牧野和春『桜伝奇--日本人の心と桜の老巨木めぐり』を読む(5)
第3章 醍醐桜(岡山県真庭郡落合町別所字吉念寺)
1 ”赤ケット”の記憶
中国山地沿いの山の中
「醍醐桜」は国指定の天然記念物の樹木ではないが、それに次ぐ、あるいは国指定にも匹敵する巨桜である、という印象を、写真の上でも私は強くもった。
醍醐桜は岡山県真庭郡落合町別所字吉念寺という集落にある。
地図をひろげてみると、そこは中国山地沿いの山の中である。
季節の変化と桜の開花、そして「桜前線」
周知のように、日本のマスコミは季節の変化については昔から敏感である。
春になり梅に続いては桜の花の開花予想である。
日本列島でもっとも早い桜の開花は沖縄本島本部町、八重岳の「カンヒザクラ」(寒緋桜)である。この桜は読んで字の如く、冬期にはやくも咲く、紅の強い花である。その色調は淡紅から濃紫紅色まで変異がみられる。台湾、中国に分布し、沖縄にあるのはその野生化したものといわれる。花はやや平開し、印象深い。この桜は一月から二月、開花する。本州でも、植栽されたものではあるが熱海、湯河原あたりでみられる。埼玉県下では国営の「森林公園」でもみられ、私も観賞している。
ついでながら伊豆、修善寺境内にある、三月中、下旬に咲く「シュゼンジカンザクラ」(修善寺寒桜)は 「カンヒザクラ」と「オオシマザクラ」(大島桜)との雑種と推定されている桜で、花は紅色の一重。やはり印象に残る桜の花である。
しかし、いわゆる「桜前線」と銘打って報じられるのは春の彼岸が過ぎてからで、こちらの方はいうまでもなく「ソメイヨシノ」(染井吉野)をモデルとして気象庁が過去のデータを基礎にはじきだし・・・
醍醐桜概観:エドヒガン
さて、醍醐桜の調査結果であるが、まず種類はエドヒガン。
根元の周囲、九・二メートル。幹の目通りの周囲七・一メートル。樹高十八メートルである。国の天然記念物指定の巨木は幹周十メ-トル級以上が多いから、この木はまさにそれに匹敵するか、若しくはそれに準ずる巨木といえるだろう。
枝張りは東西、南北ともに約二〇メートル。巨木ともなれば長年の風雪にさらされて、枝張りは多くの場合、損傷の結果バランスを欠いている。・・・
その意味では醍醐桜の枝張りは四方各二〇メートルというのであるから、これほど均衡のとれた桜の巨木はむしろ珍しいといわねはなるまい。
加えて樹高十八メートルというのも巨木であることの風格十分だ。
・・・、醍醐桜は桜の巨木として第一級に近く、枝張りの均衡も完壁に近い。推定樹齢七百年。
昭和四七年十二月九日、エドヒガンの巨桜として岡山県天然記念物に指定された。正式名称を「吉念寺の醍醐桜」と呼ぶ。
「醍醐桜」の伝承
この「醍醐桜」にも伝承がある。
南北朝の昔、京の都を追われ、はるばる隠岐へ流されて行った後醍醐天皇がこの地をお通りになられるとき、自らお手植えされたのがこの桜の木だというのである。
『太平記』「先帝遷幸の事」「備後三郎高徳が事付けたり呉・越軍の事」
幕府が後醍醐天皇を隠岐に流すことを決めたのは元弘(南朝年号)二年(一三三二)三月のこと。『太平記』は帝が京都を発ち、隠岐へ向かわせられるくだりを「先帝遷幸の事」「備後三郎高徳(たかのり)が事付けたり呉(ご)・越(えつ)軍(いくさ)の事」と記述する。
すなわち、元弘二年三月七日、一条頭大夫行房(とうのだいぶゆきふさ)、六条少将忠顕、そばにいて世話する女房、三位御局に供奉され、前後左右を弓矢たずさえた武士どもに囲まれて、帝は都を出発。神戸から播磨、今宿(姫路市今宿、ここで山陽道と山陰道筋に分れる)に至り、これより美作の杉坂を経て津山に入って院庄(いんのしよう)より山を越える。
「今は有るべき時ならぬに、雲間の山に雪見えて、はるかに遠き峰あり。御警固の武士を召して、山の名を御尋ねあるに、『これは伯耆の大山と申す山にて候ふ』と申しければ、暫く御輿を止められ、内証甚深の法施(ほつせ)を奉らせたまふ」とある。かくて「都を御出有って十三日と申すに、出雲の見尾(みお、美保)の湊に着かせたまふ。ここにて御船を船よそひして、渡海の順風をぞ待たれける。」と記述する。
「太平記は史学に益なし」(久米邦武)といわれ、文学的虚飾に過ぎるとはしばしば指摘されるところだが、状況は右の如くだ。
院庄、児島高徳の伝説
