕清の子孫が家を継承するが、信濃国に拠点を構え、京でも細々と活動する存在となってしまう。

顕清の子為国は崇徳院に仕え、保元の乱にも参戦する。
しかし、室が信西(藤原通憲)の娘であったためか処刑を免れたらしく、その子孫も信濃で活動している。
そして鎌倉末期には『太平記』で護良親王の身代わりとなって自害したとされる義光が現れ、さらに彼の歿後に家督を継いだ弟信貞の子孫から、戦国時代に武田信玄と争った村上義清が登場する。
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3月中旬
・長元の闘乱(平致経と平正輔の衝突)の証人調べ。
3月中旬、神郡の郡司に代り他の証人(正輔の従者)を進めることで落着。
加えて、伴奉親・大鹿致俊・物部兼光の3人が、事件の発生と経緯を知らないまま、正輔の進めた日記(記録)に署名を加えた事実が判明し問題となる。
一方、致経の証人中にも法師や老齢者があり、拷訊すべきか否かで問題になる。
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3月18日
・京都清水坂の「坂者」が初めて明確な姿で登場。
「清水坂下者」に塩(米)を施給すると伝える(「小右記」同日条)。

「坂下」とあるこの地点は後世の六道の辻(下段↓参照)、鳥部野への入口、珍皇寺・愛宕寺・六波羅密寺などが立ち並ぶ一角、大和大路に面し、中世後期に活躍する祇園犬神(つるめそ)の居住した弓矢町の所在地になる。
平安末・鎌倉時代の清水坂非人と鎌倉後期以降の祇園犬神人が系譜的繋がりを持つと判断される。
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3月29日
・大垣造営辞退の若狭国解、右大臣藤原実資の許に届く(「小右記」)。
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