院庄は津山市の西端にあり、私も三回ほど現地をたずねている。
ここには作楽(さくら)神社があり、院庄館跡が国の史跡に指定されている。例の児島高徳の伝説も、『太平記』に登場する。
天皇が朝、庭を眺めると、大きな桜木の幹を削って大文字に一句の詩が墨で書きつけてある。
「天莫(なかれ) 空勾践」(天、勾践を空うするなかれ)
「時非無范蠡(はんれい)」(時に范蠡無きにしもあらず)
越王勾践、呉を攻むる中国の故事にならい、高徳の志を託した一筋の詩である。
警固の武士がこれを見つけ「何事をいかなる者が書きたるやらん」と、読みかねて帝のお耳に入れたところ、帝はやがて詩の心をさとられてお顔は快く、ひときわにこやかであった、と『太平記』は記す。
児島高徳の実在性をめぐっては種々の説があり、これを架空の人物とする説もあるが、「岡山県児島郡に住んだ豪族。宇田源氏の佐々木の子孫で、備後安和田二郎範長の息かと言う。三宅氏をも称した。この後、南朝に節えお全うする」(『太平記』新潮社版、巻第四の山下宏明氏の注、一七五頁)とある。『日本歴史人名辞典』(日置一編・講談社、一九九〇年刊)は「児島高徳」を「南朝の中心・備後三郎」としで実在の人物と扱っている。
『太平記』の作者といわれる小島法師
その『太平記』であるが、全四〇巻の軍記物語。
北条高時失政、建武中興を軸に南北朝五十余年間の争乱のさまを和漢混淆文によって描写。
応安年間(一三六五-一三七五)頃までに成ったとされるが、作者は誰か。
それが小島法師なる人物がもっとも有力視されるのだ。
では、その「小島法師」なる人物の実像はどうであろうか。
これについては修験道研究に詳しい和歌森太郎氏に「小島法師について」(『修験道史研究』東洋文庫・平凡社、一九七二年刊、三二一頁)の一文があって、それによれば、「小島法師」といぅものの正体は不明ながらも、「小島」は、岡山県児島半島のことで、往昔は「島」である。
ここは紀州、熊野十二所権現の社領であった。
熊野は平安末より修験道の重要道場、聖護院統轄、本山派山伏の根拠地である。
当時、小島山伏達は南朝に加担、ために衰微したと伝えられる。
『太平記』は備前、播磨、美作、備中などの記述に詳しい。山伏は、異類異形の法師であって、小島法師を「卑賎の器で名匠」(『洞院公定日記』)とするのは、「小島法師」を「小島」の「法師」と読み、「法師」を「山伏」と考えれば当っている、と和歌森氏は結論づけている。
後醍醐天皇の隠岐への遷幸、その後、隠岐を脱出、吉野への道などを考えると、背後に修験者の群れを想定したくなる。
醍醐桜と後醍醐:時代は合致するが、地理的位置が少しズレている
こう考えてくると、元弘年間以来、現代は約六七〇年経過しているわけであるから、あの「醍醐桜」の樹齢とはほぼ見合うことになり、伝承もこの点なかなか説得性があるかにみえる。
しかし、後醍醐天皇は、それでは落合町吉念寺をお通りになられたのか、となるとこの点は違ってくる。
後醍醐天皇が隠岐へ流されるに当って通過されたのは旧出雲街道、現在の国道一八一号線といわれる。
吉念寺の集落からすれば数キロ、北に外れている。
この道は、現在の美作追分(落合町内)より別れ、久世町、勝山町から大山(一七一一メートル)の南をまわって中国山脈を越え、出雲に入るのであって、吉念寺への道だと、この集落で行きどまりとなってしまう。
3 水神・守護霊・春の木
時空を越えた”共同幻想”
旧出雲街道からは外れているにもかかわらず、およそ六七〇年の昔、後醍醐天皇(おそれ多くも)がここをお通りになられ、一本の桜をお手植えなされた、という話は、時空を越えた村人の(いわゆる)”共同幻想”の所産にほかなるまい。
が、それは、それとして一つの精神的宇宙なのである。
その心的宇宙秩序が、なに故か凍結されたまま二〇世紀末の現代に至るまで、かく生きのびているという事実は、それだけで驚嘆に価するといっても過言ではあるまい。
「神体木」
私は、そのことをあれこれ取り立ててここで議論するつもりもない。それよりは、「醍醐桜」という一本の巨桜が、有形無形、いかにこの人里離れた山中の小さな村人たちの暮らしのなかに、何百年にもわたりかかわり続けてきたのか。それを問うてみたい。
まず、巨桜がある場所の地名であるが、これを村人は「竜王」と呼んでいる。
聞けば、吉念寺の集落は十五軒であるが、戦後、簡易水道がひかれるまでは、各家とも谷底の水場まで飲料水や風呂の水を汲みにおりて行ったものだという。それは大変な重労働であった。
谷の水は当然、下流の稲作の水田用に当てられる。吉念寺の人々の水田の所有面積は、そう多くはないが、谷をくだった平野部にある。
そのあたり「別所」と呼ぶ。別所とか別府の地名は、むかし新田として開発され、そこに新しく出来た集落を呼ぶのが一般だ。すると、吉念寺は別所から更に分岐して山奥に入った人たちが作った集落かもしれない。
巨桜の根元に祠が一つある。
これは「吉水(よしみず)神社」と称する。すると、醍醐桜そのものが実は「神体木」であって、その名称は「吉水」、すなわち、よい水であることを祈念しての神であることになる。
更にいえは「竜」は水神の化身と考えられるから、「竜王」という大地上に立つ醍醐桜は、神仏によって浄化されたる存在でもある。それゆえに「吉水神社」ということになるだろう。
巨桜の正体の一つは「水神」の性格を持っていることを示している。
岬のように突き出た先端にある巨桜の位置は、この集落でもっとも重要な場所だ。その真下は水飲み場であるとともに、ここが崩れると集落を囲む急な斜面は一転して家々を土中に埋める大惨事を引き起こす。
かくて巨桜は集落の安全を見守る「守護霊」の意味も併せ持っているであろう。
醍醐桜と共同墓地
醍醐桜に至る一本道の左脇に、数基の墓石があった。江戸期のものとみられる。
ところがこの墓石にまじって、珍しいことに、木(角材、樹種はたぷん粟の木)の墓標が、二、三基あるのだ。アイヌの墓標が木であることは聞いているが、私にとってはこれは初めてみる光景であった。あるいは幼くして死んだ子供の墓標なのであろうか。谷の入口から眺めると、吉念寺の集落は大きく馬蹄型に、ヒナ段上に家々が並び、向って左側の突端に醍醐桜がある格好だ。
反対、右側の突端の台地上はどうか。興味ぶかいことに、ここにも墓石が並ぶ。つまり集落の共同墓地になっているのだ。かくて左右両翼から先祖の霊に見つめられる形で、吉念寺の集落はある。しかも、巨桜は、朝な夕な、この集落の人々の戸の開け閉めに殆ど全戸から望むことができる。
”聖なる場所”
この桜はかつて植えられたものか、それとも今の位置に自然木として生えていたものか。それは分らぬ。
もし、植えられたものと考えれば、吉念寺を切り拓いた始祖の霊を祀るため、墓標がわりに植えたものと考えられよう。
もともとこの場所にエドヒガンザクラの木が生えていたと考えるならば、村人は祖先を葬るに際し、集落を一望できる、この意味深い場所に生える桜の根元を、墓地として選んだことになる。いずれにしても、地形的にも、また精神的にも、醍醐桜がある位置は村人にとってもっとも”聖なる場所”である。
吉念寺という集落名
吉念寺には氏神様はないのであろうか。
実は、醍醐桜の手前の駐車場のわきに、神社というほどのものではないが小さな社があって、これが氏神様がわりだという。
実際は「山の神」を祭っている、というから集落の人々の歴史は、車で麓に通うことができるようになった近年までは、主として山仕事やわずかの田畑に生活のよりどころを求めてきたといえる。
それにしても「吉念寺」とは少々、奇妙な集落名ではある。昔、ここに、真言宗の寺で「吉念寺」という寺があり、それが集落名になったものらしい。今は集落内に寺院はない。
一軒を除いてすべて名字が「春木」姓
いまひとつ面白いことがある。
集落の家々は一軒を除いてすべて名字が「春木」姓なのである。
”春の木”といえば「椿」を想起する。しかし、この村にきての”春の木”は、そのまま”桜の木”ではあるまいか。しかもそれはほかならぬ「醍醐桜」の花であることを意味するといってよいであろう。
醍醐桜のそばに立つと、はるかに谷の向うの山の斜面に、ぽつんと一軒家がみえる。
「あそこに昔から一軒だけ暮らしていましたよ。さすがに不便に耐えかねて、去年あたり、こちらにでてきました。だから今は廃屋です」
と、村人の一人は私にいった。
約束を違えることなく、春になれば、うっとりする美事な花を谷いっぱいに咲かせてくれるこの一本の巨桜に励まされ、村人はじっとこの山里のさびしさに耐え、暮らしてきたことであろう。
*
*
0 件のコメント:
コメントを投稿